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クリストはもう十二歳の時に彼の天才を示していた。彼の伝記作者の一人、――ルカの語る所によれば、「其子イエルサレムに留りぬ。然るにヨセフと母これを知らず、三日の後殿(みや)にて遇う。彼教師の中に坐し、聴き且問いいたり。聞者其知慧と其応対とを奇しとせり。」
それは論理学を学ばずに論理に長じた学生時代のスウィフトと同じことである。こういう早熟の天才の例は勿論世界中に稀ではない。
クリストの父母は彼を見つけ、「さんざんお前を探していた」と言った。すると彼は存外平気に「どうしてわたしを尋ねるのです。わたしはわたしのお父さんのことを務めなければなりません」と答えた。「されど両親は其語れる事を暁らず」というのも恐らくは事実に近かったであろう。
けれども我々を動かすのは「其母これらの凡の事を心に蔵めぬ」という一節である。美しいマリアはクリストの聖霊の子供であることを承知していた。この時のマリアの心もちはいじらしいと共に哀れである。
マリアはクリストの言葉のためにヨセフに恥じなければならなかったであろう。それから彼女自身の過去も考えなければならなかったであろう。最後に――あるいは人気のない夜中に突然彼女を驚かした聖霊の姿も思い出したかも知れない。
「人の皆無、仕事は全部」というフロオベルの気もちは幼いクリストの中にも漲っている。しかし大工の妻だったマリアはこの時も薄暗い「涙の谷」に向かい合わなければならなかったであろう。
十二歳の時に〜・・・ルカ2章43節以降にこの話がある。芥川は44節を省略して書いている。
スウィフト・・・「ガリバー旅行記」の著者で有名。のち狂死。
美しいマリア・・・3回<美しい>という表現でマリアを紹介しているが、これはマリアに対する共感というよりも、マリアを崇拝するカトリックへの批判が込められていると考えられる。
ヨセフに恥じなければならなかった・・・ここにも、<クリスト=私生児説>が読み取れる。正編の2、6参照。
「人の皆無、仕事は全部」・・・<人間とはなにものでもない、作品がすべてなのです>というフローベールの言葉がある。フローベールはフランスの写実主義作家。
「涙の谷」・・・苦難に満ちた生活のこと。正編2参照。
ルカによれば、クリストは12歳の時に天才を示していますが、それはスウィフトに見られるように決して希なことではありません。ですからこの一事をもってクリスト=神の子とすることは出来ないのです。
この時、クリストは自分の父(聖霊)のことをいいましたが、<永遠に守らんとするもの>であるヨセフ・マリアは、クリストの言葉を理解できませんでした。
しかし、マリアは、クリストを生んだ時のこと――マリアを訪れた聖霊のことを思い出さないわけにはいかないのです。そして他の男と関係を持ったこと、そしてその私生児の養父になってもらっているヨセフに対する引け目も感じていたのでしょう。
この時から、すでにクリストは<聖霊の子>としての才能を発揮しはじめています。ジャーナリズム至上主義者としての資質が現れはじめていました。一方でマリアはクリストが自分から離れていくと感じ、また自分が起こしてしまった<醜聞>を思うにつけ、また自分の心にある暗い過去と向き合わなければなりませんでした。