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後代はいつかユダの上にも悪の円光を輝かせている。
しかしユダは必しも十二人の弟子たちの中でも特に悪かった訣ではない。ペテロさえ庭鳥の声を挙げる前に三度クリストを知らないと言っている。ユダのクリストを売ったのはやはり今日の政治家たちの彼等の首領を売るのと同じことだったであろう。
パピニもまたユダのクリストを売ったのを大きい謎に数えている。が、クリストは明らかに誰にでも売られる危機に立っていた。祭司の長たちはユダの外にも何人かのユダを数えていた筈である。唯ユダはこの道具になるいろいろの条件を具えていた。勿論それ等の条件の外に偶然も加わっていたことであろう。
後代はクリストを「神の子」にした。それはまた同時にユダ自身の中に悪魔を発見することになったのである。
しかしユダはクリストを売った後、白楊の木に縊死してしまった。彼のクリストの弟子だったことは、――神の声を聞いたものだったことはあるいはそこにも見られるかも知れない。
ユダは誰よりも彼自身を憎んだ。十字架に懸ったクリストも勿論彼を苦しませたであろう。しかし彼を利用した祭司の長たちの冷笑もやはり彼を憤らせたであろう。
「お前のしたいことをはたすが善い。」
こういうユダに対するクリストの言葉は軽蔑と憐憫とに溢れている。「人の子」クリストは彼自身の中にもあるいはユダを感じていたかも知れない。
しかしユダは不幸にもクリストのアイロニイを理解しなかった。
ユダ・・・イエスの12弟子の一人。イスカリオテのユダ。銀30枚と引替にイエスを裏切った背信の徒として名を残した。
ペテロ・・・イエスの弟子の代表。ニワトリが鳴く前に〜というのは、マタイ26章69、マルコ14章66、ルカ22章54、ヨハネ18章25。イエスとともに刑に遇うのを逃れたのである。
パピニ・・・「キリスト伝」において、ユダの裏切りを謎としている。芥川はそれを<謎ではない>と反論。芥川自身も<なぜユダだったか?>までは記していないが、「西方の人」では不要だと思われる。
何人かのユダ・・・ここでいう<ユダ>とは裏切り者の代名詞。イスカリオテのユダが裏切らなくても、弟子たちの誰かがクリストを裏切る可能性があった。
悪魔を発見・・・ユダに悪魔が入ったというのは後代がクリストを神としたため。そしてユダ一人に泥をかぶせたことも考えられる。
白楊の木に縊死・・・白楊の木とはポプラのこと。縊死のことはマタイ27章1。聖書にポプラのことは書いていないが、ポプラは「いけにえ」に関係する植物であり、キリストの十字架もポプラ材で作られたといわれる。
神の声を聞いたもの・・・良心が咎めたという意味であろう。ほかの弟子たちは逃げた後何食わぬ顔で戻ってきたのに対し、ユダは自殺している。
「お前のしたいことをはたすが善い。」・・・ヨハネ13章27<しようとしていることを、今すぐするがよい>。
軽蔑と憐憫・・・人間の心の弱さに対するもの。
ユダを感じていた・・・クリスト自身もユダが裏切る気持ちを理解していた。
クリストを裏切ったユダは、後代によって悪の象徴になっています。しかしほかの弟子たちもみな逃げ、ペテロですらクリストとともに磔にあうのを恐れ、責任を回避しつづけました。クリストの復活の後、逃げていった弟子たちは何食わぬ顔で戻り、ユダ一人に泥をかぶせていることを、芥川は見抜いています。
ユダはポプラの木の枝に首を吊って自殺しました。ユダは自分自身を責め、クリストの批難を感じ、また彼を利用したものたちのあざけりに耐えられなかったことからも、決して悪の代名詞ではなかったといえるのでしょう。いやむしろ、良心の呵責を感じていたところからも、神の声を聞いた人物だったのです。
クリストも人間である以上、ユダが裏切ろうという気持ちは理解していたのでしょう。彼自身<聖霊の子>としての運命から逃れようとしていたのです。<お前のしたいことをはたすが善い。>の言葉は、人間の弱い心に対する同情と軽蔑を示すものでした。
ここでクリストの言葉を<アイロニー>とする芥川の意図は何だったでしょう。人間として、クリストもユダも、それほど変わるところはありません。クリストの本心は、<裏切るな>だったのではないでしょうか。