第二章・文化魯寇
長崎での日露会談が破綻に終わった後、日本とロシアの関係はにわかに緊張する。ロシアの南下に備え、幕府はレザノフとの折衝に当たった奉行遠山を蝦夷地に派遣した。幕府が北の脅威に対する備えは、この遠山の蝦夷地渡海から始まっている。
ロシアはその頃、日本との交易の機会をうかがい、ラショワ島のアイヌを択捉に派遣していた。この報せは函館奉行より幕府に伝えられる。幕府側は彼らからロシアの南下情勢を聞き、また日本の海防体制が整ったことを彼らに話した。ロシアの日本上陸を牽制するためである。幕府はなるべくロシアと武力の衝突を避けようとしていたようだ。
幕府は全国に<海防御触書>を出して警戒を強めた。この措置は後の<外国船打払令>とは異なり、出来る限り穏便にロシアの船を退去させようという方針であった。漂流してきた船であれば食糧、水、薪を与えるようにというもので、天保13年(1842年)の<天保薪水令>の先駆となる法令である。鎖国下の日本というと<外国船打払令>ばかりがとりあげられるが、当初は人道的な対処をとっていた。鎖国というものを考え直さなければならない一つの証拠だといえる。
一方長崎で津太夫らを幕府に引き渡したレザノフは、対馬海峡を抜けて日本海を北上し、1805年5月、樺太に停泊した。ここで彼は松前藩の役人と接触し酒を酌み交わしている。一部の歴史家は、
<レザノフは長崎で通商を拒否されたのを恨みロシアに帰る途中北海道を襲撃した>
と論じるが、それは根も葉もない俗説に過ぎない。実際には上記のように友好的な交流をしていたのであり、クルーゼンシュテルンが、
<このあたりの防御は貧しい漁村並み>
と判断し襲撃を提案したときでも、レザノフはさすがにそれを却下している。
長崎の役人たちと話した時、レザノフは次のようなことを聞いた。まず、日本国民の多くは国交樹立を望んでいること、そして幕府の老中たちだけがこれを拒んでいる、と。樺太でもやはり、松前藩の役人の言葉は長崎で聞いたものと同じだった。事実からは遠く離れたものであるが、レザノフはこれを信じ、いずれ日露の通商が樹立することを疑わなかった。
なお、善六から教わった日本語がここで役に立ったことは間違いない。レザノフは長崎でも通詞なしで会話することが出来たというから、相当流暢な日本語を話していたのだろう。レザノフが残した「露日辞典」はその能力の程を後世に伝えている。
この後クルーゼンシュテルンはレザノフと別れ、樺太探検に向かった。レザノフはクルーゼンシュテルンに、ウルップ島に移住したロシア人14人を救出に行きたいと話したが、クルーゼンシュテルンはこれを拒否している。レザノフの人道主義と、クルーゼンシュテルンの冷たさを物語るエピソードである。ウルップ島のロシア人たちは自力でカムチャツカに帰還するが、その途中で陸奥漂流民と邂逅している。
1805年6月、クルーゼンシュテルンの船はオホーツク海を北上し樺太の北端に停泊した。ここから南下し、樺太が大陸と地続きであるかを確認しようと、今の間宮海峡に入る。しかし水深が浅く座礁のおそれがあるため、思うように南下することは出来なくなっていた。さらに強い南風がクルーゼンシュテルンの行く手を阻んだ。二ヶ月にわたって調査を試みたが、悪天候と濃霧で満足な結果を得られず、ついにこのあたりの海水の塩分が薄いことを理由に、「樺太はアムール河の南で大陸と地続きになっている」と判断する。
間宮林蔵が樺太を探検し離島であることを確認するのは、4年後の1809年であった。
その後クルーゼンシュテルンは再びオホーツク海を南下、太平洋、インド洋、大西洋を経由してペテルブルグへと帰港した。彼はレザノフと対立した罪で罰せられることを恐れていたが、逆に世界周航を達成した英雄として表彰された。クルーゼンシュテルンの紀行は世界各地で翻訳され、その名は世界に広まっていく。ペテルブルグには彼の功績を称えた立派な銅像が建てられ、現存している。
クルーゼンシュテルンがロシアで盛大に歓迎されていた頃、レザノフは北太平洋で奮闘中であった。一度カムチャツカに戻ったレザノフは、北千島のアイヌを択捉に送り、日本との通商の可能性を調べさせる。自身は北太平洋のロシア領視察のため、アラスカへと向かっていた。これは漂流民送還と共に、この世界周航の目的のひとつである。
1806年5月、彼はアラスカのシトカ島に向かう。しかし彼の乗った船は粗末なものであり、ゆれも激しかった。アラスカまでの航行の間、乗り組みの多くは病気になり規律も乱れがちであった。最初に露米会社の前線基地があるウナラスカ島を目指したが、逆風のため着岸できず、聖パヴェル島やカディヤク島で1ヵ月以上も過ごしている。レザノフとクルーゼンシュテルンの仲が良ければ、レザノフはこのような苦難に立たされることはなかっただろう。クルーゼンシュテルンの船で、共に行動していたはずだ。
あらゆる困難の末ウナラスカ島に着いたレザノフは、ここで武力による日本襲撃と実力行使での通商要求を考える。長崎や樺太の役人から聞いた話によれば、日本の国民はみなロシアとの通商を望んでいるという。しかしそれを拒絶するのは幕府の役人だけであり、また長崎で皇帝の書簡を突き返して来た日本の態度は許せない、と考え始めていた。津太夫らに対して人道的に接したレザノフの面影は、ここには見ることが出来ない。もしかすると、レザノフ自身、栄養失調か船酔いから病気になり、気が触れていたのかもしれない。
8月、ウナラスカからシトカに移ったレザノフは、ここで越冬することに決めた。しかしシトカは深刻な食糧難に悩まされている。レザノフは日本での交渉の失敗を償うために必死になり植民地を回ったが、その間に何人もの船員が死亡した。魚や貝を拾い、また鳥を撃って食糧にあてる有様であった。しかしシトカの食糧も底をついた。
苦境に陥ったレザノフはその危機を救うため、当時スペイン領であったカリフォルニアへと南下を試みる。そのためにはさらに大きな船を作る必要があったが、材木も不足し船員たちも病気のためほとんどが動けなくなっていた。幸運にも、アメリカが船をレザノフに売却することを申し出る。レザノフはこの船に乗ってカリフォルニアへと赴いた。船長に任命されるのは後に日本を震撼させるフヴォストフ中尉である。食糧調達はアラスカのロシア人の生死を左右するものであった。
レザノフが乗った船は海岸に沿って南下し、サンフランシスコに近づいた。船員の半数は飢えと船酔いで病気になり、9人が瀕死の状態であった。船はスペインの許可を得ず(当時カリフォルニアはスペイン領である)入港するのだが、幸いにもスペインは暖かく彼らを迎え入れた。レザノフは<拒否されていたら、海で死ぬしかなかった>と後に発言しているが、どれほどこの航海がつらいものであったことがわかる。日本で拒否された時のことを思い出し、不安になっていたのかもしれない。レザノフはここで食糧を入手し、植民地のロシア人を救うことが出来た。
ここでは幸いにして暖かく迎え入れられたことが彼を救ったことになるのだが、逆に日本での仕打ちに対する憎しみを新たにしたと考えられるだろう。もし日本と通商さえ出来れば、このような窮状に陥らずに済んだのだ、と。またこの時、アメリカの北太平洋沿岸(現在のワシントン州あたりか)がどの国にも所属していないことをレザノフは知る。ここで彼は、露米会社がこの地域を占領すべきであると考え商務大臣ルミャンツェフに進言した。
レザノフは自ら北海道と樺太を襲撃し、食糧を奪い日本政府に開国を迫るつもりであった。彼は部下であるフヴォストフにこの襲撃プランを伝え、実行を命令した。同時に、報復の相手は幕府であり一般庶民には寛大に接するという方針も打ち出している。
フヴォストフがエトロフ襲撃の準備をしている頃、レザノフはペテルブルグへ戻ろうとしていた。彼はオホーツクに着いた時、突如としてフヴォストフに命令を撤回する。おそらく冷静さを取り戻したのであろう。フヴォストフに新たに下された任務は、樺太の日本基地の視察を命じたもので、攻撃続行とも中止ともとれる曖昧なものではあったが、同時にレザノフは<露米会社の利益ために行動せよ>とも命令している。これは領有する国がない北アメリカを固めよ、という意味合いであったと思われる。レザノフは、彼らに早くシトカへ戻るよう伝えていた。やはり攻撃停止と考えるのが妥当だろう。
フヴォストフは計画変更に戸惑い、レザノフの真意を問いただそうとしたが、レザノフはオホーツクをすでに去っていた。いかに上官から命令撤回があっても、日本襲撃は皇帝に奏上している。フヴォストフは結局、計画を続行することに決めた。1806年の末、ロシアによる樺太襲撃があった。これが文化年間に再三繰り返されたロシアによる襲撃事件につながる。樺太の日本番屋が幾度となくロシアの襲撃にあい、また略奪・放火が繰り返された。フヴォストフらは一アイヌ人の家に真鍮の板を残していった。それはロシア語で書かれた占領宣言のようなものである。人々はレザノフの報復であると恐れていたが、フヴォストフの行為はレザノフの命令から逸脱したものであった。
フヴォストフにしてみれば、頭を押さえていた実業家がいなくなり軍事家として勝手放題に振る舞ういい機会だ、と考えていたのかもしれない。
1806年9月、フヴォストフの率いる日本襲撃部隊はオホーツクを出帆、10月に樺太のアニワ湾のオフイトマリ、クシュンコタンを焼き払い略奪を行なった。この時アイヌの少年1人とクシュンコタンの番人4人(酉蔵、富五郎、福松、源七)を捕虜にする。少年はすぐに釈放されたが、番人たちはカムチャツカに連行され、そこで11月から翌1807年6月まで抑留されることになった。
難を逃れた者は幕府に知らせようとしたが、船が焼かれていたため海を渡れない。彼らが函館についたのは翌年の4月になってからである。ロシア入寇の知らせに驚いた幕府は、次のロシア襲撃に備え津軽藩の兵士を宗谷に派遣し、樺太を固めることにした。しかし今度は、択捉からロシア人の乱暴の知らせが入るのである。
その頃レザノフはシベリアを横断中であった。彼ははなはだしく健康を害しており、ヤクーツクでは病床に就いている。ライバルのクルーゼンシュテルンが世界周航を達成したとしてペテルブルグで歓迎されている時であった。焦っているレザノフには、ヤクーツクで療養に専念する心のゆとりがなくなっていたのだろう。味方だと信じていた商務大臣ルミャンツェフが、レザノフの働きを不満に思っていることが伝わってきたからだ。日本との通商の失敗の責任を、レザノフひとりに負わせようとしていた。極寒のシベリアで何度となく野宿しなければならない旅で、彼の病状ますます悪化していく。
イルクーツクにレザノフが到着したのは1807年のはじめであった。ここで善六はレザノフと再会したと思われる。しかし記録には何も残されていない。善六にしてみれば、日本との交渉再開を楽しみに待っていたのであろうが、病気にかかっていたレザノフにしてみればそれどころではない。善六はあらためて、自分がもはや国家の間に立てる人物ではなくなっていることを実感せずにはいられなかったのであろう。
レザノフはイルクーツクにいる間に、死を覚悟し始めている。それでも彼はペテルブルグへと急いだ。しかし運はどこまでもレザノフに冷たかった。凍結した川を渡るとき、馬が滑って転倒しレザノフは氷で太ももを傷つける。これがもとで破傷風になった。それでも彼は休まずにペテルブルグに向かっていた。しかしついに力尽きた彼は、エニセイ川近くで動かなくなる。1807年3月のことであった。レザノフの死で、露米会社はその後衰退の一路をたどることになる。彼はロシアが日本を恐怖に陥れていることを知らない。
文化年間の日露紛争を引き起こした人物として、レザノフは日本で酷評されることが多い。また本国ロシアでも功績をクルーゼンシュテルンに奪われることになった。長崎で交渉に失敗したことも彼の評価をいたずらに下げている。彼にとっては、何もかもが不運であった。しかしレザノフは津太夫らの引渡しに懸命になった。別れ際に見せた態度からも、政治家としての役割を越えた、人間の暖かさを持つ人物であることは証明される。レザノフはまた、北太平洋に先住民のための学校を作っている。会社の物資を無償で貧しい人々に提供することもあり、彼の人道的な活躍はもっと評価されても良い。
樺太・エトロフを襲撃したのはレザノフではなく、彼の命令を無視したフヴォストフに違いなかった。
<日露通商樹立の交渉に失敗し、怒りに任せてロシア政府の許可も得ず樺太・択捉を襲撃した>
司馬遼太郎をはじめとする愚かな学者によって作られたこのような俗説(レザノフと文化魯寇とが無関係であることは早くから知られていたが、近年になって司馬遼太郎著「ロシアについて」で再び蒸し返されている)から、我々は抜け出すべきではないだろうか。
レザノフはカリフォルニアに滞在したとき、司令官アルグエロと親しくなっていた。そしてその娘コンチタと恋仲になっている。コンチタは当時15歳であり、42歳のレザノフとは親子ほどの差があった。コンチタはレザノフの死後、多くの求婚者をすべて断り、修道女となって50年の歳月を過ごしたらしい。レザノフという人物がどれほど魅力あるものであったかを物語るエピソードである。
悲運のレザノフは、彼女の純愛によって僅かに救われたといえるだろうか。
レザノフが死んでから、ロシアはエトロフ島を焼き払い日本人を拉致した。のちに丁卯(でいぼう)事件と呼ばれる紛争である。国家の緊張が増した今、歴史から忘れられかけていた善六が、日露間の通訳として再び活躍する。