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クリストはナザレに住んだ後、ヨセフの子供でないことを知ったであろう。あるいは聖霊の子供であることを、――しかしそれは前者よりも決して重大な事件ではない。
「人の子」クリストはこの時から正に二度目の誕生をした。
「女中の子」ストリンドベリイはまず彼の家族に反叛した。それは彼の不幸であり、同時にまた彼の幸福だった。クリストも恐らくは同じことだったであろう。
彼はこう云う孤独の中に仕合せにも彼の前に生まれたクリスト――パプテズマのヨハネに遭遇した。
我々は我々自身の中にもヨハネに会う前のクリストの心の陰影を感じている。ヨハネは野蜜や蝗を食い、荒野の中に住まっていた。が、彼の住まっていた荒野は必ずしも日の光のないものではなかった。少なくともクリスト自身の中にあった、薄暗い荒野に比べて見れば……。
1段落目・・・自分が私生児であり、信頼を裏切られたという事実は、クリストにとって衝撃的なものであった。そして誰が自分の父であろうと重大な問題ではなかったということである。
二度目の誕生・・・肉体的な誕生を一度目とすれば、今回は精神的なものである。自己形成がこれにあてはまる。
ストリンドベリイ・・・スウェーデンの小説家。女中の子として生まれた。「女中の子」という作品がある。
彼の不幸であり、同時にまた彼の幸福だった・・・私生児であることは現実的な不幸だが、自分の天性を活かすきっかけになったというところでは幸福といえる。
パプテズマのヨハネに遭遇した・・・マタイ3章13、マルコ1章9、ルカ3章7、ヨハネ1章29に、この両者の邂逅がある。
ヨハネは野蜜や蝗を食い、荒野の中に住まっていた・・・マタイによる福音書3章<バプテスマのヨハネが現われ、ユダヤの荒野で教を宣べて言った、「悔い改めよ、天国は近づいた」>
私生児であることを知ったクリストが、家族の信頼に裏切られたことで新しい人生を求めるようになったというのが、この章の趣旨になります。
バプテズマのヨハネがいたユダヤは、クリストの住んでいたナザレから南に200キロも離れています。クリストがこの遠い地に来たというのは、家を飛び出してきたからなのでしょう。
遠い道のりを旅している間のクリストについて、聖書では何も知らせていません。ここに芥川は、クリストの<私生児>としての孤独を感じ取っていました。この放浪にも、前章から引き続いて<ボヘミア的精神>を見ることも出来るでしょう。
<家>という束縛を離れた時、家族(炉辺の幸福)よりも大切なものを見つけたのではないでしょうか。そしてヨハネに会うことで、<日の当たらなかった荒野>に光が見えてきたのです。最も暗い時期が、夜明けの始まりでした。
この章の題名は「父」。クリストにとって“父”であったはずのヨセフは、クリストの人格形成に何も影響を与えませんでした。ここに現れるヨハネこそ、クリストの天才を見出したという点で“父”ともいうべき存在なのかも知れません。