日本の文化が生んだ曖昧言葉
組織に属する人々が、その組織の論理に合わせて身を守ろうとするのは当然のことです。従って人々の使う言葉を聞いていれば、その人がどういう論理で動く組織に属しているのか、どういう基準で評価される社会にいるのか、かなりちゃんと解ります。例えば実力主義・能力主義・加点主義の社会では、モノははっきり言った方が得です。自分の能力・実力・成果をいやが上にも認めさせることで、その見返り・取り分が決まる社会だからです。一方その対極にある減点主義の社会では、自分のことはできるだけ遜り、モノはできるだけ曖昧に言った方が長い目で見て必ずトクになります。曖昧なモノは加点するのも減点するのも難しいからです。その曖昧話法、いくつかの例をご覧に入れましょう。
| スケジュール感 | |
| 沈黙「はい。」 | なくない? |
| 微妙 | 貰っても良いですか。 |
| 系 | |
| 語尾無し言葉 | |
| したい“か”と思います。 | てゆうか |
| 〜じゃないですか。 | 〜なんだ〜。 |
| れる/られる | 思い切った○○ |
| とか | みたいな。 |
| キーワード省略 | キーワード以外省略 |
| 肯定“かな” | でしょ |
| です | う〜〜ん! |
こうして並べてみると面白いことが解ります。曖昧言葉の多くが1991年のバブル崩壊後に出てきているんです。バブル前からある曖昧言葉といえば「れる/られる」ぐらいです。どうしてバブル崩壊後にこれほどいろいろな曖昧言葉が工夫されるようになったのでしょうか。多分これはバブル後の階級社会固定化と一体になっていると私は思います。
バブル崩壊後、普通の人々には努力して這い上がれるチャンスは非常に少なくなり、その一方僅かな失敗・失言で脱落するリスクは大きい、言ってみれば割の合わない社会が到来しています。世の中が右肩上がりなら、リスクを冒して挑戦する価値があることでも、世の中が下り坂にある時は、多くの場合何もしないでいることの方が利益を約束します。つまり社会全体が一種の減点主義に陥っているとも言えます。減点主義から身を守る方法は昔からちゃんとあります。目立たないでいること、消極的であること、曖昧な態度を取ること、ものをはっきり言わないこと、、、、、、、等です。
できるだけ自分の考えを表したくない、旗色を鮮明にしたくない、それはリスクを増やすだけでチャンスを招くことにはならない、だから引き合わない、でも生きていくためには一応最低限の意志疎通はしなければならない。。。。。人々がそう感じ始めた辺りから、この要するに何を言いたいのかよく解らない、話し手には責任がなく、伝えるべき意味を聞き手の自己責任で解釈させることを目的とする話法が台頭し始めたのではないでしょうか。蛸や烏賊は外敵に襲われると身を守るために墨を吐きます。人間も減点リスクという外敵に襲われた時、曖昧言葉という墨を吐いて外敵の目を眩まし、身を守ります。減点社会で生きる人々にとって曖昧言葉は蛸や烏賊の墨と同じ機能を持ちます。2009/04/25 もし日本経済がバブル後、安定した経済水準に軟着陸を果たしていたなら、今使われているであろう日本語は随分違ったものになっていたんじゃないか、私はそう思います。