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こういうクリストの収入は恐らくはジャーナリズムによっていたのであろう。
が、彼は「明日のことを考へるな」というほどのボヘミアンだった。ボヘミアン?――我々はここにもクリストの中の共産主義者を見ることは困難ではない。しかし彼は兎も角も彼の天才の飛躍するまま、明日のことを顧みなかった。
「ヨブ記」を書いたジャーナリストはあるいは彼よりも雄大だったかも知れない。しかし彼は「ヨブ記」にない優しさを忍びこます手腕を持っていた。この手腕は少からず彼の収入を扶けたことであろう。
彼のジャーナリズムは十字架にかかる前に正に最高の市価を占めていた。
しかし彼の死後に比べれば、――現にアメリカ聖書会社は神聖にも年々に利益を占めている。……
「明日のことを考へるな」・・・マタイ6章34<明日のことを思いわずらうな。(略)一日の苦労は、その日一日だけで十分である>。
ボヘミアン・・・正編9、14や続編15にも見られる。社会的束縛にとらわれない人。金を貯めたりせず、その日の労働で生活するところに、クリストのボヘミア精神を見出しているのだろう。
「ヨブ記」・・・旧約聖書の、神に仕える者が試練を受ける物語。
クリストがどのようにして生活をしていたのか、それは聖書による限りではわかりません。芥川はこれを、クリストのジャーナリズムによるもの、つまり天上への道を説く代わりに衣食の報酬を得たのだ、と解釈しています。
実際のところ、クリストはボヘミアンであり、明日のことを考えずにいる人でした。クリストの詩はヨブ記のような偉大なる物語ではないにしても、人々の心をとらえる優しさを持つものであり、それが多くの人の共感を得たのでしょう。
そしてゴルゴダの受難の時、クリストの詩的正義はまさに最高に高まっていました。しかし、これはクリストの、人間的なあまりに人間的な死により、多くの人を失望させることになるのです。そしてクリストの言葉が多くの人を動かすまでにはさらに長い年月がかかりました。(正編35参照)
最後の一文は本題と離れていますが、聖書会社及び教会への皮肉です。<神聖にも>とは反語であり、クリストの精神にのったつもりの者たちが、神も恐れず暴利をむさぼっていることを批判しているのです。
マルコによる福音書10章21には<持っているものをみな売り払って、貧しい人々に施しなさい。そうすれば、天に宝を持つようになるだろう>とあります。現在のキリスト教の方々がこの精神にそっていないことは、立派な聖堂がたちならぶ様子を見れば明らかですね。