通訳キセリョフ善六(3)

第三章・丁卯事件と中川五郎治

蝦夷地開拓の名目で、幕府は国後島を植民地とし、松前藩の支配下にしていた。さらに最上徳内、近藤重蔵の働きによって択捉は日本の支配下に入った。一方でロシアは毛皮猟のためウルップ島までその勢力を伸ばしている。そのため択捉島は両国の勢力の境目として、小競り合いが頻繁に起こっていた。北方領土問題はすでに幕末以前から始まっていたといってよい。

1811年、イルクーツクにいた善六のもとに、日本人がヤクーツクにいるという報せがもたらされた。善六が日本を出てからすでに20年近い歳月が経ち、津太夫や太十郎と別れてからも7年が過ぎている。善六の人生に大きな影響を与えたレザノフや通訳の新蔵、そしてともにイルクーツクに残った若宮丸の仲間たちも数人が死亡している。心細さと望郷の想いが年を重ねるごとに強くなっていた。
(日本に帰れるものなら帰りたい)
善六はイルクーツクで妻子に囲まれた幸せな生活を送っていたものの、やはり根は日本人なのである。しかし日露の通商が成立していない今、彼には故郷に帰る道は残っていない。彼は樺太や択捉で頻繁に起こるロシアの日本攻撃を聞いていたはずである。いったいどのような思いで二国間の対立を見ていたのだろうか。自分が両国の友好的関係の仲立ちをしたいと願っていたように思えてならない。あるいはこの紛争で、自分の立場が危うくなっていると危機感を覚えていたのだろうか。

そんなある日、久しぶりで新しくロシアに来た日本人がいることを知って、彼は狂喜した。彼はヤクーツクにいる日本人に手紙を書いて、イルクーツクに呼び寄せることにする。イルクーツクの日本語学校は、新蔵の死後善六以外に適任者がなく、人材を求めていたのである。その日本人は、五郎治という。1807年の5月、フヴォストフの択捉襲撃で捕えられ、オホーツクに連行されていた。
のちに丁卯事件と呼ばれる一連の事件の主人公である。

丁卯事件の経緯は次の通りである。
1807年4月末、フヴォストフの率いる艦隊は択捉島のナイホ沖に現れた。択捉は日本の開拓によって、350人の日本人と1000人以上のアイヌ人が暮らしていた。小船に乗ったロシア人が上陸して倉庫の米を略奪した。また択捉島の会所を襲撃する。激しい銃撃戦でロシアは一時撤退したが、日本側は単純な勝利に喜びその夜の防衛策を考えなかった。ロシアはその隙に乗じて夜襲、南部藩・津軽藩の兵士を敗走させている。ここで五郎治をはじめとした5人が捕虜になった。五郎治らは、船内に4人の日本人がいることを知り驚愕する。これは先年樺太で捕虜になった者たちであった。

さらに南部藩の兵士大村治五平もこの船に連行されてきた。役人兵卒が逃亡する中、ロシア人に囲まれながらも勇戦したが、衆寡敵せずロシア兵に捕まったのである。これで捕虜は10人になった。津軽藩の足軽金沢久蔵も捕らえられたが、怪我の具合がひどくすぐに釈放されている。

前章で述べた通り、これはすべてレザノフの命令をはるかに超えるものであった。この時レザノフは、この世にない。

それにしても、僅か数隻の戦艦に侵略を許した日本の防衛は甘すぎるというべきだろう。クルーゼンシュテルンが日本の海防施設を見て「ロシアの貧しい漁村並み」と冷笑しているが、まさにいいようにあしらわれただけに終わった。戦わずに逃げた武士を嘲笑する落首が残されている。

   えぞの浦に立ち出で見ればうろたえの武士のたわけの高は知れつつ

日本襲撃の首謀者、フヴォストフのその後について書いてみたい。

後にフヴォストフはオホーツクで逮捕され軍法会議にかけられ、獄を脱走しペテルブルグで川に落ち溺死したと伝わっている。しかし彼らが獄につながれたのは日本襲撃がその理由ではなく、押収品を私物化したという疑惑からであり、彼らが脱獄しペテルブルグに逃げたという形跡はない。オホーツクからペテルブルグに逃げるには、あまりにも遠すぎる。ペテルブルグにいたのは、おりしもスウェーデンとの戦争に参加するため召集されたもので、軍人としてペテルブルグに向かったのである。日本襲撃はレザノフからの指令書によって皇帝に認められていたのだろう。彼らはスウェーデンとの戦争で目覚しい働きをみせ勲章も得た。彼らが川で死ぬのはその後である。丁卯事件から2年も後のことであった。

捕虜になった10人は船内の牢屋につながれ、不安な日を過ごした。とくにカムチャツカから日本行きの船に乗ってきた酉蔵たち4人の失望は大きかったと思われる。帰国が決まったと喜んでいたのもつかの間、新たな捕虜が来たのを見て帰国が叶わないと考えたのではなかろうか。この間に、五郎治や大村治五平は酉蔵たちからカムチャツカの生活について聞かされたものと思う。

さらに5月から6月にかけ、礼文、利尻などで船を襲い番屋を焼いて略奪を繰り返した。6月5日、ここで捕虜10人のうち8人が釈放された。ロシア側は彼らに「ロシアは日本と通商したがっている、要求を飲まないからロシアの手並みを見せてやった」という意味の文書をを持たせている。いわば武力による<要求書>であった。幕府側はこの事態を深刻に受け取り、<ロシア船打払令>を出す。ロシアのラックスマンが訪れた松前においても、防衛の準備が進められつつあった。日露の緊張は高まっていくばかりであった。

ロシアに連行が決まったのは、択捉で捕まった6人のうち五郎治と左兵衛の2人だけであった。五郎治はロシア人に対して威厳を持つため、自分の身分を偽り役人であると名乗っていた。左兵衛は捕虜の中でも体が丈夫だったと想像される。二人とも学問があり、ロシアは彼らを日本語の教師として採用するつもりだったのか。しかし最も身分の高い大村治五平は難を逃れた。先にレザノフが与えていた指令は<強健な日本人は捕虜とし、病弱者は松前の北辺で解放し、彼らをしてロシア領であるサハリンへの日本船の来航を禁止するが、通称のための来航は歓迎する旨を日本側に伝えさせる>であり、高齢者である大村は釈放となったのだろう。

2人の憤りと悲しみは察するにあまりあるだろう。釈放されることになった8人と、特に高い身分にありながら難を逃れた大村との感情の縺れがあったことは想像される。五郎治は大村を、侍にあるまじき卑怯者であると思った。釈放された8人は2人に同情しながらも、喜色を隠しきれなかったはずだ。五郎治と左兵衛にとっては、カムチャツカに抑留された者たちが半年で帰国したことだけが、僅かに望みを託すものであったのかもしれない。自分たちも、翌年には釈放されるであろうと。

釈放された8人は、ロシア側から預かった通商を求める書簡を松前藩に届けた。幕府は<文化魯寇>の報せに驚き、奥州各藩に出兵を命じて北辺の警備にあたらせた。間宮林蔵が樺太に行き、ロシアの様子を探ると共に樺太が離島であることをつきとめるのもこの時である。

ロシアに抑留されるのを免れた大村は、捕虜になっている間、大砲を預かっている身でありながら戦わずに逃亡した卑怯者という濡れ衣を着せられており、その罪で蟄居を言い渡された。しかし事実がわかったためだろう、大将格の役人たちが家禄と家屋を没収されたのに対し、大村の処分は蟄居という軽いものであった。

一方、ロシアによって捕えられた五郎治と左兵衛は、カムチャツカよりもさらに遠いオホーツクに連行された。そこでは露米会社によってしばらく養われていたが、1年が過ぎても日本に戻される様子もない。

1809年5月、彼らは脱走を試みた。土地勘もなく、さらに日本と比べ物にならない寒さの中での脱走は無謀極まりないが、彼らはそれ程にロシアを憎んでいた。南下して樺太に逃れる道を選んだのであろう(当時樺太が大陸と陸続きであるという説が有力だった)。しかし100キロほど西に進んだところで見つかり、再びオホーツクに連れ戻される。翌年再び脱走、今度は舟を使ったことが功を奏し、清との国境に程近いセンタリン諸島まで逃れることが出来た。しかしここで、左兵衛は空腹に耐え切れず、浜に打ちあげられたクジラの腐肉を食べ、食中毒で死んだ。これがきっかけで五郎治はまたロシアに捕えられ、シベリアの奥地・ヤクーツクまで運ばれてしまう。五郎治のロシアに対する恨みは、頂点に達していたのに違いない。

1811年の末、五郎治はイルクーツクへと連行された。善六が陰で、彼を呼び寄せる工作をしたことは想像に難くない。五郎治はロシア兵の家でしばらく旅の疲れを癒し、年が明けた1月にイルクーツクの知事トレスキンの家に赴いた。ここで彼を待っていたのは、善六だった。

五郎治は善六を見て、風貌がロシア人でないことを怪しみ、「お前は日本人か」とロシア語で聞いた。善六はこれに対して日本語で答えた。善六にしてみれば故郷の人と会うことは嬉しいものであったのだろう。役人としてただ一人出世し、若宮丸の仲間たちと疎遠になりつつあったからである。しかし五郎治は善六に対して冷たかった。ロシアに対する憎しみが、善六に対する憎しみに変わっていったのであろうか。善六の立場は気の毒というほかない。津太夫らの帰国航海の時にも彼は同様の感情で他の日本人たちに嫌われていたのである。彼を理解していたのは新蔵だけだったのだろう。しかしその新蔵も、2年前に死んでいた。善六の庇護者レザノフはすでにこの世に無い。

イルクーツク知事トレスキンが現れると、五郎治はロシアの海賊行為を激しく批判し、自分がなぜこのようなところにいなければならないのか、と詰った。ロシア人になってしまった善六にとって、ロシアをひたすら憎む日本人を目の前にして、彼はどのように考えていたのだろうか。

五郎治は2ヶ月間、善六の家で世話になる。善六の家はアンガラ川のそばにあった。善六は食費や防寒具を提供したが、日本を襲撃し自分をこのような目に遭わせたロシアに対して恨みを持つ五郎治が、善六に心を開くはずがなかった。善六は日本のことをいろいろと聞きたかったのだろうが、五郎治は「お前はロシア人だから、日本のことは不要だ」と口をつぐんだと思う。これでは会話にもならず、善六は黙るしかなかった。五郎治にしてみれば仕方ないことではあるが、善六はじっとつらい思いに耐えていたのかもしれない。

彼らは何度となく口論する。五郎治は漢字の読み書きにも優れ、また短期間のロシア抑留にもかかわらず言葉が流暢であった。善六は日本語教師になれば出世できると五郎治を説いたが、五郎治は最後まで拒絶した。オホーツクで、フヴォストフが日本から地図を奪ったのを知った五郎治は、命がけでその地図を保管する倉庫を焼き払った。しかし地図は他にもあり、五郎治が処分できなかったものを善六が丁寧に通訳している。その姿は、五郎治にとってスパイ行為以外のなにものでもない。自分は国を売る真似は絶対にしない、と善六のしていることを激しく責めたのではなかっただろうか。

この2ヵ月の滞在の間、五郎治は若宮丸の乗組4人と邂逅している。津太夫らが帰国の旅につくとき、ペテルブルグに向かう途中で病気で落伍した清蔵と銀三郎、ペテルブルグで帰国の念をひるがえし留まった茂次郎と巳之助だった。善六と共に真っ先にロシア人になった辰蔵は、遠く離れたトムスクに行っていたため、五郎治とは会っていない。

若宮丸でロシアに留まったのは善六を入れて9人だが、善六と共にロシアに帰化した八三郎と民之助、ペテルブルグへの旅の途中で落伍した左太夫についての報告はない。左太夫は老齢であったため鬼籍に入っていたのだろうが、善六の誘いでイルクーツクで洗礼を受けた八三郎と民之助は記録が残っていない。若いながらもすでに死んでいたのだろうか。

五郎治の報告によると、茂次郎は露米会社の事務として働き、清蔵と巳之助は船乗りとしての経験を生かしアンガラ川で船の運輸業を営んでいたらしい。彼らはみな兵役も免除され、年金をもらっていたという。これに甘んじて怠惰な生活することも出来たはずだが、銀三郎以外(ペルミで罹った病気の後遺症であろう、彼だけは仕事をしていない)はロシアで充実した生活を送っていたのである。彼らにも妻子がいて、混血児たちも政府の年金をもらっていた。日本人たちは望郷の想いを五郎治に語ったが、改宗してしまった今は帰国の夢が叶わない。それでも彼らは、かつて新蔵がそうであったように、ロシアの大地でたくましく生きていた。イルクーツクでは盆踊りも行われていたようで、彼らがその中心になっていたのだろう。

若宮丸の一行と五郎治を会わせたのは善六以外に考えられない。ここで気づくことは、日本との通商の可能性が断たれてもなお、ロシアは日本人を公費で養っていたことである。ここにロシアという国の懐の大きさがわかるが、善六はロシア国家が日本人たちに対して寛大であるところを見せたかったのだと思う。

善六はある日、五郎治を教会に誘った。しかし五郎治はこれを拒否し、善六を罵っている。キリスト教に改宗し、十字架を首に下げている善六は、五郎治の目には汚らわしいものと映ったのだろう。自分は国を売る真似は絶対にしない、と善六のしていることを激しく責めたのではなかっただろうか。

この頃、ロシアのゴロヴニンが日本側の策略で逮捕され、函館で幽閉されていた。ゴロヴニンの部下リコルドは、人質交換要員として五郎治に目をつける。こうして五郎治は、5年に渡るロシア抑留生活を終了し、松前へと向かった。善六はこの時同行していない。この場に善六が同行していれば歴史も変わったのだろうが、リコルドにしてみれば五郎治がロシア語を話す以上、通訳は不要と考えてしまったのだろう。

五郎治がイルクーツクを去るとき、善六や4人の日本人も見送りに来た。津太夫らとペテルブルグで別れた時のことを、彼らは思い出していた。五郎治は善六に目をむけず、挨拶もないまま別れている。ともに過ごした2ヵ月の間、善六は五郎治の寝食の面倒を見てきたが、このように二人の間にはなんの対話もなされなかった。

五郎治がオホーツクに着くと、そこには別の日本人がいた。今度は善六と違い、日本への帰国を望んでいる大阪歓喜丸漂流民である。

彼らは文化7年(1810年)に11月、紀州沖で嵐に遭い、4ヵ月海上をさまよってカムチャツカ近くの島に漂着した。無人の大地で雪の中を歩くうち、16人のうち9人までが凍死、3月ロシア人に救われ、カムチャツカに連れて行かれる。その時一人は凍傷で、足の指を数本切り落とす手術をしていた(この手術を施したことも、ロシアの人道的立場である)。

五郎治と彼らは、おそらく手を取り合って涙を流しながら、悲運を語り合ったことだろう。しかし彼らは日本行きの船に乗ることを知って気持ちは明るかった。五郎治は同時に、左兵衛がここにいないことを悔やんだものと思う。

ところが船が出てまもなく、凍傷に罹って手術を受けた久蔵が発熱する。病人を船に乗せない掟があり、ロシアは彼をカムチャツカに戻すことに決めた。凍傷を受け手術した傷口は化膿して膨れ上がり、悪臭を放っていたという。久蔵は泣きながら同行を願ったがどうにもならない。五郎治は、久蔵の傷は治っていると医者に告げたが、医者が塩水で久蔵の傷口を洗うと、久蔵は痛みにたまりかねて悲鳴をあげた。こうして久蔵一人が残され、7人は日本へと戻ることになった。帰国を目の前にして異国にただ1人残された彼の心細さは察するに余りある。彼はこの後イルクーツクへと連れて行かれ、五郎治と同様に善六のもとで世話になった。ロシアではまだ日本との通商に望みを持ち、イルクーツクの日本語学校に、学のある久蔵を招いてその充実を図った可能性がある。

一方、五郎治と大阪歓喜丸漂流民を乗せたリコルドのディアナ号は、文化9年(1812年)の夏、国後島に現れた。リコルドは大阪漂流民に書簡を持たせ、役人と連絡をとろうとする。しかし漂流民たちは書簡を持ったまま逃亡し、リコルドのもとには満足な返事がこなかった。やむなくリコルドは五郎治を通訳として、松前の役人と折衝にあたる。しかしロシアを憎む五郎治がリコルドに協力的な態度をとるはずがなかった。五郎治は、「ゴロヴニンは死んだ」という返事をリコルドのもとにもたらす。詳細を確認しようとしたリコルドは再び五郎治を上陸させるが、五郎治はそのまま戻らなかった。この人質交換は日本人が帰国するだけで終わったのである。リコルドは善六をこの場につれてこなかったことを後悔した。ディアナ号は得るものもなく、帰路につく。

日本の土を踏んだ五郎治は、異国への渡航者として牢につながれた。またロシアで身分を偽っていたことが知られ、役人からは嫌悪の目で見られていた。それを知った善六は、後の日露交渉の場で「彼は悪いことをしたのではないので、許して欲しい」と役人に書簡を送っている。日本とロシアとの仲介として、善六は仲の悪かった五郎治に対するせめてもの友情を見せたのだろう。

日本に多くの悲劇をもたらした丁卯事件は、同時に間接的に利益を日本にもたらしている。五郎治はロシアで天然痘予防の方法を身につけ、松前で大いに貢献した。五郎治は天然痘の予防接種を日本で行なった最初の人として、歴史にその名をとどめた。吉村昭著の「北天の星」(講談社文庫)は、この五郎治を主人公とした壮大な物語である。下役の番人で医学に関係を持たなかった五郎治が、牛痘法をどこで学んだのだろうか。レザノフと善六が作った露日辞典には、天然痘に関すると思われる会話が記されている。善六を通して、五郎治は牛痘法の書物を入手し持ち帰ったのかもしれない。このように善六はこの天然痘予防にかかわっていた可能性があり、日本とロシアの間に小さな橋を架けたといえるだろう。