第四章・ゴロヴニンと高田屋嘉兵衛
1808年、幕府はロシア船打払い令を出し、またロシア領ラショワ島から択捉島に来ていたアイヌたちを、ロシア来航の口実になるという理由で追放した。彼らは日本人と海獣の毛皮や鷲の羽根などと食糧を交換していた。ロシア領のアイヌと択捉・国後のアイヌの行き来がロシアとの間接交易になる可能性があると判断した幕府は、択捉のアイヌにもロシア領への出稼ぎを禁じた。こうして攘夷論が高まる中、幕府は北方の国境を調べるため松田伝十郎・間宮林蔵を樺太に派遣し、樺太が島であることを確認している。
1811年の5月、ロシアの海軍少佐ゴロヴニンが択捉島に現れた。ゴロヴニンはロシア海軍より、千島列島南部の測量を命じられ、1811年4月にオホーツクを出港した。毛皮猟をしている千島の海域を安全に航行するためであったが、濃霧や激しい潮流に妨げられ、測量ははかどらなかった。調査中に新鮮な食料や薪水の欠乏に悩まされ、択捉で補給を考え沿岸に寄せてきたのである。オホーツクに戻ることも考えたが、その間の航海を浪費するのを惜しみ、日本側に交易を求めた。
日本とロシアとの間は険悪なものになっていたのだが、ロシアから見れば僅か2艘の船による攻撃が、それほどまでに相手を震撼させているとは思いもよらなかったのだろう。あるいは日本人に釈明するつもりであったのかもしれない。
ゴロヴニンの乗るディアナ号が陸地に近づくと、日本側は発砲しロシアを追い払おうとする。文化魯寇と呼ばれるフヴォストフの略奪行為で、ロシアに対し警戒を強めていた時期である。ロシア船を見た日本人やアイヌ人は、家財道具を抱えて山に逃げるものも多かったという。この時アイヌを通訳にして、フヴォストフの文化魯寇がロシア国家の考えではなくフヴォストフの独断であることを伝えた(むろん現実にはロシア皇帝の意思である)。こうしてゴロヴニンに敵対の意志がないことを認めた幕府役人の石坂武兵衛は、ロシア船に給水を許し、食糧を提供する。
幕府も薪水食糧をロシアに与えることによって、穏便にことを処理する方針を貫いていた。この時代の「鎖国」はのちの攘夷論的なものではなかったことを証明する。
翌月ディアナ号は国後島に現れた。日本側はロシア船を見て砲撃し、幕府とディアナ号は険悪になりかけた。ゴロヴニンも砲撃を開始しようとしたが、しかし武力を行使するのはいつでもよいと考え、アイヌ人を通訳に食糧と薪水を求めていることを伝えた。そして代償に羅紗やガラスの容器を送り役人と交渉した。ここでゴロヴニンと幕府役人との間に和平が訪れ、ゴロヴニンらは上陸して歓待を受けている。ゴロヴニンは、先にフヴォストフが略奪したものを弁償するとロシアの品物を国後の役人に渡したが、役人はこれを受け取ろうとはしなかった。
こうして数日、国後島の会所とディアナ号とでやりとりが交わされる。役人の招待でゴロヴニンら7人が再び上陸し、日本の陣営で食事を提供された。だがこれは、日本側の策略であった。ゴロヴニンらは隠れていた数百名の武士に囲まれ、捕虜になってしまうのである。ディアナ号でもゴロヴニンの救出に動こうとしたが、海岸を警備する日本兵が砲撃し、また折りからの引き潮で船は座礁の危険にさらされ、救出作戦は成功しなかった。日本側はおそらく、引き潮の時間を見て行動に出たのであろう。
捕虜になったゴロヴニンらは函館へと護送される。松前の人々は、縛られて連行されるゴロヴニンたちに同情して涙を流していたというから、ロシアに対する反感は日本国民全体の声ではなかったことがわかる。
ゴロヴニンは函館でさまざまな取り調べを受けるが、この時に「レザノフを長崎で冷遇し追い払ったことに非がある」と役人に主張している。松前の役人たちは、一連の魯寇がレザノフの報復ではないかと疑い、ゴロヴニンに質問を繰り返した。これに対してゴロヴニンは、レザノフが関与していなかったことをくり返し述べた。この時ゴロヴニンと日本側の通訳に当たったのは先年カムチャツカに抑留されていた源七たちだったが、彼らのロシア抑留は僅か半年、ロシア語を覚えていたとは思えず正確な意志の疎通が行なわれたかは疑わしい。アイヌを通して会話することの方が多かったのだろう。
この時から、ゴロヴニンの2年に渡る不自由な幽閉生活が始まる。ゴロヴニンらは日も当たらない牢に閉じ込められ、食事も粗末なものしか出されなかった。待遇に不満があったゴロヴニンは脱走するが、すぐに捕まりさらに厳重な牢屋に身柄を拘束された。
ゴロヴニンらの身柄の奪回を図ったのは、ディアナ号を任されていたリコルド少佐である。リコルドは上陸して戦うには力が足りないと判断し、歯噛みしながらオホーツクへの帰路につく。さらにオホーツクからイルクーツクまでのシベリアの悪路を駆け、イルクーツクの知事トレスキンとともにゴロヴニン救出の計画を練った。ここでその頃イルクーツクの善六のもとに滞在していた五郎治が、ゴロヴニンとの交換要員として浮上しカムチャツカへと連れて行かれた。五郎治は択捉の会所の番人に過ぎなかったが、松前の大商人であると身分を偽っていた。ロシア語が堪能だった五郎治は、自分が通訳にたつことで両国の和平を保証する。しかしこの五郎治はロシアによってオホーツクに連行され仲間が死んでいたため、両国のためを思うはずがなかった。むしろ、ロシアに煮え湯を飲ませる機会を狙っていたのかもしれない。
ちょうどその頃、カムチャツカに漂着した日本の船があった。大阪歓喜丸の16人で、慣れない寒さのため9人が死亡し一人が凍傷で足を切る手術を受けていた。彼らもまた、ゴロヴニンらとの交換要員としてディアナ号で日本に連れ戻されることになる。しかし足を切断していた久蔵だけは船に乗せることを認められなかった。捕えられたのは7人、リコルドが連れている日本人も7人で、取り引きは成立するとロシア側は踏んでいたのだろう。
五郎治と歓喜丸の6人を乗せたディアナ号は、1812年の8月国後に現れる。ゴロヴニンが捕まってから1年が過ぎていた。リコルドの最大の関心は、ゴロヴニンの無事であった。リコルドは五郎治に通訳を命じ、役人宛ての書簡を書かせようとした。しかしここに来て五郎治は豹変する。リコルドが日本語の読めないことをいいことに、五郎治はロシア側の兵力や武器の様子を書簡に著そうとした。さすがにリコルドはこれを見破るが、善六がいないことを悔やんでも始まらなかった。
歓喜丸の乗り組みを人質に五郎治を上陸させたところ、幕府の返答は「ゴロヴニンらは皆殺された」というものであった。リコルドはこれを信じようとせず、確実な情報を求め五郎治を再び上陸させようとする。五郎治は歓喜丸の乗り組みを解放することを条件に使者に立つといい、リコルドはこれを了承するしかなかった。だが五郎治はその後ディアナ号に戻ることなく、リコルドの作戦は失敗に終わる。しかし五郎治が戻らなかったのはゴロヴニンらが生きている証拠であると考え、リコルドは新たな作戦に出た。
国後を離れたリコルドは、9月に択捉で日本の船を拿捕した。これが高田屋嘉兵衛である。嘉兵衛を含む5人の日本人がここでディアナ号に乗せられ、カムチャツカへと連行されていく。嘉兵衛は幕府の命令で蝦夷地一帯の流通を請け負う大商人であった。彼が人質になることで、再び日露の交渉は対等になる。
嘉兵衛は寛政11年(1799年)以来、択捉島の開発に尽力してきた。その時期、650石積みの船観世丸で択捉から国後に向かうところでディアナ号と遭遇したのである。乗り組み46人のうち10人は海に飛び込み、9人が溺死し1人だけが難を逃れた。嘉兵衛が拿捕される前日、国後島サルカマワフでアイヌ人4人が、武装ロシア兵によって捕虜になっていた。
リコルドの目には、おそらく日本に対する憎しみが浮かんでいただろう。嘉兵衛は堂々とリコルドに対し、無礼を咎める言葉を投げつける――これが両者の最初の対面ではなかったか。リコルドはなぜ彼らを拿捕したかを伝えるため、ゴロヴニンの名を発した。嘉兵衛は蝦夷地や幕府の役人の動きに精通している。松前に捕えられたロシア人のことであると合点し、ゴロヴニンが生きていることをリコルドに知らせた。
喜んだリコルドは、嘉兵衛を人質交換要員にすることを思い、カムチャツカに連れて行くと伝える。すると船内にいたもののほとんどが、嘉兵衛に同行することを申し出た。リコルドはこれを見て感動したと後に語る。こうして金蔵、文治、平蔵、吉蔵の4人が嘉兵衛と同行を決めた。アイヌ4人のうち3人と観世丸の乗り組み21人が解放され、嘉兵衛と前日に捕虜になっていたアイヌ人シトカの合計6人がカムチャツカへと連行されることになる。シトカが船に残されたのは、通訳代わりだったのかもしれない。
リコルドは釈放する日本人たちに、五郎治や歓喜丸漂流民たちの手荷物を手渡し、日本の役所に届けさせた。信頼を裏切った者たちに対する行動としては余りにも寛大だが、理由なく捕虜にされた五郎治への謝罪と同情であったのだろうか。リコルドは五郎治ついて、次のような見解を述べている。
(彼は本当にゴロヴニンが死んだという役人の嘘を信じ、ディアナに戻ったら殺されると思って逃亡したのだろう。あるいは悪質な役人によって拘束されたのかもしれない)
五郎治はリコルドを騙そうとした前科がある。それを踏まえてもこのように解釈するあたり、リコルドは人の良い、そして人間味のある人物だったのだと思う。
ここで両国にとって幸いだったことは、人質になったのが高田屋嘉兵衛という人物であったことであろう。リコルドは一時的に、ゴロヴニン救出の失敗を恨み日本への報復を考えていた。だがリコルドと嘉兵衛との間に生れた友情と信頼とが、日露関係を修復するのに大きく役立っている。リコルドと同様、嘉兵衛もまた人間的魅力のある人物に違いなかった。
例えば、ディアナ号が国後沖で嵐に遭遇したことがあった。嘉兵衛はリコルドに、ここは浅瀬だから座礁の危険があると注意して船を救っている。これは嘉兵衛の口述にのみある記録であり、また日露の航海術の優劣は明らかであったから信用しがたい(リコルドと嘉兵衛の信頼関係を考えると、リコルドが相手の美徳を誉めないとは思えない)が、水路や海流の道筋を教えたことはあったのだと思う。
夏も終わりに近づく頃、ディアナ号はカムチャツカへと帰港する。嘉兵衛は異国渡航が帰国後に咎められることを不安に思い、ふさぎ込んでいた。リコルドは嘉兵衛をいたわり、自分の住む家に案内した。これには嘉兵衛も驚き、感激したことだろう。この時善六はイルクーツクにある。冬のシベリア横断は危険が伴うためカムチャツカに来ることは出来ず、リコルドと嘉兵衛はアイヌ語や片言の言語で交流していく。リコルドは善六や五郎治から日本語を学び、また嘉兵衛も必死にロシア語を覚えようとした。このあたりから、嘉兵衛は自分のおかれた立場を理解し、日露両国のために努力することを決めていたと思われる。
まず、ゴロヴニン逮捕の理由を嘉兵衛はリコルドに伝えた。そして文化魯寇がロシア政府の意思ではなかったことを釈明し謝罪すれば、ゴロヴニンはきっと釈放される、と嘉兵衛はリコルドに説く。嘉兵衛の言葉に大きくうなずいたリコルドは、オホーツク長官とイルクーツク長官の釈明書を求めるべくオホーツクへと向かう。1ヵ月後、リコルドは約束どおり釈明書を携えて戻って来た。
嘉兵衛らのカムチャツカ抑留は半年近くに及んだ。オホーツク海の氷が溶けないうちは出港がかなわないためである。その間にアイヌ人シトカと、文治・吉蔵の3人が死亡していた。残る者たちもほとんど病人であり、この先生きて帰れるかも怪しい。嘉兵衛はロシアを当然恨んだことだろう(リコルドと刺し違える覚悟だったと後に語っている)が、それでも彼は日露関係の修復に努めようとした。このことについて、リコルドは何も記していない。
1813年5月、嘉兵衛と生き残っていた2人の日本人はディアナ号で帰国の途についた。リコルドは国後の幕府役人と折衝するに当たり、嘉兵衛を人質として艦内に留めおき2人の日本人を上陸させようとする。しかし嘉兵衛は、自分が役人と交渉しなければ会談は成立しないと主張し、ディアナ号でリコルドと嘉兵衛は対立し始めていた。リコルドの脳裏には、先年五郎治に欺かれたことがよみがえっていたことだと思う。しかしリコルドは、半年も共に生活してきた嘉兵衛を信じすべてを任せた。こうして日本人すべてが解放され、役人にゴロヴニンの釈放の要求を出す。嘉兵衛は約束をたがえず、ディアナ号に戻ってきた。彼は幕府側からの、ロシアへの要求書を手にしていた。
約束を守った嘉兵衛の人間性は特筆すべきだが、彼を信じたリコルドもまた、嘉兵衛と同じくらい立派だと思う。両者の友情は子孫にまで続き、今なお両国の架け橋として活動なさっている。
1ヶ月の間、ディアナ号と国後会所で折衝が続けられる。嘉兵衛は連絡を務め、両国間の調停に当たった。ゴロヴニンの逮捕は、フヴォストフの略奪行為への報復であることを幕府はリコルドに伝える。
<文化年間の略奪がフヴォストフの独断専行であることを書面にし松前藩への謝罪をすれば、幕府はゴロヴニンを釈放するだろう>
このような嘉兵衛の助言に従い、リコルドはオホーツクに戻った。まだゴロヴニンは釈放されていなかったが、リコルドは嘉兵衛がいる限り日本が約束をたがえないと信頼しきっていたのだろう。オホーツクに戻ったリコルドはイルクーツクに人を派遣し、イルクーツク長官トレスキンの謝罪文を手に入れた。この時、善六もリコルドのもとにやってきた。先には言葉の問題でさんざん悩まされることになったリコルドは、善六が来たことで心強く思ったに違いない。善六もまた、日露の間で新しい動きがあることを知って、急いで駆けつけてきたものだと思う。
こうして善六はディアナ号に乗り込み、20年ぶりに故郷の日本へと向かうことになった。レザノフの交渉破綻からも10年近い年月が過ぎていた。
1813年の10月である。ついに日露に橋を架ける時が来た、と善六は期待に胸を膨らませていたことだろう。すでに40歳を過ぎていた善六は、自分の一生の中でもっとも晴れがましい舞台へと向かう。文化の魯寇は日本とロシアの関係を緊張させたが、この本格的な会談のきっかけとなり両国の緊張を沈静化させる機縁になったといえる。
なお、足の手術をして一人ロシアに残されていた安芸の久蔵もディアナ号に乗っていた。仲間と別れた久蔵は孤独な生活を送っていた。僧侶であり学問のある彼は、イルクーツクの日本語学校に送られていたようである。新蔵が死んで、後継の適任者に値すると思われたからであった。しかし彼は帰国の願いを出しつづけ、イルクーツクを離れ日本への船に乗る。彼の帰国願いを役人に取りついだのは、おそらく善六であったのだろう。久蔵も五郎治と同様に、イルクーツクで若宮丸の乗り組みと顔を合わせたことは間違いないだろうが、久蔵の帰国後の記録には、彼らはもちろん同じ船に乗って生活を共にした善六のことすらない。
久蔵は牛痘の苗を日本に持ち帰った人物として歴史に名を残す。だが先に帰国した五郎治とは違い、彼の牛痘法は安芸で受け入れられず、宝の持ち腐れに終わった。五郎治と久蔵、この牛痘法とかかわっている二人と善六が出会っていることは偶然とは思われない。善六と顔を合わせなかった歓喜丸の乗り組みは、牛痘法をおぼえることなく帰国しているのである。日本に伝わった牛痘法の陰には、善六の姿が見え隠れしていないだろうか。
江戸時代、天然痘は予防法も治療法もない、死の病であった。日本で病気に苦しむ人たちを救いたいという善六の思いが、五郎治と久蔵を通して牛痘法を伝えることになったのではないだろうか。日本史に名をとどめなかったとはいえ、善六は間違いなく、日露の間に橋をかけた一人なのである。