本文
「イエス……家に入りて人に知られざらん事を願いしが隠れ得ざりき。」――こういうマコの言葉はまた他の伝記作者の言葉である。
クリストは度たび隠れようとした。が、彼のジャーナリズムや奇蹟は彼に人々を集まらせていた。彼のイェルサレムヘ赴いたのもペテロの彼を「メシア」と呼んだ影響も全然ないことはない。
しかしクリストは十二の弟子たちよりもあるいは橄欖の林だの岩の山などを愛したであろう。しかもジャーナリズムや奇蹟を行ったのは彼の性格の力である。彼はここでも我々のように矛盾せずにはいられなかった。
けれどもジャーナリストとなった後、彼の孤身を愛したのは疑いのない事実である。
トルストイは彼の死ぬ時に「世界中に苦しんでいる人々は沢山ある。それをなぜわたしばかり大騒ぎをするのか?」と言った。この名声の高まると共に自ら安じない心もちは我々にも決してない訣ではない。
クリストは名高いジャーナリストになった。しかし時々大工の子だった昔を懐がっていたかも知れない。
ゲエテはこういう心もちをファウスト自身に語らせている。ファウストの第二部の第一幕は実にこの吐息の作ったものと言っても善い。が、ファウストは幸いにも艸花の咲いた山の上に佇んでいた。……
「イエス……家に入りて〜」・・・マルコ7章24<(イエスは)家の中に入られたが、隠れていることができなかった>
他の伝記作者の言葉・・・他の伝記作家たち(マタイ、ルカ、ヨハネ)も、常に人々が周りに集まってきていることを記している。
イェルサレムヘ赴いた・・・正編27参照。ゼカリヤ書9章9には、救世主がロバに乗ってくると書いてある。ペテロがクリストを<メシア>と呼んだため、この言葉を実行するためにエルサレムへと向かった。
しかも・・・文脈からすれば、「しかし」と解釈すべきか。
クリストは度々、人目を逃れようとしました。しかし彼が行なったジャーナリズムや奇跡は、人々の目を惹かずにはいませんでした。逃れようとしながらもついつい奇跡などを行なうクリストの矛盾した行動は、正編16にあるように<人間的な>性格によるのでしょう。
ジャーナリズムを説くうちに、クリストは<十字架に懸らねばならぬ気持ちになって仕舞った>ため、メシアの名のもとにエルサレムへの道を選びます。また人々も、クリストにメシアを期待していました。
そんな<永遠に超えんとするもの>としての道を歩んでいくクリストが、時折昔を懐かしがっていたのかもしれない、というのは芥川の解釈です。<天に近い山上>から谷の底を見下ろした時に下界への懐かしさを思い、エルサレムの門を見てマリアを憐れんだクリスト。ここには<詩的正義>のために人生を捨てようとするものの迷いがありました。
この章の名前は<孤身>ですが、クリストはつねに弟子たちや大勢の人々に囲まれていました。しかし本当に彼を理解していたものはいません。ここにも<孤身>という言葉の皮肉を読み取ることができるのです。