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クリストの母、美しいマリアはクリストには必ずしも母ではなかった。彼の最も愛したものは彼の道に従うものだった。
クリストはまた情熱に燃え立ったまま、大勢の人々の集った前に大胆にもこういう彼の気もちを言い放すことさえ憚らなかった。マリアは定めし戸の外に彼の言葉を聞きながら、悄然と立っていたことであろう。
我々は我々自身の中にマリアの苦しみを感じている。たとい我々自身の中にクリストの情熱を感じているとしても、――しかしクリスト自身もまた時々はマリアを憐んだであろう。かがやかしい天国の門を見ずにありのままのイエルサレムを眺めた時には。……
美しいマリア・・・(6)参照。キリスト教の本質と無縁のマリアを崇拝するカトリックへの皮肉と取れる。
大勢の人々の集った前に〜・・・マタイ12章46−50。会堂で群集に神の国を説く場面。マリアとイエスの兄弟が外に来ていたが、イエスは取り合わなかった。<天にいますわたしの父のみこころを行なう者はだれでも、わたしの兄弟、わたしの姉妹、また母なのである>。
マリアの苦しみ・・・自分の子が自分を離反したことに対する辛さ。
クリストの情熱・・・<永遠に超えんとするもの>の天上指向。
クリストにとって、母マリアは必ずしも愛すべき存在ではありませんでした。クリストにとって愛すべきものは、彼のジャーナリズムを愛する人々だったのです。
そんなクリストの言葉を聞き、マリアは会堂に入ることも出来ずにいました。なぜこの場にマリアが来ていたのかわかりません。家を飛び出していったクリストを呼び戻そうとしたのでしょうか。
この時のマリアのことは、聖書に書いてありません。しかし芥川は、しょんぼりした様子を想像していました。クリストは自分の情熱のために家族を捨て、<背徳者>にならざるを得ませんでした。マリアの気持ちは察するにあまりあるところです。
しかしそのクリストも、エルサレムを見た時にはマリアのことを思ったのであろう、と芥川はこの章を結びました。理想(天国)に燃えたって進むクリストが、ふと現実(エルサレム)に目を向けた時に心が揺らいだのです。ひたすら天上を目指していくクリストですが、ここではじめて、地上を振り返るようになったといえるでしょう。