26.幼な児の如く

本文

クリストの教えた逆説の一つは「我まことに汝等に告げん。もし改まりて幼な児の如くならずば天国に入ることを得じ」である。

この言葉は少しも感傷主義的ではない。クリストはこの言葉の中に彼自身の誰よりも幼な児に近いことを現している。

同時にまた聖霊の子供だった彼自身の立ち場を明らかにしている。ゲエテは彼の「タッソオ」の中にやはり聖霊の子供だった彼自身の苦しみを歌い上げた。

「幼な児の如くあること」は幼稚園時代にかえることである。クリストの言葉に従えば、誰かの保護を受けなければ、人生に堪えないものの外は黄金の門に入ることは出来ない。そこにはまた世間智に対する彼の軽蔑も忍びこんでいる。

彼の弟子たちは正直に(幼な児を前にしたクリストの図の我々に不快を与えるのは後代の偽善的感傷主義の為である。)彼の前に立った幼な児に驚かない訣には行かなかったであろう。


幼な児の如く・・・この言葉は、マタイ18章にみられる。<よく聞きなさい。心をいれかえて幼な児のようにならなければ、天国に入ることはできないであろう>。逆説というのは、この後に続いている。<自分を低くするものが、天国でいちばん偉いのである>。

感傷主義的ではない・・・ここを宗教画の題材にするものも多い。子供の純真さなどをここで強調するものがいるが、これは決して宗教的感動を誘うものなどではないのである。

聖霊の子供だった彼自身の立ち場・・・子供は親のいうことを聞かなければならないように、クリストは聖霊のいうままにならなければならない。

世間智に対する彼の軽蔑・・・<マリアなるもの>への反発が、ここにも見られる。

正直に・・・本文ではここに傍点がついている。まともにクリストの言葉を受け止めた弟子たちを揶揄しているものであろう。


<幼な児の如く>というのは、宗教的感動を呼ぶものなどではありません。クリストに対して<感傷主義>と思い不快になるのはあたらず、後代の芸術家の偽善が不快の原因なのです。

クリストが<幼な児の如く>というのは、天国に入るためにはだれか(天上の神を指す)の保護が必要だ、ということをここで論じています。聖霊の子供だったクリストは、子供が親のいう通りにするように、彼もまた聖霊の決めるように(自分の意志に逆らって)生きなければならない、これが<幼な児の如く>でした。