本文
クリストは十二人の弟子たちを持っていた。が、一人も友だちは持たずにいた。もし一人でも持っていたとすれば、それはアリマタヤのヨセフである。
「日暮るる時尊き議員なるアリマタヤのヨセフと云へる者来れり。この人は神の国を望めるものなり。彼はばからずピラトに往きてイエスの屍を乞いたり。」 マタイよりも古いと伝えられるマコは彼のクリストの伝記の中にこういう意味の深い一節を残した。この一節はクリストの弟子たちを「これに従いつかえしものどもなり」という言葉と全然趣を異にしている。
ヨセフは恐らくはクリストよりもさらに世間智に富んだクリストだったであろう。彼は「はばからずピラトに往きイエスの屍を乞」ったことはクリストに対する彼の同情のどの位深かったかを示している。教養を積んだ議員のヨセフはこの時には率直そのものだった。
後代はピラトやユダよりもはるかに彼には冷淡である。しかし彼は十二人の弟子たちよりもあるいは彼を知っていたであろう。
ヨハネの首を皿にのせたものは残酷にも美しいサロメである。が、クリストは命を終った後、彼を葬る人々のうちにアリマタヤのヨセフを数えていた。彼はそこにヨハネよりもまだしも幸福を見出している。
ヨセフもまた議員にならなかったとしたらば、――それはあらゆる「もし………ならば」のように畢竟問わないでも善いことかも知れない。けれども彼は無花果の下や象嵌をした杯の前に時々彼の友だちのクリストを思い出していたことであろう。
アリマタヤのヨセフ・・・マタイ27章57。イエスの死体を引き取り、埋葬した人物。
神の国を望めるものなり・・・本文ではここに傍点がついている。神の国を望む、と言う表現は、クリスト同様<聖霊の子>であることになる。マルコ15章43。
世間智に富んだクリスト・・・ヨセフもまた天才の一人だったが、クリストよりも<炉辺の幸福>を大切にした人物である。
サロメ・・・ヘロデ王がバプテスマのヨハネを処刑したのは、サロメという少女に対する報酬であった。もっとも、サロメはあどけない少女であり、実際にはサロメの母ヘロデヤがヨハネを殺そうとしていた。マタイ14章、マルコ6章など。
問わないでも善いことかも知れない・・・「西方の人」では、数箇所で<もし>を問うところがある。ここだけにこの文が見られるのは、芥川がここに強調をおいていることがわかる。
クリストには弟子がいたけれど、友達と呼べる人物はいませんでした。しかしアリマタヤのヨセフこそが唯一の友達だと考えられます。後代がほとんど言及していないヨセフは<神の国を望む>クリストの一人であり、天才同士、理解しあっていたと芥川は考えます。
ここで芥川が、わざわざ仮定の話を<問わないでも善いことかも知れない>とするのはなぜでしょうか。実際には、これこそが大切だと見るべきですね。
多くの人がクリストの復活を見たのに、ヨセフはそれを見ていません。彼はクリストが復活しないことを知っていたのです。
ヨセフがクリストを引き取って3日後、墓が空っぽになりました。そしてこれが、多くの人たちにクリストの復活を見せることになります。もしヨセフが引き取らなければ、クリストの遺体はクリストを憎む人たちによって処分されていたのでしょう。するとクリストも復活することはなく、ヨセフもまたクリストを思い出しているしかありません。
バプテズマのヨハネは弟子によって葬られ、復活することはありませんでした。クリストは自分を理解していた友達があってこそ、多くの人に復活した姿を見せることが出来たのです。
このヨセフはクリストの復活を演出した人物でした。