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社民党の宣言にむけて論じる

作成04/01/07
追加04/01/12
修正04/01/14

渡辺 秀美
はじめに
  社民党はこの夏の参院選で有権者から共感をえられる政策・方針を提示する必要がある。そのためには先の総選挙での政策と路線を調べるとともに、「社会民主主義宣言」(以下「宣言」という。)の基本的な考えを提示し(少なくとも議論し)、これに基づいて政策と路線を立案しなければならない。国民の要求項目を並べて政策とするだけでは対応できない状況にあることは、党内だけでなく、他党の動向からも明らかである。
  本稿は、こうした喫緊の必要にせまられて、雑誌等への投稿前にこのHPに発表するものである。書いた分をその都度速やかに掲載し、討論を期待する。したがって何回かに分かれること、精査は充分でなく、参照も不完全、重複、欠落もありうるが、事情をご賢察ください。また論証よりも分かっていただけるよう説明に主眼をおいている。論考を後に訂正、加除することもありえるのでご了解ください。

基本理念へむけた各党の動き

  政党の理念、国家の基本、憲法についての案が04年にはこぞって提出されることになろう。
  自民党は先の選挙で「立党50年を迎える2005年に憲法草案をまとめ、国民的議論を展開する」と公約し(「小泉改革宣言」)、安部幹事長は「憲法の議論をしていく上で国家像や国のあり方について、また、党もさらなる50年に向けてどのような党の理念を確立していくか……大いに議論をする場を作っていきたい」と述べている(03/11/21)。また中川秀直国対委員長は「党の会合で「わが党は05年までに憲法改正の草案を作ると言っているが、その手続き法の議論もこの国会で始めるべきだ」と述べ、法案提出に踏み切る考えを明らかにした。」(毎日04/01/04)
  民主党は、マニフェストで「国民的な憲法論議を起こし、国民合意のもとで「論憲」から「創憲」へと発展させます」と公約し、鳩山由紀夫前代表は「1年程度かけて憲法改正の鳩山試案のようなものを作りたい」と述べている(Y03/12/17)。
  共産党は新綱領案を発表し(03/6/25)、討議している。不破議長が同案について提案報告を行っている(03/06/28)。これは日本の情勢の基本規定や未来社会論の変更にもかかわる内容をもっている。後者に関しては同氏の論文が発表されている。(「「ゴータ綱領批判」の読み方」『前衛』03/10)  

社民党の宣言策定への動き 
 社民党は第8回大会(03/12/13)で、「前回大会で確認されながら、作業が中断している「社会民主主義宣言」(仮称)の策定作業を再開します。「宣言」は党が目指すべき社会と、それを実現する手段と政策、パートナーなどについて明らかにしていきます。新執行部のもと、次期機関会議で概要と工程を確認し、全党的な討議に付します」との方針を決めた。
  前大会(01/10/27)から2年の間にヒヤリングを2、3回開いた程度というのは、余りにも杜撰で無責任であるだけでなく、党のプログラム(綱領、基本宣言)の意味に対する認識不足を示している。社民党になって以来本格的なそれを持っていないのであるから早期確立がいっそう必要とされる。第7大会の議論については拙稿を参照されたい
  同党の「宣言」についての全国連合の見解は何もないが、党内のいくつかの意見は宣言を行動綱領としようとしている。まず、この問題から考えてみたい。

行動綱領とすることの問題
  加藤繁秋香川県代表が第7回大会に提出した意見書は、宣言に「党是としての基本戦略」を求め、「市民主義と社民主議の対立とか、基盤は市民か労組かとの対立もある」ので「「宣言」を巡って党内対立を引き起こす火種にしないことである」と述べている。
  広田貞治前東京都代表は、呼びかけ文「社会民主主義宣言の作成への参加について」(02/05/27)で「宣言」を「流動的要素も多いので、10年程度を見通した「行動綱領」的なものとする」と枠をはめ、 内容に関して「96年2月に決めた基本政策のうち、「日米同盟の維持」「規制緩和」などについては、修正・変更などは不可欠」と述べている。
  ここで綱領と行動綱領の違いについて少し説明したほうがよいであろう(多少「専門用語」なので)。行動綱領とは、諸階層・諸階級の要求、さらに国民の共通する要求を掲げ、実現させようとするものである。この中には、たとえば雇用の拡大、社会保障の維持、増税の阻止、軍事費の削減、海外派兵反対から基本政策である安保解消、憲法擁護までが入る(例として言っているのであって規制緩和、安保維持、創憲でも入る)。
  綱領は、行動綱領の内容を含むが、それを実現する方法、道筋、実現順序、位置づけ、向かう方向、現在の社会と国家の原理についての認識と将来のそれらのあり方、これらを導く理念からなっている。
    社民党8回大会方針は、「宣言」が「目指すべき社会と、それを実現する手段と政策、パートナーなど」を含むとしている。これは「宣言」が綱領の内容を持つとふつう解されるが、「目指すべき社会」が行動綱領の内容となりうる曖昧さがある。

綱領の必要性
    さて、 なぜ行動綱領だけでなく、綱領が必要なのか?理由はいくつかあるが、1つは実現可能性である。これは、財源や必要な成長の確保をはじめとして経済理論的に可能であるか、国際的責務を果たし、海外市場や資源の確保はできるかといった問題である。また、どのように多数派を形成していくかの戦略問題もふくまれる。
 2つは、どのような国民の努力、負担、互譲、忍耐、犠牲が必要なのかという問題である。民族独立の革命、奴隷解放などの例を持ち出すまでもなく、大きな基本的な改革をするには英知や努力、負担無しにはこれまでできなかった。これを明示する必要がある。
 3つは、市場経済の下でおこなわれる改革で国民の問題が基本的解決できるのかという問題である。生産手段を共有化しなければ解決しないのではないかという問いに答えなければならない。
 4つは、将来社会は、歴史的必然によって成熟している客観的条件基づいて主体の形成し、革命と階級支配をおこなうのか、それとも国民多数が市民として成長し、民主主義を拡充し、市場を制御して改革をすすめるのかが明示されなければならない。
 政党は、「党内対立」があろうとも「流動的要素も多」くとも、政策のこうした根拠と条件と展望を国民の前に明示する義務がある。そうでなければ政策を信頼することができないであろう。
 ここでは3つ目の問題について少し説明しよう。
 
資本主義の認識
  市場経済(1)のもとで行動綱領が実現できることを根拠無しに言うことはできない。むしろそれは不可能であるという理論がある。
  エンゲルスは次のように述べている。
  「資本主義的生産方法はそのままにして、これとちがった生産物の分配方法は何かないものかなどというのは、電極を電池に結びつけておいて、それが水を分解し、陽極には酸素が、陰極には水素が集まるのをやめさせる方法がないかという類である。」(『空想から科学へ』p.76)
  エンゲルスは資本主義である限り分配をかえることはできないといっている。だから革命によって資本主義を廃止することによって「配分」も解決されるといっているのである。エンゲルスのこの言明は税制改革や社会保障、福祉政策の真の有効性にかかわっている。社民党はエンゲルスの言ったことに一々答える必要はないが、市場社会(資本主義)において再分配などによって公正(すべてが人間らしく生活できる)な分配が実現できるのかということである。分配だけでなく、失業、労働疎外を含め、市場経済で国民生活の改善がどこまできるのかということに見解を持つ必要がある。  
  また、市場経済ではたとえば失業に対して解雇規制だけではすまない。もちろん安易、勝手な解雇は規制されなければならない。しかし、市場経済では破産、倒産は通常必然である。倒産による解雇の場合は被用者の責任とはいえない場合が多い。その人にとって不可抗力でさえある。経営者の見通しの狂い、他社の新技術、新規参入、規制緩和、一部従業員の不正、不祥事などの原因がある。市場である以上ある程度避けられない。経営不振からリストラも似た状況がある。したがってどの政府も消費拡大、財政支出で経済成長をはかり、雇用を拡大しようとする。すると財政赤字、環境汚染、浪費、資源制約などの問題を発生させる。それでも成長は困難になり、財政が危機に向かう。こうした問題を解きながら、雇用の確保や福祉充実をはからなければならない。市場経済ではこうした要素を含んだ方程式を解くように解を見出す必要がある。

社会民主主義=福祉国家+再分配か?
 「宣言」を行動綱領に押し込めようとする背景には、社会民主主義についての次のような見当違いの認識がある。
 「社会民主主義は福祉国家であり、理念の基本は所得や富の適切な再配分である。」(N案)
 これは、社民党都連合内の「社会民主主義宣言プロジェクトチーム報告書」(03/06)の「社民党の福祉国家宣言」に書かれている。(N案)となっているが、報告書の一部である。広田氏はじめ11人のメンバーがそろって承認しているのはずのものだ。私はこれと同じ見解を党内学習会で元都幹部が言うのをきいたことがある。たぶん社民党内で流布している見解である。
 この見解は社会民主主義とはある政策(基本的であっても)だというのに等しい。だから「社会民主主義宣言」の内容は行動綱領の範疇から出られないのだ。時間は充分あったにもかかわらずである。社会民主主義を批判する者が修正主義、体制内改良主義などと規定することは間違っているが、自由である。しかし、社民党員がこれを鵜呑みにするのは自由の内に入らない。
 社会主義インターや社会民主主義友党の文献を少しでも見れば、社会民主主義とは「基本価値(自由、公正、連帯)の実現を目標とするも思想であり、運動であること」は分かる。そしてこの理念を現実に適用して福祉国家という政策が戦後半世紀採用されてと理解するであろう。ちょうど科学的社会主義とは階級闘争、プロレタリア独裁だけでなく、唯物弁証法、史的唯物論、経済理論などが基本であり、ここから過渡期の形態が導かれると理解するのではないだろうか。社会民主主義も歴史観、社会観、認識論を持っているのである。
  付言すれば、日本では内容に差はあっても福祉国家や所得再分配を掲げない政党はない。そして、それらが持っている社会観、国家観から、福祉国家や所得再配などの政策を導いているのである。そうでなければ、福祉や所得配分の程度、他の政策とのバランス、福祉の各内容の比重、短期と中長期のウエイト、国民の支持、合意(公平と負担について)の評価などである。さらに、将来と若人に期待して教育、研究、文化により重点をおくか、福祉のテンポを控えても環境や南北問題を重視するとかである。これは暗にであろうともそうした観点を指針をしている。どういう社会、国にするかについての見解に基づいているのである。
 行動綱領だけでは、羅列するであろう。または、できるところからとか、やろうと思えばすぐにできるとか、相互間によい循環があるなどと根拠なく言い張るであろう。それほど資源に余剰はない(国民の負担や財政の状況をみても)。要求の並置では少なくとも国民の支持、合意は困難である。

科学的社会主義の検討
 社会民主主義の思想・理論は、歴史的にいわゆるマルクス主義の修正(変更)として生まれていたのであるから、それを知るには科学的社会主義の検討・批判をする必要がある。ちょうどマルクス主義がヘーゲルやユートピア社会主義を批判して形成されたようにである。
  ベルンシュタインは時間の評価の問題を取り上げたが、科学的社会主義が科学であるなら、その他にシステムの完全性、他の法則の存在、抽出と仮定、弁証法の適用の仕方、認識の限界、階層と結節点、均衡系と無政府性、公理の選択、理論の同値などの問題が問われなければならない。この項全体については「社会民主主義の思想とは何か」を参照してください。
(1)時間の評価
   社会民主主義の思想・理論の「マルクス主義」の分離は、次のベルンシュタインの見解にある。
 「一部の方面から主張されているところでは、私の諸論文からでてくる実践的結論は、政治的および経済的に組織されたプロレタリアートによる政治権力の奪取を断念することだ、とのことである。/これはまったく身勝手な結論なのであって、私はそのような結論の正しさを断固として否認する。
私が反対したのは、われわれはほどなく期待されるブルジョア社会の崩壊を前にしており、社会民主党はその戦術をこのように切迫している社会的大破局への展望によって決定すべきであるとか、この展望に従わせるべきであるとかいうような見解に対してなのであった」(4)
  ベルンシュタインは同じ趣旨を次のようにも言っている。
 「このひとつの確信とは、現在の社会秩序が、以前に考えられていたよりももっと長い寿命ともっと強靭な弾力性を持つものであることを、われわれが計算に入れなけれはならず、それに応じてわれわれの闘争の実践を発展させなければならない、というものである。そして、まさにこの理念こそが、本書のアルファでありオメガである」(5)
  これは弁証法と史的唯物論における時間の評価の問題と現実の情勢把握の問題である。弁証法は否定の否定、物事の生成、発展、消滅をいうが、その仮定の具体的な形態、時間の経過については具体的に何もいわない。資本主義は消滅するが、それが1年後が1000年後かについては全く不明である。
  この点については既に詳述しているので別稿を見てほしい。
(2)完全性
  ここで問題にしているのは、システム(理論体系)内の自由度と法則(方程式)の数が合致しているかということである。たとえば、3変数(x, y, z)の方程式で解を決定するためには通常独立な方程式が3つ必要であり、式が2つ以下なら不定になり、解は範囲にあるということしか言えない。
  下部構造が上部構造を規定(決定)し、階級闘争が歴史の動きを決めるなどという「法則」が作用するとしても、それだけで社会のあり方を(基本的に)決めるということは言えない。他の要因は下部構造の従属変数であるか、非本質的、副次的であるとの証明はできていない。事実、民族、宗教、文化、地域性、ヒューマニズムの精神、道徳、慣習などの要因が状況によって社会に独自の作用をするのを経験している。
(3)他の法則の存在
  これは上の完全性の問題と似ているが違う問題である。たとえば、真空中で質点の運動は重力の法則だけで運動が決定できる(この意味で重力法則は完全である)。しかし、実際には電磁力の作用も受けるので、両方の力の合成力によって運動が決定される。
  このように1つの理論体系が対象の運動を決定できる(完全)としても、その対象に他の作用がないという証明にはなっていない。唯物史観の公式や階級闘争理論が理論として充分な規定力をもっているとしても、その故に他の力(家族、同属、民族、人類、文化などへの愛情、公正観など)が社会、個人に作用していることを排除できない。
(4)抽出と仮定
  「資本論」は理論の出発点に、交換される2商品から使用価値や形態を捨象して、両者に含まれる抽象的人間的労働の量が等しい(この量を価値といわれる)という命題をおく。
  この理論体系について次のことが言われる。この命題は、多数jの商品の交換(売買)から抽出(または帰納)された法則であるから真(真理)である。資本論は、これらの真の命題から出発して論理的に厳密に展開(演繹)しているのだから、この理論体系は真理である。
  しかし、等しい価値の商品にふくまれる抽象的人間的労働の量が実験(実際に)で詳しく測定されて(時間平均もおこなって)確認されたわけではない。実際は利潤率の平準化によって大きく偏移している(現実とは大きく隔たっている)。
  ふつうはこのような命題は、理論体系の公理、公準、仮定、要請などといわれるもので、理論の出発点として証明無しに(あるいは他の理論で証明済みとして)採用されるものである。厳密にいえばその理論における仮定である。そうした仮定の真偽または選択が適否をそれ自身論じることは意味がなく、展開された理論の結果が多くの事実を適切に説明したり、予言できるか等で判断される。理論は通常ある条件内である精度でのみ妥当するので常に実験が必要とされ、理論の修正や根本的変更が行われる。
  「資本論」の演繹結果の当否の前にまず、理論が基本的な仮定の上に成り立っていることの認識が大切である。
(5)弁証法の適用の仕方
  弁証法はその適用の仕方で大きく異なる結論を導く。その結果、恣意的な思弁、現実とは異なる事態を予測するようなことにもなる。この例については別稿を見てください。
(6)認識の限界
  仮に理論が完全であり、真理であり、適用法が明確であったとしても、それらの理論(唯物史観の公式、資本論体系などの下部構造の法則)によって、社会について(我々の理解や行動に必要な)認識をえることができるかという問題がある。一般に現実を解明(説明、予測)するには、理論(法則)に加えて初期条件(状態)、境界条件(環境)を撹乱なしに正確に知らなければならない。このうえに法則を適用して演繹(計算)しなければならない。科学的社会主義ではこうした条件が正確に把握されたとはいえず、不確かな条件から演繹すれば誤差が拡大する危険がある。科学において法則と認識との関係は、この他に、量子力学のように原理的に不確定性をもっている場合、統計的法則(圧倒的に確からしい状態が実現する)、複雑系の性質、実際上の限界(計算困難、大量の計算結果の理解不能)などの問題がある。社会科学では最初の問題だけでも不確実性が大きい。
(7)階層と結節点
  還元主義には現在のところ限界がある。自然の基本法則は量子力学(シュレーディンガ方程式)であり、これを解くことによって生物や社会の動きを原理的に解明できると言っても、ほとんど意味がない。生物界は、細胞、蛋白質、DNA、ダーウィン(ドーキンス)の法則などによって解明されている。これらは概念や法則は(現在のところ)下位に還元できない「自立性」をもっている。自然や社会は、それぞれ階層、クラスター、結節点をもっていて、人間はそれぞれに対応した科学で解明している。つまり、下部構造の幾つかの法則で社会構造のすべてを解明できるとはいえない。ただし、どの程度還元できるかは固定的ではない。
  社会科学では、唯物史観、資本論の公式だけではなく、社会学や政治学などが持っている諸概念とその関係をも使って解明されているのが現状である。 
(8)均衡系と無政府性
  エンゲルスは資本主義経済は無政府的であるとよく言う。つまり、ここの企業家が投機や思惑をふくんだ予測に基づいて生産するので過剰生産、社会的ムダ、倒産、恐慌などの原因となるという。
  資本主義の初期にはこの現象が著しかった。しかし、これは調整過程、均衡にいたる過程であることの認識が大切である。ネガティブ・フィードバックに注目したサイバネティックス、ワルラスの一般均衡理論、食物連鎖での定常状態など、均衡系の認識と理論が19世紀には広く知られていなかった。当時、社会について有機体のイメージを持っていた。つまり脳が、知覚器官をとおして情報を取得し、それにもとづいて判断し、運動機関に指令を出すというモデルである。生物(有機体)ではこのようなモデルが有効であるが、すべての系がそうだとはいえない(有機体といえどもすべてが中央指令とは言えない)。たとえば熱せられた湯が100度で沸騰を続けるのは、熱せられて温度が上がりすぎると気化が多くなる。すると気化熱が奪われて温度が下がる。そこで熱せられて温度が上がる。これを繰り返しているといえる。神が温度計で監視して温度を一定に保つのではなく、過不足を常にくりかえして調整している。これは自然に多く見られる。財政のビルトイン・スタビライザはこの一例である。
  市場による生産の調整が良いか悪いかの判断とは別に、これを無政府性とみるのは一面的な価値判断でしかない。
(9)公理の選択
  先に(4)労働価値説の公理(出発点)を紹介したが、これが適切な公理とはいえない。一般均衡理論ではこれに変えてかえて、企業の利潤極大原理と家計の効用極大原理を採用する。前者は1企業について例えば次式で書かれる。
    π = (p - u) Q - ( w L + r K) 
    δ π =  0
 ここに、π: 企業利益、 p:生産物価格、u: 産出1単位当たりの(原材料費+減価償却費)、Q:産出量、 w:賃金率、 L:投入労働量、 r:資本利潤率 K:投入資本量である。
実際に変分をおこなうと、
    (p - u)∂Q/∂L = w
    (p - u)∂Q/∂K = r
すなわち、第1式は、賃金率は限界生産性に等しいことを示し(6)、労働力の価格(付加価値に占める労賃の割合)を導いている。第2式は利潤率について導出している。労働価値説は、この系で r = 0 とした場合である。
私は、一般均衡理論のこの仮定の方がより一般的であり、利潤率の平準化を取り入れていて、仮定として労働価値説より優れていると考える。
  理論の出発点としての仮定(公理)の選択は自由であるが、その選択に優劣がある。この点でもマルクス主義経済学は適切とはいえない。その選択からはよい結果はえられない。
 (10)理論の同値
  労働価値説に基づく理論は一般均衡理論の特別なケースでしかない。さらに、2つの理論が違っているように見えても、実際は同じ(同値、equivalent)であることがある。たとえば、量子力学で、シュレーディンガー方程式、ハイゼンベルグの行列力学、ファイマンの経路積分の3つが実は全く同一の理論であることが厳密に証明された。
  資本論経済学が思弁と弁証法を用いて記述されていても、新古典派経済学と比較して科学としてどの部分が同値で、どの部分が同値でないかが明確にされているわけではない。
  
  以上のように自称されている科学的社会主義は、科学としての検証がほとんどされていない。すなわち、変化、相互作用において把握する弁証法、唯物史観の公式などは、科学研究の有効な導きの糸であり、下部構造によるある制約を示すものであっても、自然や社会について歴史的必然を形態や時間まで明示できるような科学ではない。
  ここに諸科学を利用(適用)しながら、価値(科学的真理のカテゴリーではない)の実現をめざす社会民主主義の存在する場所があるのである。 
<以下次稿>

(注)
(1)出所を省略したものは関係する政党等のHPである。
(2)市場経済と資本主義
  資本主義は市場経済であるだけでなく、生産手段をもたずに労働力をうる意外に生活できないプロレタリア階級と、生産手段や交通手段などに資本投下し、労働者雇用する資本主義階級の存在を必要とする。
しかし、現在の市場経済は資本主義なので、ここでは両者をほぼ同義に使う。違うときには文脈からわかるであろう。
(3)Engels, F Die Entwicklung des Sozialismus von der Utopie zur Wissenschaft 1883, 大内兵衛訳『空想より科学へ』1946, 岩波書店 utopiaは、idea と vision をもつものであり、空想(fantasy)ではない。
(4) ベルンシュタイン:『社会主義の諸前提と社会民主主義の任務』、佐瀬昌盛 訳、1974、ダイヤモンド社、p6
(5)同上、p30
(6)ケインズはこれを次のように表現している。
  The wage is equal to the marginal product of labour.
  That is to say, the wage of an employed person is equal to the value which would be lost if employment were to be reduced by one unit (after deducting any other costs which this reduction of output would avoid);
      Keynes, J. M. The General Theory of Employment, Interest, and Money, 1936, p.5
 

   
 
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