35.復活

本文

ルナンはクリストの復活を見たのをマグダレナのマリアの想像力のためにした。想像力のために、――しかし彼女の想像力に飛躍を与えたものはクリストである。

彼女の子供を失った母は度たび彼の復活を――彼の何かに生まれ変ったのを見ている。彼はあるいは大名になったり、あるいは池の上の鴨になったり、あるいはまた蓮華になったりした。

けれどもクリストはマリアの外にも死後の彼自身を示している。この事実はクリストを愛した人々のどの位多かったかを現すものであろう。

彼は三日の後に復活した。が、肉体を失った彼の世界中を動かすにはさらに長い年月を必要とした。そのために最も力のあったのはクリストの天才を全身に感じたジャーナリストのパウロである。クリストを十字架にかけた彼等は何世紀かの流れ去るのにつれ、シェークスピアの復活を認めるようにクリストの復活を認め出した。

が、死後のクリストも流転を閲したことは確かである。あらゆるものを支配する流行はやはりクリストも支配して行った。クララの愛したクリストはパスカルの尊んだクリストではない。が、クリストの復活した後、犬たちの彼を偶像とすることは、――そのまたクリストの名のもとに横暴を振うことは変らなかった。クリストの後に生れたクリストたちの彼の敵になったのはこのためである。

しかし彼等も同じやうにダマスカスヘ向う途の上に必ず彼等の敵の中に聖霊を見ずにはいられなかった。
「サウロよ、サウロよ、何のためにわたしを苦しめるのか? 棘のある鞭を蹴ることは決して手易いものではない。」

我々は唯茫々とした人生の中に佇んでいる。我々に平和を与えるものは眠りの外にある訣はない。あらゆる自然主義者は外科医のように残酷にこの事実を解剖している。

しかし聖霊の子供たちはいつもこういう人生の上に何か美しいものを残して行った。何か「永遠に超えようとするもの」を。


ルナン・・・フランスの思想家。「イエス伝」で科学的な解釈を施し、キリスト教国で反響を巻き起こした。<マグダレナのマリアの想像力>に関しては、このように述べる。<幻想におそわれた女の愛情が、復活した神を世界に与える。>15章参照。

彼女の子供を失った母は〜・・・英文の直訳みたいな文章でわかりづらい。<子供を失った母は、度々その子供の復活を〜>

パウロ・・・サウロから改名してパウロと名乗る。もともとはキリストを広める者たちを弾圧していたが、ダマスカスに向かう途中キリストに会い回心した。新約聖書の書簡は彼の手によるものが多い。

流転を閲した・・・移り変わっていった

犬たちの彼を偶像とすること・・・天才を理解しない者たち(<犬>に関しては、29章参照)は、キリストの精神に乗ったつもりになっている。横暴を振るうというのは、キリストの名を借りて他の天才たちを弾圧していること。

「サウロよ、サウロよ〜・・・使徒行伝9章。<棘のある鞭を蹴ることは決して手易いものではない>とは、<自分を傷つける>と解釈する。

我々に平和を与えるものは眠りの外にある訣はない・・・眠りとは「死」を意味するのであろう。


死体が消失したことにより(前章を参照のこと)、彼を愛していたマグダレナのマリアは彼の復活を妄想しました。それは子供を亡くした母親が、別のものに我が子の魂が乗り移ったと思い込んだりすることと同じことなのです。もちろん、マリアにそれだけの想像力を与えたのはクリストの詩的正義の力に違いありませんでした。

この復活が世界中に広まるのは、何よりもパウロ(サウロ)のジャーナリズムによります。もともとサウロは、クリストを迫害していました。しかし敵対することは、自分自身の中にある<聖霊>を見出していくことになりました。

キリスト教も時代を超えることは出来ません。その時代によって、キリストの詩的正義は別のものになっています。

しかし、俗物(犬)たちがキリストの名を借りて横暴を振るうことは、いつの世も変わりません。俗物は地上に、いつでもはびこりつづけます。クリストの後に生まれた天才たちがキリスト教と敵対するのは、こんな俗物がキリストの精神に添ったつもりでいるからです。

しかしキリストと戦うことは、キリストの中にある聖霊と戦うことになり、それは自分の中にある聖霊を見出すことになりました。芥川が死に臨んで「西方の人」を記したのは、軽んじてきたキリスト教の中に、クリストの天才を全身で感じ取ったからではないでしょうか。

芥川にとって、平和を得るためには<死>しかありませんでした。あらゆるクリストたちもまた、平和に生きることなく人生を終わらせています。そしてその死によってこそ、安らぎを得ることが出来ました。しかし彼らは、死ぬ前になにかを残していきました。それは時代を超えて、生き続けていくものなのです。