11.ヨハネ

本文

バプテズマのヨハネはロマン主義を理解出来ないクリストだった。彼の威厳は荒金のようにそこにかがやかに残っている。彼のクリストに及ばなかったのも恐らくはその事実に有するであろう。

クリストに洗礼を授けたヨハネはカシの木のように逞しかった。しかし獄中にはいったヨハネはもう枝や葉に漲っているカシの木の力を失っていた。

彼の最後の慟哭はクリストの最後の慟哭のようにいつも我々を動かすのである。――
「クリストはお前だったか、わたしだったか?」

ヨハネの最後の慟哭は――いや、必ずしも慟哭ばかりではない。

太いカシの木は枯れかかったものの、いまだに外見だけは枝を張っている。もしこの気力さえなかったとしたならば、二十何歳かのクリストは決して冷かにこう言わなかったであろう。
「わたしの現にしていることをヨハネに話して聞かせるが善い」


ロマン主義を理解出来ないクリスト・・・バプテズマのヨハネは、イエスに比べやさしさを感じさせない雰囲気を持っている。ヘロデ王の姦淫を詰り、投獄された。

クリストに及ばなかった・・・ヨハネによる福音書3章26によれば、イエスのもとに大勢の人がいくのを見たヨハネの弟子が、それをヨハネに報告している。

カシの木・・・本文ではキヘンに解で「かし」とふりがながついている。この字の本来の読み方は<かしわ>である。ちなみに「柏の木」は当時のユダヤにはない。

獄中・・・ルカによる福音書3章19<領主ヘロデは、兄弟の妻ヘロデヤのことで、また自分がしたあらゆる悪事について、ヨハネから批難されていたので、彼を獄に閉じ込め>

彼の最後の慟哭・・・マタイによる福音書11章3<「きたるべきかた」はあなたなのですか。それとも、ほかにだれかを待つべきでしょうか>。つまり、<わたしだったか?>の部分は芥川の創作である。

4段落目は、<慟哭ばかりではなく、ヨハネの最後の気力もまた、いつも我々を動かすのである>と解釈すべきであろう。

「わたしの現にしていることをヨハネに話して聞かせるが善い」・・・これはイエスが、ヨハネの弟子に対して言った言葉。<どちらが本当のクリスト(天才)か、はっきりするだろう>と言外に伝えようとしている。


クリストの天才を引き伸ばした人物、バプテズマのヨハネは、クリストに比べ<やさしさ>を感じさせない人物でした。そんなヨハネよりも、クリストに人気が集まるのは当然のことなのかもしれません。

クリストに洗礼を授け、その天性を伸ばした頃のヨハネはたくましさを持っていました。しかし後にヘロデ王によって投獄され、ヨハネは力を失っていきます。

ヨハネの最後の言葉は、のちにクリストがゴルゴダであげた悲鳴と共通するものがあります。ここに<聖霊の子>としての悲劇的運命が伝わって来ます。ヨハネはそれでも、最後まで気力を振り絞ってクリストと対峙していました。

<わたしだったか?>の部分は芥川の創作ですが、芥川はクリストとヨハネの対決を見ています。これは世代間の争い、新旧交代ではないでしょうか。

当時の民衆はバプテスマのヨハネこそ救い主だと信じていました(ルカ2章15)。クリストが<本物のクリストはわたしである>とヨハネに言ったことで、ヨハネは敗者として人々に忘れられていくのです。