終章・日本開国への道
函館の会談の後、善六は消息を断っている。わずかにロシアの記録に、函館会談の功労で給料が2倍になったことが記録に残るのみである。善六はその後まもなく、二度と歴史の表舞台に出てくることなく47歳でこの世を去った。日露通商の不成立が善六の生きる望みを失わせたのだろう。彼が函館に来た1813年の会談を最後に、ラックスマン来航以来20年に渡って続いた日露のドラマは、彼の死とともに一つの幕を下ろす。プチャーチンが長崎に現れ再びロシアが日本に開国を迫るのはこの40年後、1853年であった。
善六はイルクーツクに戻った時、まだ生き残っていた若宮丸の仲間たちにどのように報告したのだろうか。ほそぼそと生き続けていた日本人たちにとって、善六やリコルドの日本との交渉は、生まれた国の土を踏む可能性を持たせるものであった。だが日本がロシアとの通商を拒んだことで、彼らはすべての望みを失ったことになる。彼らの消息もまったくわかっていない。
高田屋嘉兵衛らがカムチャツカに抑留されていた頃、ロシアはフランスのナポレオンと激しく戦争していた。結果はロシアの大勝で終わっているが、この戦争によってロシア経済は困難を極め、東方進出の出費を国家が出せる状態ではなくなっていた。そして1816年、日本語学校は経費不足を理由に、正式に閉鎖されることが決まった。伊勢の漂流民新蔵が日本語を教えていた生徒は、20年の学習にもかかわらずまったく会話に進歩を見せず、政府も学校の存続を検討していた。通訳となりカムチャツカにあった善六がイルクーツクに呼ばれ日本語学校の充実を図ろうとしたが、国は善六にほとんど報酬を出さなかったといわれ、善六もまた教師よりも商人として活動しイルクーツクを留守にしていたようである。ロシアの東方進出の鈍化は、善六の死がその区切りになったというべきだろうか。
日本の役人からの書簡は、リコルドの手によってイルクーツクの知事トレスキンへと渡された。これによって、日露は国境を画定する。つまり日本は択捉島までを領有し、ロシアはシムシリ島までの北千島までとし、そしてウルップ島には双方とも進出しないというものである。また漂流民もこの島まで送り届ける、というものであった。同年、ロシア船打払い令が停止となり、ロシアもまたオホーツク海や北太平洋に姿を見せることがなくなり、日本とロシアの紛争は沈静化していく。
その間もロシアからの漂流民送還は行われてきた。ひとつは薩摩の永寿丸である。1812年の末から翌年の8月に千島に流れ着くまで1年近く漂流の末、25人のうち13人が死亡、残る12人のうち9人が漂着時に溺死したり病死したりして、3人だけが生き残るという惨事であった。おりしもゴロヴニン拿捕の時である。ロシア人と共に捕らえられたアイヌ人があり、日本人は彼らに憎まれ酷使されていた。ゴロヴニン事件が解決すると、彼らはロシア人の船でカムチャツカへと送られる。
また1814年、カムチャツカに新たな漂流民が送られてきた。尾張の督乗丸の重吉である。督乗丸の漂流は実に17ヶ月に及び、その困難は想像を絶するが、14人のうち11人が死に3人だけが生き残り露米会社によって養われていた。ふたつの船の漂流民たちは1816年、ロシアの船によってウルップ島へと送られ、そこからアイヌの力を借りて帰国している。ロシアと日本の間に交わされた協定が守られたということになる。彼らは善六という日本人がロシアの役人になっていることを帰国後に語ったが、これが善六に関する最後の史料となった。
プチャーチンが来航し日露和親条約が結ばれるのは1853年である。目的は日露の国境確定にあり、それまで日露の間で行われてきた通商の交渉や漂流民送還はまったく行われていない。日本とロシアは、択捉島を日本領とし、樺太は国境を定めないことで条約が締結した。問題は残したものの、レザノフの来航やゴロヴニン事件など、善六がかかわった日露の通商や国境問題は解決の糸口を見出している。善六が日本を最後に見てから40年が過ぎていた。
1928年(昭和3年)、函館に1人のロシア人が、領事として赴任してきた。彼は函館に向かう前、東京日日新聞の記者に対し、自分の先祖が日本人であるという事実を明らかにしている。小さい頃から、曽祖父が函館生まれであると聞かされていたのだ。彼の名をディミトリ・キセリョフという。キセリョフとは、善六のロシア名に他ならない。
彼の曽祖父善六の生まれは、もちろん函館ではなく石巻である。しかし函館は、善六にとって石巻よりも思い出深い土地になっていたのかもしれない。善六は生まれた国日本と帰化した国ロシアとの掛け橋となることを夢見て、通訳として函館の土を踏んだ。この最後の日本の思い出が、代を経て子孫へと伝わるとともに、善六の故郷がいつのまにか函館であると語り伝えられていったのだろう。
鎖国の壁に阻まれて帰国できなかった善六の血は、120年後に奇しくも帰国した。そして最も思い出のある函館へと向かった。
善六は石巻の漁民であり、決して特別な人ではなかった。漂流という不幸な事件によって無作為に選ばれた民衆の一人である。それまで国境など意識したこともなかった漂流民が、異国に流れ着き日本人として生きることで、精一杯の自己主張をして歴史に名を残したのである。