久保田 真苗 『消費は毎日の投票』 ≪論文・書籍TOP≫
 
Kubota, Manae 1995, 久保田真苗『消費は毎日の投票』、日本社会党機関紙局
≪Amazon.co.jpで購入≫
著者の許諾により本文を部分収録しています。

消費は毎日の投票

地球時代の女性と政治

久保田 真苗



はじめに

 このたび、一二年問の国会活動を終えるにあたり、何か一つ書きのこしておこうと思いたちました。

 私の頭は自然に、この一二年問おつきあいくださった議員や社会党員の方々、古い友人、新しい友人のほうに向かいました。そこで社会党に出版の労をとっていただくこととしました。

 この間に起こったさまざまの出来事は、とても十分に整理すべくもありませんが、比較的かかわりの深かったいくつかの事柄を1女性と政治」「生活者と経済」「主権者と国際連合」の三部にまとめてみました。
 いずれも、中心にあるべき人々が、必ずしもそうなっていない分野です。そんな私自身の問題意識とささやかな経験をもとに、データ的解説を試みたものです。

一二年問のご厚情まことにうれしく、皆様への感謝をもってかく筆いたします。

 一九九五年七月
                                

目次

 J部 女性と政治

1 婦選の源流をたずねる

  英国では/米国では/日本では

2 女性参政五〇年 26

 有権者の代表/草の根議会へ/地方自治は中央の下請けか/
 女性議員をふやす条件

3 女性の国際運動

A 園達・世界女性会議のあゆみ
   アジアで初の世界女性会議へ/女性の運動を起こそう − 国際婦人年創設/
   高まる熱気のなかで土台づくり − メキシコ会議/日本国内でも
   基礎を固める/先を争って署名した差別撤廃条約 − コペンハーゲン会議/
   二〇〇〇年に向けて将来戦略をつくる − ナイロビ会議/
   ポスト冷戦の世界を語ろうi北京会議へ向けて

B 北京会議への準備・ジャカルタ会議に出席して
   アジアのなかの日本/草の根の女性と力をあわせて/
   女性の連帯をめざす会議へ

C もう1つの国際運動−SIW
     SIWの歴史/「SIWの一〇年」運動

   II部 生活者と経済

1 日本経済のゆがみ

 政権交代の功/猫の目政局の罪

2 生活者経済への転換

 バブルのツケ/今がホントじやないかしら/生活者重視への転換しかない/ 公共投資の配分/PL法

3 日本の物価

 高物価国・日本/円高の影響/内外価格差は警告のシグナル

4 人と環境にやさしい経済

 グリーンの世紀へ/持続可能な開発/資源・エネルギーの問題/
 新しい豊かさへのグローバル・ハウスキーピング

5 消費は毎日の投票

 もう一つの大パワー/選別的な消費行動/消費者は納税者・有権者

 L部 主権者と国際連合


1 国連をどう改革するか

 国連創設五〇年/平和の調停者としての国連/国際司法制度の確立/
 安全保障概念の拡大/「持続可能な開発」の調整役としての国連/
 国連の民主化

2 旅の点描

 A 83〜84年の旅から
 アルゼンチンの日本村/アメリカの人権機関を訪ねて/
  ヨーロッパの女性運動

 B 南アにフパルトヘイトを貝る
 激動する南アフリカ/小アパルトヘイト/大アパルトヘイト/
 ホームランド政策/人種別三部制議会/ナミビア独立問題/
 西側のジレンマ

 C 88〜91年の旅ガら
 草の根のベレストロイカ1女性の意気は改革の力/流れは男女共同社会
 1社会主義インターのセネガル会議/国連平和維持活動(PKO)
 を現地に見る/まず過去の清算を――中国訪問/国際人道システムの完成を
 
 D カンボジアUNTACの経験
 カンボジアヘラジオを/カンボジア総選挙

3 国連の武力行使と日本

 ザグレブの難民施設で/経済制裁の可否/ボスニアの停戦破れる/
 平和執行/人道的介入/日本の役割


4 人と環境にやさしい経済

   グリーンの世紀へ

 二一世紀に入ると、経済社会の景色がガラリと様変わりするような気がしています。世界でも日本でも。
 それは突然くるわけではなく、二〇世紀のうちにもう進行していることなのですが。
  一九六〇年代初めに、アメリカでレイチェル・カーソンが、長年にわたる調査から、化学物質、とくに農薬による自然汚染について発表。画期的な著書『沈黙の春』 は世に衝撃を与え、大きな反響を呼びました。

  一九七二年には、ローマクラブの報告書『成長の限界』が、一九八〇年にはアメリカ政府の調査報告『西暦二〇〇〇年の地球』が発表され、いずれもグローバルな視点から貿振、環境の制約による成長の限界を明らかにして、世界の人々への警鐘を鳴らします。

  一九七四年には、スプレーや冷蔵庫の冷媒など生活の中で使われているフロンの一種がオゾン層を破壊するという問題が、アメリカの学者によって発表され、やがてアメリカの人工衛星が南極上空でこれを確認する。『核の冬』の理論は、全面核戦争が起きれば、直接の被害地がどこであろうと、破壊的な気候変動によって、地球上の植物が、次いで動物と人間が犠牲になることを告げます。

  一九七七年には、国連「水会議」がアルゼンチンで開催され、水資源の枯渇、汚染、さらにアフリカ女性が家族の飲料水を運ぶために一日何キロも歩く労働に、世界の注目が集まります。人類みんなに飲める水を! そのため「グローバル・ハウスキーピング」(地球的家政)というキーワードが登場します。私はこの言葉が好きです。それは女性ぬきでは考えられず、家族全員の協力が必要な地球政治を意味しています。

 一九八七年には、「環境と開発に関する世界委員会」(ブルントラント議長)が報告書『われら共有の未来』を公表、「持続可能な開発(sustainable development)」という行動原則を、今後の社会がめざすべき方向として定着させます。

  一九九二年六月、ブラジルのリオデジャネイロで開催された 「環境と開発に関する国連会議(地球サミット)」で、この「持続可能な開発」の概念は、全世界の行動原理としてさらに具体化されました。それが二一世紀に向けた世界行動計画「アジェンダ21」 です。地球サミットで署名のために開放された 「生物の多様性に関する条約」 および 「気候変動に関する国際連合枠組み条約」は、ともにすでに発効しています。地球サミットと同時に、市民の立場で開かれた 「グローバル・フォーラム」 には、一八七カ国、八〇〇〇近いNGOが参加、「地球憲章」を採択するという、二一世紀に橋をかける大きなイベントでした。翌年、日本でも環境基本法が制定されました。

   持続可能な開発

人口と経済

 人類社会の活動量の基盤になるのは人口ですから、人口増加は経済と環境に深い関連があります。国会に提出された環境庁の平成五年度年次報告によれば、二〇世紀初めに二五億人だった世界人口は、一九九〇年には五三億人、二〇〇〇年には六三億人、二〇五〇年には一〇〇億人に達し、二一五〇年ごろ一一六億人でピークを迎えるものと予測されています。二〇五〇年ごろまでの増加のほとんどは開発途上国で生じるもので、先進国の人口は、一九九〇年の一〇・九億人から、二〇二五年ごろ一二・四億人でピークを迎え、その後は微減するとみられています。現在、世界人口の八割は途上国に、二割が先進国に住んでいます。

 日本の人口は、三〇〇〇万人から明治以降急増して、一九四〇年(第二次大戦前)には七二〇〇万人に、一九七〇年には一億人を超えました。現在の約一・二五億人から、二〇一〇年頃一・三億人でピークになるとみられています。高齢化が進行中で、一九九〇年の六五歳以上人口は一二%、二〇四〇年頃約二八%でピークを迎えそうです。高齢化に備える社会資本整備が急がれるのは当然です。

 世界のGDP(国内総生産)を合計すると二三・五兆ドル (九二年、名目) ですが、このうち日米欧で七割以上、世界の富めるほうの二〇%の人口が八〇%の所得を得ています。為替換算の問題はありますが、日本のシェアは一五・六%です。先進国と途上国の一人当たりGDPの格差は一〇倍前後で推移していましたが、一九九〇年には一二・七倍に拡大しました。国連の推計では、一九九〇年から二〇〇〇年の間の一人当たりGDPの伸びは、先進国では一・二九倍、途上国では一・二二倍で、格差縮小は必ずしも予測されていません。日本の一人当たりGDPはすでにアメリカを追い越して、世界のトップクラスにランクされていますが、先に述べたように、購買力平価で換算すると、アメリカを上回るとはとても言えないでしょう。

 さて、予測はあくまで予測とはいうものの、おおまかにこうした予測をぶまえてみた時に、果たしてこうした北偏重の経済がいつまでつづくだろうか、という恐れに突き当たります。

新しいモデルの必要

 現在、先進国が享受している一人当たりGDP、途上国の一〇倍以上のGDPを、世界の五五億人が追求したらどうなるのか。

 一二世紀半ばに世界人口が一〇〇億人になった時はどうなるのか。現在までの「北」の開発パターンで世界中が豊かになることは、とうてい不可能に思えます。

 第一に、地球の資涯は有限です。

 第二に、当分は資源を使っていけたとしても、地球環境の許容力に限界があります。大気は、大地は、水は、河川は、森は、生態系はどうなるのか。「北」が経験してきた汚染、公害、混雑、渋滞、廃棄物を押し広げた姿は、まことに破壊的です。

 でも、それならば私たち日本人は、生活水準をもっと下げることに納得できるのか。高齢化社会を迎えて、現在の遅れた社会資本や社会サービスに甘んじられるのか。下水道の普及率がやっと五〇%、狭くて値の高い住宅、美しくないゴミゴミした町並み、他国の一〇分の一しかない都市公園、災害でも逃げ場のない状態に満足できるでしょうか。

 まして、途上国の人々が、食住衣、教育、医療、便利なインフラストラクチャーを切望するのはあまりにも当然です。そのうえ、それが達成されなければ、貧困そのものが巨大な汚染源、破壊要因となるでしょう。南の人々は言います。「北」はとっくに人口を増やすだけ増やし、資源をほしいままに使って繁栄してきた。環境問題の原因は「北」にある。
いまさらツケを「南」にまわして、自然環境を保全しろとは虫がよすぎる。われわれにも開発の権利がある。環境対策は「北」が責任をとってやれ − と。どの国際会議でも聞く言葉で、根強い底流です。

 まったくそのとおりだと思います。南の人口爆発は、かつての北に比べれば、まだしも控え目なはうです。それでも今後一世紀以上、人口の絶対数の膨張が避けられないとすれば、できることはひとつではありませんか。

 生活の質と水準の向上を図りながら、資源、エネルギーの消費量と廃棄物、汚染源を激減させる以外にないではありませんか。それは当然、従来型の北の発展モデルの大転換を意味します。すでにそうした方向への模索は始まっていますが、私たちの認識は十分でしょうか。とくにモノづくりの大好きな日本人は、GDPやシェアの拡大への郷愁を捨てきれるでしょうか。日本人の働き蜂ぶりを、新しい豊かさの追求に生かせるとよいのですが、それにはまず頭の切り替えが必要です。「持続可能な開発」の実現は人類の共通目標ですが、まず現在の経済モデルを大転換して新しいモデルに変えるのは、なんといっても先進国の責任でなければなりますまい。また新しいモデルによる新しい豊かさは、人間にとって魅力的なものでなければ、成功はおぼつかないでしょう。

   資源・エネルギーの問題

環境への負荷

 私は退任前、参議院の内閣委員会のほか、産業・資源・エネルギー調査会と科学技術委員会に参加していました。科学の分野はアマチュアですが、参加希望者が少ないせいか、お鉢が回ってきてしまいました。しかし、資源やエネルギー問題には人一倍の関心だけはもっているつもりです。「持続可能な開発」で一番問題なのはこの分野でしょうか。

 経済拡大の道を驀進した二〇世紀は、エネルギーを消費することによって、重労働を軽減し、家事労働も省力化しました。それはたいへんよいことです。成長の速いアジアをはじめ、もっと貧しい第三世界の地域でもそうなってほしいものです。しかし、環境と資源の制約の観点から、大量生産、大量消費、大量廃棄に重大な反省が加えられつつある今日でも、人々の最大関心事は景気がよくなることであり、景気対策の失敗は政権の命取りになるでしょう。

 景気がよくなるということは、設備投資や鉱工業生産が増え、自動車や電気製品の台数が上がり、残業時間と手当が増える、百貨店やスーパーの売上げや輸出が伸びて、人々がもっと消費することを意味します。少なくとも現在の景気指標によれば、です。兵庫地震による倒壊・損傷についてさえ、景気浮揚にプラスだという不らちな発言があるほどです。             ′
二〇世紀の経済病患者と言いたくなりますが、倒壊も再建も、そのどちらもが、地球と環境への負荷になることだけは忘れないでほしいものです。

 環境白書によれば、一九九二年度の日本の経済活動に新たに投入された物質は合計二三・三億トン。この結果、一二・四億トンが建築物や耐久消費財として蓄積され、七・九億トンが不用物として排出され、再生資源として再び経済活動に投入されたのは二億トンだけです。資源採取量は二〇年前の一・四倍、不用物排出量は一・八倍。資源採取も不用物排出も、ともに環境への負荷ですから、地球の搾取と汚染は、一貫してきびしくなってきています。

 まず量そのものを減らすとともに、不用物を極力再利用し、最後に捨てる時には無害、分解可能なものとすることが鉄則です。近年、リサイクルや、プラスチックのように分解不可能な廃棄物の処理に、関心が寄せられるようになったのは当然です。日本でも女性の関心はとくに高く、実践的な活動が盛んに行われています。粉石けんや有機農産物、再生紙文具、廃油からつくる石けん、詰めかえ用商品など、環境に配慮した商品やサービスを消費者と生産者が提携して生産・利用する活動が広がっています。

 ビンや缶の回収、リサイクルの取り組みも始められています。欧州諸国では積極的で、とくに北欧では、容器の再利用を法的に義務づけたり、再利用できない容器に課税を強化したり、再利用容器に免税するなどの政策税制で効果をあげています。実際、スクラップからアルミニウムを再生するのは、処女原料のボーキサイトからアルミニウムを生産するのに比べ、エネルギー消費は一五分の一ですむそうで、環境への負荷は段違いに軽減されます。こうした身近なところから環境にやさしい活動が進められる一方で、まだ巨大なエネルギーのロスが放置されていることを、次に述べなければなりません。

エネルギー・ロス

 世界の一次エネルギー消費は、OECD諸国が五一%、旧共産圏が三一%、途上国が一八%ですが、人口の八〇%を抱える発展途上の国の消費は今後増えていくでしょう。二〇一〇年までに、世界全体では年率二・一%の消費増が、発展途上地域では倍の四・二%の増が見込まれています。

 九〇年現在、世界で一番多いエネルギー源は石油で三八%、石炭が二八%、天然ガスが二一%、水力と原子力は六%台の割合になっています。伸びる需要に対して、埋蔵量のはうはどうかと言いますと、新たなものが発見されないかぎり、原油は今後四五年程度、天然ガスは六〇年程度、石炭は二一九年とみられています(資源エネルギー庁レポート)。このままでは、いま生きている世代のうちに、エネルギー源の深刻な問題が起こる可能性があります。

 ひるがえって日本のエネルギー源をみますと、石油が五七%、石炭一七%、天然ガス一一%、原子力一〇%、水力五%。二度の石油ショックによって石油は八割から六割へとシェアが下がり、原子力、天然ガスが代わって伸びています。しかし、太陽光発竜など待望の新エネルギーはわずか一・二%です。二度の石油ショックで、私たちは狂乱物価を経験しましたが、原油価格の高騰は産業界に省エネヘの取り組みを促し、先進諸国がなんとか危機を克服したのはプラスの副作用でした。しかし最近は原油価格の低下で、また石油依存が出てきているようです。

 日本のエネルギーは、だいたい半分が産業用、四分の一が運輸用(旅客、貨物など)、残りの四分の一が民生用(家庭用、業務用)に使われています。他の先進国と比べて、日本の特徴は、石油依存度が高く、そして産業用の比率が高く(他国は三〇%台)、民生用が低いことです(他国は三〇%台)。民生用が少ないのは、暖房用が少なくてすむためと言われますが、逆に冷房用の必要度は日本が高いはず。今後は産業構造の変化とあいまって、産業界の省エネ改革を強く期待するものです。

 エネルギーには大きな問題があります。それは巨大な「エネルギー・ロス」が放置されていることです。燃料から発生させた熱の大半が、未利用のまま、排熱として大気中や河川に捨てられていることです。

 日本の現状についてみると、このエネルギー・ロスは、発電用で六二・五%、産業用で四〇・六%、民生用で三八・八%、運輸用では実に七五%におよんでいます。全体として原料からの一次エネルギーのうち、有効に利用されているのは三四%だけで、六六%が排熱として直接環境の中へ捨てられ、地球温暖化の大きな原因となっています。人為的に排出される温室効果ガスのうち、四六%はエネルギー関連のものだと推計されています。

 コジェネレーション(排熱の再利用)を普及することは、未利用の排熱を活用するためにも、温室効果ガスの主体である二酸化炭素(CO2)を削減するためにも、きわめて有効です。

新エネルギーヘ

 地球温暖化を防止するため、この[1995年]四月、ベルリンで 「気候変動枠組み条約」 の第一回締約国会議が開かれました。三年前の地球サミットで、署名に開放されたこの条約によって、先進国は 「二〇〇〇年までにCO2などの排出量を一九九〇年の水準に安定化する」 ことを約束したはずです。EU(ヨーロッパ連合)は前向きですが、CO2排出量の多い米国、そして日本も三%増と、この約束を守れそうにありません。

 ドイツのコール首相はこの締約国会議で、ドイツはCO2排出量を一九九〇年水準から二五%削減するとミエをきりました。主催国がカツコいいところを見せた、と言えばそれまでですが、ドイツが環境問題について、EUで、さらに国連でリーダーシップをとる決意をしていることはたのもしいかぎりです。

 日本は、条約を批准したり、環境基本法を制定したり、姿勢は見せていますが、問題は「結果」です。一九九〇年水準での「安定化」というあいまいなことではなく、「削減」を言わなくて、何の国際貢献でしょう。せめて、約束した九〇年水準を上回らないことだけは断固やりぬくべきです。約束が守れないなら、いままでの対策や行動計画を抜本的に見直す必要があります。

 九四年六月、政府の総合エネルギー調査会が 「長期エネルギー需給見通し」を四年ぶりに改定しました。これをふまえ、九月には「石油代替エネルギーの供給目標」を閣議決定。
代替エネルギーの割合を九二年度の四一・八%から、二〇一〇年までに五二・三%にふやすとしています。従前から政府は、エネルギー需要の抑制、石油依存度の低減、原子力なビ非化石エネルギーの導入促進を基本方針としてきましたが、今回の改定でも、九二年度から二〇一〇年度までに、原子力は一〇・六%から一六・九%へ、比較的クリーンな天然ガスは一〇・六%から一二・八%へとふやす目標を提示しています。太陽エネルギー等の新エネルギーは一・二%から三・〇%へ、とありますが、これは前回の目標よりも後退している感があります。

 村山内閣は先般、「新エネルギー導入大綱」を閣議決定しました。「新エネルギー」という語を表に立てたことは歓迎しますが、そのシェアが二〇一〇年になってもわずか三%でしかないのは、まったくがっかりです。一次オイルショック後、「サンシャイン計画」が派手に宣伝されましたが、二〇年たった今、どれだけの成果が上がったのでしょうか。

 新エネルギーの遅々たる歩みについて私が質問したのに対して、エネルギー庁長官は、既存のエネルギーとの競争関係がどうしても強くなってくる側面があることは否みえない、と答弁。まことに正直な本音で、日本では、プルトニウム発電を中心にすえる政策と競合するのでしょう。

 「新エネルギー」すなわち国連で言うところの「新しく再生可能なエネルギー」とは、太陽光、風力、地熱、水力、バイオマス(廃棄物、植物など有機物から得られるエネルギー)のような枯渇しない自然エネルギーや、石炭のガス化、液化などのクリーンで環境に害を与えないエネルギーを総称するもので、将来の希望はこれにかかっています。

 原子力は、CO2削減にはメリットがありますが、別の危険を完全に拭い去ることができません。しかも日本では、ウラン軽水炉からプルトニウム発電へ、核燃料サイクルの大がかりな計画が進行中です。プルトニウムの毒性は、ウランとは次元の異なる猛毒であることはご存じのとおりです。現在四九基の原発のうち、すでに一〇基で、余剰のプルトニウムを混ぜて燃焼させています。万一の事故の時はどうなるのでしょうか。まして地震とのダブルパンチできた時は・・・・・・。

 原子力安全委員会の防災マニュアルでは、退避の場所を、第一段階で家屋内に、第二段階で気密性の高いコンクリートビルに求めていますが、大地震の時にはこういうものは倒壊、損傷するかもしれず、気密性も何もあったものではありません。危機管理は、原発立地においてこそ、分秒を争うものでなければならないはずです。

 プルトニウムはそういう物質であればこそ、フランスから再処理されたプルトニウムや高レベル廃棄物を輸送する船に対して、世界各地でかくも激しい反対が起きるのではありませんか。廃棄物輸送は今回は初回で、一船に二八本のガラス固化体をのせて航海していますが、今後輸送しなければならない分量は固化体三千数百本というのですから、気も遠くなるような話です。プルトニウムは、危険性のうえからも、核拡散のうえからも、まことに問題の多い物質だと思います。

 ドイツは、プルトニウム発電をやめて、新エネルギーに傾斜を強めています。日本は、もっとも″効率的″なプルトニウム発電を主体とするエネルギー政策に傾斜しています。この傾向が変わらないとすれば、長期的にみて、どちらに軍配が上がるでしょうか。少なくともエネルギーを求める途上国に対して、プルトニウム発電では、貿易も援助もできないでしょう。国際協力の対象にならないばかりか、核拡散への誘惑を高め、日本への警戒心を強めることになるでしょう。残念なことですが、私はこの問題にかぎっては、ドイツに軍配が上がることを願っています。

 CO2を排出する化石燃料も、住民の嫌う原子力も、できるだけ抑えて、新エネルギーを伸ばすことに全力をあげたいものです。新エネルギー系で有力であり現実的なものとして、太陽光発電、コジェネレーション、循環型廃棄物発電の三つについて簡単に述べましよう。

コジェネレーション

 これは、大半は排熱として捨てられている未利用エネルギーを利用するシステムです。燃焼によって発生する高熱から、発電などに用いられる動力を取り出し、同時にその際出る排熱からも熱を取り出して利用するシステムで、これによって一次エネルギーの七〇〜八〇%を有効に使うことができ、エネルギー効率を二倍にできると言われています。CO2をカットする効果もきわめて大と言われます。

 寒い北欧で盛んに用いられ、またアメリカでも地域冷暖房事業として発達しています。
日本でも製鉄・紙パルプ等のエネ〜ギー消費型産業や、ホテル、病院などで進められてきており、未利用エネルギー活用地域熱供給事業は補助の対象になっています。しかし実績は二九〇万キロワットと、まだこれからです。

ゴミ発電

 ゴミを出さない工夫、ゴミをリサイクルする工夫で減量したうえで、なおかつ出るゴミを焼却し、その熱を発電に利用することは、二重三重に環境のためになります。

 ゴミを焼いた排ガスは、高温のため熱利用が容易で、しかも燃料となるゴミは安定供給という利点があります。しかし、自治体がやっている一般廃棄物の焼却施設のうち、発電しているものはまだ一二三カ所(九四年)、最大出力は三九万キロワット程度にとどまります。これらの電力は、焼却施設内部や、隣接する福祉施設、温水プールに利用されています。自家消費を超えて、売電までできる施設はまだ半分以下です。

 十数年前に私は、東京都・町田市の先駆的なゴミ発電を見たことがあります。その名もリサイクル文化センターと、名前にふさわしい瀟洒な白い建物に、ガラス張りの緑の大温室が迎えてくれました。ゴミトラックが生ゴミを投入するビット室入口には、エア・カーテンが施されて、臭気の流出を完全に遮断していました。高熱炉で焼いたゴミは、コンクリートとまぜてブロックとして再利用されていました。煙はほとんど出ないそうです。粗大ゴミの自転車は修理、塗装されて生まれ変わり、障害者に働き場を提供していました。
再生された鉄やアルミは売却して、市の財政を潤し、焼却熱は発電機で電力に変わり、プラントの自家消費を超えるので、老人施設や温水プールなど利用方法を工夫中でした。十数年前に、すでにこのくらいのアイディアと技術があったのです。しかし当時は電気事業法によって、売電は電力会社が独占的に行っていましたから、せっかく発電しても自家利用に限られていました。ここ二〜三年、売電が一部可能なように規制が緩和されました。
当然のことです。

 他の熱機関を追加して「スーパーゴミ発電」のシステムを使って、ゴミ発電の効率を高める方法も実用化されつつあります。しかし現状では、循環型のゴミ処理施設は本格的に普及しているとは言えず、ゴミ熱利用は緒についたばかりです。売電収入で自治体の財政を助けるためにも、もっと関心をもってほしいものです。今後は循環型ゴミ発電以外のゴミ処理は許されないのではないでしょうか。

太陽光発電

 地球上に無尽蔵に降りそそぐ太陽の光と熱は、一〇〇%クリーンなエネルギー、どこでも得られるエネルギー源として、待望久しいものがあります。

 参議院の産業・資源・エネルギー調査会は春先に、千葉の太陽光発電の実験施設を視察しました。ガラスのパネルを屋根や壁に使用する、一見簡単そうな設備ですが、家庭用電力を十分にまかなえる技術があるそうです。電力会社との間に売電、買電の契約をして、余れば売り、不足する時は買う仕組みになっていて、メーターがゆるやかにそれを示していました。
一九九四(平成六年)度の予算から、通産省はソーラー発電を家庭向けの補助事業としています。設備には現在のところ六〇〇万円かかるそうで、そのうち約二分の一を補助金としてもらうことができます。ただし九四年度は七〇〇戸限りで、もういっぱいになったようです。こういうものには応募が殺到してほしいものです。こんなにけっこうなことで、しかも補助事業として奨励されながら、速やかに普及しないのは、設備がコスト高なためで、量産が可能ならばコストも下がり、普及も加速するだろうとのことでした。

 たしかに、六〇〇万円の半分を負担するのは、市民にとっても大変でしょう。そのうえ既存の家の大改造ともなれば日常生活に一時的支障があることもたしかでしょう。

 その意味で、私は今回、不幸な地震災害を受けた阪神の再建にソーラー発電を考えてはどうかと、科学技術庁の田中眞紀子長官に質問したことがあります。長官も乗り気で、関係大臣に話して下さったようです。なにしろ三年間で一〇万戸の建て替えをする計画ですから、大部分は新築で導入しやすいでしょう。復興の応援をする国民にとっても、神戸が新エネルギーのモデル都市になり、ソーラーシステムもコストが下がるという形で還元されればうれしいことです。

 ソーラー発電は広大な土地がいるとか、冬や夜間は能力が低下するとか、欠点をあげる方がありますが、勘違いではないでしょうか。エネルギーと言えば巨大なパワー・ステーションを思うのは思い込みではないでしょうか。ソーラー発竜には、サハラ砂漠をパネルでおおうような大規模な施設も土地もいらないのです。太陽光はどこにでもあるのですから、建物の屋根や壁を利用すればよいのです。くもの巣のように、家屋、集合住宅、公共施設、ビルなどが分散した無数の小さい発電所になるのです。住宅に適したエネルギーです。そういえば、工場等のコジェネレーションも自治体のゴミ発電も、やはり分散型です。
エネルギー源はみな足元にあるのですから。必要なのは頭の切り替えです。

   新しい豊かさへのグローバル・ハウスキーピング

 昨年の夏、ボンのエーベルト財団で開かれたシンポジウム 「環境問題に対するドイツ経済の立場」 に招かれました。ドイツ社民党に近い政治家、学者、実業家、労組員の集まりで、どういうものか、外国から招かれたのは日本社会党の私だけでした。たぶん環境についは日本の排煙、脱硫、脱硝技術や省エネの実績が買われていて、そのうえ社会党が政権党になったことなどが理由でしょう。

 いろいろな意味でよい刺激を受けた会でした。会場のエーベルト財団の建物には、一切灰皿というものがありませんでしたし、ランチは大皿から好きなものをセルフサービスで取ってきて、テーブルでおしゃべりしながら。立食よりはゆっくりできて、余り物も出ません。とってくれたホテルは、湯殿も洗面台も水石けん。これなら残りが出ません。徹底したものです。

 代表格の社民党の実力者、ザールラント州首相のラフォンテーヌさんは、政策として@コジェネレーションA太陽エネルギーを一〇万戸の屋上に設置し、ドイツがEUと途上国に技術輸出B化石燃料を効率化し、三リットルで一〇〇キロ走る車を開発C環境税の創設D核拡散を招くプルトニウムと闘う − と決意を述べられました。

 ニーダーザクセン州環境相のモニカ・グリーファンさんは、PLからELへ、つまりプロダクト・ライアビリティ (製造物責任) から前進して、エコロジー・ライアビリティ (環境責任)ヘ―製造者が欠陥商品の責任をとるだけでなく、環境に配慮して、最後のリサイクルから廃棄まで一貫して責任をとる方式を推進したい、初めからそのように設計させるため、オフィスの機器などはリース制を普及したい、と述べられました。たしかにリースなら、最後は製造者が自分で引き取ることになります。

 地球環境研究所長のヴァイツゼッカーさんは、労働生産性から資源・エネルギー生産性への転換を語っています。労働力は余り、資涼は枯渇していく状況のなかで、労働力を整理・合理化するよりは、資源・エネルギーの効率を高めるほうがずっと合理的であると。
ヴァイツゼッカーさんは、一定の年月をかけてエネルギー効率を二倍にすること、さらにライフスタイルを変えることによって、もう二倍にすることは、それほど非現実的な希望ではない、と見ているようです。リサイクル産業を活発にして新職場をつくろうという提案も、失業率の高い欧州では切実な問題と思われましたが、日本でも対岸の火とばかり見てはいられないのではないでしょうか。

 滞日経験もあるヴァイツゼッカーさんの発言で、一つ耳の痛いことがありました。それは、日本とドイツは環境技術では同じようなレベルだと思うが、環境問題への意識はかなり開きがある、つまりドイツ人のほうが意識が高い、と言われたことです。NHKとドイツの研究所が行った日独国民の環境意識調査によると、「環境問題への関心と知識をもつ人ともたない人が、日本人では二極分化している」、「現在の生活をあまり変えなくても、科学が環境問題を解決してくれるという楽観論はドイツ人に多い」、また「自動車の運転を減らしたり、ゴミの分別を心がけたり、行動する人はドイツ人が多い」、「環境保護団体に参加したり、寄付したことのある日本人はドイツ人の半分である」という結果が出たそうです。

 実感としてうなずける気がしますが、いかがでしょうか?

 私などは、周囲に実践的な女性が多いせいか、日本女性の意識はかなり高いのではないかと思いますが、平均的に関心や行動が弱いとすれば、政策も外向きの見せかけになりやすいだろうと思います。CO2を多く排出する化石燃料への炭素税課税を提案したら、日本では猛反撃を食いそうです。実際、日本のエネルギーは割高ですから無理もないかもしれませんが、昨今の円高の差益分を値下げして、その代わりに炭素税をとって、環境対策 − コジェネレーション、ゴミ発電、ソーラー発電等を助成したらどんなものだろうかと思います。物価高の日本では、食料にまでかかる一般消費税を上げるよりも、環境保護のための政策的税制をとるほうが、国民も納得できるのではないでしょうか。

 生活者重視を叫ぶ私たちは、豊かさを肌で実感もできないうちに、もう生活水準を切り下げることなどはできません。しかし環境に適合するように、生活構造、経済構造、エネルギー構造を変えていくことはできます。しよせん、人は環境の中にのみ生きるものです。
税制も、科学も、公共投資も、人間と環境にやさしい経済の方向に向けて活用されなければならないと思います。

 こうしたことの一切を、「持続可能な開発」へと向けていくグローバル・ハウスキーピング! それは、あなたの目と手を待っています。

5 消費は毎日の投票

   もう一つの大パワー

 女性の議会進出の遅い歩みに、男女共同参画社会の到来は百年河清を待つ、などと落ち込んでばかりはいられません。地方自治、立法、司法、行政への女性の進出をしぶとく進めながら、なおかつもっと名案はないものでしょうか。

 それがあるのです。
 万人がたった一人でも参加できる大パワー!
 消費は毎日の投票!

 蓋がこじあけにくいなら、底もこじあけましょう。広範な生活者、とくに女性人口に依拠して、産業へのパワーを直接行使してもらうことです。

 もちろん消費は女性にかぎりませんが、現在、女性が男性以上に十二分にパワーを発揮できるのはこの分野でしょう。男性との共闘も大いに可能で有益です。

 消費は、日本のGDPの六割を占める大パワーです。現在のGDPを約四七〇兆円とすると、個人消費は二八〇兆円。この使い方が、膨大な市民人口の意志にかかっています。そのうえよいことに、日本では月給袋はたいてい妻の手にあります。女性がこの特権を行使しないでどうしましょう。選挙権はときたましか行使できませんが、消費という投票は毎日できます。食べたり、着たり、水道やガス・電気を使ったり、新聞やテレビを見たり、乗り物に乗ったり、それを選ぶめも毎日のことです。生活者がどんな消費を選ぶかは、経済をも、そして政治をも動かすことのできる一大パワーです。ただし、動かそうという意志さえあればです。

   選別的な消費行動

 大切なのは、そうした意志を胸中深く秘めていることです。そして製品や企業に対して、できるだけ選別的な消費行動をとることです。

 もう一度環境白書から引用します。一九九二年、ギャラップが行った調査によれば、「環境に悪影響を与える商品の使用を避けている」と考える人は、スイス、ドイツでは八割以上、カナダ、イギリス、フィンランド、ノルウェーでは七割以上、アメリカでは六割、日本では約四割だそうです。女性だけについてみたら、多分もっと高いでしょう。

 いま四割でも悲観することはありません。ロコミを利用しましょう。一人が、家族か友人の一人に働きかければいいのです。そうすればすぐに八割になってしまいます。ただし、これもその意志をもちさえすればです。

 消費者は、人や環境にやさしい製品を選んで育てることもできれば、環境に害のある商品や包装を淘汰する力ももっています。しかし、事は環境問題には限りません。良質で廉価な商品をよく選んで買うという、ぶつう誰もがやっている消費行動を徹底すること自体、生活者重視の生産・価格体系の改善に寄与するはずです。内外価格差のきわだって大きい商品、たとえばメーカーが化粧品の小売値をつりあげている「再販売価格維持制度」は、九八年中に撤廃される予定になっていますが、三年も待たずに、今から各種化粧品をやかましく比較吟味し、低価格志向を小売店側にはっきりとデモンストレーションしてはどうでしょうか。そうでないと規制緩和後も、高値がつづくかもしれません。侮りをはねかえしましょう。

 「談合」という言葉を見たり聞いたりしない日はほとんどありません。同業者が高値などを申し合わせて、自由競争を避ける、独占禁止法に反する行為ですが、犠牲になるのは消費者であり、公共事業の入札では国民の税金が犠牲になります。事業団などの政府機関や政治家が絡んで、汚職、収賄につながっている例もよく聞きます。悪評高い日本の談合体質は日常化したものなので、公正取引委員会だけの孤軍奮闘では、消費者や税金を守り切れないでしょう。市民やマスコミがその気になる必要があります。談合や贈賄で名前のあがる企業や系列会社の製品は当分敬遠して、悪しき慣行をくじくことができるのではないでしょうか。

 「女性差別」で何度も訴えられる会社があります。結婚・出産退職への勝訴の判決は山と積み上がりました。昇給・昇格差別やさまざまのいやがらせについても、女性の苦闘がつづいています。弱い立場の女性雇用者が、会社を相手どつて裁判に訴えるということは、なみなみの勇気ではできないことです。日本の裁判は長くかかるので、やっと勝訴した時にはもう定年を過ぎていた、という笑えない話もあります。私たちは消費者の立場で、こういう会社の製品はケリがつくまで敬遠して、女性差別をくじくことができるのではありませんか。それこそ二一世紀の娘たちのためによい環境をつくってやれる、私たちの一票ではありませんか。

 七月一日から「PL法」が施行されました。企業も勉強と準備に忙しいようです。消費者からの訴えや苦情は、企業にとって製品の安全性を改良する貴重な手がかりになるはずです。また、企業が製品の設計や構造について、消費者の求める情報を開示することも必要です。誠意ある企業に消費者の一票を投じ、消費者泣かせのズルイ行動をとる企業の製品を敬遠することが、せっかくかちとったPL法の消費者保護を生かすゆえんではないでしょうか。注意深く見守りましょう。

 三月、私たちの先輩、田中寿美子さんが八五年のご生涯を閉じられました。蝋燭の火が静かに、静かに消えるようなご最期だったとうかがいました。激動の二〇世紀を体を張って生きた、美しく才能豊かな、一人の女性の精神と思想の成熟を日のあたりに見せて下さった田中さん。その遺産のあまりにも大きいことをかみしめる私でした。札幌のお家にかけつけた私は、そこで心励まされるものを見ることができました。
  
 終のすみかとなった札幌郊外のお宅は、完全に二一世紀型の家だったのです。リューマチを悩まれた田中さんのために、お嬢さんの眞子さんが女性建築士とともに設計をされたそうです。木の温かみを感じさせるその家は、玄関からすべて段差なし、車椅子でゆっくり通れるスペースと広い扉、玄関を上がるところだけに簡単なリフト。なかでも田中さんの部屋はサンルームと手すりつきの広い洗面所、介護人のための隣部屋つきです。お風呂場も車椅子のまま中まで入れるようになっていました。そのうえ、省エネの二重窓はもちろん、屋根では太陽光発電です。

 ああ、最後までこういう生き方をなさったのだなあ、と感じ入りました。こんな家を設計なさるあたたかいご家族に囲まれて、お幸せだったのだなあ、と安らかな気持ちにもなりました。そして同時に、こういう住宅を特注するのは、ずいぶん熱意とエネルギーと、それにお金もかかるのだろうなどと思ったものです。私には、こんないい家はとても無理だけれど、できればこういう生き方を見習って、産業をリードする生活者の大パワーの末端にも加わりたいものだと思いました。
  生活者パワーが産業をリードする
  そうあれかしと願うこの頃

  消費者は納税者・有権者

 私がここで言いたいことは、もう産官複合体の「囲いこまれた羊」であることはやめたいということです。一億二〇〇〇万強の大人口は、巨大なホームマーケットです。ここに高価格構造を設定すれば、輸出産業の国際競争力はいやがうえにも増します。つまりアゲゾコ経済で、アゲゾコの踏み台になっているのがわれわれ消費者です。同胞を踏み台にするのをやめて、フェアプレーをしてもらおうではありませんか。婦人団体が何年も前に問題にした、日本製テレビの日米での価格設定の差を思い出します。追いつき追い越す長年の政策のおかげで、ホームマーケットにはすっかり高価格構造がビルトインされてしまっています。

 外国からは、経常収支黒字の一人占めという非難が絶えません。ますます円高になって、産業自身も自分の首をしめるところまできてしまいました。黒字は還流すればよいのだという議論も根強くあります。つまり外債を買ったり、企業の海外進出をしたり、有償・無償のODAで途上国援助をすれば、還元になっているのだという意味でしょう。

 私は、そういうことも否定はしませんが、それは国際経済のほんの一部でしかないと思います。どの国でも、相互的な貿易でまともに稼ぐことを願っているはずです。貿易で稼いだものは、直接、草の根の職場を潤し、家計を潤します。ODAで与えたものは、為政者の手に入り、マルコス疑惑の時のように面倒を起こしたりすれば、草の根からも評価されません。まして外国の不動産の買いあさりなどで、引きあわない反感をもたれるなど、愚の骨頂と言うべきでしょう。このままでは日本人は世界から孤立してしまいます。

 こうした高価格構造や黒字の一人占めをやめさせるのは、消費者としてできる、最大の国際協力ではないでしょうか。産業界のハズミ車が在来路線を走りたがっても、低価格志向をはっきりさせ、よい輸入品を歓迎することは、消費者の選別的消費行動で、かなりの程度にできることではないでしょうか。GDPの六割の大パワーなのです。

 しかし、それだけではできないこともあります。規制を撤廃させたり、税制や公共投資の使い道を決めたりするのにはもう一工夫がいります。そこで思い出しましょう。消費者は納税者であり、有権者でもあることを。

 議員はそのかけ橋です。議員に情報を提供し、周到に用意した質問をしてもらいましょう。さまざまの政策づくりの会合で、主張してもらいましょう。マスコミにも情報を提供したり、手紙を書いたりして、事を調査してもらい、正しく報道するように協力を求めましょぅ。差別や公害、過労死など、犠牲になっている人を励ましましょう。阪神大地震ではこれだけのボランティアが馳せ参じたではありませんか。日本人にはボランティア精神がないなどというのはウソです。ただ、目を引く大事件だけでなく、私たちの周囲に、い
くらでも難儀にあっている人々がいることを忘れずにいましょう。万人が共同行動をとるだけでなく、一人でも日常的に行動する勇気をもちたいものです。

 もともと生活者パワーは、一人の行動から始まるのですから。
 折しも心強い動きが登場しました。

 長いこともめたあげくに最近、核不拡散条約の無期限延長が決まったとたん、フランスが南太平洋のムルロワ環礁で核実験を八回再開する計画を発表、太平洋諸国の怒りを招いています。これにすばやく反応したのが、オーストラリア、ニュージーランドの消費者です。フランス・ワインの瓶を叩き割って仏製品のボイコットを宣言するところがテレビに映し出され、ボイコット運動が欧州にも日本にも波及しっつあります。これこそ核廃絶のための一票ではありませんか。フランス・チーズでフランス・ワインを飲みながらヒロシマ・ナガサキを語っても、こんなしまらない話はありません。

 消費は毎日の投票! フランスの香水も、化粧品も、アクセサリーも、ファッションも、しばらくは横目でにらんでも、地球時代の生活者パワーがどんなに国際政治を動かす力になりうるかを、試してみたいではありませんか。

1 国連をどう改革するか

   国連創設五〇年

 今年は、国際連合にとっても、創設五〇年の記念すべき年にあたります。
 二〇世紀の経験した二度の悲惨な世界戦争と、その悲哀の上につくられた国際連合の意義をふりかえり、冷戦後の国際社会のさまざまの問題 − 人権、開発のあり方、紛争、難民など、国連のかかわる諸問題について思いをめぐらすのに、まことにふさわしい節目の年だと思います。

 国際連合憲章は、一九四五年六月二六日、サンフランシスコにおける「国際機構に関する連合国会議」の参加国によって採択・調印され、同年一〇月二四日に発効しました。この一〇月二四日には、毎年「国連デー」として、ニューヨークに名指揮者、名歌手を招いて、いかにも国連らしい簡素で感動的な記念行事が行われています。当初の憲章調印国は五一カ国でした。現在では国連加盟国は一九〇カ国にもおよび、五〇年間の世界の大きな変化を思わせます。

 第二次世界大戦の枢軸国のドイツ、イタリアはすでに降伏し、日本はまだ交戦中だった時に、連合国側では、このように、もう戦後の国際体制の根幹となるべき国際連合の構想がすっかりできあがって、調印されたのでした。

 しかし、国連憲章の原案がつくられたのは、さらに一年さかのぼる一九四四年八月のことでした。熾烈な戦争の中で、連合軍が最後のとどめに向けて結束を固めていた時です。
起草は、ワシントン郊外のダンバートン・オークス館に集まった米ソ英中の代表によって行われました。

 手回しのよさには感心のほかありませんが、こんな臨戦体制の中でつくられた枠組みは、後になって批判される面が出てきます。それは、安全保障理事会の任務の一つである「第七章 平和に対する脅威、平和の破壊及び侵略行為に関する行動」 つまり経済制裁や国連軍についての章は、具体的な手続きまでが細かく定められ、強制力を伴うのに対して、同じ安保理の所掌である「第六章 紛争の平和的解決」の章は、内容が未熟で具体的でなく、多くが紛争の当事者責任にまかされていることです。翌年のサンフランシスコ会議でも、憲章採択にあたって、各国の代表たちから、第六章をもっと強化・具体化すべし、との提案があったものの、そうした余裕はなくて、見送りとされたまま今日にいたっています。

 当時はやむをえなかったでしょうが、その時の認識をふまえて、平和な手段の開発活用に積極的に取り組むことこそ、国連リバイバルの今日的課題ではないでしょうか。

 その後、長期にわたる冷戦時代の下で、憲章の改正はきわめてむずかしく、ほとんビ凍結状態となっています。しかし、冷戦時代にあっても世界は大きく変化、アジア・アフリカの旧植民地の解放が進み、独立した開発途上国が進んで国連に加盟したので、創設当初とは比べものにならないはど加盟国数は激増し、問題の質も変化しました。安全保障理事会が超大国の拒否権行使によって機能マヒに陥る一方、経済社会理事会(経社理)の役割が女性、人種、子ども、マイノリティなどの人権問題、途上国の開発問題、地球環境問題等の解決にむけて飛躍的に高まりました。とくに国連を頼りとして、民衆レベルでの努力があった場合には、その効果も上がりました。これは望ましい展開であったばかりか、これからの世界の平和構築にとって、欠くことのできない処方箋でありつづけるでしょう。

 しかし、経社理は、国際経済の中で実権を握っている世界銀行、国際通貨基金(IMF)、GATT(最近、WTO=世界貿易機関となった)などの国際機関をコントロールする立場にあるとはとても言えません。国連ファミリーの一翼であるにもかかわらずです。これらは出資金を負担する先進国の株主会的色彩が濃く、重要な役割をもちながら、途上国の苦情が絶えず、累積債務などの問題も惹起してきました。経社理に実体経済を調整する機能が欠落しているのは、残念なことです。

 安保理が真の平和の調停者・構築者の役割を増大し、経社理が経済問題の調整機能を発揮し、植民地解放の使命をほぼ終えた信託統治理事会を再編して新たな任務を果たすことはできないか。こうした国連改革の根本的課題をめぐつて近年、さまざまの提言が行われてきました。

 しかし、いま現に国連の場でとりあげられている国連改革の最大関心事なるものは、どの国がいくつ安保理常任理事国に加わるかといった、矯小化された問題に収斂してきてしまっているようにみえるのは残念なことです。

 私としては、次のような取り組みが必要と思っています。

   平和の調停者としての国連

 国連憲章が、国際紛争を平和的手段によって解決することを一義的に志向していることは明らかであり、それが望ましいことは議論の令地がないでしょう。しかし、湾岸戦争や国内紛争における暴力的傾向を通じて、国際社会の主な関心は軍事的関与に向けられ、平和的手段の開発についての熱意は高いとは言えません。紛争はこれからも起きるでしょうが、平和的解決への道が広く開かれていなければ、永続的な平和は望むべくもないでしょう。国連が平和の調停者、構築者として真価を発揮するには、何を強化すべきでしょうか。

 まず、次の三点をあげたいと思います。

(1)軍備規制・武器移転規制
 憲章第六章は、抽象的ですが、世界の人的・経済的資源を軍備に転用することを最小にするために、軍備規制の責任を安保理に課しています。しかし、これまでの国際社会はその逆を実行し、湾岸戦争やカンボジア、ソマリア等の国内紛争の例でも、過剰きわまる武器の貿易と供与が、その主因をつくってきました。安保理の五常任理事国はいずれも武器の大供給国でした。東西対決の危機が遠のいた今こそ、マッチ・ポンプにピリオドを打たねばならない時です。ガリ事務総長報告「平和への課題」が、この恐るべき武器移転の規制に一言半句もぶれず、関係国に警告を発してもいないのは、残念なことでした。経済成長の活発な東南アジアに対して、武器供給国の売り込み圧力が激化している点からも、これは見逃せないことです。軍備規制、武器移転規制を「平和への課題」の大柱の一つとして据えることを強く要請するものです。

  [注]その後、事務総長は、九五年一月三日付の総会報告として、「平和への課題」への補充報告を発行し、この中の軍縮の項で、武器移転の問題をとりあげました。地域的紛争で殺傷の主役になっている二種類の軽火器 −一つは小銃など、もう一つは対人地雷 − の貿易、供与または密輸の実態の解明は、きわめて困難で長期を要するが、全面的努力をすると述べています。

 一九九一年の国連総会は、日本、ECの発議による通常兵器登録制度を設け、武器移転の透明度を高める決議を行いました。これを第一歩として、攻撃性兵器の移転規制を強化することが必要です。地球を地雷原と化し、一般住民に悲惨な被害を与えている地雷の使用、供給についても、厳重な規制を行うべきです。規制の実行を監視するため、国益主義にとらわれない独立の監視機関を設けることが必要でしょう。

(2) 核不拡敢・核実験禁止

 核不拡散条約は、原子力の平和利用を認めるとともに、核兵器保有国以外の国の核の軍事的転用を禁止しています。条約の不平等性を理由に、条約に加盟しない国も少なくありません。一九九五年に期限を迎えたこの条約は、無期限延長されることが可決されました。
延長の条件として、包括的核実験禁止条約の成立を迫る空気が途上国の間に根強く存在するのは当然のことです。米・ロ間の核兵器削減が歩みだしたいま、保有国が誠実、大胆に核実験禁止に取り組むことが、核不拡散の成否を分けるポイントになったのではありますまいか。

 もう一つの問題は、プルトニウムの原発への商業的利用の問題ではないでしょうか。使用ずみのウランを再処理して得られるプルトニウムは、微量できわめて毒性が強いうえ、たやすく核爆弾に転化することができます。平和的利用のためとはいえ、プルトニウムが各国に備蓄されることになれば、それは近隣諸国相互間に脅威を高めるものではないでしょうか。万全の国際管理体制がないままに、プルトニウムの商業的利用が進行し、核拡散のチャンネルになることに、危惧を覚えないわけにはいきません。厳重な国際管理を急ぐこと、そしてそれ以前の製造は凍結することを望みます。

(3) 選挙制度の普及
 武力による一国内の権力闘争を終わらせるためには、それに代わる政権担当の方式が、ルールとして国民に支持されなければなりません。一人一票にもとづく普通選挙は、国際的に受け入れられた民主主義の大原則であるにもかかわらず、さまざまな困難によって、実行されていない国が少なくありません。武力紛争を、選挙による民主政治におきかえるための国際協力が必要だと思います。

 一昨年五月下旬に、カンボジアで、国連暫定統治機関(UNTAC)が実施した総選挙は大きな成功をおさめました。事前にはポル・ポト派などの暴力的な選挙妨害が懸念されていたのですが、実際には選挙期間中は停戦が保たれ、投票率ははとんど九割に達しました。
近隣諸国による陰の外交が奏功したものと思われます。

 私は、UNTACの国際選挙監視に参加して、投票所まわりをしましたが、警備は手薄でした。しかし手厚く警備をしたとしても、武装襲撃があれば、被害の出ないはずはなく、選挙は不能に陥ったでしょう。実際に停戦状態があること、それのみが選挙を成功させる前提条件だと、痛感したものです。あらかじめパリ和平協定がしっかりとつくられ、近隣諸国、安保理がこれを担保した効用は大きかったと思います。

 最近の紛争の大部分は国内紛争です。国内の権力闘争である以上、最終の目標は武力闘争をやめさせ、選挙の実施による民主政治を樹立することにあるでしょう。国内紛争での国連の最大の任務は、「選挙」に的がしぼられるのではないでしょうか。国連はこれを援助できる十分の能力をもっているでしょうか。軍事的介入はこうした和解づくりの目的にぶさわしいとは言えません。少なくともできるだけ回避すべきやり方です。

 国内紛争への軍事介入は、国連の中立的立場を危うくし、後に禍根を残すでしょう。
 近隣諸国の協力も得て、しつかりした和平協定に導くこと、そして選挙制度法制化のための援助、選挙の訓練機関や選挙監視機関、民衆への普及教育を、国連や地域機構の中に取り入れることが望まれます。使命を終えた信託統治理事会を根本的に改組して、こうしたガバナンスの世話役をさせることはできないか、と思います。

 最近、スウェーデンの議員から、NGOの選挙コミッションをつくり、国連を補完する役割を果たしたい、という呼びかけがありました。カンボジアの選挙で、UNボランティアの役割が大きかったことを思い、よい方向へのイニシアティブであると思いました。

   国際司法制度の確立

 今日、民主主義の国の中で、私的リンチや暴力的解決が許されないように、国際社会も、究極的に武力にかわる法の支配をめざして、国際司法制度の充実を急ぐ必要があると思います。

 憲章第六章は、法律的紛争は原則として国際司法裁判所に付託すべきことを述べています。
 たとえば、

○安保理が、紛争を国際司法裁判所に付託するよう当事者に勧告すること。
○全加盟国が、国際司法裁判所の管轄権を受諾して、その裁定に従うこと(現状では、これを受諾している国は三分の一に満たず、安保理常任理事国では英国だけ)。
○国連総会や安保理が、裁判所の勧告的意見をもっと活用すること。
○貧しい国も裁判を利用できるように、裁判費用の基金をつくること。

 以上は、現行法の枠内ですぐに実行できることですが、さらに進んで司法制度そのものの拡充が必要と思われます。
 たとえば、

○政府以外の者に提訴の道を開くこと。
 現在の国際司法裁判所は、国(政府)のみに提訴権を認め、マイノリティ、エスニック、難民、NGO、迫害される個人など政府以外の者が提訴する道は閉ざされています。これでは、自国の政府や軍隊に弾圧、迫害されるマイノリティなどは、かなわぬまでも武力抵抗に立ち上がらざるをえない、ということになります。国際司法制度の発達はまだまだ未成熟で、きわめて限定された役割しかもっていないと、言わざるをえません。
 当事者にかわって、一定の国際機関が「公益」の立場から提訴することも可能でしょう。
たとえばジュネーブの人権委員会は、現在も政府以外の者の苦情を審査する役目を果たしていますが、この委員会が裁判への中間媒体となることも可能でしょう。

○国際刑事法廷の設置。
 ジェノサイド条約(一九四八年)は、集団殺害を国際法上の犯罪と認定し、その行為者個人を、統治者、公務員、私人のいかんを問わず処罰することとしています。しかし、その受け皿となる国際刑事法廷は久しく存在しませんでした。重大な国際法違反や非人道的犯罪も、解明されることなく放置されてきました。公平性、公開性の見地から、国益にとらわれない国際刑事司法の確立が望まれます。

 旧ユーゴ紛争での戦争犯罪を裁く法廷が先に安保理によって設置され、最近、初回公判が開かれました。審理の推移は未知数ですが、一つの方向に示唆を与えるでしょう。私としては、もっと独立性の高い裁判所がよいと思います。

 国際的な議員のNGOである 「Paliamentarians for Peace」 は刑事法廷の設置に向けて熱心に提言と運動を実施しており、その主張はしだいに実現に向かっているようにみえます。

   安全保障概念の拡大

 再び戦争の惨禍を起こさないため、平和と安全の維持をもって国連の最優先の目的とした憲章は、安全保障理事会、とくにその常任理事国に特別の地位と権限を与えました。安保理は、国際関係において事実上、立法、執行、制裁の三権を集中的に担う、民主政治の常識からすれば異例の存在です。

 とくに米ロ英仏中の五常任理事国は、選挙にさらされることもなく、拒否権までもっています。冷戦中は米ロ(ソ)両国がこの拒否権を頻発して、安保理の動きを鈍くしてきました。中国が事務総長の選任問題で、途上国の願いを担って拒否権を行使したこともあるそうです。

 ある意味で拒否権は、特定国やそのグループの不満が危険水域にまで高まることに、ブレーキをかける効用をもっていたとは言えるでしょう。しかし、こうした安保理の優越的な地位は、めったに安保理に入ることのできない大多数の国の不満の種であり、なかでも特権的な常任理事国の地位は、日本の外務省の垂涎おくあたわざるものとなっています。カヤの外にいては情報もとれないのだそうで、うらやましくて、自分も常任に入りたいと思うのも、あながち無理とは言えないのかもしれませんが、そういうことよりもまず、安保理の独裁的地位、軍事的偏向といったものに、メスを入れるべきでしょう。拒否権にも相当の制限を加えるべきでしょう。

 国連に期待される役割は経済、社会、人権、環境へと拡大し、人類の福祉のための国連という側面が強まっていますが、これは安全保障の基盤的条件として、無視できないものとなっています。こうした側面を安全保障の一環として強力に位置づけることが望まれます。つまり、安全保障の概念を拡大して、総会、経社理、国際司法裁判所の、安保理に対する相対的地位と権限を引き上げることが考えられます。

  「持続可能な開発」の調整役としての国連

 他の二理事会に属さない仕事はみな経社理といってよいほど、この理事会は、人権、経済、社会、教育、文化、環境など、人間生活万般にわたって守備範囲が広く、ユニセフ、ユネスコ、lLO、UNDPなどの専門機関等との密接な連携をもっています。しかし肝心の資金の流れや配分を握っているIMF、世界銀行とは縁が遠く、新設のWTOについても同様と思われます。もっとリンケージと対話を深める必要がありそうです。

 グローバルな視点から見た時、国連にとって緊急で、しかも長期を要する課題は、いかに「持続可能な開発」を実現させるかではないかと思います。有限な資源、限りある地球環境の許容力が来世妃に大きな問題となる前に、「北」の開発モデルの大転換を図り、南の開発ニードを充足し、北も生活の質を維持・向上するための調整役として、国連の力量が今日ほビ待望される時はありません○そのためには安保理と同格の強い調整力をもつ経済社会理事会が必要と思われます。

 打ちつづく紛争によって統治能力を失った国に対する援助も、重要になってきました。
 非植民地化の使命を終えた信託統治理事会について、河野外相は先の国連総会の演説で廃止を求めました。しかし、植民地はなくなりましたが、独立した新興国が政治的、経済的に十分の運営・統治能力をもっているかと言えば、必ずしもそうではないようです。ソマリア、モザンビーク、アンゴラ等にみられるような部族闘争や無政府状態など、CIS諸国、東欧、アジアも例外ではありません。その背後に大国や旧宗主国の思惑がみえることが少なくありません。

 調停者、援助者としての国連には何ができるでしょうか。武力による権力闘争のくりかえしを終わらせ、選挙による民意の代表制、政権づくりをしっかりと目標にすえた学習への援助こそ、公正性を旨とする国連にふさわしいのではないかと思います。

 カンボジアの暫定統治下に選挙を行ったUNTACは一つのやり方だったと思います。
 選挙や民主政治にはノウハウが必要です。信託統治理事会をいったん廃止して、ガバナンスを扱う理事会を新設したらどうでしょうか。国益の場であることを免れない安保理とは別の場を設けることにより、信頼度の高い北欧や、民主化で実績をもつ途上国、平和主義の日本などの役割が生きてくるのではないでしょうか。

 スウェーデン社民党のカールソン元首相らがつくる委員会(Commission on Global Governance)のリポートが九四年秋に発表されました。国連改革について興味深い具体的提案をしていますので、少しご紹介しましょう。

 まず、経済安全保障理事会(ESC)の設立です。これは、安保理のように横成され、しかし安保理から独立した高レベル、高い質の仕事をする理事会で、世界経済の状態と政策を評価し、安定した持続可能な開発のための長期計画を策定し、主要な国際機関の政策目標を調整することを任務とします。地球環境保全のために一定の国際的税制を導入することなども視野に入れています。

 安保理の改革については、二〇〇五年ごろまでに、本格的に常任理事国を見直し、拒否権を消去し、地域機構を強化するとしていますが、興味深いのは、それまでの暫定措置として、新しい常任メンバー国を先進国から二国、アフリカ、アジア、ラテンアメリカから一国ずつ追加し、その間に、現在の拒否権をもつ常任理事国は合意によって拒否権を例外的な重要事項に制限していくというものです。非常任理事国の数は現在の一〇から一三にふやすという案です。また、信託統治理事会は、共通の地球環境の安全保障という新しい任務を与えられるとしています。

 利害の衝突でむずかしい国連改革を早くスタートさせ、時間をかけて構築し、より多くの国が、より大きい責任をもつように苦心した提案だと思います。

   国連の民主化

 外交は国民からもっとも遠いものだと思います。昔、国連に勤めていた時にそう思いました。とくに国際連合など多国間のマルチ外交はそうだと思います。なぜなら、国連などの舞台は遠いところにあり、そこで日々物事が審議され、決定されていくからです。

 そこでの政府の代表は外交官で、有能ではあっても、選挙された国民の代表者ではありません。私自身、日本の内閣の一員として閣議というものに出る経験をして、ますますそう思いました。
 
閣議には儀礼的な外交案件はたくさん出ますが、ほんとうに重要な外交の対処方針などが閣議に出ることはまずありません。憲法で内閣の職種の一つに「外交関係を処理すること」とある建前からすれば、これはを困ったことです。細川内閣では、閣議後の懇談ということで、質問や意見が出るようになりましたし、村山内閣でもますます盛んなようですが、懇談はただのガス抜きの場といった側面がないわけではありません。

 こうして外交は、国会からも、内閣からも、世論からもそれてしまいやすく、国民から遠い存在だと言わざるをえません。

 内閣は連帯して国会に責任を負うのですから、首相を中心に、もっと重要事項について審議があってよいと思います。その前段階にある首相と関係閣僚の各種の本部を、もっと実質審議のために活用する方法もあります。本部は閣議によって設置されます。形骸化した本部、役目を終えた本部はどんどん廃止したらよいが、本当に重要な問題について本部の機能を活性化することは、内閣の主導性を強めるのに役立つと思います。

 最近は、連立与党間の意見調整のために、連立与党のプロジェクトチームが活発に行われるようになりました。もっともっと力をつけ、情報を集め、議論を厚くし、最善の結論を出して、内閣に影響を与えることは、内閣への強力なバックアップになります。内閣が外交の手綱をしっかりと握って、責任をもって国会にかけていく体制づくりが、必要だと思います。

 こうした懸念は、あるいは日本に特有の病弊かもしれませんが、他方、国連の側にも民主主義の観点から問題があると思います。それは同じマルチ外交でも、ヨーロッパ連合(EU)と比べるとよく分かります。EUには各国国民の一票の権利で議員が選ばれる欧州議会がありますが、国連にはありません。EUには国の裁判所の判決に納得できない個人の訴を受け入れる欧州裁判所がありますが、国連にはそうした道は開かれていません。EUには閣僚協議会があって、各国閣僚の責任がはっきりしていますが、国連はそうなっていません。

 つまりEUは国連よりも、国民に近く、また政治の責任者にも近いわけです。規模の違いはありますが、だからといって国連をこのまま放っておいていいとは言えません。

 国連憲章の前文は 「われら連合国の人民はL という言葉で始まっています。これは国際連盟時代の規約にはない表現で、米国の提案によるものと言います。他の国の政府代表は乗り気ではなかったが、ルーズベルト大統領への敬意もあって、この言葉で憲章はスタートしたそうです。したがって前文の結語に 「よって、われらの各自の政府は、サンフランシスコ市に会合し、全権委任状を示してそれが良好妥当であると認められた代表者を通じて……ここに国際連合という国際機関を設ける」 とあるように、実際の手続きは政府へ全権を委任ということになっています。しかしこの 「人民」という言葉が象徴的な意味をもっていることは確かで、それは二度の世界戦争の惨禍をなめた当時の人民の気持ちを表現するものであると同時に、この国連を通じて国際政治の「主権」が人民にあることを表明するものと言えるのではないでしょうか。

 しかし実際の国連はそのように構成されてはいません。それは政府代表の集合体であり、「政府」のインタレストに合致しない事柄をとりあげるのは、ラクダが針の穴を通るほどむずかしいことです。欧州議会の議員が各国から国民の選挙によって選ばれていること、また欧州裁判所が政府以外のグループや個人が政府を相手どつてでも提訴する道が開かれていることと比べれば、国連の構造がいかに主権在民の原則からほど遠い、遅れたものであるかが明らかでしょう。国際政治がかくも私たちの生き方に影響力をもつ今日、私たちが主権者としてもっと国際政治の場への影響力をもちうるよう、改革を求めるのは当然ではないでしょうか。

 ILOは、直接の利害関係者としての政労使の三者が意思決定機関を構成しています。
しかし国連憲章は七一条で、NGOのオブザーバー参加を経済社会理事会の分野に認めているだけです。七一条は、もともと原案にはなかったものを、サンフランシスコに結集したNGOが政府代表の部屋を片っぱしからノックして要求した結果であると言います。安保理や国連総会には、NGOの参加は正式には認められていません。なぜ平和と安全の分野は国民の声からもっとも遠いのでしょうか。ILOのような、あるいはEUのような、新しい政策決定方式を拡大して、国際政治に国民の意思を反映すべきではないでしょうか。

 累次の世界女性会議をはじめ、環境、人権、人口、社会開発の世界会議に多数のNGOがますます活発に参加するようになったのは、喜ばしいことです。国連の経社理に諮問団体としての地位をもつNGOだけでも一〇〇〇を超えています。平和、軍縮、経済の分野にも食い込んで、成功することが願われます。

 難民高等弁務官事務所は、難民救済をすすんで助ける多数のNGOのボランティア活動によって支えられています。カンボジアのUNTACの周囲にも、日本を含む各国からのNGOがいて、選挙監視に、母子保健に、車両の修理にとボランティア活動を展開したことは、私たちの記憶に新しいところです。「国境なき医師団」や赤十字は、国連を助けるというよりは独自の立場で、武力紛争地のただ中へも身に寸鉄をおびず、危険を冒して入っていきます。

 こうしたボランタリーなNGO活動の広がりや国連への食い込みが、国際政治の中で力をもち、国際政治の景色を変えていくことは確実で、すばらしいことだと思います。
 それは悩み多い国連にとっても無二の援軍であるはずです。


3 国連の武力行使と日本

   ザグレブの難民施設で

  一九九四年暮、霧の海のザグレブ空港に降りたつと、滑走路の照明灯以外には何一つ見えません。旧ユーゴスラビアのクロアチアはいまは独立国になりましたが、日本の大使舘はなく、オーストリアの黒川大使が兼轄しておられます。しかし、連絡員のシティグリッチ万寿美さんが車を雇って迎えに来て下さる。万寿美さんはクロアチア人の学者と結婚して二四年もザグレブに住んでいる方。

 車はサヴァ河を渡る。この河から東をバルカン、西をヨーロッパと呼ぶのだそうです。
広い十字路の標識を見ると、正面はウィーンヘ、右はブダペストヘ、左はベネチアヘ、そして後方はサラエボヘ。標識一つが、世界政局の地震帯と言われてきた旧ユーゴのむずかしさを物語っているようです。

 昼間見るザグレブは、かつて私が住んだことのあるウィーンにそっくり。クロアチアはかつてボスニア・ヘルツエゴビナとともにオーストリア・ハンガリー帝国の領土で、その高い文化の影響を受けてきました。第一次大戦の結果、旧オーストリア・ハンガリー額の諸地方と、ブルガリア領のマケドニアとが、独立国であったセルビア、モンテネグロと合併されて旧ユーゴスラビアを形成、異なる歴史、民族、宗教、文化の混在するモザイク地域の統一を図ろうとしました。背後に列強の勢力関係を背負いながら。

 第二次大戦を経て、長い年月の冷戦の終焉によって背後の勢力関係が変化し、旧ユーゴは分裂、クロアチア、スロベニア、マケドニアは独立、セルビア、モンテネグロは(新)ユーゴとして残り、ボスニア・ヘルツエゴビナでは、内部のセルビア人とクロアート人+イスラム教徒の鋭い対立が内戦へとエスカレートしました。政権はクロアート人側ですが、首府サラエボはセルビア人軍に包囲され、国連保護軍等の補給によってかろうじて露命をつないできました。

 こうした内戦は悲惨です。そこの住民は戦争に巻き込まれるなどという生やさしいものではなくて、住民そのものが、その土地への居住を拒否されるからです。

 私がザグレブで訪れたのは、こうしたボスニアを追われて来たクロアート人、イスラム教徒の難民でした。

 万寿美さんの案内で市中の「女性自立センター」を訪れました。二階建ての一軒の家を借り、下は子どもの工作の部屋、上は女性たちのレース編みや毛糸編みの部屋となっています。女性たちは車座になって話をしながら手を動かして冬のセーターやサマーセーターをつくつています。もちろん、いくばくかの工賃を得るためです。別室には精神ケアのセラピストの女性が、ショックで口のきけなくなった男の子にやさしく話しかけながら、返事を待っていました。
            
 万寿美さんの流暢なクロアチア語の通訳で女たちの車座に入り、にわかづくりの懇談会を始めます。ブルチコ回廊から来た一家、.ボスニアの山中から来た人々。二四キロも歩いてやっとバス、トラックに乗り、着いた時に埃で頭が真っ白だった。恐怖から、とくに子どもには精神障害を受けている子が多い。個人の家に分散してやっかいになっているが、どんな苦労も忍ぶしかないので、こうして車座で話し合うのが精神衛生上よい、ということでした。

 このセンターはNGOの女性がやっています。クロアチアでは、NGOというものは縁が薄かったのですが、このマネジャーの女性は、渡米して一年間、団体運営の勉強をしてから始めたそうです。手芸だけでなく、陶器づくりのコースも始めたいが、場所がないので、ツジマン大統領に手紙で支援を要請中。日本のODAがこういうNGOに使われるとよいのですが。

 次は難民キャンプ。約八〇〇人のイスラム教徒が一五棟のバラックに収容されています。
真ん中に一棟の水屋 − 洗濯場、シャワー、トイレがあり共同使用。個別の炊事は許されず、赤十字の救援で、調理室へ容器持参で食事を取りにいき、部屋で食べます。EUからときどき洗剤や生理用品の配給がありますが、配給の仕方も気配りが必要です。トラックの上から投げられると、プライドが傷つくだけでなく、強い人しか受け取れません。

 万寿美さんは洗剤やちり紙を土産に、知り合いの家族の部屋へ入っていきます。二三歳の妻は、一〇日間歩いて逃げる間に子ビもが生まれてしまい、おしめもガーゼもなく苦労したそうです。村の家々は取られてしまうか、破壊されるか、焼かれるかで、もう帰る家はないとか。ここの人々はみなボスニアの故郷に帰ることを望んでいるのですが……。難民高等弁務官事務所は、難民は郷里に帰還させることを第一の原則としていますが、ボスニアのケースではかなり無理ではないかと私も思いました。

 よかったと思ったのは、各部屋にスチーム暖房が通っていること、シャワーはお湯が出ること、そして学齢の子どもはクロアチアの学校に入れることでした。この手の難民キャンプはザグレブだけで数カ所あるそうです。産院も見舞いましたが、未熟児の保育器や抗生物質が足りず、気の毒な話を聞きました。ボスニア難民とクロアチア国境からの避薙民をあわせて約六〇万人を、四六〇万人の人口がかかえるというのは大変なことでしょう。

   経済制裁の可否

 紛争地であるボスニアには、国連が武器禁輸の決議を出していましたが、セルビア人側の戦力が優勢なので、イスラム側が対抗できるように武器禁輸を解除すべし、とのアメリカの提案が安保理に行われました。EUも日本も不賛成なため武器禁輸解除は行われませんでしたが、アメリカは自主的に武器密輸船の見張りをやめてしまいました。

 一方、新ユーゴに対しては包括的な経済制裁が課せられています。人道的な見地から食糧と医薬品は除外されているはずですが、これもニューヨークの監視委員会の議を経なければ許可されないので、実際にはこうした人道物資も新ユーゴヘは入りにくいのです。

 九三年秋、国際紛争予防研究機構に参加する議員や教授の方々が新ユーゴ・ボスニアヘの調査団を組んで、経済制裁の影響調査をしてこられました。その報告によると、物資の高騰、インフレ、密輸とヤミ取引への依存はもちろんのこと、やはり衛生・医療面の影響が深刻でした。麻酔薬・癌治療薬の不足、医療機器の修理不能で、みすみす命を失う人が多いとのこと。暉峻淑子教授は、経済制裁は武力制裁に比べれば平和的制裁手段でありより悪くない方法だと楽観的に受けとめられるきらいがある、と問題を提起しておられます。

 私もいつからか、経済制裁というものに疑問を感じるようになっていました。それは右のような非人道的な結果を招来しやすいというだけでなく、民衆、とくに子ども、病人のような弱者に深刻な打撃を与えるわりには、制裁したい為政者や残虐行為の責任者には響かないのではないか、と思うからです。そのうえ被制裁国の近隣諸国の経済に与える損害も少なくありません。国連憲章(五〇条)は、こうした場合に特別の経済問題に当面した国は「安全保障理事会と協議する権利を有する」と定めており、実際、経済制裁のとばっちりで悩む相当数の国が安保理に訴えていますが、それで何かの救済が行われたという話はあまり聞いたためしがありません。これでは紛争地周辺は沈むばかりで、また新しい紛争や難民の種をつくるのではないでしょうか。

 もっと責任者に直接響くような措置はないのか? その一つは国際的な刑事法廷で責任者をあげつらうことでしょう。相手が一定の条件をのむまで、国連や各種国際会議への出席を停止するのはどうでしょうか。

 国連保吾軍の本部のあるザグレブにいるのを幸い、私は代表の明石康さんにまたしても問題をぶつけてみました。無辜の民を苦しめるのはよくないが、経済制裁に代わる他の手段があるだろうか、国連への出席停止は交渉の糸口がなくなるのでよくない、というお考えでした。しかし制裁下であっても、人道問題があればその救援は望ましいことだとも言われます。してみると、制裁下の土地では、赤十字が炊き出しをやったり、調査団の人たちが手荷物で医薬品を持ち込んだりするやり方を継続するしかないのでしょう。ともかく現在のような経済制裁を安易に実施することは荒っぼすぎます。少なくとも非人道的な結果にならないように、細心の注意をすべきではないでしょうか。

 ザグレブの後、私はブダペストでの社会主義インターナショナルの理事会に出席しました。女性インターナショナルには私が出ましたが、理事会では田辺誠元委員長が出て演説をされました。田辺さんが私のザグレブ報告の一部を使って、ボスニア戦争の紛争当事者は、被害を受けた子どもたちの治療に打ち込むセラピストや看護婦の心になって停戦に努めるように、と呼びかけて下さったのはたいへんうれしいことでした。


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   ボスニアの停戦破れる

 それから数カ月、ボスニアの状況は、いったんは成功したかに見えた四カ月停戦の期限が切れて、双方とも停戦延長を拒否しました。九五年五月に入ってガリ事務総長は、二万二〇〇〇の国連保護軍の引き揚げを含む新状況への対応を示唆しました。安保理の与えるマンデート(委任事項)と実際の加盟国の協力ぶりには大きなギャップがあり、しかも無事に引き揚げるためにはNATOの援護がないと心配だという観測もあるようです。

 ボスニア戦の行方はどうなるのか? 国連保護軍はどうなるのか? 明石さんは希望を失わないオプティミストで、それがいつも問題を乗り越える力になってきましたが、今度はむずかしそうです。カンボジアでの明石さんは、暫定統治機構としての広い行政権限をもち、協定という基礎の上で仕事ができました。旧ユーゴでの明石さんは、協定すらもない、武力闘争をやめない当事者のなかで、ニューヨーク(安保理)とブラッセル(NATO)という二人のシュウトに口やかましい差し出口をされながらの仕事です。二人のシユウトはとかくタカ派で、NATOによる空爆を主張し、国連は軟弱だと言う。だがセルビア人の拠点を空爆した後はどうなるのだろう。NATOの兵士が重武装で地上戦に身を挺して敵を殲滅するとでも言うのでしょうか。犠牲者がたくさん出ることも覚悟するのでしょうか。

 でも国連側に死傷者が出るたびに、強硬論は声高になります。国連軍兵士の安全保障が第一だと言う。それなら何のために停戦もできず、協定もない紛争地へ、武力行使を言いながら出かけていくのでしょう。

   平和執行

  一九九二年七月、ガリ事務総長は「平和への課題」という野心的な報告書を公表しました。日本ではPKO協力法が大荒れの未、参議院を通った直後でした。この報告の中で、事務総長は、一九四五年の国連創設以来、世界では一〇〇を超す大規模な紛争が発生し、その結果二〇〇〇万人の生命が奪われたと、そして冷戦中は拒否権で無力化されていた国連の安全保障部門が、いまや紛争の防止と解決に中心的な役割を果たすべきだとしています。

 報告には多くの内容が含まれますが、目新しいものをあげれば、「平和執行部隊」の構想でしょう。「この部隊は平和維持軍よりも重装備のものでなければならず、各国の軍隊で広範囲な準備訓練を受ける必要がある。部隊の展開と活動は安全保障理事会の権限に属し、平和維持軍の場合と同様、事務総長の指揮下に入る」とあります。

 実際に、その後ソマリアと旧ユーゴの国連軍には「必要なあらゆる手段」を認めるという言い方で、武力行使容認の安保理決議が採択されました。旧ユーゴの場合は、すでに出ている国連保護軍に対する追加決議という形で性格の変更が行われました。これは「平和への課題」に提案された平和執行部隊の試みか、それに近いものです。かつてあれはど喧伝された「戦わない軍隊」「敵のいない軍隊」であった平和維持軍のイメージは、アッサリと脱ぎ捨てられて、「戦える軍隊」へ「格上げ」されました。平和維持軍は、もともと憲章に規定のないもので、安保理決議で動員されるものですから、安保理決議で地位も性格もあっさり変更されるのです。現在はそういう不確かさがつきまとっている時です。

 そのうえ、重武装の平和執行軍を事務総長が指揮するという。私は事務総長がそうした指揮権をもつに適当な人かどうかは知りません。よしんば適当な人であったとしても、事務総長は国民の一票の権利をもとにリコールできる人でないことは確かです。どこかの国の大将軍が総司令官に選ばれたとしても、その点は同じこと。他国での軍事行動や参加要員の生死が、国民の意思からもっとも遠いところで動かされることに、危惧を覚えない人々があるでしょうか。国連要員の死傷が問題となって、保護のための条約ができ、わが国もこの条約を国会で批准承認しました。条約はあるにこしたことはないが、どこまで実態をカバーできるのでしょうか。

 ソマリア、ボスニアでの武力行使を容認された国連軍は大いに難航しました。ソマリアヘの人道的介入のための国連軍の実質は米軍でしたが、アイディド派を敵とすることによって国連への反感を高め、双方に重大な被害をもたらしたうえ、全面撤退となりました。
ボスニアでは未決着ですが、紛争当事者に和平への意志がなく、国連の調停によって協定すらできない状態のなかで、国連が武力に頼ってできることの限界はきわめて明瞭でしょう。武力に依存することによって国連は自らの本質的使命に重大な矛盾を生じ、必要な中立性、公平性を失い、国連への信頼を失うことになりかねません。信頼性を失った国連は死んだも同然です。

   人道的介入

 武力を容認しての人道的介入は、まだ国際社会全体として認知する思想にはなっていないと思います。国連憲葦(二条七項)の内政不干渉の原則を、中国などがしばしば主張するのはその例でしょう。事務総長は「平和への課題」報告で、国連総会決議46/182(九一年一二月→九日)を引用して、その中にもられた指導原則に照らせば、国連の介入を求める政府の要請あるいは承諾は、その国の主権を侵害するものではないし、本来はいずれかの国の国内専管権に属する事項について述べている憲章二条七項の規定に違反するものではない、としています。だがこの総会決議は、自然災害の被災に対する人道的援助を前面に押し立てたものであることに留意する必要があります。国際社会の認識はそのあたりにあると言えそうです。

 一九九年一月、事務総長は「平和への課題」の補充報告書を出しました。これは補充というよりも、むしろソマリア、ボスニアの経験をムまえての反省、修正と言うべきものでしょう。その要点は次のようなものです。

 ○近年の安保理決議の傾向は、従来の平和維持活動にあった当事者同意の原則、自衛以外の武力不行使の原則を没却して、人道保護のため和解を急がせようとした。しかし紛争の根は深く、その解決には忍耐強い外交と、長期の交渉によって信頼醸成を図る必要がある。

 ○ソマリア、ボスニアの両PKOに対しては、武力行使を必要とする追加的なマンデー卜が加えられた。これは従来のPKOの当事者同意、中立不偏、武力不行使の原則と相容れないものであった。この二つを混同するほど危険なことはなく、平和維持活動とその要員の安全に重大な支障をきたした。両者を安易に移行させることは許さるべきでない。

 ○コマンド(指揮)とコントロール(統制)は三段階を明確に分担すべきだ。一は安保理の全体的責任。二は事務総長の執行責任。三は現地における特別代表や司令官に委任された責任。この三つは混同されてはならず、現地の責任者が政治目標を自分でつくることもいけないが、ニューヨークの安保理や事務総長が現地状況を熟知せずに細かいことに口を出すこともよくない。近年、安保理にはその傾向が深まっている。

 ○紛争に早期に即応できる待機軍を各国が用意し、国連の通常予算に費用を計上すること。

 平和執行への反省は貴重です。いやしくも他国へ軍隊を派遣して、武力行使を実験してみるなどという火遊びは、今後、厳に慎しむべきでしょう。国連待機軍に関しては、三〇以上の国が約七万人の要員派遣を申し出たそうです。しかし、ルワンダヘの派遣要請を国連が行ったところ、応じた国は皆無だったとか。武力闘争とコレラの荒れ狂うルワンダ国内への派遣がむずかしかったこと、派遣のための拠出金が期待はどスムースに集まらないことは、はしなくも、国連と各国との関係の本質を表しているのかもしれません。犠牲や痛みを伴う付き合いは長つづきがしないのです。

 伝統型のPKOは、中立不偏を尊んだために、利害関係のある国や、強大国を敬遠してきました。そのため近隣諸国よりはむしろ遠隔地からの参加が歓迎されました。冷戦下では北欧などの中立的な国が受け入れ国によっても歓迎されました。同意、武力不行使、協定の履行の監視を主体としたPKOは、その意味で、国連の本質をわきまえた、洗練された姿だったかもしれません。しかしポスト冷戦の国連は、もっと野心的に紛争を除去しようとして、時に性急に荒っぼく試行錯誤をやっています。平和創造の過程も行方も、きわめて流動的な時期にあります。

  一つの傾向として、今後の国連の安全保障態勢は地域化していくのかもしれません。それは、人は近隣の火事には真剣になるが、対岸の火事はそう関心を呼ばないし、ニューヨークからのリモコンによる軍事指令や経済制裁には、不適切なものが少なくないからです。
旧ユーゴのケースはその転機になるのかもしれません。

 ただ、地域の役割が増すにつれて、地域をコントロールする力のない国連が引きずられるままに安易な「お墨付き」を連発するようでは、国連は強者の傀儡になってしまうでしょう。国連にぶさわしい大原則を失わないことが必要でしょう。

   日本の役割

 憲法九条をもつ平和主義の日本が軍事協力をしないのは当然でしょう。国是を変えて共同行動をとれという文字は国連の辞書にはありません。

 伝統型のPKOは、自衛以外の武力不行使が原則ですが、それでも日本の国連平和維持活動協力法と比べると、武器使用の方法についてかなりのズレがあります。日本の法では、武器使用は自分または隊員の生命身体を守るために必要な限度、つまり正当防衛的なケースに限定されますが、国連の場合は、それに加えて、マンデートの任務遂行を武力で妨害された時、これに抵抗するための武器使用が許容されています。つまり武力で国連の拠点を奪取されたり、チェックポイントを突破されたり、国連側が武装解除を迫られたりした時のことでしょう。日本の法律で許されていない武器使用のケースがありうることは、はっきりさせておかねばなりません。これは憲法と関係のあることですから。

 むろん日本にも、国連による集団安全保障には参加すべし、普通の国になるべし、と言う人々はいます。その場合には憲法改正が必要でしょう。手続きについても具体的に決める必要があるでしょう。日本の憲法にはそうした規定は皆無なのですから。そうした国民の意思も世論もないのに、官僚や一部の政治家が独走することはもっとも警戒すべきことです。

 ゴラン高原のUNDOF(兵力引き離し軍)にロジスティック(兵鮎)部隊を出すかどうかでもめていますが、小さいことだと思います。ゴランのPKOは伝統型で、駈留二〇年におよびます。激戦をやったイスラエルとシリアの間の焼けぼっくいに火がつかぬように、中立地帯をつくり、そこにしんぼうづよく駈留し、監視をつづけています。敵対意識の強い中東ではそれなりの効用があったと思うし、今後も半永久的に存在せざるをえないのかもしれません。比較的小規模の伝統型ですから、中東情勢に異変が起こらなければ、通常は無事平穏に過ぎていくかもしれません。

 しかしここでは、共同演習をやると言います。日本はカナダのロジ部隊の一端を担う想定ですから、カナダ隊の指揮の下でやることになりましょう。それは国連の武器使用のマニュアルによることになりましょう。武器使用に関する国連と日本の法のズレについて、日本の当局は、実施しない武器使用の演習をすることはありえないと言っているようですが、部分的に別行動をとるような参加の仕方は、私は望ましいものではないと思います。
逆に、実胸さえしなければ演習くらいはやってもよかろう、どうせ日本の自衛隊としてはもっと激しい演習をやっているのだから、と禁じ手の演習に参加すれば、日本の法の趣旨はそこから崩れていくでしょう。望ましい参加の仕方ではないと言わざるをえません。

 もともと日本が国連の軍事部門ですること、できることは、そう多くはありません。それなのに軍事部門に自衛隊を出すことばかりに目の色を変えてアクセク。ちょっと偏執的ですね。安保理常任理事国になりたくて、軍事的協力にばかり目がいくのは本末転倒です。安保理の中でも、安保理の外でも、日本のなすべきことは山積しています。

安保理内では怠られている平和的手段の開発・確立に、軍縮、軍備管理、武器移転の規制・抑制にイニシアティブを。
国際司法制度の確立と人道思想の普及にリーダーシップを。
そして、地域機構が紛争の調停能力、監視能力をもてるように、協力できるはず。
安保理の外では、経済、社会、人権、環境、民主化、ガバナンスの強化にふさわしい国連の再構築に、積極的に取り組んではしいものです。人に嫌われるタカ派の国連のイメージを変えてほしいと思います。

 とくに現在、国連が直面している人道的諸問題への介入についても、国連が反省期にある現在、日本が率先してできることが多いと思われます。人道問題は軍事的アプローチで根本的に解決することはできません。やはりまず人道的な国際法の精神を人の心に広げていくことが大切だと思います。

 国際人道法と呼ばれるものの中に、古くはハーグ陸戦条約(一九〇七年)があります。日本もすぐに批准していますが、この条約が日本の将兵によく教育されていたら、一五年戦争や第二次大戦中の、中国やフィリピンでの残虐行為も起こらなかったかもしれないのにと思います。画期的なのは、第二次大戦後に国際赤十字の主導によってつくられた、四つの「一九四九年八月一二日のジュネーブ条約」でしょう。軍隊の傷者・病者、難破船、捕虜の待遇、文民の保護についてルールを定め、改善を図ろうとするものです。大戦争が影をひそめ、内戦や地域紛争によって文民(住民)の被害が増大している現代、とくに注目すべきは文民の保護に関する第四条約でしょう。そしてさらに注目すべきは、右のジュネーブ条約に追加される国際武力紛争及び非国際武力紛争の犠牲者の保護に関する二つの議定書(一九七七年)でしょう。議定書は、国家間の戦争だけでなく内戦にも範囲を広げ、政府の正規軍だけでなく、反乱軍、民兵、ゲリラ等の武装勢力にも適用を広げ、条約の原則を明確に具体化して、文民に対する暴力行為、威嚇、無差別攻撃の禁止、生存に不可欠なものの保護、自然環境や文化財の保護、傷病者や衛生隊の保護等について定めています。

 日本は四つの条約は批准していますが、二つの議定書は未批准です。日本は憲法で戦争を放棄しているからか、戦時の人道法には関心が薄いですが、人道的援助や難民の救援に協力しようとするのであれば、国際人道法の基礎を知ることは不可欠でしょう。また海外での武力行使を放棄している日本であればこそ、世界に人道主義を広める役割が果たせるのではないでしょうか。

 もう一つ、なすべくして怠られていると思うのは、自然災害への救助です。世界では毎年、地震、台風、噴火、洪水等の自然災害で、とくに人口の多いアジアでは、万単位の死者が発生しています。その数は紛争による犠牲者の数とは比較にならない大量です。国連には国連災害救済機関(UNDRO)という小さな機関があって任務に当たっていますが、いざ大災害の時にめぼしい活動ができるものではないようです。むしろ各国からのささやかな金銭的、人員的協力が行われています。ささやかであっても志があるということはすばらしいことです。志あるところを国連がリードして、被災者の救援にどれだけ役立ったかということを報告してもよさそうなものだと思います。

 自然災害は、平和への脅威ではないから国連の主たる任務ではない、と考えられているのでしょうか。そうではありますまい。先にあげた国連総会決議46/182は自然災害への救助を主目的とするものだったはずです。だからこそ途上国も更け入れたのです。それなのに、この決議が安保理による紛争への人道的介入の根拠とみなされて、武力を伴う介入にばかり利用されるのは遺憾なことです。本来の趣旨である自然災害への国際的対応に熱を入れてはしいものです。

 アジアの先進国である日本の国際協力の柱の一つは、ここにあるのではないでしょうか。
死ななくていいはずの人が万単位で死に、孤児や障害者、ホームレス、そして疫病の発生。
こんなことをいつまでくりかえすのでしょう。日本自身も地震国、火山国で、災害への対応も満足にできていない、人間尊重からほど遠い状態を克服する必要があります。この際、思い切って人間尊重に根ざした災害救助体制をつくったらどうでしょう。

 社会党が自衛隊とは別組織をつくることを提唱してきた根拠の一つはここにあります。
外務省の所管する国際緊急援助隊は、文民技術者の登録制で対応してきましたが、三年はど前にこれに自衛隊を加えました。しかし被害国からのお呼びはない。派遣されたのは文民ばかりです。なぜでしょうか。それは立場を代えてみれば分かることです。外国の軍隊がやすやすと自国内へ入ってくる先例など、どの国もつくりたくはないのです。まして過去のある「日本軍」 においてをや。日本はこの点について鈍感すぎるのではないでしょうか。武器の携帯を排除する定めすら、あえて入れなかったのです。

 できることは別組織です。自衛隊の削減を兼ねて、自衛官を医官、技官などの文官に移転し、はっきりと文民・文官の技術陣をつくり、自衛隊とは明確に一線を画することです。
そうでなければ役に立たないのです。日本が国連協力で大きく伸びられるのは軍事以外の部門においてだ、ということを銘記しておきたいものです。日本の国民の大多数は武装自衛隊の海外派遣には危惧を感じています。武装なしの人道援助には大多数が賛成しています。日本の国際協力は、国是に沿ったもので伸びなければなりません。歓迎されざる武装自衛隊の押しつけをしたがるタカ派は何が目的なのか。憲法の精神のきわどい削ぎ取りをねらっても、大したことはできません。人類の福祉のための国連の使命を大きく方向づける道へ、国民の力を伸ばすべきです。

 国連のゆるやかな大河のような働きで、世界の地域を潤してほしいものです。一八九カ国もかかえる国連には、さわがしいせせらぎや、急流、奔流のような動きや、我田引水を許すせせこましい動きはふさわしくありません。

 そういう国連にとって、時代を先取りする新提案を絶えず試みる北欧・中欧の中小の国々が貴重であるように、大きくても軍事大国にならず、非軍事の平和を模索しつづける日本が必要なのです。









   
 
 
 
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