12.悪魔

本文

クリストは四十目の断食をした後、目のあたりに悪魔と問答した。

我々も悪魔と問答をするためには何らかの断食を必要としている。我々のあるものはこの問答の中に悪魔の誘惑に負けるであろう。またあるものは誘惑に負けずに我々自身を守るであろう。しかし我々は一生を通じて悪魔と問答をしないこともあるのである。

クリストは第一にパンを斥けた。が、「パンのみでは生きられない」という註釈を施すのを忘れなかった。

それから彼自身の力を恃めという悪魔の理想主義者的忠告を斥けた。しかしまた「主たる汝の神を試みてはならぬ」という弁証法を用意していた。

最後に「世界の国々とその栄華と」を斥けた。それはパンを斥けたのとあるいは同じことのように見えるであろう。しかしパンを斥けたのは現実的欲望を斥けたのに過ぎない。クリストはこの第三の答の中に我々自身の中に絶えることのない、あらゆる地上の夢を斥けたのである。

この論理以上の論理的決闘はクリストの勝利に違いなかった。ヤコブの天使と組み合ったのも恐らくはこういう決闘だったであろう。

悪魔はついにクリストの前に頭を垂れるより外はなかった。けれども彼のマリアという女人の子供であることは忘れなかった。

この悪魔との問答はいつか重大な意味を与えられている。が、クリストの一生では必ずしも大事件ということは出来ない。彼は彼の一生の中に何度も「サタンよ、退け」と言った。現に彼の伝記作者の一人、――ルカはこの事件を記した後、「悪魔この試み皆おわりてしばらく彼を離れたり」とつけ加えている。


悪魔と問答・・・マタイ4章、ルカ4章。

2段落目は<我々>という語からわかるように、<永遠に超えんとするもの>ではなく、一般の人。苦難に面した時のことを言っている。<一生を通じて悪魔と問答をしない>というのは、<悪人か阿呆>である(「闇中問答」)。

パンのみでは生きられない・・・これは決してパンの全面否定ではなく、パンも必要であるといっている。

彼自身の力を恃め・・・<悪魔はイエスを聖なる都に連れて行き、宮の頂上に立たせて言った、「もしあなたが神の子であるなら、下に飛びおりてごらんなさい」>。

理想主義者的忠告・・・芸術家はなにごとも許されている、という悪魔の忠告。「闇中問答」2章。しかし芸術家であっても、社会の一分子であることに変わりはない。

「世界の国々とその栄華と」を斥けた・・・天上の詩的正義を目指すものとして、地上の欲望すべてを斥けた。

ヤコブの天使と組み合ったのも恐らくはこういう決闘だった・・・ヤコブと天使の組み合いは、創世記32章24にある。<こういう決闘>とは、肉体的な格闘ではなく論理的な問答である、と解釈すべきである。

マリアという女人の子供・・・神の子ではなく、人間の子。これを決して<地上>を目指すものと解釈すべきではない。

彼は彼の一生の中に何度も「サタンよ、退け」と言った・・・恐らくクリストは、何度となく悪魔と問答しその度に斥けてきたのであろう。


洗礼を受けたクリストは、悪魔の誘惑をうけました。我々も悪魔の誘惑をうけるためには、なにか苦難に面した時でなければなりません。しかし苦難を知らず、悪魔との問答がないままに一生を終える人もいるのです。

クリストは現実の欲求、理想主義、そして地上の夢をすべて斥けました。芥川の作品において、悪魔とは人間の心であることを読み取ることが出来ます。クリストは人間の地上における欲求をすべて斥けたことによって、<永遠に超えんとするもの>つまり天上を目指すものとして歩きはじめることになります。

しかしクリストもまた、人間の子であることには変わりありません。そこで悪魔は何度となく、クリストを<永遠に守らんとするもの>にするためクリストのところに来ました。その度にクリストは、悪魔を斥けていったのです。

なお、<必ずしも大事件ということは出来ない>の個所から、この章を軽く見る論者も多いようです。しかしここでいわんとすることは「西方の人」の中で大きなウェイトを占めています。<「サタンよ、退け」と言った>というのは一度ではなく、一生に何回もありました。地上の欲望すべてを斥け、<地上から天上へ登る梯子>をクリストは登っていったのです。