若宮丸の史跡


仙台市から北東30キロの宮戸島。ここの東海岸には室浜という小さな漁村があります。

日本人として初めて世界を一周した若宮丸一行の儀平、太十郎という二人を生んだことで、漂流民の研究家から一躍注目を浴びたこの島には、二人の偉業を称えて記念碑が作られました。いや、偉業というにはあまりにも受動的かもしれません。しかし何箇月もの漂流に耐え抜き、辛い外国の生活を10年も送って日本に帰ってきたという精神力は、称賛するに値するものと思います。太十郎の墓がこの島に残っていることを知り、訪れることにしました。宮戸島は島というには陸に近すぎて、本土から架けられた橋を車で渡ることも出来ます。

「昔は、この島はもっと離れていたんだよ。何十年前からかなあ。だんだんと近くなってきたんだ」

室浜に向かう途中、道を尋ねたご老人がそんな話をしてくれました。宮戸島は縄文の遺跡もあり、ここには歴史資料館・縄文村というものもあります。太十郎の墓について、情報があろうと立ち寄った歴史資料館で掃除をしているご老人に、太十郎の墓の場所を聞いてみました。ご老人は、太十郎の子孫とご近所らしく、この人物の名前が出た途端、にわかに雄弁になりました。室浜の漁村のすぐ手前、森を切り払った場所にその墓があることを教えてくれました。入り口には世界一周の足跡を綴った看板があります。

室浜に伝わっている話だと、太十郎は船員の中でも若者であり、炊(かしき)−今でいう飯炊きとして船に乗っていたということです。長崎についた時には長旅の疲れで病人同然であり、故郷の室浜に戻ってまもなく他界しました。

「みんな長崎から歩いて帰ってきたんですよ。故郷について安心して、それで死んでしまったのかねえ」

ご老人に聞いた話ですと、太十郎がロシアから持ってきたさまざまな品は、もうすべて失われたということです。昔はロシアのスーツ・・・・金ボタンがついた服が残っていて、ご老人はそれを見たことがあるそうです。

道路から石段を登ったところに太十郎の墓はありました。1806年のものだから、字はすでに読むことが出来ません。隣には儀平の供養塔があります。

「もう一人の人(儀平)は偉い人だったんですがねえ。この人の墓は、いくら探しても見つからないんですよ」

ご老人は言いました。賄い、つまり事務長として船頭を助けていた儀平も、室浜に戻ってまもなく死んでいます。なぜ墓が見つからないのでしょうか。開発が進んで、お墓は闇に埋もれてしまったのかもしれません。

このあとご老人は、室浜から少し離れた嵯峨見台というところにも二人の記念碑があることも教えてくれました。自分の持っている資料にはこのことがなかったので、予定外のコースとして室浜の奥、嵯峨見台に足を運ぶことに。

嵯峨見台は小高い丘で、太平洋が見渡せます。一般道路から山道を駆け上がること数十メートル、丘の頂上近くに「儀兵衛・多十郎オロシヤ漂流記念碑」が立っていました。昭和61年、鳴瀬町の教育委員会が建立したものです。これには若宮丸一行の足取りを書いた地図と、その漂流にまつわる伝説などが書いてあります。日本三景の松島よりも更に東、この美しい光景は松島以上の感動が伝わってきました。儀平、太十郎の二人は、この景色を見るためだけに、室浜に戻ってきたのかもしれません。


室浜から若宮丸が最後に停泊した東名を過ぎ、今度は船主のいたという石巻に向かいました。石巻は現在でも日本有数の港、江戸時代も太平洋に臨む場所として北国の海路の要所でした。名高い支倉常長が欧州に旅立ったのも、この石巻からです。伊達政宗の時代に支倉常長を出し、寛政の年代には若宮丸一行を送り出したという事実。なにか因縁を感じます。

石巻港にある船魂神社。御祭神は岐の神と八大竜神で、寛政年間に伊達藩千石船の海上輸送の航海安全、近海漁業の守護神として船主の尊崇を集めたという。津太夫をはじめとする若宮丸一行も、航海前にここを訪れたのだろうか。


石巻市禅昌寺にある若宮丸の供養碑

若宮丸の船主は、石巻米沢屋平之丞。船は嵐に遭い、二度と戻ることはありませんでした。若宮丸船頭は平之丞の倅平兵衛で、一行の中では最初に他界しています。米沢屋では、彼らが無事に戻ることを今か今かと待っていたのではないでしょうか。しかし寛政11年(1799)、平之丞は若宮丸に乗った者たちの帰還を絶望視し、禅晶寺で七回忌を行ないます。このころ、一行の善六がロシアに帰化を決めていました。

禅晶寺には、若宮丸供養塔がありました。1989年、寺の庭園を工事中に、偶然発見されたというこの石碑の傍らには、若宮丸乗組員を慰霊した碑がありました。そしてそこには、やはり世界一周した津太夫の名を見ることも出来ます。


10年の長い時間を経て、津太夫は故郷に帰ってきました。おそらく彼は、船主を訪れて船頭平兵衛や他の仲間のことを伝えたのでしょう。彼らの帰還を、平之丞はどのように受け止めたのでしょうか。自分たちだけが帰ってきたことに冷たい目を向けたのかも知れません。いや、やはり無事を喜んで歓迎したと思います。

津太夫と左平はその後、生まれ故郷の寒風沢(さぶさわ)に戻りました。室浜の二人とは違い、この二人は長寿を全うしています。故郷に帰った二人は、再び一般庶民となって歴史から名を消していきます。学者大槻玄庵の取り調べにロシアのことを話した後は、どのような生涯を送ったのでしょうか。「ロシアのことは夢と思え、みだりに話すな」とでもいわれていたのでしょう。時々ロシアのことを思い出しながら、同じような帰趨を辿った光太夫のことも考えていたでしょうか。

津太夫は松前で日露の衝突が緩和されつつあった文化11年、70歳の生涯を終えました。この日露の間で通訳となり、両国の架け橋となったのは若宮丸の乗り組み善六でした。善六の活躍を、津太夫は知ることもなくこの世を去っていました。

左平は文政12年、67歳で没しています。彼の死を最後に、若宮丸の関係者は姿を消しました。