1.再びこの人を見よ

本文

クリストは「万人の鏡」である。

「万人の鏡」という意味は万人のクリストに傚えというのではない。たった一人のクリストの中に万人の彼等自身を発見するからである。

わたしはわたしのクリストを描き、雑誌の締め切日の迫ったためにペンを抛たなければならなかった。今は多少の閑のあるためにもう一度わたしのクリストを描き加えたいと思っている。

誰もわたしの書いたものなどに、――ことにクリストを描いたものなどに興味を感ずるものはないであろう。しかしわたしは四福音書の中にまざまざとわたしに呼びかけているクリストの姿を感じている。

わたしのクリストを描き加えるのもわたし自身にはやめることは出来ない。


四福音書・・・マタイ・マルコ・ルカ・ヨハネの福音書。新約聖書のはじめで、イエスの伝道活動を記している。


芥川はクリストを<万人の鏡>としました。クリストと正面から向き合うことで自分がいかに生きるべきかを問われる、という意味です。クリストが山上でモーセ、エリヤと問答したように、芥川もクリストと問答せずにはいられなかったのです。

ところで、芥川はみずからをクリストに対照させこの「西方の人」を書き上げました。ここであらためて<天上を目指したクリスト>なのか、<地上を求めたクリスト>なのかを検証してみましょう。

正編の問題の一節、<天上から地上へ>を力説するグループは、「闇中問答」を引き合いに出して論じます。

<僕は群小作家の一人だ。また群小作家の一人になりたいと思っているものだ>

これは芥川自身の、地上指向すなわち<守らんとするもの>の叫びに感じられます。これを「西方の人」の中の自画像に投影すると、クリストは地上を求めたということになるのでしょう。

しかし、ここで疑問があります。「闇中問答」では、<或声>は<俺は誰にでも話しには来ない>と言うのです。つまり<地上>のもの、<守らんとするもの>のところには来ないのでしょう。ここで<或声>として芥川を訪れた<聖霊>は、<永遠に超えんとするもの>のところにしか来ないのです。芥川が<永遠に超えんとするもの>であることは、この声と問答しているところからはっきりとわかります。

芥川自身が<群小作家の一人になりたい>というのは、平和な生活を求めているように見えますが、実際には聖霊に翻弄され天上を目指すものの言葉以外のものではありません。身近なたとえで言うと、自分の(健康の)ため、といいながら<禁煙>という張り紙をするのは喫煙者であり、決して嫌煙者は<禁煙>などといわないのです。――