本文
クリストは十字架にかかる前に彼の弟子たちの足を洗ってやった。「ソロモンよりも大いなるもの」を以てみずから任じていたクリストのこういう謙遜を示したのは我々を動かさずには措かないのである。
それは彼の弟子たちに教訓を与えるためではない。彼も彼等と変わらない「人の子」だったことを感じたためにおのずからこういう所業をしたのであろう。それはヨハネのクリストを見て「神の仔羊を観よ」と言ったのよりも荘厳である。
平和に至る道は何びともクリストよりもマリアに学ばなければならぬ。マリアは唯この現世を忍耐して歩いて行った女人である。(カトリック教はクリストに達するためにマリアを通じるのを常としている。それは必しも偶然ではない。直ちにクリストに達しようとするのは人生ではいつも危険である。)あるいはクリストの母だったという以外にいわゆるニウス・ヴアリユウのない女人である。
弟子たちの足さえ洗ってやったクリストは勿論マリアの足もとにひれ伏したかったことであろう。しかし彼の弟子たちはこの時も彼を理解しなかった。
「お前たちはもう綺麗になった。」
それは彼の謙遜の中に死後に勝ち誇る彼の希望(あるいは彼の虚栄心)の一つに溶け合った言葉である。クリストは事実上逆説的にも正にこの瞬間には彼等に劣っていると同時に彼等に百倍するほどまさっていた。
彼の弟子たちの足を洗ってやった・・・ヨハネ13章4。
「ソロモンよりも大いなるもの」・・・マタイ12章42。ここでは、ソロモンの栄華も一行の詩にはおよばない、と解釈できよう。正編18にソロモンの名が見える。
彼等と変わらない「人の子」だったことを感じたため・・・<神の子>を否定している。この部分の要旨は、<クリストも人間には変わらず、死を迎えて謙遜したのであろう。>
平和・・・続編6でも<平和>が出てくる。マリア的なものには平和が下ってくることをここでも示している。
カトリック教は〜・・・プロテスタントではマリアを聖母としていない。偶像を置くのもカトリックの特徴。
ニウス・ヴアリユウ・・・報道価値。マリアはクリストを生んだことで<醜聞>をおこした。正編6参照
死後に勝ち誇る彼の希望(あるいは彼の虚栄心)・・・前々章から続く。死後に自分の芸術がもてはやされること。死後の名声は自分にとってなんの益もなく、これを求めるのは一種の<虚栄心>である。
逆説的にも・・・クリストの逆説の一つに、<自分を低くする者が、天国では一番偉い>(マタイ18章4)がある。
クリストが弟子の足元に伏し、その足を洗うということがありました。それは十字架につく前のことです。
「お前たちはもう綺麗になった。」の言葉は、死を迎えたクリストが弟子たちに別れを告げ、そしてあとを弟子たちに託す言葉でした。弟子たちはそれを理解せず、とまどう様子が聖書に見られます。
みずからを<ソロモンよりも大いなるもの>とするクリストが弟子たちの前でへりくだるのは、自分も弱い人間の一人であることを弟子たちに見せました。本来なら平和にいたる道――マリアのもとに行きたかったのでしょうが、<聖霊の子>としてそれは許されませんでした(自分が許さなかったのです)。肉親への愛情よりも、詩的正義こそがクリストにとって一番の問題だったからなのです。
<お前たちはもう綺麗になった。>これはクリストの<洗礼>を意味します。彼の愛した弟子たちに、後事をこの場で託しました。そしてクリストの<詩的正義>を受け継いだ彼らによって、クリストの言葉は後代にまで伝わることになりました。