本文
クリストはイェルサレムヘはいった後、彼の最後の戦いをした。それは水々しさを欠いていたものの、何か烈しさに満ちたものである。
彼は道ばたの無花果を呪った。しかもそれは無花果の彼の予期を裏切って一つも実をつけていないためだった。あらゆるものを慈んだ彼もここでは半ばヒステリックに彼の破壊力を揮っている。
「カイゼルのものはカイゼルに返せ。」
それはもう情熱に燃えた青年クリストの言葉ではない。彼に復讐し出した人生に対する(彼は勿論人生よりも天国を重んじた詩人だった。)老成人クリストの言葉である。そこに潜んでいるものは必しも彼の世間智ばかりではない。
彼はモオゼの昔以来、少しも変わらない人間愚に愛想を尽かしていたことであろう。が、彼の苛立たしさは彼にエホバの「殿(みや)に入りてその中にをる売買する者を殿より逐出し、兌銀者の案(だい)、鴿を売者の椅子」を倒させている。
「この殿(みや)も今に壊れてしまうぞ。」
ある女人はこういう彼のために彼の額へ香油を注いだりした。クリストは彼の弟子たちにこの女人を咎めないことを命じた。それから――十字架と向かい合ったクリストの気もちは彼を理解しない彼等に対する、優しい言葉の中に忍びこんでいる。彼は香油を匂はせたまま、(それは土埃りにまみれ勝ちな彼には珍らしい出来事の一つに違いなかった。)静かに彼等に話しかけた。
「この女人はわたしを葬るためにわたしに香油を注いだのだ。わたしはいつもお前たちと一しょにいることの出来るものではない。」
ゲツセマネの橄欖はゴルゴタの十字架よりも悲壮である。クリストは死力を揮いながら、そこに彼自身とも、――彼自身の中の聖霊とも戦おうとした。ゴルゴタの十字架は彼の上に次第に影を落そうとしている。彼はこの事実を知り悉していた。が、彼の弟子たちは、――ペテロさへ彼の心もちを理解することは出来なかった。
クリストの祈りは今日でも我々に迫る力を持っている。――
「わが父よ、若し出来るものならば、この杯(さかづき)をわたしからお離し下さい。けれども仕かたはないと仰有るならば、どうか御心のままになすつて下さい。」
あらゆるクリストは人気(ひとけ)のない夜中に必ずこう祈っている。同時にまたあらゆるクリストの弟子たちは「いたく憂て死ぬばかり」な彼の心もちを理解せずに橄欖の下に眠っている。…………
無花果・・・ユダヤの象徴的植物。この記事はマタイ21章19<道のかたわらに一本のいちじくの木があるのを見て、そこに行かれたが、ただ葉のほかは何も見当たらなかった。そこでその木にむかって、「今から後いつまでもおまえには実がならないように」と言われた。すると、いちじくの木はたちまち枯れた。>マルコ11章12にも同様の記事がある。こちらによれば、<いちじくの季節ではなかったからである>と記されている。
しかも・・・ここで<しかも>と使われているのには、次のように解釈すべきであろう。<無花果の木を呪うという暴挙を行い、しかも理由は自分の予期が裏切られたというものである。(することもすることなら、理由も理由だ)>
「カイゼルのものはカイゼルに返せ」・・・マタイ22章15−22。カイゼル(カイザル)はローマ皇帝の称号。これは納税についての論議。納税反対派のパリサイ人たちがイエスを罠にかけようと、ヘロデ党と結託する。もし納税を是認すれば神への反逆ととり、反対すれば国家への反逆とするもの。<「カイザルのものはカイザルに、神のものは神に返しなさい」>(納税も神につかえるものとしてすべきことの一つである)と応じた。
老成人・・・<年老いた>(7章)などにみられるように、<老>とは人生の経験から処世術を身に付けたものという意味。
世間知ばかりではない・・・この言葉は自分の危機を救うだけではなく、同時にエホバの神を説くことにもなっている。
「殿に入りて〜・・・マタイ21章12、マルコ11章15など。エホバの神殿を生活の場にした者たちを追い出す行為。
「この殿も〜・・・マタイ24章2には、<その石一つでもくずされずに、そこに他の石の上に残ることもなくなるであろう>とある。マルコ13章2、ルカ21章6にも同様のことが書かれている。
ある女人は・・・マタイ26章6、マルコ14章3、ルカ7章36、ヨハネ12章1など。弟子たち(ヨハネによればユダ)がそれをとがめるのをイエスは制止している。
ゲッセマネ・・・マタイ26章36、マルコ14章22、ルカ22章39。
死を目の前にしたクリストの、最後の闘いといわれるものがこの章の主題です。ここの<戦い>とは、ひとつは<彼に復讐し出した人生>に対するもの、もうひとつは彼自身の中にある聖霊との戦いです。
天国を目指すクリストは、軽んじてきた人生の復讐、つまり彼を殺そうとするものたちによる罠を受けることになるのです。意のままにならない無花果の木を枯らし、神殿で暴力をふるいました。芥川はここに、心に十字架が影を落としはじめたクリストのいらだちを見出しています。
そしてゲッセマネでは、聖霊の運命から逃れようとしています。<僕は群小作家の一人だ>(「闇中問答」)という芥川の言葉が、このクリストの祈りとつながるのではないでしょうか。しかし理解するもののないクリストの孤独は悲壮なものでした。弟子たちはクリストの苦しみもわからず、ただ眠っているだけなのです。
いつの世も、あるゆるクリストたちは自分の運命と戦おうとしています。そしてモーセの時代から天才を信じない人間の愚かさ、クリストの、心の中にある苦しみを理解できない弟子たち。いつの世も、あらゆるクリストたちは孤独の中に戦いつづけているのです。