第5章・日露函館会談
1813年。善六は20年ぶりに日本に来た。長い年月だった。ロシアに帰化した時は情熱に燃えていた若者も、すでに44歳になっていた。ロシア人になったとはいえ、やはり日本人である。向かっている函館は石巻とは違うが、祖国をその目で見ることになるとは夢のような気持ちになっていたのだろう。そして新蔵やレザノフと共に見た、日露の通商の場に立ち会うという夢が、実現していたのである。
ディアナ号は樺太の東海岸沿いに南下し、北海道へと近づいていった。リコルドは樺太を<サハリン半島>と記している。間宮林蔵は、樺太が島であることをすでに確認していたが、この情報はまだロシアには伝わっていなかった。9月、内浦湾に入ろうとした時に暴風に遭い、リコルドは一時的にハワイに避難することを考える。この嵐で水兵が一人死んだ。だが10日ほどで嵐は止み、船は無事に北海道沖に停泊することが出来た。
ここで高田屋嘉兵衛の部下が、ディアナ号に松前藩からの書簡を持ってきた。松前藩は、ディアナ号を函館へと案内し、そこでゴロヴニンの引き渡しをする、と伝えてきたのである。幕府は、長崎以外では外国船を受け入れないという規則を守ろうとして、ディアナ号を長崎に行かせ、そこで交渉をさせる予定だった。だが幕府役人荒尾但馬守はこれに反対し、松前でロシアと交渉すると主張し幕府を説き伏せている。荒尾但馬守のような、賢明な役人が日本側にもいたのである。
善六はこれをリコルドに通訳し、そしてリコルドの手紙を日本語に訳して松前の役人に送った。その書簡では水の補給を依頼し、また嘉兵衛を案内人としてディアナ号に派遣してほしい、というものである。この時、善六は幕府に、文書を仮名で書くように伝えていた。20年も国を離れていた善六の日本語は、すでに衰えていたのだろう。それでもロシア側の通訳として、善六はできる限りの能力をこの場で使っていた。幕府は仮名で文書を送ることを拒否する。国家間のやりとりであるため仕方ないことであったが、この幕府の態度は善六にとって非情なものというほかはない。
しかし幕府は、ディアナ号に対して最高の善意を払っている。水を樽に35個も運び込んだほか、依頼になかった新鮮な野菜や魚を届け、ロシアが謝礼を払っても受け取ろうとしなかった。もっとも、謝礼を受け取ることは交易になると考えたからかもしれない。しずれにしても、人道的な態度をとった背景には穏便に国家間の問題を解決しようという考えがあったからであり、また嘉兵衛が努力して役人に働きかけたからであろう。
ディアナ号が函館に接岸すると、嘉兵衛が船に乗り込んできた。リコルドと嘉兵衛は3ヶ月ぶりの対面を喜びあっている。善六はこの場で通訳として両者の会話を助けた。国家や人種を超えた二人の友情は、善六もレザノフと自分の関係を思い出していたかも知れない。嘉兵衛の案内で、ディアナ号は湾内の最も安全なところに碇を下ろす。すると函館の人たちが、珍しい異国の船を見るために集まってきた。これほど多くの日本人がいるのを、善六は久しぶりで見た。彼は船内から人々に声をかけたのだろうか。故郷に帰ってきたという実感が湧いてきて、しばらくは気持ちの整理がつかずにいたと思われる。
嘉兵衛はその後も、幕府陣屋とディアナ号を往復してゴロヴニン解放のための手はずをリコルドと語り合う。ロシア側からは、イルクーツクの知事トレスキンの謝罪文が嘉兵衛の手によって幕府に渡された。善六が日本語に訳したものである。この書簡はロシアの非を認め謝罪したものであり、日本側としても満足する内容であった。こうして嘉兵衛・善六の努力で、ゴロヴニン釈放の会談を開く準備は整っていく。ゴロヴニンが日本の捕虜になってから、2年が過ぎていた。フヴォストフの択捉襲撃から5年に渡る両国の紛争はこうして沈静化に向かう。
なおリコルドはオホーツクの長官からの書簡(謝罪文)を持参していたのを知った嘉兵衛は、それも預かりたいと申し出るが、リコルドは自分の手から渡すとこれを拒否した。
オホーツクの長官の書簡には、善六が訳した日本語の文が添えられていた。彼は日露関係がうまく行くためには国境を定めることが大切であると説き、またロシアは中国や朝鮮とも交易をしているから日本とも通商を開始したいと思っている、という意味のことを述べる。ほとんどが仮名で書かれ、誤字も多い。しかし庶民の出身で20年も日本から離れた善六は、自分の持つ知識のすべてを傾けて国家間の通訳であろうとした。自分をはじめとして多くの日本人が年金をもらいロシアで生活していること、凍傷に罹った久蔵をロシアで治療しディアナ号で連れてきていることなどを書き綴った。ロシアによって命を救われた善六が、ロシアという国がどれほど友好的であるかを生れ故郷の日本に伝えようとしていたことがわかる。
そして書簡の最後には、「私、日本人の子供なり」という有名な一句が記されている。ロシア人になったが、自分はもともと日本人なのだ、という意思表示だろう。善六の複雑な気持ちと、なんとしても両国の間に立ちたいのだという願いが伝わってくるようだ。嘉兵衛が陣屋に戻ったあと、リコルドは善六と話し合った。リコルドは、日本人でありながらロシア正教に改宗した善六が、幕府によって捕えられるのではないか、と心配していた。最悪の場合を覚悟しているか、というリコルドの問いに、善六は次のように答えている。
「私には何も恐れることはありません。私は日本人ではありません。通訳としての職責を果たすために連れていってください。陸上での両長官の交渉こそ問題の中心で、高田屋嘉兵衛との交渉では私は役に立てません。連れていってもらえないのでは、何のために長い航海をしてきたのかわからなくなります。」
<長い航海>という言葉には、20年前の漂流から今までのことが頭によぎっていたのだろう。鎖国をしている日本には、ロシア語を知っているものはない。自分がいなければ日露の間で会話が成立たない、と善六は思っていた。ロシアに帰化したのは、新蔵に勧められ自分が日露の架け橋になることを夢見ていたからに他ならない。その会見の場に出られなければ、何のためにロシア人になったのかわからなくなる、と善六は熱く語った。
先に<日本人の子>と名乗り、今ここで<日本人ではなくロシア人>と語る善六の気持ちは複雑である。彼の親は日本人であり、彼自身生まれたのは日本だった。しかし自分は<日本人の子>ではあっても、今はもうロシア人になっていて日本人ではない。これは自分の選んだ道を、改めて確認することになったのだと思う。故郷を目の前にしても、自分は日本人を捨てロシア人である以上望郷の想いなどない、そんな気持ちだったのだろう。
翌日に日本の役人と交渉を控えているのだと思うと、善六は気持ちが高ぶって落ち着くことは出来なかった。20年の苦労が報われる、そんな晴れの舞台が近づいていく。
会見場は船着き場からすぐ近くにある。高田屋嘉兵衛の案内で、リコルドと善六は会見場へと入った。まわりには大勢の見物が出来、ロシア人と善六とを見守っている。善六は華やかな舞台にいることを実感したのだろう。会見場で、リコルドと善六は、日本側の役人と向かい合って座った。しばらくは沈黙が続いた。
最初に口を開いたのはリコルドである。彼の初対面の挨拶は、善六を通して日本に伝えられた。
<今日ここに、親しく会見できることを喜ばしく思います>
善六は緊張しながら、一語一語かみしめるように日本語にしたのだろう。日本の役人はこれに答えなかったが、かすかに笑みを見せた。善六は、日本の役人が発する言葉を待った。上座にいた役人が何かを話す。しかしそれは小声で、善六には聞き取れない。相手の言葉が聞き取れなくては通訳のしようもなく、彼は戸惑った。すると日本の若い役人が、明瞭なロシア語でこう発言したのである。
<ロシアは日本を大いに不安にさせたが、それはめでたく解決するであろう。我々はオホーツク長官の釈明に満足している。>
思いがけないロシア語での返答は、ロシア側を、特に善六を驚かせた。この若い役人は村上貞助といい、幽閉されていたゴロヴニンと親しく交わるうちにロシア語をマスターしていたのである。これに対するリコルドの返答は、善六が通訳する前に貞助が日本側に答えてしまった。
通訳として上陸し、両国の架け橋になることを願った善六は、ついに自分の役目が終わっていることを知る。彼の活躍の場は、最初の挨拶で終わっていた。庶民の出身で学問も乏しく、20年も日本を離れていたために日本語力も衰えた善六は、公式の場で役に立てるほどの能力を持ち得なかったのである。村上貞助という優秀な若者を目にして、体中の力が抜けていく思いだったのに違いない。
こうして会談は終了し、日本の役人と高田屋嘉兵衛は退出していった。善六のそばに来るものはない。日本人ながらロシア正教に改宗いていた善六と親しくするのは、日本人にとって好ましいことではない。幕府役人も、善六が日本人であることを認めてはいたものの(五郎治の報告でロシア残留の日本人が通訳になっていることは知っていた)、ここで無用の揉め事を起こすことは避けようとしていたのである。
善六はその後2度、日本の土を踏んでいる。2年間幽閉の生活をしてきたゴロヴニンら7人のロシア人はリコルドと対面し喜びの涙を流している。善六はリコルドに付き添ってその場に立ち会った。そして2日後、人質がリコルドに引き渡された時にもその場に付き添っている。その時も日露の役人の間で書類の受け渡しが行なわれたが、善六はすることがなかった。だが日本人として故郷の土を踏みたいという気持ちを、リコルドはわかっていたのだろう。
ここで日本は、ロシアと通商をしないという意思表示を明らかにし、近づいた時には砲撃も辞さないことを改めて通告した。10年前に長崎でレザノフが受け取った言葉とほぼ同じものであった。ロシアに漂着したものについては、千島列島でアイヌを通して日本に返すか、オランダ船で長崎に送るように言い渡され、会談は終わった。善六はついに、日露に橋を架ける役目を果たすことが出来なかったのである。悪夢のような漂流、厳しいシベリアの生活、政治的な対立に巻き込まれた世界一周の旅。長い苦労は報われることなく、善六はディアナ号に戻った。
ゴロヴニンがディアナ号に戻ったあと、日本の役人がディアナ号に米や水や生鮮食品を運び込む。ディアナ号のロシア人たちも一緒になって荷物を運んでいた。この時、思いがけず見物の日本人たちが頼みもしないのに積み込みの手伝いをしはじめた。
<物の考え方も教育も違う人々が、この時は一つの国民になって、陽気に働いていた>
リコルドはこの様子を、感激をこめて記している。善六も船乗り出身の体力を活かしてこの場に働いていたのかもしれない。日本人とロシア人の間で、善六は通訳として生き生きと走り回ったのだろう。国家間の通訳としては活躍の場がなかったものの、庶民の通訳として働くことに善六は最大の喜びを感じていたのに違いない。もともと庶民出身の善六には、このような形での活躍こそが本当にふさわしかったような気がする。
1813年10月10日、ディアナ号は函館を去った。リコルドと高田屋嘉兵衛の間に生れた友情を祝福し、ディアナ号から<ウラー(万歳)大将!>と何度も叫ばれた。嘉兵衛が日本人の間で<大将>と呼ばれているのを知り、彼と親しくなったリコルドやロシアの船乗りたちも真似て呼んでいた。嘉兵衛もディアナ号に手を降り続け、互いの姿が見えなくなるまで別れを惜しんでいる。
日露の緊張は、この二人の友情によって沈静化に向かった。善六のことは忘れられている。善六はこの時、遠ざかる函館の街を見ながら、自分の生れた日本という国に最後の別れを告げた。この日を最後に、善六は歴史から姿を消す。