このプロフ。。書いてから2年以上になりましたので、書き直し中です。


  プロフィール  


名前と写真
加藤ミノル
戸籍上は「加藤実」 しかし姓名判断での画数がどの流派でも
「おそろしく大凶」のため改名
 (^ ^;;

写真は

2003年9月撮影 こちら
2002年12月撮影 こちら 2002年8月撮影 こちら
2001年クリスマスは こちら 2000年冬 愛猫と こちら
生年月日etc 1975年3月6日生まれ  うお座  A型
居住地 奈良県大和郡山市 某陰湿な住宅街の2階に生息
ピアノ暦 キーボードを含めると9年近く
自分から見た性格 好きな人と嫌いな人がハッキリしている、クチが非常に悪い、瞬間湯沸し器(時に激しく怒るので、人からそういわれる)、もらうよりあげるのが好き、ウソがつけない、無防備、気ままではない、積極的、先を信じる、後悔をしない、出会いを大切にする、無宗教だが無神論者ではない、根本にもっているものは過激、エトセトラ。。
好きな音楽屋さん ビル・エヴァンス、グレン・グールド、坂本龍一、羽田健太郎、ケニー・ドリュー
なかにし礼、デューク・エリントン、渡辺香津美、A・カルロスジョビン
、オスカー・ピーターソン、チック・コリア
好きな作家 加藤諦三、遠藤周作、Dr.ウェインダイアー、デイビット・シーベリー、松本清張
三本和彦、アール・ナイティンゲール
、ナポレオン・ヒル、渡辺昇一、中島義道、神田昌典
好きなジャンル Jazz、ボサノバ、フュージョン、ピアノ音楽全般、スポーツドライビィング、クルマ
70年代〜80年代初頭の歌謡曲(一部の演歌のぞく)
石原プロ製作の刑事ドラマ「西部警察」 「大都会」
犬と猫、瞑想、東洋哲学、ストア学派
好きな人のタイプ 自分に正直、自分を真に愛せる、実力があって謙虚、人の心の痛みを理解しようとする姿勢、積極的で前向き、勇気と覚悟を持っている、人間の心について関心がある、今を楽しんでいる、幸せな状態を謳歌している、決断力と覚悟がある エトセトラ
嫌いな人 陰湿、ハッタリ屋、計算高い、ウソつき、人をコケにする、お山の大将、自分に不誠実、肩書きですべてを判断、金の得方がずる賢い、クチ先ばかり、勘違い、高飛車、傲慢、無礼、狡猾、詐欺師、偽善、勘違いした平和主義者 エトセトラ
好きなもの ピアノときれいなピアノの音、アコーディオン、自己表現、意味ある思考、音楽、使い物になる哲学、HP作成、峠道、クルマ(特にFRのスポーツカー)、60〜70年代の日本の風景、昔の日産のクルマ、タバコ(国産品)、ウーロン茶、Jazzクラブ、タートルネックのセーター、富裕な状態、リサイクルショップ、自己投資、山村の風景、ネットオークション、昔の邦画、椅子に座ってできること(ピアノ、パソコン、クルマ) エトセトラ。。
嫌いなもの チンピラやくざ、大音響の店、パチンコ屋、センスなさ丸出しのヤンキーグルマ、威嚇する暴走族、数年放置しているHP、堂々とスピード違反をするパトカー、ガラの悪い爆音ダンプ、貧乏、大雨の一人歩き、感じの悪い店員、マルチ商法、内職商法、ピアノのないところ、右翼の街宣車、パンチパーマ、喫煙所がないところ、きれい過ぎる家 エトセトラ。。
好みの女性のタイプ 好きになった人がタイプ、、、(^ ^; こういう人がいい!というタイプはなし!
座右の銘 「人は心なり」
自分自身を芸術的な分野で表現し、その表現した内容が人々に
感動と勇気を与え新しい常識やモラルを創造できる人物になることです。



人生遍歴



0歳〜5歳

ハッキリとした記憶があるのは3歳ぐらいから。電車や乗り物が大好きな子供だった。
ひどく引っ込み思案で、病弱で、泣き虫で小心。「大人の装飾品」に強い関心を示し、5歳ぐらいで腕時計をし、ネクタイを結んでいた、「ませている」奇怪なガキだった。

近所の子供達は、かくれんぼをしたり、キャッチボールをしたりして遊んでいたが、そのような遊びにはまるでで関心がなく、今は亡き祖父の元で、刑事ドラマや時代劇の再放送を一緒に見ていることが、当時の僕にとって何よりも楽しかった記憶がある。

そんな僕の状態を「危惧」した母親は、幼稚園の先生の指導もあり、近所の子供達と無理矢理遊ばせようと必死になるが、自分の世界に浸っていることが楽しく、それを断固拒みつづけた。あの時の母は、僕が第一子ということもあり、ややこし子供を持って、さぞかし不安だったことだろうと察する。


0歳〜5歳までの写真は こちら。

 

6歳〜10歳

小学校に入学する。教師、親からは、早々と問題児のレッテルを貼られる。

両親が視力障害を持っていることで、まわりの同級生からいじめにあう。両親が歩いている姿を真似され、帽子をやぶられ、傘で殴られ、挙句の果てには川につき落とされたこともあった。
毎日泣いて帰ってくる私に、両親は激しくしかりつけ、「もっと強い子になれ!!」と、また殴られる。教師は、両親からの要請もあり、いつも「カウンセリング」されていた記憶がある。
右も左も分からずに入学させられた小学校で、このような毎日を送ることになり、「どうしてなんだろう」と、やりきれない思いを抱く。

ここで「差別される」ということを身にしみて知る。

やがて小学校のクラス変えの時期がやってくる。
教師は、僕をいじめ集団から引き離すために、徹底的に人選をしてくれたようで、新しいクラスでいい友達に恵まれ、自然体で伸び伸びと暮らした。

ファミコンが子供のおもちゃとして市民権を得る直前の時期。友達と外に出かけ、川で釣りをし、ざりがにをとり、駄菓子屋で買ったおもちゃのピストルをもって走りまわっていた。それ以前の「いじめ」にあっていた時代のことが嘘のように、友とふれあい、「上下関係のない」楽しい時期を送る。




11歳〜12歳

小学5年のクラス変え。

またしても上下関係の激しいクラスに配置される。ボス格の男が2人おり、内部抗争に巻き込まれる。(笑)
ボス格の男共は、シモベを作ることに必死になり、弱そうなクラスメイトを見つけては、徹底的にいびりぬく。要領のいいヤツは、うまくそのボス格の男に取り入り、難なく潜りぬけたようだが、私はそういうわけにはいかず、気がつけば、クラス中の笑いものになっていた。

あの当時、皆勤賞をもらえるほどに休まず学校に行ってはいたが、心の中は灰色に近かった。自分の居場所のなさを痛感していた。今でも、お付き合いをさせていただいている、当時の恩師、西田先生も、「教師生活25年、あんなクラスを持ったのは、はじめて」と、手を焼いた後日談をよく聞かされている。

あの頃の唯一の楽しみは、夕方再放送されていた、
刑事ドラマ「西部警察」をみることだった。早々に帰宅し、「西部警察」を見ながら、石原裕次郎のダイナミックで豪快な世界に魅了され、劇中に出演していた石原裕次郎、渡哲也、寺尾聡の渋さに憧れを抱く。
渡さんのタバコをふかすシーンにたまらないダンディズムを感じ、小学校5年にして、タバコをこそこそと吸い始める。以来今まで、タバコとは長い付き合いになってしまった。
(笑)




13歳〜15歳

地元の
公立中学に入学。

いつも片隅でひっそりとしていた記憶がある。当時スポーツが大嫌いだった私は、
「中学校に入学すれば、男はスポーツ部に入って、汗を流してスポーツをするのが当たり前。それが青春というものだ!」という、両親の価値観を強引に押し付けられ、一番楽そうな「山岳部」に入るが早々と退部。「勝手に人の青春の定義まで決めないでもらいたい!!」と分からず屋の両親に対して、すさまじい反抗心が芽生え始める。しかし当時はそれを露骨には出したことがなかった。

中学生の頃は、とにかく女生徒によくモテたという記憶がある。時々、靴箱に手紙が入っていたり、告白されたり、追っかけてくる女の子が多くいた。こんな自分のどこがいいんだろうなんて思いつつ・・・。しかし、それがオチこぼれであった僕の唯一の心の支えでもあったような気がする。


あの当時の僕は視力障害者の親の尋常でない期待に苦しみ親子関係に摩擦が多くなる。
加えて友人関係の混乱から、次第に強い人間不信に陥っていく。
勉強の成績も良くなく、スポーツもまるでダメ。加えて音楽もダメだったそんな自分を悔やみ、腹を立てるようになる。そしてなんとなく体調が優れないようになり、自分は、他の誰よりも劣っているという感情に支配され、「生きていて申し訳ない」という、非常に強いコンプレックスにかられるようになった。


学校社会の中で、皆に適応できないことが、私にとっては多大なストレスであった。とにかく必死で周囲の環境にあわせようとすればするほどおかしくなり、だんだんと体調を崩し、精神的に落ち込む毎日の中、中学3年を迎える。


中学3年の5月、
授業中、強烈な吐き気とめまいを感じ、このまま自分はどうにかなってしまうのではないか!?という強い恐怖感に襲われる。その後、何度も同じような症状に見舞われ、大学病院の神経科を受診する。病名は「うつ状態」。医者の弁では、過度のストレスからくる、極度の精神疲労ということで、大量の精神安定剤を処方される。何もかもに疲れ果てていた。ノイローゼだった。気持は沈み、死んでしまいたいと思うようになる。ひどい不眠と体調不良から、学校から次第に遠ざかるようになり、不登校児となる。



先を案じた両親が、児童相談所、教育相談などの様々な施設に相談に赴き、カウンセリングを受けるようになる。

しかし状況は全く進展することがなく、加速度的に心身ともに蝕まれていく自分を感じながら、「なぜこのような状態になってしまったのか!?」と強い怒りと恐怖感を感じるようになる。ひどい過食症に見舞われ吐くまで物を食べつづけ、体重が一気に20キロも増加した。しかし学校には毎日行こうと仕度をする。そしていざ学校に行こうとすると、ひどい吐き気とめまい、そして身体の硬直状態に陥り、行くにいけない状態が卒業式の日まで続くことになった。恐らくあの当時、学校に行くことに対して、自分の気が付かない潜在意識下で、無意識に登校を「拒絶」していたような気がする。その「拒絶」とは、幼い頃から味わった差別と、人間不信によるものだった。


時は受験シーズン。「自分は原因不明のこのような症状で、高校にすらいけないなんて納得できたものではない!」と思い、最後の力を振り絞って、自宅にて独学で勉強をする。中学校のチャイムが遠巻きに聞こえる中、死に物狂いで頑張った3ヶ月間だった。その甲斐あって、私立の高校に合格する。父は喜び、母は泣いた。何もかもがこれで終わる。あの悪夢のような地獄の日々から開放されると誰もが信じて疑うことはなかった。新しい環境に身を投じれば、全てが解決する。そう思い込んでいたのだ。しかし精神状態はやはり加速度的に悪くなり、「死にたい」という言葉を頻繁に口にするようになる。自らの生命に何の価値も感じられなくなり、歩くのがやっとという体だった。当時の友人は、僕のことをこう表現していた。


「ある日突然、真っ青な顔になり、老人のように背中が曲がり、生気が全くない屍のようだった」と・・・。

そんな状況下の中では、高校に行くことすら出来ず、入学式の日、高校入学を辞退した。




16歳〜19歳

高校入学辞退という形で、陸の孤島に立ったような僕は、もう一度高校を再受験するために、中学浪人になる。重い体を引きずって幾度となく、そちら方面の予備校を見学に行くも、やはりひどい体調不良で、次の日には寝込んでしまう始末。
「この原因がハッキリしない体調不良はなんなのか?」と疑問と怒りにさいなまれつつ、結果的に家から外に出ない、引き篭もりの少年になるこの体調不良と、慢性的なうつ状態の原因は、23歳になってようやく理解できるようになるのだか・・・。

この頃は、毎日病的な不安感にさいなまれ続ける。

毎日テレビの番人となり、目的もなく、朝から晩までボーっとテレビばかりを見つづける生活が続く。病的な不安はつのるばかりで、体調を崩し、精神的なやり場のないストレスから、周囲の者にあたりちかす日々。

中学時代に仲の良かった友は、皆去っていき、社会から完全に取り残されてしまった。昼間外をうろついていると、近所の人たちから怪訝な目で見られることを恐れ、ますます家に引き篭もる。精神的ショックから、今度は拒食症になり、一ヶ月で体重が5キロペースで減りつづけ、あっという間に20キロ体重が落ちる。不眠はひどくなる一方で、ありとあらゆる睡眠薬がきかない状態になり、神経科の病院を駈けずりまわる。


親戚からは、
「怠け者」「あまったれ」「落ちこぼれ」「き●がい」というひどい烙印を押され、笑われ者になる。親戚の集まりでは、叔父や叔母にひどい罵声を浴びせられたものだった。人の置かれた事情や環境、そして痛みを理解しようとしない馬鹿な大人たちに、たとえようも無い怒りを感じる。これ以降、親戚関係にはしばし近寄らない時代が続く。


この時代、自分が何のためにに生きているのか分からなくなり、その想いを
日記帳に書き留めていくようになる。この日記帳は、9年間、24歳頃まで毎日続け、大学ノート100冊近くにもなった。これは当時、自分を見つめることのできるまたとない機会となり、現在に至っては、当時の自分を振り返ることのできる貴重な財産となっている。


10代のくせして、年をとっていくのが怖かった。みんなは高校に行って頑張っている。友と戯れ、恋の味を知る同世代を見ていると、自分が情けなくなると同時に、言いようのない怒りを感じるようになる。「どうして自分だけがこんなひどい立場にたたされなくてはならなかったのか!?」という怒り。親や周囲の者は、そんな僕を、「怠けている」と罵り、抵抗できるものが何もないため、口だけが達者になる。今の僕が口が悪いのは、この当時の残骸か?(笑)


18歳の頃、不眠でクタクタになっている状態の中、憧れだったクルマの運転免許を取りに行く。引き篭もり少年の一大決心だった、不眠からくる体調不良のため、何度も欠席し、何度も検定試験に失敗したが、なんとか免許を取得。親に買ってもらった中古のインテグラで、夜中にコソコソと山道を走るようになる。やはり昼間は怖くて出かけることが出来なかった。あの当時の唯一の楽しみは、愛車でよなよなドライブすることだった。

それでも気が晴れることもなく、相変わらず鬱積したストレスと、やり場のない不安感、苛立ちは続く。

以前から、そのサウンドに傾倒としていた「坂本龍一さんが、YMOを再結成する。その模様をテレビで見て、キーボードを達者に弾く坂本さんにたまらないカッコよさを感じ、自分でも弾いてみたくなり、手探りで、家でホコリをかぶっていたエレクトーンを触りだす。右手のみの耳コピ。でもそれが出来たときの感動は衝撃的なものだった。これをキッカケに、中古のボロの電子ピアノを購入。坂本龍一さんの楽譜を買い込み、「戦場のメリークリスマス」を筆頭に、坂本メロディーを弾きまくる。



これが僕とピアノとの最初の出会いだった。

次から次へと、独学で10数曲を弾きまくる毎日。坂本サウンドを動かぬ指で奏でながら、ようやく自分の居場所を見つけたような、安堵感と、ピアノが弾ける自分に感動した。




20歳〜22歳

朝から晩まで、ピアノを弾き続ける毎日。自分を何かで表現したいという気持ちが極限にまで達していたあの当時、まさしく、
僕にとってピアノは「神からの贈り物」だった。毎日毎日家に篭りつづけながら、7〜8時間ペースでピアノを弾きまくる。当時傾倒していた音楽は、坂本龍一オンリーだった。


彼の醸し出す、クールで厳しさをもった音にたまらない魅力を感じ、動かない指と格闘しながら、来る日も来る日も坂本サウンドを自分なりに奏でようと頑張り続けた。
彼のサウンドには、当時の僕が表現したい「なにか」がギッシリとつまっていた。彼のコンサートにも行くようになり、人前でピアノを弾く機会をみつけては、積極的に聴いてもらおうとする姿勢が生まれ、ピアノを通じて、引き篭もりの少年が次第に外の世界と触れ合っていくようになる。


この当時、ひどい睡眠障害に悩まされて続けており、担当医である稲田義紀先生に、大阪大学医学部付属病院の、杉田義郎というお医者さんを紹介される。杉田先生から受けた、のべ2年間にわたる治療によって、慢性的体調不良、そして睡眠障害が一気に回復に向かいだす。


彼の提唱していた、「あるがままで生きる」「今を生きる」という基本精神は、とても斬新で素晴らしいものであった。片道2時間半の、病院までの道のりは、引き篭もり少年にとっては遠足のようなものだった。病院の帰り、大阪の繁華街の巨大書店で楽譜を買いあさり、様々な本と出会うようになる。


この当時、「加藤諦三」さんの提唱する「交流分析心理学」、そして、マズロー、Dr.ウェインダイアーの提唱する「自己実現」関係の書物を読みあさり、 自らの半生を振り返りながら、自己との対話を真剣に始めるようになる。そしてそれらを毎日日記帳に書きとめていくことにより、「自分自身」を発見していく。それは喜びと同時に、大変苦痛なものを伴うものだった。実際、「自分探しの旅」の過程は、ここには書けないほどの壮絶なものだった。家族にも多大なる迷惑をかける。


時を同じくしてある知人から、「おまえピアノをやっているなら、生のJazzを聴きに行かないか?」と誘われる。そしてなんとなく知人の後を追いかけてついていった、JazzライブハウスでJazzというものを知ることになる。
生ライブで始まった、近秀樹さんのJazzトリオは、僕にとって衝撃的なものであり、また新しいピアノの世界を発見する。そして様々なミュージシャンの方々とお近づきになる機会を得ることにより、更に行動範囲が広がり、様々な人たちの生き方に触れながら、自分自身を考えていくようになる


そして自分のピアノの未熟さに痛感し、ヤマハの音楽教室で、ブルグミューラーとチェルニー100番に取り組むようになる。
大人の発表会にもたびたび出るようになるが、自分が本当に弾きたい音楽とは正反対の音楽をしていたため、なんともいえない歯がゆさを感じていたる。


その頃、大学を目指し、独学で大学検定試験の勉強を始める。願書提出期限4日前の決断だった。試験までの一ヵ月半、3科目に的をしぼり、徹底的に勉強し、めでたく目標科目を取得する。


ピアノに没頭し、長年苦しみつづけた睡眠障害と体調不良が回復。そしてJazzとミュージシャンとの出会い、そんな環境の中からの「自分探し」・・・。 毎日が楽しくてたまらなかった。日々自分が外の世界で成長し、内面的にも充実していることがハッキリと理解でき、恨みつづけた10代の生活と訣別できると確信した時期でもあったのだが・・・。


一方で「焦り」もあった。10代の頃、自室に引き篭もっていた自分は、「一体この社会に出て何ができるのか?」とひどく不安になり、ピアノを猛練習し、必死になって人間関係を広げ、毎日クタクタになるまで勉強する日々が続いた。


そんな折、大阪のJazzライブハウスに赴いたとき、体全身のしびれ、そして頻脈の症状に見舞われる。足から始まったしびれは、次第に全身に広がり、最後は心臓を直撃。脈は一分間で120を超えていた。一緒にライブに出かけた友人に、「気分が悪い」と訴え、外に出る。しかし、2月の寒い空気は、胸を益々苦しくさせ、呼吸困難に陥り、その場で倒れてしまい、救急車で病院に運ばれる。「人が命を落とす」ということを少し肌で知ったような、二度と経験したくないような、恐怖の瞬間だった。


これは、度重なるストレスから来る一過性のものだとばかり思っていたものの、翌日も翌々日も同様の症状に見舞われ、「これはいけない!なにかがおかしい!?」と、以前通っていた神経科の病院を受診する。
病名は「パニック障害」
難治性の高い、ストレスから来る事が多い病気だそうである。
今や、100中3〜4人の割合で、発病するらしい。僕が中学時代、気分の悪さと、体調不良を訴え、次第にうつ状態に移行していったのは、当時恐らく、軽度のパニック障害にかかっていた可能性があると考えている。それに対する有効な治療法が、当時の日本の医学では確立されていなかったため(パニック障害が、病気として厚生省が認知し、本格的な治療法が国内で確立され始めたのは、93年頃)「うつ状態」として片付けられたようで、効果的な治療をしないことで、うつ状態を誘発したものと確信している。




23歳〜25歳

重度の「パニック障害」をわずらったことにより、家から外に出かけることが困難になり、外出したとしてもひどい発作を起こし、なんども家族と連絡をとり、「救急車騒ぎ」を起こす。そして次第に「出かかっていた」外の世界から隔離されたような毎日を送る。
当時通っていたヤマハの音楽教室も通えなくなり辞退。しかし、
クタクタに疲れ、いつ発作が起きてもおかしくない状態であったとしても、ピアノだけは弾きつづけた。それは、僕にとってピアノという楽器が、自分が自分であることを認識でき、自分を表現しすることができる、たった一人の親友であり、恋人であったからだった。


度重なる不幸、他人からのいわれなき中傷、それまで築きあげてきた人間関係の崩壊、なにより、23歳になろうとしている青年が、女性とふれあい、恋の味すら知れなかったことが、当時の僕にとって一番激しいダメージであり、深い深い心の傷になっていた。深夜に発作を恐れながらのドライブ。。。すると信号待ちで並んだ隣のクルマで、僕と同じくらいの年代の男女が肩を抱き合う姿。。。何かを激しく罵り、気が狂わんばかりに怒り狂った。


10代の頃、果たせなかった夢と希望・・・・。そして挫折・・・・。まるで明日のないような、疲労困憊した心と体・・・。しかし自らに対する、かすかな希望と誇りだけは失いたくなかった。

この頃、生きることに対する絶望感と、耐え切れぬ様々な苦しみの数々から逃れるために覚悟を決め、
30歳を自分の人生の最終到達地点と考え自分の望む場所に到達できなければ、人間として生まれてきたことをに縁がなかったと思い、父親に「遺書」を手渡す。


そんな折、自営業を営んでいる我が家に、たまたま音楽大学の講師の方が来られ、2階でなっている僕のピアノを聴かれ、「一度うちに見学に来て欲しい」といわれる。


願ってもいないチャンスだった。なんとその先生は、自宅から100メートルほどのところに、新しく引越ししてきた人だったのである。「この病気でも、あの距離だったら通える」そう思い、今まで夢にまで見ていた、ショパンやバッハに取り組むようになる。「神は最後まで自分を見捨てなかった」と思った。先生に与えられた課題をもくもくとこなしていく、とても頑張る生徒になった。そして彼女に認めてもらえることが、僕にとって最大の幸福となった。
発表会にも、発作止めを大量に服用し、病気を押しに押して出かけた。あの時弾いた曲は 「シューベルト即興曲 op.90 No.4」 11ページにもわたる大曲だった。


しかしその頃から、「自分がピアノを弾く」ということに疑問を感じるようになり、「弾きたい」のではなく「弾かされている」と感じるようになる。そして次第にやる気を失い、先生の「元不登校児の哀れな子」という接し方と、彼女の音楽観の押し付けから、先生と対立するようになり、クビにされる。


そしてピアノ開始以来、初の「スランプ」を経験し、ピアノを見るのも嫌になる。自分にとって唯一のものであったはずのピアノが、どうでもいいものとなってしまっていた。


そんな時、マンガ家をしている妹が、資料収集のためとばかりにインターネットを始める。稼ぎの無い僕は、インターネットをしている妹を横目に見ながら、時々妹に機材を借りては、インターネットを楽しむようになっていった。そして、
ドリームキャストという、ネットができるゲーム機を購入。メール交換の世界に没頭する。

そして、下津音楽教室 にてJazzを教えてくださることを知り、習いに行くようになる。病状も随分と回復した25歳の春だった。

そして自分でもHP製作をしたくなり、一ヶ月間、マニュアル本片手に勉強し、4ページほどの独り言を書き綴った「大人からのピアノ人生」で、HPデビューを果たす。最初はお客さんが来なければすぐにおろしてしまおうと考えていたのだが、想像だにしなかったような素敵な方々にご来訪をいただくようになる。



 25歳〜現在

HPでの自己表現活動を盛んに行う。インターネットを通じた自己表現活動の中から、様々な人と触れようになり、自らの視野が一気に拡大していく。
この活動が面白くてたまらなくなり、毎日毎日、ページを更新することにあけくれる。
ピアノと違い、抽象的ではない表現活動に対しまた違った魅力を見出し、ピアノかネットか?という生活をしばし送ることになる。

しかし、所詮バーチャルの世界!これをリアリティーを持った世界にしていきたいという、私の強い願望から
 オフ会を開催する そこで得たものは今までにみたこともなかった、「横のつながりを持った」素晴らしい人間関係と新境地を開拓!

インターネットを通じ、現実社会との接点を多数持つようになり、僕の人間関係は飛躍的に発展していき、様々な音楽と出会い、親しむようになる。

そしてたくさんの恋をし10代とはまるで違う、思春期のような美しいひと時に身を任せた。
それはそれは美しい瞬間の数々だったし、今もそれは継続していることを幸福に思います。

悔しく辛く、悲しかった10代のトラウマと決別しつつある今。。。

しかしボクの中ではまだ何も終わっていない。
すべてはこれからである。




僕はこの半生を通じて、「生きる」ことを学びました。
自分を愛し、人を愛することの大切さに気が付いた。本当の意味で、自分を受け入れ、愛せなければ、人は愛せないと思うからです。
家庭環境と半生から、差別されることを知りました。 そして差別することも知りました。
不幸は「学校」だということを知り、何かを学んでいくことの大切さを知りました。
ありのままの自分を受け入れることが、どんなに大切なことかを知りました。
「死」に対する価値観を、波乱万丈の生活の中から知りました。
人はすべて、「心」からスタートしていることに気が付きました。
僕はこの世に、なんらかの使命を持って生まれてきたと解釈しています。
自分自身とどう接しているかということが、他人とどう接していくかということを決定するものであることを知りました。
この世に生を受けた限り、心と体を大切にし、可能な限り長生きし、素敵なものをたくさん見聞き、感じていこうと思います。
本当の幸福は、自分の心の中に眠っていることを知りました。
言葉をならべて得意になるのではなく、本物を持っている人間でありたい。
信ずれば、「人間の可能性は無限大」であることを信じます。
いい恋をたくさんしていきたいと思います。
素敵な音楽、素敵なミュージシャンとたくさん出会い、いい音楽をしていきたい。
今の僕にとって、ピアノは唯一のものではないけれど、最も大切なものであると思います。
「年齢の主人」となり、生涯青春であるような人生を歩んでいきたいと思います。


私の長文にお付き合いくださり、ありがとうございました。


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