
上はレザノフ来航絵巻。資料提供東京大学史料編纂所様
第一章・陸奥漂流民の自力帰還
ロシアはレザノフを対日使節とし、津太夫ら4人を送還するとともに日本への通商を求めた。だが日本側はこれに応じず、「オランダ・中国・朝鮮・琉球以外とは通商を行わない」という鎖国の原則を明らかにする。その後も漂流民の送還と通商問題とを絡めて異国船が訪れるであろうと考えた幕府は、漂流民はオランダか清を通して受け取るという姿勢を前面に出す。
世にいう鎖国令成立は1639年(これはポルトガル船の来航を禁止したというべきである)ではなく、実際にはこの日露会談の時であった。
文化5年4月、日露の交渉は破綻で終わった。会見場で日本側の代表になったのは遠山金四郎である。有名な<遠山の金さん>の父に当たる。この場で、幕府側はロシアに対し、「再来る事を費すことなかれ」、つまり二度と来てくれるな、という強い拒否の態度を示す。レザノフは善六や太十郎らから日本語を学んでいたから、わずかでも会話をすることが出来た。この日の会見まで、彼は長崎に出入りする商人らと言葉を交わしていた。商人たちは取引が成立した暁には加えて欲しいとレザノフと話していたという。ここに明治維新の胎動を感じることが出来るが、つまりレザノフは、取引の成立を信じていたのだった。思いがけない幕府の拒絶にレザノフは顔色を変え、「このような無礼に驚く他ない」と口走った。
レザノフが長崎を発った後、幕府は蝦夷地に役人を派遣し、また海防御触書を発令して各地に警戒を命じた。また蝦夷地に渡った役人は、千島列島におけるロシア人南下の情勢を調べ、アイヌを通しての交易を禁止してロシアとの接触を避けるよう通達を出した。幕府が北門を固めれば、ロシアが南下してくることはないと考えたのである。ロシアの勢力範囲がどこまで及んでいるかを調査するため、松田伝十郎・間宮林蔵が樺太探検に入るようになるのも、レザノフの長崎来航が原因だといえる。
レザノフの失敗の原因を、彼自身の傲慢さに求める説がある。のちに日本に捕えられ『日本幽囚記』という書を著したゴロヴニンは次のように述べた。
<もしレザノフが皇帝の全権使節という肩書きを持ち出さずに露米会社使節団という控えめな肩書きで満足していたら、間違いなく目的を達成していただろう。>
しかし12年前の根室におけるラックスマンの失敗は、日本に対する儀礼の足りなさであると考えられていた。ラックスマンは外交を知らない青年であり、持参した書簡も女帝の筆になるものではなくシベリア提督から日本政府に宛てたものだった。その反省に基づいて全権使節として日本に来航したのである。
長崎会談にあたり、役人たちはレザノフに対し一挙一動に至るまで指導しレザノフを従わせようとした。だがレザノフは、日本とロシアが対等であり、全権使節である以上地方の役人に従う義務はないと主張しているのに過ぎない。大国ロシアという<虎の威>をかさにしたのではなかった。レザノフは決して傲慢な人物ではなく、漂流民送還に力を尽くしたところから見ても、むしろ人道的立場を知る情け深い一面を持っていたことがわかる。
なおこの時の日本の応対は、攘夷論的なものではなく、丁寧に応対したものであった。たとえば嵐で傷んだナデジダ号の修繕に協力したり、またその間病気になったロシア人を上陸させ治療にあたらせるなど、日本も人道的な態度をとっていたのである。ロシア船の退去にあたり、薪水食料の供給を幕府が法令の中で明らかにしてみたのもこの時が最初であった。幕府は厳重な鎖国体制を鮮明にしたものの、ロシアを敵視して追い払うという愚行には出なかった。
一般に<鎖国>という制度を、幕末の攘夷論的鎖国と混同して語る傾向が未だにあるが、少なくともレザノフ来航の時には攘夷論と開国論が対立するような深刻な状況にはない。例えば時の蘭学者杉田玄白の考えは「大国ロシアが攻めて来たら戦っても勝ち目はないから通商をすべき」というもので、積極的な開国論とはとても言うことが出来ない。ロシアが日本近海に姿を見せなくなった文政年間、欧州諸国が中国をはじめ東アジアで大規模な市場を開拓し日本に外圧がかかっていく中、開国論と鎖国論とが対立を深めていくのである。
幕府とロシアは互いに贈り物を交換することで合意に達したが、幕府はロシアからの品を一切受け取ろうとしなかった。受け取ることも交易につながるという判断であったのであろう。一方ではロシアが要求するものをすべて与えた。レザノフが持ってきた品々はオランダ人や長崎の通辞、津太夫ら漂流民にすべて与えられた。
レザノフはただ、津太夫らを連れてくるためだけに日本に来たといえるかもしれない。半年以上も長崎に拘留され、拒絶という結果で終わったレザノフの失望と屈辱は、その後の日露両国間の緊張の原因となる。多くの有識者は、幕府の時代が終わるのも近いと予見していた。洋学は時として権力批判を生む。外国の船が日本近海に姿を見せはじめると、彼らは日本の鎖国制度を批判するようになり、幕府の政策はやがて崩壊していく。
レザノフは会談の合間に、通訳や身の回りの世話をする役人たちと言葉を交わしている。レザノフは、日本の民衆はロシアとの通商を待ち望んでおり、拒絶の姿勢をとるのは幕府の老中だけであると聞いた。この時レザノフの心に、日本−というよりは、幕府に対する憎しみが湧いてきた。その後の文化年間に、<ロシアの黒船>が日本を震撼させるのは長崎における屈辱感だけではない。レザノフが通辞らの言葉を信じ、政府に思い知らせようと考えたためであった。
ちょうどその頃、津太夫らと入れ代わりに、別の日本人船乗りがロシアと接触している。陸奥国慶祥丸の乗り組みである。
慶祥丸は14人乗りで、1803年11月、函館から江戸に向かう途中暴風に遭い遭難し南海を漂流した。その間に2名が死亡、さらに黒潮に乗って北へ北へと流され、寒さと食糧難のため6人が死んだ。生き残った6人は1804年の7月に千島諸島のパラムシル島に流れ着く。その後小舟で人家を探し回ったが、どこまでも荒涼としたところが続いた。彼らは浜で海草や貝を拾って飢えをしのぎ、流木を集めて暖をとって暮らしていた。死を覚悟していた彼らは、近くを通りかかったロシア人の船によって救出される。彼らはその船でカムチャツカの港に行く。レザノフが長崎に向けて出帆した直後のことであった。
港に着くと、陸のほうから日本語で船頭一人船を下りるよう呼びかけるものがいる。これが善六であった。慶祥丸の船乗りたちは、異国にきて不安な中に過ごしていたから、言葉のわかる人物がいたことに手を打って喜んだことだろう。彼らは、ロシアの役人たちから漂流の顛末を質問され、また茶や酒などを振る舞われ、改めて命が助かったことを喜んだ。役人たちは、長崎で日本とロシアの通商が始まるから、その時にお前たちを帰してやろうと告げた。ロシアが、レザノフの交渉を楽観視していたことがわかる。通訳を務めた善六は、自分たちがアリューシャンに流れ着いた時を思い出したことだろう。陸奥漂流民たちはほっと一息つくことができた。
過去に異国人の温情で救われた善六が、今度は新着の日本人の命を救うことが出来たのである。
カムチャツカにはロシア人の家が20軒ほどしかなかったと陸奥漂流民は伝える。彼らは一時期、善六の家と商人の家とに2手に分かれ引き取られて過ごしていた。善六の方に住む者たちはともかく、商人の家に引き取られた4人の者たちは言葉が通じないため生活は困難なものとなった。扱いが悪かったというが、これは意志の疎通が不十分で、ストレスが溜まったものであると推測できる。彼らは相談して仮小屋を作った。なお善六の家に住んでいた2人はそのまま善六の家で過ごしている。
しかし厳しい冬が訪れると、吹雪は容赦なく吹きつけ、仮小屋に住む者たちは寒さをしのぐことが出来なくなった。日本人たちが凍死するおそれがあるため、ロシア人の船長は彼らを引き取ることにした。彼らが新しく住むことになったのは、船員たちが同居する寮のようなところであったようだ。こうして6人の船乗りたちは、長い冬のほとんどを家に閉じこもって過ごす。ロシア人たちは彼らをいたわり、外に出なくても済むようにしてくれていた。
善六はこの間、彼らとロシア人の間で通訳をしている。陸奥漂流民は彼の存在を不思議に思っていたことだろう。彼らと善六の間にどのような会話がなされていたのか、それは知る由もないが、彼らは互いの漂流の顛末を語り、また故郷のことを話し合っていたのだろう。善六は日本のことを彼らから聞き懐かしく思っていたのかもしれない。世界を一周した航海についても善六は語ったのではなかろうか。世界の広さを伝え、日本人に世界を見る窓を与えることが自分の使命だ、と善六は考えていたと思う。
善六は、レザノフの帰還を待ちわびていた。6人の漂流民には、日露交渉のことを話し、通商樹立の暁にはロシア船で故郷に送り届けると約束したのに違いない。その時には通訳として両国の間に立つ自分の姿を、彼は幾度となく夢に見ていたはずだ。
オホーツクの氷が溶けた頃、待ちわびていたレザノフがカムチャツカに戻ってきた。漂流民たちはこれで帰国がかなうと喜び、善六も通訳として日本の土を踏む希望を見出した。ところが彼らが受けた報せは、その期待を裏切るものであった。レザノフの長崎における交渉は失敗に終わり、先に帰国した光太夫は殺されていた、津太夫らもほどなく処刑されるという絶望から太十郎が自殺未遂をはたらいたというものである。これは反日感情の強いクルーゼンシュテルンが伝えたのかもしれないが、6人の船乗りを引きとめるためのデマであったとも考えられる。
善六は絶望とともに怒りをあらわにした。陸奥漂流民らは日本の悪口をいうロシア人を見て心細い思いをしていた。彼らを取り巻く環境は悪化していく。それまで支給されていた食糧・茶・煙草・酒などはもらえなくなり、労働にまでこき使われる有様であった。厳寒の中、河の氷を割って魚を捕り、また雪山に入って薪を集めなければならなかった。カムチャツカの子供たちは、彼らを見るたび<日本の犬>と罵った。
善六は日本の悪口を言いつづけた。これは日本という国そのものよりも、仲間を自殺に追い込んだ幕府の対応に対するものであろう。彼がこの後も陸奥漂流民を助けていることからも、善六が日本人を憎んでいたのではないことがわかる。日本は一部の権力者のものではなく、日本に住む民衆のためにあるべきである。しかし役人らはこれを理解していなかった。漂流という事件で国から離れ、異国の習慣や思想を身につけていた善六は、それまでなんの疑いも持たなかった日本という国に対して疑問をもつようになっていた。異国にあってこそ、自分が日本人であることを理解できるようになったとも言えるだろう。
ロシア船の日本行きがなくなった以上、南部漂流民6人は自力での帰国を考え始める。カムチャツカから蝦夷地(北海道)までの千島列島の地図を見ると、日本まで小さな島が点在する。島伝いに舟をこげば帰国できると考えたのである。食糧も不足がちだし、日本よりも寒さの厳しい北の海を生きて渡れるとは思えない。さらには帰るべき方角もわからない。あまりにも無謀な決断だったが、死を覚悟した漂流民たちはその日のうちにでも船を出しかねない勢いであった。
善六は彼らの無謀を諌めた。彼は、ロシアで生活したものが帰国したら殺されると信じきっていた。イルクーツクには新蔵や8人の仙台漂流民がいる。善六は陸奥の6人に、イルクーツク行きを勧めた。これからも気の毒な日本人が流れ着くだろう、その時には力を合わせて生き延びよう、そうするうちに事態が変わるかもしれない、と説得した。日本に行けば太十郎のように殺されるかもしれず(無論これは誤聞だが)、それよりは出世が望めるロシアで新しい生き方を求めよう、と。しかし6人は、善六と同じ道を歩もうとはしなかった。善六は彼らの決心を知り、それ以上の説得はあきらめた。彼も日本人である。帰国したいという気持ちは理解できていたのだ。
善六は、あるいはかつて新蔵が自分を説得したようには自分が彼らを説得することは出来なかったことを、少し悔しく思ったのかもしれない。
陸奥漂流民は世話になった船長のところに行き、支給された衣類を返却した。月代もそり、日本人としての威厳を持った姿で厚く礼を述べたのだろう。船長は、服を持っていくように言ったけれども、彼らはこれまで受けた恩に報いることが出来ないからと頭を下げ、食料品以外のもらったものをすべてロシアに置いて来た。
善六は彼らに船、衣類、食糧を無償で提供し、船出を見送った。津太夫たちとの別れを思い出しながら。しかし心境はまったく違っていた。津太夫らを見送った時は日本とロシアの間に立つ日を夢見ていた。自分も日本の土を踏めると期待していた。今は、日本は永遠に閉ざされた国になってしまっている。彼らとの別れは、日本という国への別れであった。
「日本に帰るのは難しい」
善六はこうつぶやいた。これは陸奥の6人のことではない。自分が日本に帰ることが難しいと言ったのだった。
これより前、6人はレザノフと出会っている。レザノフも彼らをカムチャツカで生活するよう説得し、6人はレザノフの説得を受け入れたかのように見えた。しかし6人は夜霧に隠れるようにして船を出し、千島へと逃げ去った。善六が後で筋書きを書いていたことは明らかである。ロシアの船は彼らを追いかけたが、捕まえることは出来なかった。
彼らの帰国の船旅は困難に満ちたものであった。カムチャツカから出帆した後、風や波に揉まれ転覆の危険に遭いながらも、ようやく最初に漂着したパラムシル島に着いた。食糧がなくなり、草の根や貝を拾い、また流れ着いた鯨の骨についている肉を食べ、飢えをしのぐありさまだった。櫓を漕ぐ腕も、寒さの余り感覚がなくなっていたことだろう。
ここで彼らは、アイヌ人のマキセンという者と出会う。このマキセンは千島の有力な人物で、彼は暖かく漂流民たちを迎え入れる。同じ頃、ウルップ島にロシアが送り込んだ植民の人々も、日本とロシアの対立を恐れてこの島に逃れてきた。両国の政治に翻弄された庶民たちは、アイヌ人の献身的な助力で命を救われていたのである。日本人とロシア人は互いの国の情報を交換したものと思う。彼らには政治的な対立など無関係であり、厳しい環境に生きる者として助け合っていたのだ。
春を待ち、マキセンは漂流民たちを船に乗せて南下した。途中の島には鳥がたくさんいて、彼らはそれを捕らえて食糧として蓄えた。ウルップに近いシムシル島に来ると、ここで彼らはマキセンと別れる。マキセンは択捉で日本人にスパイ容疑で逮捕され、逃亡してパラムシルに帰った人物であった。日本に戻ることを恐れ、これ以上の同行を拒んだのであろう。国家間の政治的対立の中でも、庶民同士の交流はこのように行われてきたのである。
こうして6人は無事蝦夷地へと帰ることが出来た。陸奥漂流民の6人は、後世に悪評こそ立てられなかったが、いや悪評すら立てられないほどに歴史的に無視されてきたが、ロシアからの初の自力帰還者として歴史にその名をとどめるべきである。
小舟で大海を渡り帰国した6人の執念は驚嘆すべきだが、善六という人物がなければ彼らの生還はなかっただろう。善六は通訳としての将来を失ったものの、こうして日露の間に立ち努力を惜しまなかったのである。その後、日本を震撼させる魯寇が起こる。レザノフの部下、フヴォストフとダヴィドフが樺太や択捉の幕府の会所を襲撃し、食糧などを奪う事件である。フヴォストフらはアイヌから、陸奥漂流民6人が日本に辿り着いたことを聞いた。当然これは善六にも伝えられたはずで、善六は6人の無事に帰還したことを知りほっと胸をなで下ろしたことだろう。
ほどなく善六はイルクーツクに戻った。彼には通訳のほかにも、日本人学校の教師という仕事がある。だが日露の掛け橋となる道が断たれた今、ロシア人にとって日本語を学ぶことは何の意味ももたない。
善六がロシアに帰化してからの10年、燃やしつづけてきた情熱はすべて無に帰した。何のために長い間苦労したのか、彼はがっくりと肩を落としカムチャツカを去った。イルクーツクの日本語学校はこれを契機に廃校同然になり、善六はその後商人としてモスクワからオホーツクにかけて精力的に動く。働くことで日本を忘れるしかなかったのだろう。