31.クリストよりもバラバを

本文

クリストよりもバラバを――それは今日でも同じことである。バラバは叛逆を企てたであろう。同時にまた人々を殺したであろう。しかし彼等はおのずから彼の所業を理解している。

ニイチェは後代のバラバたちを街頭の犬に比えたりした。彼等は勿論バラバの所業に憎しみや怒りを感じていたであろう。が、クリストの所業には、  恐らくは何も感じなかったであろう。もし何か感じていたとすれば、それは彼等の社会的に感じなければならぬと思ったものである。

彼等の精神的奴隷たちは、――肉体だけ逞しい兵卒たちはクリストに荊の冠をかむらせ、紫の袍をまとわせた上、「ユダヤの王安かれ」と叫んだりした。クリストの悲劇はこういう喜劇のただ中にあるだけにみじめである。

クリストは正に精神的にユダヤの王だったのに違いない。が、天才を信じない犬たちは  いや、天才を発見することは手易いと信じている犬たちはユダヤの王の名のもとに真のユダヤの王を嘲っている

「方伯のいと奇しとするまでにイエス一言も答えせざりき。」――クリストは伝記作者の記した通り、彼等の訊問や嘲笑には何の答えもしなかったであろう。のみならず何の答えをすることも出来なかったことは確かである。しかしバラバは頭を挙げて何ごとも明らかに答えたであろう。

バラバは唯彼の敵に叛逆している。が、クリストは彼自身に、  彼自身の中のマリアに叛逆している。それはバラバの叛逆よりもさらに根本的な叛逆だった。同時にまた「人間的な、余りに人間的な」叛逆だった。


バラバ・・・イエスが磔になったのは過ぎ越しの祭りの時。慣例によって、囚人を一人解放していた。群集はイエスとバラバと、どちらを赦免するかというピラトの問に、人々はバラバの赦免を要求した。

彼等・・・クリストを殺そうとしている祭祀長たち。

彼等は〜何も感じなかったであろう・・・バラバがやったことは普通の犯罪であり、憎しみを感じていても理解できる。しかしクリストのしたことは、群集の理解を超えるものであった。

社会的に感じなければならぬ・・・実際にはなんとも思っていなかったが、まわりがクリストの処刑を要求するから自分もという付和雷同の心理。

精神的奴隷・・・兵卒達は上官のいうがままに動いているという点で、精神的に奴隷である。

「ユダヤの王安かれ」・・・マタイ27章29

精神的にユダヤの王だった・・・マタイ27章11に、<総督はイエスに尋ねて言った、「あなたがユダヤ人の王であるか」。イエスは「そのとおりである」と言われた。>とある。

ユダヤの王の名のもとに〜・・・クリストが自称する<ユダヤの王>を、そのまま悪口にしてからかうこと。

彼等の訊問や嘲笑には〜・・・マタイ27章14<総督が非常に不思議に思ったほどに、イエスは何を言われても、ひと言もお答えにならなかった>。聖書には質問の内容は記されていない。

彼自身の中のマリアに叛逆している・・・地上の人生を捨て、天上の詩的正義に生きること。次の文にある<根本的な叛逆>とは、人間そのものに対する叛逆、と言う意味。


クリストよりもバラバを助けたい、という人間の心理は、当時のみならず今でも同じことだと芥川は述べています。

バラバの叛逆は自分以外の人間に対するものであり、普通の人間にとって理解できることです。(おそらく、誰もが持っている感情なのです。)しかし、クリストの叛逆は、家族にそむき人生を投げ打ってでも詩に生きるという、群集の理解を超えたものでした。

たとえ悪人でも、得体の知れない人間よりは親しみを覚える、という群集の心理がここに働いているだけではありません。群集の態度は<社会的に感じなければならぬ>もの、つまり自分の意見を持たず周りに左右されているだけだというのです。

天才を信じない者たちはクリストを嘲笑しました。

みずからを<天才>と称する本物の天才に、<天才くん>などというあだ名をつけてからかう人たち(それも天才を見抜けない)。たくましいだけの<精神的奴隷>が<精神的王者>を笑い者にするという悲劇。<百人の凡人のために甘んじて一人の天才を犠牲にすることも顧みない>(「河童」)群集の姿。

クリストという天才の孤独は、ここに来てますます強く感じられるのです。