本文
クリストは女人を愛したものの、女人と交わることを顧みなかった。それはモハメットの四人の女人たちと交ることを許したのと同じことである。彼等はいずれも一時代を、――あるいは社会を越えられなかった。しかしそこには何ものよりも自由を愛する彼の心も動いていたことは確かである。
後代の超人は犬たちの中に仮面をかぶることを必要とした。しかしクリストは仮面をかぶることも不自由のうちに数えていた。
いわゆる「炉辺の幸福」の嘘は勿論彼には明らかだったであろう。アメリカのクリスト、――ホイットマンはやはりこの自由を選んだ一人である。我々は彼の詩の中に度たびクリストを感ずるであろう。
クリストは未だに大笑いをしたまま、踊り子や花束や楽器に満ちたカナの饗宴を見おろしている。しかし勿論その代りにそこには彼の贖わなければならぬ多少の寂しさはあったことであろう。
カナの饗宴・・・ヨハネ2章。イエス最初の奇跡がここ。イエスは水をぶどう酒に変えた。
モハメット・・・イスラム教の開祖。一夫四妻を認めた。
社会を越えられなかった・・・女性と一切関わりをもたなかったのも4人の妻を持つのも<同じこと>とするのは、一夫多妻制の世の中で女性をあまり重んじていなかったということであろう。
仮面・・・<超人は家畜の群れたる凡俗を離れて、強い意志を持って高尚な生を生きるために仮面をかぶらなければならない>(「善悪の彼岸」)。ここでは結婚観を述べている。「仮面をかぶる」というのは、結婚すること。
「炉辺の幸福」・・・家庭の中における幸せな生活。
未だに〜・・・今でも、ということは、この文では<あらゆるクリストたち>のことを述べているのである。この行の<カナの饗宴>とは、結婚式に浮かれる人々である。
見おろしている・・・高いところから見下ろしているというわけではなく、「見下(くだ)している」という解釈が成立つ。
クリストが女性に関心を示さなかったのは、女性(そしてそれに付随する家庭的なもの)を重んじなかったと考えられますが、何よりもクリストが愛していたのは自由でした。<強い意志を持って高尚な生を生きるために仮面をかぶらなければならない>とニーチェはいいましたが、とにかく何かに縛られることを、クリストは嫌っていたのです。
クリストは<家庭的な幸福>を信じていませんでした。<家庭的な幸福>とは、永遠に守らんとするものの求めるものであり、<永遠に超えんとするもの>は、それを見くだしながら嘲笑しているのです。
しかしもちろん、家庭的な幸福を離れたことによる寂しさ(15参照)を感じなければなりません。聖霊にとらわれた<永遠に超えんとするもの>であっても、マリアなるものも心の中にあるからです。