本文
クリストの度たび説いたのは勿論天上の神である。
「我々を造ったものは神ではない、神こそ我々の造ったものである。」――こういう唯物主義者グウルモンの言葉は我々の心を喜ばせるであろう。それは我々の腰に垂れた鎖をきりはなす言葉である。
が、同時にまた我々の腰に新らしい鎖を加える言葉である。のみならずこの新らしい鎖も古い鎖よりも強いかも知れない。神は大きい雲の中から細かい神経系統の中に下り出した。しかもあらゆる名のもとにやはりそこに位している。
クリストは勿論目のあたりに度たびこの神を見たであろう。(神に会わなかったクリストの悪魔に会ったことは考えられない。)彼の神もまたあらゆる神のように社会的色彩の強いものである。
しかし兎に角我々と共に生まれた「主なる神」だったのに違いない。クリストはこの神のために――詩的正義のために戦いつづけた。あらゆる彼の逆説はそこに源を発している。
後代の神学はそれ等の逆説を最も詩の外に解釈しようとした。それから、――誰も読んだことのない、退屈な無数の本を残した。ヴオルテエルは今日では滑稽なほど「神学」の神を殺すために彼の剣を揮っている。
しかし「主なる神」は死ななかった。同時にまたクリストも死ななかった。神はコンクリートの壁に苔の生える限り、いつも我々の上に臨んでいるであろう。
ダンテはフランチェスカを地獄に堕した。が、いつかこの女人を炎の中から救っていた。一度でも悔い改めたものは――美しい一瞬間を持ったものはいつも「限りなき命」に入っている。感傷主義の神と呼ばれ易いのも恐らくはこういう事実のためであろう。
エホバ・・・旧約聖書に出てくる、万物の創世者。前章に出る、<古い炎>とはこれに当たる。
我々の腰に垂れた鎖・・・神によって支配されている、という思想のことであろう。神が人間によって造られたとすれば、我々は神の支配から自由になる。
細かい神経系統の中に〜・・・今までは我々の上にあって支配するものであったが、今は我々が心の中で生み出していくものとなり、そして神の名のもとに、やはり我々を支配する存在のままで残っている。
クリストは勿論目のあたりに〜・・・<まことに自由を眺めることは直ちに神々の顔を見ることである>(「侏儒の言葉」)
社会的色彩・・・クリストの時代の考え方に深く根づいている。
我々と共に生まれた「主なる神」・・・クリストという人間によってつくられたもの。「主なる神」とはエホバを指すが、そのエホバとて社会的色彩を加えられている。
詩的正義のために・・・クリストの神も、やはり人間の造ったものでしかない。それを絶対的存在にするために。
詩の外・・・クリストのジャーナリズムを離れたところで。前章のごとく、<目の当たりにあるもの>を利用して作った比喩などを考慮せず、キリスト教を作り上げようとしている。
コンクリートの壁に苔の生える限り・・・<大いなる民衆は滅びない。あらゆる芸術は形を変えても、必ずそのうちから生まれるであろう>(「闇中問答」)。
美しい一瞬間を持ったもの・・・「或阿呆の一生」<凄まじい空中の火花だけは命と取り換えてもつかまえたかった>のように、<刹那の感動>がクリストの説くものであることをここで示している。
感傷主義の神・・・クリストの説いた神が、である。感傷主義と呼ばれるのは、クリストのように<詩>になるものを残した者が救われているためである。
クリストは新約聖書の中で、彼の神を説いていました。それはエホバという<古い炎>に、彼のジャーナリズム<新しい薪>を加えたものです。
クリストの神もまた、人間の造ったものにほかなりません。しかしクリストはその神を絶対的な存在にするため、ジャーナリズムに一生を捧げました。クリストは悪魔(人間としての弱い心)と問答したように、自分が説く神に導かれたのでしょう。
後代の牧師たちは、クリストの活動にこの詩的正義を見ることはなく、クリストの難解な比喩を見当違いに解釈しています。またほかの人たちは、神を罵倒する事に真剣になっていました。
しかし、地上に人間がいる限り芸術はいつの世でも生まれ続け、クリストの詩的正義は人々を動かしていくことでしょう。<美しい瞬間>を求める人こそが、天上に至ることが出来るのです。