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ニイチェは宗教を「衛生学」と呼んだ。それは宗教ばかりではない。道徳や経済も「衛生学」である。それ等は我々におのずから死ぬまで健康を保たせるであろう。
「東方の人」はこの「衛生学」を大抵涅槃の上に立てようとした。老子は時々無何有の郷に仏陀と挨拶をかわせている。しかし我々は皮膚の色のようにはっきりと東西を分っていない。クリストの、――あるいはクリストたちの一生の我々を動かすのはこのためである。
「古来英雄の士、ことごとく山阿に帰す」の歌はいつも我々に伝わりつづけた。が、「天国は近づけり」の声もやはり我々を立たせずにはいない。老子はそこに年少の孔子と、――あるいは支那のクリストと問答している。
野蛮な人生はクリストたちをいつも多少は苦しませるであろう。太平の艸木となることを願った「東方の人」たちもこの例に洩れない。
クリストは「狐は穴あり。空の鳥は巣あり。然れども人の子は枕する所なし」と言った。彼の言葉は恐らくは彼自身も意識しなかった、恐しい事実を孕んでいる。我々は狐や鳥になる外は容易に塒の見つかるものではない。
東方の人・・・仏陀・孔子など、アジアの思想家を指す。
涅槃の上に・・・涅槃とは解脱の境地。俗世を捨てることによる宗教を打ち立てた、の意味。
無何有の郷に仏陀と挨拶をかわせている・・・無何有とは<存在しない>のこと。つまり無為の境地という点で、仏陀と老子は共通の思想を持つ。
はっきりと東西を分っていない・・・思想は洋の東西に関係なく、我々の心を動かすものである。
「古来英雄の士、ことごとく山阿に帰す」の歌・・・出所は不明。山阿とは山懐。東洋では、英雄たちは山にこもる、と言うことであろうか。
支那のクリストと問答している・・・孔子は儒教の祖。無為の境地か積極的な人生か、というところで、老子と孔子(東洋のクリスト)は互いに論じ合ってきた。
太平の艸木となることを願った〜・・・平和に生き自然に帰ることを願っている東洋の思想家も、クリスト同様に人生に苦しめられているのである。
「狐は穴あり。空の鳥は巣あり。〜・・・マタイ8章20。鳥や狐になること、つまり人間らしさを捨てなければ、平和な生活はない。
東洋の思想家は、欲を捨てる無為の境地によって平和な人生を見出してきました。しかし私たちの求めるものは、皮膚の色では決まりません。クリストの<詩的正義>は、民族人種を超えて私たちに届きました。
人生に悩み、無為の境地に入っていく人もいます。それはクリストが人生の復讐を受けた(28)のと同じことなのです。
クリストは、平和に生きるためには人間らしさを捨てなければならない、という言葉を発しました。ニーチェは俗物を犬に例えましたが、犬・狐でなければ、この地上で心が休まることはないのです。<もし天国を造り得るとすれば、それはただ地上にだけである。〜そこには〜犬ばかりたくさん歩いている。>(「十本の針」)
芥川は<恐ろしい事実>としてこの作品を締めくくりました。あらゆるクリストたちには、<地上>で生活することは不可能なのです。