本文
クリストは高い山の上に彼の前に生まれたクリストたち――モオゼやエリヤと話をした。それは悪魔と戦ったのよりもさらに意味の深い出来事であろう。
彼はその何日か前に彼の弟子たちにイエルサレムヘ行き、十字架にかかることを予言していた。彼のモオゼやエリヤと会ったのは彼のある精神的危機に佇んでいた証拠である。彼の顔は「日の如く輝き其衣は白く光」ったのも必ずしも二人のクリストたちの彼の前に下ったためばかりではない。彼は彼の一生の中でも最もこの時は厳粛だった。
彼の伝記作者は彼等の間の問答を記録に残していない。しかし彼の投げつけた問は「我等は如何に生くべきか」である。クリストの一生は短かったであろう。が、彼はこの時に、――やっと三十歳に及んだ時に彼の一生の総決算をしなければならない苦しみを嘗めていた。
モオゼはナポレオンも言ったように戦略に長じた将軍である。エリヤもまたクリストよりも政治的天才に富んでいたであろう。のみならず今日は咋日ではない。今日ではもう紅海の波も壁のように立たなければ、炎の車も天上から来ないのである。
クリストは彼等と問答しながら、いよいよ彼の見苦しい死の近づいたのを感じずにはいられなかった。
天に近い山の上には氷のように澄んだ日の光の中に岩むらのそびえているだけである。しかし深い谷の底には柘榴や無花果も匂っていたであろう。そこにはまた家々の煙もかすかに立ち昇っていたかも知れない。クリストもまた恐らくはこういう下界の人生に懐しさを感じずにはいなかったであろう。
しかし彼の道は嫌でも応でも人気(ひとけ)のない天に向っている。彼の誕生を告げた星は――あるいは彼を生んだ聖霊は彼に平和を与えようとしない。
「山を下る時イエス彼等(ペテロ、ヤコブ、その兄弟のヨハネ)に命じて人の子の死より甦るまでは汝等の見し事を人に告ぐべからずと言えり。」――天に近い山の上にクリストの彼に先立った「大いなる死者たち」と話をしたのは実に彼の日記にだけそっと残したいと思うことだった。
モオゼやエリヤと話をした・・・マタイ17章、マルコ9章。モーゼ(モーセ)はイスラエルの創立者。エリヤはそれに続く予言者。
精神的危機・・・死を前にして、精神的に動揺していたと考えられる。
彼の投げつけた問・・・これに関しては聖書に書かれていない。芥川の創作である。ここでいう「我等は如何に生くべきか」だが、<我ら>とはモーセやエリヤ、そしてクリスト自身、あらゆる聖霊の子供たちのことを指す。
政治的天才・・・<政治的天才とは彼自身の意志を民衆の意志とするもののことをいうのである>(「侏儒の言葉」)。クリストには民衆をひきつけるジャーナリズムはあっても、民衆を動かすところまでいかないのである。
のみならず・・・なぜ<のみならず>なのかを論じている本はない。ここでは、クリストはモーセやエリヤのように危機を脱する力もなく、<紅海の波も壁のように立た>ず(出エジプト記14)、<炎の車も天上から来ない>(列王記下2)。見苦しい死だけが待っているという、追いつめられた状況を表している。
深い谷・・・<谷>というと、<涙の谷>(2参照)を思わせる。現世。
下界の人生に懐しさを〜・・・ここを強調し<地上指向>を論じるむきもあるが、あとの文章がそれを否定することは明らかである。「芸術その他」には、次のような文があり、ここを理解する上で役に立つと思われる。<僕等が芸術的完成の途へ向かおうとする時、何か僕等の精進を妨げるものがある。(略)丁度山へ登る人が高く登るのに従って、妙に雲の下にある麓が懐かしくなるようなものだ>。クリストの詩的正義は完成の途中であり、この心境に近いと思われる。
死を前にしたクリストは、自分の前に生まれた予言者・モーセやエリヤと対面しました。聖書ではほとんどふれていないことですが、芥川はこれを<悪魔と戦ったのよりも更に意味の深い>としています。悪魔は人間の弱い心であり、クリストは何度となく、これを斥けてきました。しかし自分の中の聖霊と向かい合うことのほうが、死を前にしたものとして意味の深い出来事なのです。
クリストは詩的正義のために戦うジャーナリストでした。しかし、モーセやエリアのように危機を脱する力はなく、また神の奇跡が起こる時代でもなかったのです。
見苦しい死を前にし、ここでクリストは下を見て、下界の人生に懐かしさを感じています。しかし戻ることは出来ないところまで来ていました。聖霊の子供であるがゆえに、平和な生活は訪れません。クリストは下界に戻ることなく、天上への梯子を一段一段、登っていくしかないのです。完成に向かって。その途中に、ふと下界の人生を懐かしく思わないわけには行きませんでした。
芥川はこの問答を、<聖霊の子供は、どのように生きるべきか>としました。自殺を考えていた芥川が、クリストと向かい合って「西方の人」を書き上げた心理が、ここに投影されているのではないでしょうか。