以前教育関係の仕事に就いていた父の知り合いで、宮戸小学校で校長先生を務めたことのある森裕(ゆたか)先生に若宮丸の会のことを伝えたところ、その場で鳴瀬町の教育委員会の先生をご紹介いただきました。太十郎・儀平の出身地室浜には、太十郎の墓や鳴瀬町の教育委員会が建てた世界一周記念碑があります。
若宮丸で重要な役割を果たしてきた太十郎・儀平の地元の人たちに会の活動について詳しく知っていただくため、鳴瀬町教育委員会様に会報を送ることにしました。
3月13日、石巻から本間さんも来て下さり、鳴瀬町役場内にある教育委員会を訪問。そこではまず、太十郎の墓についての話題が出ました。このお墓は道路拡張のため、移転がすでに決まっているとのこと。古い文化財が失われるのは残念です。墓が移転しても、若宮丸の会としては「もともとの墓はどこにあった、どんなところだった」という歴史的な事実を、後々まで伝えていく任務があると思います。
また産経新聞の記事をお読みになったという方からの問い合わせがあったことを知りました。これからもこのようなことがあると思われます。各地の団体が一丸となって郷土の偉人たちのことを広めていくため、これからも連絡を密にしていく必要があるでしょう。
悪評を立てられた津太夫らの名誉挽回のことや地域振興について話し会報をお渡しした後、教育委員会様のご案内で室浜の観音寺を訪ねました。「教育委員会」の名前入りの車に先導されてという歓待です。ここまで期待されている(?)以上、若宮丸の会はより一層の発展が必要ですね。
案内された観音寺の境内は、庭石が波のような模様をつくり、足跡をつけるのがはばかられる感じ。ここではまず、帰国した儀平についてのことを伺いました。200年前から伝えられてきた、帰国後の儀平のことは、若宮丸関係の本には載っていないこと。同様に表に広まっていない伝承も数多くあることでしょう。これらをまとめていくことで、帰国した人たちの肉声を再現できるかもしれません。また、太十郎の墓があるのに対し、儀平の墓は見つかっていません。この墓の調査をしたこともお聞きしました。最近の石巻かほくの記事ばかりでなく、若宮丸関連の古い新聞記事まできちんとスクラップしてあります。
何よりも面白かったのは、戒名のことです。これは木崎良平先生の著書にもあり一般図書で調べられることですが、今まで関心を払ったことがありませんでした。儀平の戒名は「長流来見信士」、長く漂流・漂泊し世界を見てきた人という、儀平の人間を見事に説明したものです。『環海異聞』では、儀平はほとんど異国を見ることに興味を示さなかったように書かれていますが、実は広く世界各地を見聞したのではなかったでしょうか。そして死ぬ間際まで、自分が見聞きしたこと、異国での生活のことなどを語り継ごうとしていたような気がします。
一方世界を見聞したといわれる太十郎の戒名は本田壽良信士。「田壽良」をとると生前の名「たじゅうろう」と読み、本人そのものという感じです。太十郎は長崎で自殺未遂をはかり、病気になって回復せず室浜に戻り、そしてまもなく他界しました。おそらく何一つ語り継ごうとしたことがなく、儀平のように自己主張することもなかったのでしょう。
この太十郎の戒名について、観音寺に残る過去帳には一つの疑問点があります。「田」の真ん中の棒がやや上に出ているため、「由」の字に見えるのです。現在のように活字があるわけでもないためこのように読めるのか、それとも本当の戒名が「本由壽良信士」なのか。研究の対象がまたひとつ増えました。
儀平の戒名![]() |
太十郎の戒名![]() |
また太十郎の墓の移転先について、どこがいいかという話も出ました。墓を管理なさっている奥田氏の意向を無視して語ることはできませんが、観音寺の境内か記念碑のある嵯峨見台が有力候補ではないでしょうか。
現在でこそ桃生郡鳴瀬町の一部となっている宮戸ですが、宮戸は本来塩竃の生活圏であったそうです。つまり宮戸と寒風沢は親戚の関係であり、「浦戸」という一つの仲間意識があったかと思われます。残留を決めた六人のうち、石巻出身は四人。一方帰国した四人は全員が浦戸諸島を故郷としています。帰国組の四人と残留組の六人の間には、彼らが育った土地の風土からくる意識の相違もあったのではないでしょうか。
観音寺を離れた後、現在の太十郎の墓へと向かいました。ここを訪れるのは2度目ですが、戒名のことを聞いてからの訪問は、以前と違った視点です。太十郎の墓の隣には、墓が見つからない儀平の供養碑があります。「儀平の供養碑」と書かれた板は、根本が朽ちて倒れていました。歴史から忘れられた人々という印象を、改めて実感させられました。こんもりと茂った木々の中にあるこの墓も、もうじき二度と見られなくなります。二百年前の記憶は年々薄れ、いずれは太十郎の墓が現在の場所にあることを知る人もいなくなるかも知れません。
今回の宮戸訪問で、また新たな視野が開けたような気がします。寒風沢の過去帳にも、なにか歴史の真実を言い当てるものが隠されているかのではないでしょうか。いずれ若宮丸の会全体で、寒風沢・室浜を実際に歩きながらの例会を是非企画したいと考えています。
太十郎の子孫という奥田氏に会ったのは平成15年2月23日。ついにロシアから持ち帰った唯一の品である、太十郎の上着と対面です。
戦後の物資が乏しい時代、奥田氏の祖父はこの上着を着て野良仕事に出かけていたということで、ジャケットのあちこちがほころび、また修繕のあとも見られました。保存状態は重要文化財指定にしては決して良いとは思えず、以前この服を見られた方々は、傷みが進んでいると指摘していました。我々は歴史的な遺産を大切にすることに、もっと気を配らなければなりません。
奥田氏に伺ったところ、氏は太十郎の直系ではなく、太十郎の兄弟の子孫ということでした。漂流時、まだ二十歳そこそこでしたから、妻子はなかったのでしょうか。なお一部の史料によると、太十郎には弟があったらしいのですが、この奥田氏がその弟の子孫であるのか、詳しいことはわからないようです。ただ奥田一族は代々船乗りを輩出しているらしく、開国の時代に浦賀に行った方がいる、と奥田氏は語ってくれました。
この家には古文書が残されていたのですが、警察を名乗る方がこれを持ち出し、今は行方不明になっています。世界各地を見聞した太十郎が記していた漂流の記録であるか不明ですが、重要な記録が失われたことが残念で成りません。
同じ室浜には儀平がいます。この儀平は婿入りしていたそうです。帰郷後、儀平は婿入り先に戻りました。しかしそこで彼が見たのは、位牌を守る妻ではなく新しい婿でした。儀平は婿入り先を何の挨拶もなく離れ、兄の家へと帰りました。妻に見捨てられた悲しみが、儀平の命を縮めてしまったのかもしれません。帰郷後半年で、彼も他界しています。
今回はお会いできませんでしたが、儀平の子孫の家にもロシアからの品がありました。錫製のヤカンです。しかし物資がない戦後、このヤカンは屑屋に売られてしまいました。なお、その金はアイスキャンディの購入に使われたようです。貴重な文化財がない無念さとともに、苦しい時代のほほえましいエピソードだと思います。
二人の漂流民の菩提寺である室浜観音寺の過去帳には、二人の戒名が残されているのは先に記した通りです。いずれも文化年間のものでした。ここで気になったのは、漂流時(1793年)に彼らの葬式が出されなかったのか、ということです。住職渡辺照悟師にお願いし、寛政五年の過去帳を出していただき調べましたが、二人の名は見出せませんでした。若宮丸に乗って船出した二人が戻らず、地元の人たちは何を考えたのでしょう。そして10年の歳月を経て戻ってきた二人を見て、地元の人たちは彼らをどのように迎えたのでしょうか。