「新思潮」の同人たち

(1888〜1948)一高以来の友人。卒業を控えたある日、友人佐野文夫の窃盗の罪をかぶって退学。京都大学の英文学科に入学した。大正3年の2月、第三次「新思潮」が創刊され、菊池は芥川とともに参加、戯曲「玉村吉弥の死」などを発表する。大正5年には芥川・久米・成瀬・松岡の5人による第四次「新思潮」をはじめ、戯曲「父帰る」や多数の小説を出した。
大正7年には数多くの作品を文壇に送り、作家としての地位を不動のものにした。この頃の菊池を、芥川は「兄貴のやうな心持ち」と評した。大正8年、名作「恩讐の彼方に」を中央公論に発表。その後文芸春秋を創刊し、文壇の大御所としての名をほしいままにしていく。
昭和10年、菊池は亡友芥川の名を取って芥川賞を創設した。若き日の友人に対する、最大のはなむけだったといえる。
(1891〜1952)一高に無試験の推薦入学。第三次「新思潮」に参加した久米は、戯曲「牛乳屋の兄弟」を発表、これが有楽座で上演され好評を博した。芥川の親友井川恭が京都帝大に移ると、芥川は久米や松岡に接近するようになり、これがもとで芥川の「新思潮」参加となった。芥川が小説を数多く発表するのは久米の刺激が大きく、「小説を書き出したのは友人の扇動に負う所が多い」という文で久米の名を出している。
翌5年、第四次「新思潮」に「父の死」はじめ多くの短編小説を発表した。夏目は好意的に評価し、その後も久米の作は順調に続く。
ところが、漱石の長女筆子との恋が同人仲間の松岡によって奪われるかたちとなり、一時期文壇を去る。その後は失恋を題材とした小説を発表し、その後も通俗小説を書いて文壇をにぎわせた。
芥川が自決の時、「或阿呆の一生」の原稿を久米に託し、発表などすべてを一任している。
(1892〜1936)仏蘭西文学研究家。一高時代に「新思潮」に参加したのがきっかけで、芥川と同じ英文学科に籍を置いた。当時は菊池と仲がよく、菊池が窃盗の罪をかぶって退学した時は、物心両面での支援をしている。第四次「新思潮」では白樺派につながる作品を発表し注目を浴びた。
大正5年8月、成瀬はアメリカ留学の旅に出発。船出の模様は芥川の「出帆」に見られる。成瀬はコロンビア大学・ハーバード大学を転々とするが、講義内容に失望し授業に出なくなった。「新思潮」ではアメリカへの旅を綴った「航海」、また美術や文学の研究論文を発表しつづけたり、アメリカで浮世絵の説明をしたりして過ごした。
しかし「新思潮」がなくなり発表の場を失うと、成瀬はヨーロッパへと立つ。紀行文をのちに発表したが、その後は創作を断念した。
(1891〜1969)一高時代からの芥川の友人。第四次「新思潮」に参加し、他の同人にひけをとらない作品を出した。大正6年には「法城を護る人々」を発表し、その批判力が話題になる。翌年夏目漱石の長女筆子と結婚し、これが久米との確執となった。久米の発表する失恋小説によって、松岡は歪められた姿で一般に広まっていく。漱石山房の書斎に座った松岡への嫉妬も加わり、大正期の文壇は松岡を白眼視しつづけた。そんな中、芥川は松岡の理解者であった。
松岡は一時期沈黙したが、大正10年に文壇に復帰し「モナ・リザ」などを発表する。これは文壇には黙殺されたものの、一部具眼者から高く評価された。
作家としては不遇だったが、漱石研究などでその力量は再評価されている。