本文
十字架にかかったクリストは多少の虚栄心を持っていたものの、彼の肉体的苦痛と共に精神的苦痛にも襲はれたであろう。ことに十字架を見守っていたマリアを眺めることは苦しかった訣わけである。
が、彼は「エリ、エリ、ラマサバクタニ」という必死の声を挙げた後も(たといそれは彼の愛する讃美歌の一節だったにもせよ)彼の息の絶える前には何かおお声を発していた。我々はこのおお声の中にあるいはただ死に迫つた力を感ずるばかりであろう。
しかしマタイの言葉によれば、「殿(みや)の幔上より下まで裂けて二つになり、また地震いて岩裂け、墓ひらけて既に寝ねたる聖徒の身多く甦」った。彼の死は確かに大勢の人々にこういうショックを与えたであろう。(マリアの脳貧血を起したことを記していないのは新約聖書の威厳を尊んだからである。)クリストの一言一行に永遠の註釈を与えているパピニさえこの事実はマタイを引いているのに過ぎない。彼自身を欺いているパピニの詩的情熱はそこにもまた馬脚を露している。
クリストの死は事実上彼の予言者的天才を妄信した人々には――彼自身の中にエリヤを見た人々には余りに我々に近いものだった。従ってまた炎の車に乗って天上に去るよりも恐しかった。彼等はただそのためにショックを受けずにはいなかったのである。
しかし年をとった祭司たちはこのシヨツクに欺かれはしなかったであろう。
「それ見たことか!」
彼等の言葉はイェルサレムからニューヨークや東京へも伝わっている。イェルサレムを囲んだ橄欖の山々を最も散文的に飛び超えながら。
虚栄心・・・死後、自分のジャーナリズムが持て囃されることの希望。
精神的苦痛・・・自ら命を絶つことへの後悔の念もあろう。また自分の死後ジャーナリズムが本当に持て囃されるのだろうか、という不安もあった。
「エリ、エリ、ラマサバクタニ」・・・マタイ27章46<それは「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか」という意味である>。
何かおお声・・・マタイ27章50。なんと言ったかについては、聖書には書かれていない。
エリヤ・・・「エリ、エリ、ラマサバクタニ」の言葉を発した時、人々は<あれはエリヤを呼んでいるのだ>と言った。
年をとった・・・人生を知り世間知に富んだ人に、芥川はこの言葉を使っている。正編7参照。
クリストは十字架の上で死を迎えます。肉体的な苦痛はもちろん、ジャーナリズムのために命を捨てることを、多少なりとも後悔したのではないでしょうか。
十字架の上から母マリアを見て、死後の名声と地上の平和に生活を天秤にかけた時、クリストは自らの無謀な行為をどのように思ったのでしょう。
「エリ、エリ、ラマサバクタニ」が例え讃美歌の一節だったにしても、クリストは死ぬ時、大声をあげていました。苦痛に耐えきれず悲鳴をあげる姿は、人間と何ら変わるところはありませんでした。
人々は、なにか奇跡が起こるのを待っていたのでしょう。しかし何も起こらず、その期待を裏切られたショックは奇跡よりも恐ろしいものでした。芥川のパピニ批判は余談みたいなものですが、恐らくマリアは気を失ったであろうし、それに目をつぶるものは文学者の資格を失うというものです。
しかし、人生経験が長く知識のあった人々は、このようなショックを受けませんでした。天才であろうと、その死に様はあまりにも当たり前の人間と変わらなかったのです。