本文
我々は唯我々自身に近いものの外は見ることは出来ない。少くとも我々に迫って来るものは我々自身に近いものだけである。
クリストはあらゆるジヤアナリストのやうにこの事実を直覚していた。花嫁、葡萄園、驢馬、工人――彼の教えは目のあたりにあるものを一度も利用せずにすましたことはない。「善いサマリア人」や「放蕩息子の帰宅」はこういう彼の詩の傑作である。
抽象的な言葉ばかり使っている後代のクリスト教的ジャーナリスト――牧師たちは一度もこのクリストのジャーナリズムの効果を考えなかったのであろう。
彼は彼等に比べれば勿論、後代のクリストたちに比べても、決して遜色のあるジャーナリストではない。彼のジャーナリズムはそのために西方の古典と肩を並べている。彼は実に古い炎に新しい薪を加えるジャーナリストだった。
迫ってくる・・・心に訴える。
花嫁・・・マタイ25章1
葡萄園・・・マタイ21章33
驢馬・・・ルカ13章15
工人・・・ルカ14章28
「善いサマリア人」・・・ルカ10章30
「放湯息子の帰宅」・・・ルカ14章11
後代のクリスト教的ジャーナリスト・・・ここでは、<クリスト教的>であっても<クリスト的ではない>という皮肉。前章を参照。
古い炎に新しい薪を加える・・・古典に題材をとり、それに現代の素材を取り入れていく。
私たちは、自分の頭で思い浮かべることの出来るものしか理解することは出来ません。それを知っていたクリストは、当時の民衆にわかりやすいような題材を使って比喩を作りました。クリストの比喩は、つねに民衆の身近なものを題材にしています。
しかし、のちの宣教師はクリストのジャーナリズムを理解していません。この人たちは抽象的な言葉で<キリスト教>を作っていきました。
正編18から引き続いてクリストの本質を理解しないクリスチャンへの批判ですが、ここでは別に、芥川の創作への姿勢を見ることが出来ます。
古い思想に新しい題材を加えて比喩を作るクリストに、芥川は近い存在であるといえるでしょう。デビュー作となった「羅生門」を初めとして、芥川の作品は説話などにヒントを得たものが数多くあります。当時は<焼き直し>という陰口を免れることは出来ませんでしたが、芥川は<古い薪に新しい薪を加え>て自分の世界を作り上げていく作家でした。
<古い炎に新しい薪を加えるジャーナリスト>を考える上で、芥川の評論「文芸的な、あまりに文芸的な」の一節は多いに役に立つと思われます。
<焚き火を燃やすことを発明したのはもちろん天才だったのに違いない。けれどもその焚き火を燃やしつづけたのはやはり何人かの天才たちである。>
芸術はなにも、新しい思想だけではありません。古い思想に新しい見解を加え後代に伝えていくのも、やはり芸術家として大切な作業なのです。