※学苑社より刊行予定の『ロジャース理論概説(仮題)』は、まだ発行されていません。発行時には私の無料メールマガジン「カウンセリングと東洋思想」で告知しますので、よろしかったらご登録ください。


 ここに掲載する誤訳・迷訳は、私がそのうち学苑社から出版する予定の『ロジャース理論概説(仮題)』に引用するカール・ロジャースの邦訳の一部である。
 ここでいう誤訳とは、訳者が別の単語と勘違いして間違った意味にしてしまったと思われる翻訳であり、迷訳とは、完全な間違いではないが他の原語を想像させてしまうために邦訳しか読まない読者が本文をだいぶ違ったニュアンスにとってしまう翻訳や、ぴったりした訳語が選択されていないために、読者にはそもそも意味がよく分からない翻訳である。そして以下は、それに対する私のコメントである。これらを参考にしてあらためて邦訳を読み直してみると、訂正箇所以外まで違った意味を帯びてくることがあり、ロジャースを精確に理解するためにはこれまでの翻訳がいかにアテにならない代物か、また、彼の言わんとすることをいかに伝えてこなかったかが分かるはずである。
 『ロジャース理論概説(仮題)』では、ここに掲載した引用箇所のみならず、ほとんどすべての引用箇所について原典にあたって明解な日本語に訳し直してあるので、ロジャースの真意をはるかに明確に捉えることができるようになるだろう。
 なお引用の後の「全集*」は、岩崎学術出版社『ロージァズ全集』第*巻を意味し、「選集上」は、誠信書房『ロジャーズ選集』上巻を意味する。
  【第10章 第1節】
    〔セラピストになるための基礎として要請されるもの〕
 アメリカ心理学会の委員会が述べているように、ある人物は、次のような特質をもつことが望ましいのである:
1.優れた知的能力と判断。
2.独創性、豊富な資質、および融通性。
「豊富な資質(resorcefulness)」は、Macmillan English Dictionary(以下MEDと略記する)では"good at finding effective ways to deal with problems"と説明されている。適当な訳語が思い浮かばない。「融通性(versatility) 」は、MEDではversatile を、"able to be used in many different ways"および"having a wide range of different skills and abilities" と説明している。邦訳は前者の意味をとっている。後者の意味ならば、多芸多才といったところか。
3.“新鮮で飽くことのない”好奇心;“自学する人”。
4.巧みに扱う対象としてよりはむしろ、ひとりの人として人間に関心をもっていること――すなわち、他の人びとの統合性に対する配慮。
「ひとりの人としての人間(persons as individuals)」は、「個人としての人間たち」である。この場合、個人は分けられない(in + dividual) を含意していると思われる。
「統合性(integrity) 」は、私の訳語でいうと「まるごとそのまま」
5.自分のパースナリティの特質への洞察、ユーモアなセンス。
6.動機づけの錯雑さに対する敏感さ。
7.寛容;“謙譲”。
「謙譲(unarrogance) 」は、「尊大でないこと」。あるいは、「偉ぶっていないこと」という訳がよいのかもしれない。MEDではarrogance を、"behavior that shows that you think you are better or more important than other people" と説明している。この場合の「他の人々」は、クライエントを指しているだろう。
8.“治療的な”態度を選ぶ能力;他の人びとと暖かい効果的な関係をつくる能力。
9.勤勉;規律正しい仕事の習慣;圧力に耐える能力。
「圧力(pressure)」は、そのまま「プレッシャー」としておいた方が理解されやすい。
10. 責任の受容。
11. 如才なさと協力性。
「如才なさ(tact)」は、広辞苑第五版では「如才ない」で「てぬかりがない。気がきく。あいそがいい。」と出てくるが、MEDではtactを"a careful way of speaking or behaving that avoids upsetting other people"と説明している。適当な日本語がないが、相手の気を動転させないように“気配り”することを意味している。
12. 統合性、自制および安定性。
ここの「統合性(integrity) 」も、「まるごとそのまま」
「自制(self-control)」も、そのまま「セルフコントロール」としておいた方が理解されやすい。
13. 倫理的な価値を識別するセンス。
14. 文化的な背景の広さ――すなわち、“教育のある人”。
「教育のある人(educated man)」というより「教養人」とでも訳した方がよいかもしれない。
15. 心理学、とくにその臨床面への深い関心。
(全集16 p.72)
 セラピストとしての訓練を受けようとしている人にとって望ましい準備とはいったい何であろうか? 次の提案は、きわめて試案的なものである。この順序にはほとんど意味がない。
1.学生は、自分の文化機構の中で、人間に対する広い経験的な知識をもっていることが望ましいように思われる。……
(全集16 p.75)
「自分の文化機構(cultural setting)の中で、人間に対する」は、「その人自身の文化的構えの中にある人間存在について」ではないか。
  【第10章 第2節】  なし
  【第10章 第3節】
1.テクニックを離れたあるひとつの着実な傾向、すなわち、カウンセラーの態度のオリエンテーションに焦点を合わせる傾向があった。明らかになっていることは、達成されるべき最も重要な目標は、学生が、人びとに対する自分自身の基本的な関係と、その関係に随伴する態度や哲学を、はっきりと理解すべきである、ということであった。それゆえに、クライエント中心のセラピストを訓練する第一歩は、学生が、どのようなオリエンテーションを現わしたらよいかという心遣いをいっさいしないようにすることであった。基本的な態度は純粋でなければならない。もしもその学生の純粋な態度が、その学生をなんらかの他のオリエンテーションの方向へと向かわせるならば問題はないし、しかもけっこうなのである。セラピストの訓練の目的はますます、特定の商標のセラピストではなくて、セラピストたちを訓練することになってきているのである。
(全集16 pp.69-70)
「学生が、どのようなオリエンテーションを現わしたらよいか(as to the orientation with which the student will emerge)」は、直訳すれば、「その学生がそれでもって世に出る(emerge)であろうところのオリエンテーションに関する」
「心遣いをいっさいしないようにする(drop all concern)」は、意味不明瞭なので、「一切の気がかりを捨てる」とでも訳しておくべきかもしれない。
「純粋な(genuine) 」は、私の訳語では「嘘偽りのない」
「特定の商標の(a particular brand of) 」は、「特定ブランドの」と訳した方が、ブランド好きの日本人にとっては皮肉がきいていてよいかもしれない。
 開始するにあたってきめられたのは、このコースの雰囲気ができるだけクライエント中心療法の雰囲気になるようにすることと、自発的な学習を促進するように努力すること、であった。ブロックスマは、それを次のように述べている:

 クライエント中心の見解についての学習は、クライエント中心のカウンセリングの諸条件と似た諸条件下で最もよく生起すると、センターのスタッフは信じていた。被訓練者は、自分のクライエントをカウンセリングする場合に創りだせたらと思っている社会的-情動的雰囲気の特質を、この訓練計画のすべての面で経験すべきである。このことは、それぞれの活動に参加する均等の機会と、教授場面でディスカッションをして異議を唱える自由、を含んでいた。あるひとつのクライエント中心の雰囲気は、学生の価値観や感情や考え方に対し、教師が敏感であることを要求する;それはまた、学生たちが、新しい学習によって引き起こされる深い感情を処理できるように、教師のほうでの非防衛性を要求する。学生の情動化された見解が受容的な教師に理解されるにつれて、学生は、教師の見解を学ぶことができるようになり、自分で自分自身の代わりの見解をつくりあげる、と推定されたのである。
 このような学習者中心の雰囲気において、ある人は、自分というものと自分の態度や価値観や人びとを取り扱う方法とを理解することができるようになるであろうと、訓練担当のスタッフは信じていた。この雰囲気は、いくつかの径路を通って遂行されよう。本質的には、これらの径路は、自我がまきこまれている、自己-指示的な、社会に押しつけられた、いろいろの経験の組み合わせを含んでおり、しかもそれらの諸経験は、以前に学習した諸要素を新しい学習と結びつけるのであろう。
(全集16 pp.85-86)
この個所の「雰囲気」は、いずれもclimate である。ちなみにMEDでは、atmosphereを"the mood or feeling that exists in a place and affects the people who are there" と説明し、climate を"the general situation or attitudes that people have at a particular time"と説明している。微妙な違いだが、前者よりも後者の方が客観的で一貫した構造をもっているのではないか。
 何かとくにサイコセラピィの方法についての話があるとき、多くの場合それを聞く人びとは、“そうすればわたくしは、ああいうぐあいにやらなければならないんだ”という感じになります。そして人びとは、三つのうちどれかひとつの反応を示すことになります。“ああいうぐあいにやらなければならないんだ”と思って、自分たちにとってほんとうに純粋な(genuine) ものでないやり方で、つまり自分自身の感情や考え方とほんとうに一致していないやり方でカウンセリングをしようとする。これはたしかに、いかなるタイプのカウンセリングにとっても有害なものであります。またある人びとは、自分はひとつのアプローチを教えられたけれども、そういうようにはやっていないので、“わたくしは、そうすべきであるということをやっていない”というように、それについていささか劣等感を感ずるようになりやすいのです。それゆえ彼らの自信は少し傷つけられます。もうひとつの反応のしかたは、提示されたことに対する単純な反感や反対であります。このような反応はいずれも、きわめて実り多いものとは思われませんので、カウンセリングの方法についてのお話をして、このような結果になるということは、わたくしにとって非常に満足できないことなのであります。
(全集14 pp.266-267)
ここの「一致して(in accord with)」は、congruent と混同されないように、別の訳語を使う方がよい。私は「即応する」という訳語を当てることにしている。ちなみにMEDでは、in accord withは"in agreement with, or not opposed to, a fact, rule, or principle"と説明されており、congruent は"similar to or appropriate for something" と説明されている。前者は無意識に対する意識の承認態度を、後者は無意識に対する意識の類似・適合状態を意味しているとでも言えようか。
「いささか劣等感を感ずる(feel a little guilty)」は、劣等感よりも「罪悪感」とした方がよいだろう。
 ここであてはまるように思われる一般的な原理は、もしも教える場面の雰囲気や教える人と初歩のカウンセラーとの関係が、セラピィにおいて存在する雰囲気や関係と同じものであるならば、それならば若いセラピストは、セラピィの経験はどんな経験であるかについての知識を、自分の内臓において習得しはじめるであろう、ということです。……〔中略〕……学生たちがこのような雰囲気やこのような受容的な関係を利用して、クライエントがこのような関係を利用して自分というものについての自分の関心事を探索するのとほとんど同じように、サイコセラピィについての自分たちの関心事を探索することを、私たちは発見しております。これは、非常に重要な意味のあるタイプの学習であるように思われます。
(全集16 p.137)
この個所の「雰囲気」は、いずれもclimate である。
「関心事(concern) 」は、むしろ「気がかり」と訳した方がinterestと混同されなくてよい。
 セラピィの過程における訓練の目標は、学生が、自分自身の経験から、サイコセラピィへの自分自身のオリエンテーションを築きあげてよいのであります。このオリエンテーションは、最終的に発展するとたぶん、他の人びとのそれと非常に似ている、あるいは自分がさらされたオリエンテーションと非常に似ている、というようになることは事実であります。
(全集16 p.145)
邦訳では、第一文と第二文の間に以下の文が欠落している。「私の見積もりでは、効果をあげているどんなセラピストも自分自身の内部で、そしてクライエントや患者との経験から、セラピーに対するオリエンテーションを築きました。」
 私は、他者がありのままに真実であり、同時に私とは異った存在であることを受けとめる強さを自分の中に認める時、内的喜びを感じます。これはしばしば非常に脅威となる可能性があります。私は、その重要性をスタッフ間のリーダーシップや親の役割に於ける結論として見出したのです。私は、同僚、あるいは息子や娘を、思想、目的、価値感などが自分とそっくり同じではない自分とは切り離され個人として自由に認めることができるだろうか? 私はひとりの同僚のことを考えています。この数年彼はめきめきと能力を示すようになりましたが、私の価値観や振る舞い方とは全く違うものを持っているのです。私、私の考え、私の価値観とは全く違ったひとりの人間として彼を解き放ち、彼自身の成長を認めていく事が十分に出来ない私を見出した時、苦闘しました。しかし、少しでもそう出来たことは喜びでした。他者を分離した人間として認めることは、その人の主体的発達を引き出すと考えるからです。
 私は、自分が他の人を巧妙に操って私のイメージに合う人へと改造しようとしているのに気づくと自分に腹が立ちます。これは、私の職業経験に於て非常に痛みとなっています。私は『弟子』を持つことが嫌いです。私の期待はこうだろうという方向へこせこせと自分を作り変えていく学生を持ちたくありません。何らかの責任を彼らに課すことはできますが、彼らの権利である別個の専門家として巣立たせる代わりに、ひそかに彼らを支配して自分の複製を作り出す可能性を避けることはできないのです。
(『人間尊重の心理学』p.17)
「私とは異なった(separate from me)」は、different と勘違いされる可能性があるから、「別個の」など別の訳語を使った方がよいだろう。意見などが同じでも違っていても、別個の存在は別個の存在なのである。
「私は、その重要性をスタッフ間のリーダーシップや親の役割に於ける結論として見出したのです。」では、原文にある ultimate test (窮極の試金石) がどのように訳されているのか判然としない。私の訳は、「それがスタッフ内でのリーダーシップや親の役割に関する究極の試金石) だということが私には分かりました。」
「価値感」も「価値観」も、ともにvalues。たぶん前者は誤植だろう。
「切り離された個人(separate person) 」は、「別個の人間」などと訳しておいた方が、前の部分と共通の単語であることが容易にみてとれてよい。
「私、私の考え、私の価値観とは全く違ったひとりの人間として彼を解き放ち、彼自身の成長を認めていく事が十分に出来ない私を見出した時、苦闘しました。」は、私の訳では、「彼が彼自身であるようにさせ、彼が私や私のアイデアや私の価値観とは全面的に別個のひとりの人間として発達するようにさせることは、本当に苦闘でしたし、」となり、邦訳ではこの直後に、「私はそれに部分的にしか成功しなかったのだと感じています。」が抜けていると思われる。
「主体的発達(autonomous development)」は、subjectve と紛らわしいので、「自律的な発達」としておいた方がよいだろう。
「改造しよう(mold)」は、「模(かたど)ろう」と訳した方が、まだ個性のはっきりしない若い人々を一定の型にはめ込もうとしているというニュアンスが出ていいのではないか。あとの方の「作り変えていく」もmold。
「何らかの責任を彼らに課すことはできますが、彼らの権利である別個の専門家として巣立たせる代わりに、ひそかに彼らを支配して自分の複製を作り出す可能性を避けることはできないのです。」は、私の訳では「いくらかの責任は彼らにもありますが、私は、自分がそのような個人たちを巧妙にコントロールして、彼らにはそうなる権利がある別個の専門家たちにならせる代わりに、彼らを私自身のカーボンコピーに作り上げてきた、という心地よくない可能性を避けることはできないのです。」 すなわち、学生にも多少の責任はあるが、自分の責任も無視できない、という意味である。
  【第10章 第4節】
 私は、復員行政局やその他の境遇における学生の訓練をいくつか聞いたときに、いかに速やかに被訓練者が患者をあるひとつの対象物とみなすようになるか、すなわち、患者は、解剖し、分析するための、あるひとつのケースであり、しかも“自分自身と同じあるひとりの人間”として患者を、ほとんど情動的に評価していないかを知って、いずれかといえば、強いショックを受けました。このような学習は、人を、完全にセラピストには向かなくしてしまうのです。したがって、セラピストへと向かうつまずきながらの最初の足どりは、自分が、あるひとりの人、すなわち、自分と同じだれか、としてはっきり気づいているだれかと共に歩むべきである、と私は思います。
(全集16 pp.135-136)
「境遇(settings)」は、この場合、カウンセリング訓練のロール・プレイングにおける「設定」を指す。
「評価して(appreciation)」は、evaluationと混同されるのでよくない。そもそもロジャースは、判定や評価をしないのがよいと主張していた。そこでここは、「その真価を認めること」などの別の訳語にしておくべきだろう。
「人を、完全にセラピストには向かなくしてしまう(completely unfit an individual for the role of the therapist)」は、直訳すると「個人を完全にセラピストの役割にフィットしないようにしてしまう」になる。
 もしもある人が、知的な経験的な訓練の長いコースを通ってゆくならば、その人は、実際にクライエントとはじめて話し合うことに、明らかに不安になりはじめるというのが、私たちの経験であります。その人は、そのときまでに、しくじるかもしれないということを、あまりにも多く学んできているので、何かしら自分自身の足を心配そうに見つめている、むかでのようになるのであります。こういう理由から、訓練の初期に学生は、できるならばどんな人間的な接触でもないよりはましであるような場面において、いろいろの人に対して援助的であろうと努力することが望ましい、と私は考えております。……〔中略〕……この場合その人は、不安や罪悪感をそれほど感じないで機能しはじめることができます。このようにしてその人は、もしも自分が誤りをおかすならば、この世が自分の頭のあたりで粉々になってしまうであろうような感じなしに、現実的な方法で、自分自身の対人的な技能を習得しはじめるのであります。
(全集16 pp.141-142)
「もしも自分が誤りをおかすならば、この世が自分の頭のあたりで粉々になってしまうであろうような感じなしに(without feeling that the world will shatter in pieces about his head if he makes a mistake)」は、それまで自分の頭の周りに思い描いていた〔正しい面接の〕世界が、ミスをおかすことによってドカーンと粉々に砕け散ってしまうというイメージを指しているのだと思われる。
 理論的には、初歩のセラピストが扱かうクライエントは、注意深く選択することが望ましいように思われましょう。実際には、二・三の常識的な注意は別として、それができるとは思われません。セラピィを遂行するむずかしさは決して、混乱の深さとは直接に相関しておりませんので、診断的な公式化は役にたつものではありません。私が主張したい唯一のおおざっぱなやり方は、もしもできるならば、初歩のセラピストに割りあてられる最初のクライエントたちは、意識的に援助を望んでいる人であるべきである、ということであります。クライエントがはっきり変わりたいと望んでいる場合には、セラピィの過程はより容易に、しかも被訓練者にとって緊張がより少なく、進行しはじめるのであります。
(全集16 p.144)
「混乱(disturbance) 」は、MEDによれば、"a situation in which someone's mind or body develops a problem and stops operating in its usual way" と説明されている。confusion との混同を避けるために、私は「かき乱されている」という訳語を当てることにする。
「おおざっぱなやり方(rule of thumb) 」は、MEDによれば"a rule you use for doing or explaining things that is based on experience" であるから、「経験則」とでも訳しておく方がよいだろう。
 実習コースの2学期間以上を履修した大学院の学生たちの中から、カウンセリング・センターのスタッフの地位への志願者が受け容れられる。……
 志願者たちの中から、最も専門的な能力と見込みがあることを示しているように思われるような人びとが選抜される。
(全集16 p.125)
「2学期間(two quarters)」は、半年間を意味する。日本の大学で言えば2単位分といったところだろうが、週2回とか、週1回で各回2時限だったとしたら、4単位分になる。詳細は不明。
 特別任用者は、スタッフの仲間になるときに、自分が気楽にいっしょにやれると思う、自分のケースについて頼りになる人として使える、ひとりもしくはそれ以上のスタッフ・メンバーを、選ぶように勧められる。そのスタッフとはじめて仲間になったときには、相談やスーパーヴィジョンのための機会に、かなりの程度、自分というものを役だつようにしようとしがちであるが、しかし次第に、そうする必要をあまり感じなくなる。ときがたつにつれて、自分の専門的な訓練の主要な部分は、次のふたつの資源から得られるようになる――すなわち、自分がいっしょに取り組んでいるクライエントからの絶え間ない学習と、大きいグループの場合にも小さいグループの場合にも、他のスタッフ・メンバーとの与えかつ取る式の討議である。換言すると、特別任用者は自分の活動に対して自分で責任をとれるようになるが、しかし、自分が必要とするときにはいつでも自由に同僚たちのところに行って援助を求めながら、自分の専門について立派な一人前のメンバーになっているのである。
(全集16 p.126)
「頼りになる人(resource person) 」は、MEDによればresourceが"something such as money, workers, or equipment that can be used to help an institution or a business"と説明されているので、「助っ人」とでも訳しておいた方がよいのではないかと思う。
「相談やスーパーヴィジョンのための機会に、かなりの程度、自分というものを役だつようにしようとしがちである(apt to avail himself of the oppotunity for consultation or supervision to a considerable degree) 」は、「彼はかなりの程度コンサルテーションやスーパーヴィジョンの機会を利用しがちである」
「与えかつ取る式(give and take) 」は、そのまま「ギブ-アンド-テイク」の方がわかりやすい。
  【第10章 第5節】
 認可や免許制度を求める動き、長年の有利な立場から無認可の実践家を排除しようとする動きを見てきましたが、彼らの試みは実を結ばないだろうと思います。私が心理学会会長の時、1947年に学会がABEPP(アメリカ心理士認定委員会)を設立する援助を行いました。当時はその動きにどっちつかずの感情を抱いていましたが、今は反対の立場をとれば良かったと思っています。
(『人間尊重の心理学』p.231)
「無認可の実践家(charlatan) 」は、「似而非者(えせもの)」とでも訳すべきだろう。MEDはcharlatan を、"someone who cheats people by claiming to have special knowledge or abilities"と説明している。ロジャースの考えは、無許可でも優れた実践家はいるということなので、邦訳はむしろ誤訳に相当するだろう。
「どっちつかずの感情を抱いて(ambivalent)」には、優柔不断よりは葛藤のニュアンスが含まれているだろう。これに適切な訳語をつけるのは難しい。
 認定規準をもうけるとすぐ出てくる最大の結果は、専門職を古くさいイメージに凍結することです。臨床心理学者、NTL(National Training Labolatory)のトレーナー、結婚カウンセラー、精神科医、精神分析家、先日耳にした心霊療法家、みんな同じなのです。避けられない結果です。試験をしてはどうでしょう? 過去十年も二十年も使われた質問やテストが使われるのは確実です。試験官にふさわしいのは誰でしょうか。十年、二十年の経験を積んだ人、したがって十五年も二十五年も前に勉強をした人が起用されるのは確実です。このような人々がいかに真剣に基準が現代に合うよう努力したとしても、何世代も遅れたものとなります。つまり、認定手続は過去に根ざした過去の言葉で専門職を定義したものとになります。
(『人間尊重の心理学』p.232)
「現代に合う(update)」は、訳として正しいとは思うが、最近ではアップデートの方がイメージしやすくなってきているかもしれない。
「試験をしてはどうでしょう?(What can you use for examinations?)」は、精確に訳すと「試験には何を用いることができるでしょうか?」となる。
「何世代も遅れた(several laps behind) 」は、「何周か周回遅れになって」である。大御所が若手の前を走っているぞと思ったら周回遅れだった、という皮肉をいっているわけではないとは思うが。(^^;
 第三の欠点は専門性が固い官僚主義を生み出す点です。全国レベルでそのような官僚主義があるかどうか知りませんが、州のレベルではよく生じています。官僚的規則が正しい判定にとってかわるのです。ある人は規定通り二百時間のスーパービジョンを受けたので認可されますが、百五十時間しか受けなかった人は認可されません。セラピストとしての能力やその仕事の質、受けたスーパービジョンの質に注意が払われないのです。また心理学のすぐれた論文が心理学科ではない大学院で書かれたために資格が与えられない人も出てきます。そのような例がいくらでもあります。役人はおなじみのやり方で幅をきかせ始め、専門性を著しく後退させます。
(『人間尊重の心理学』pp.232-233)
「専門性が固い官僚主義を生み出す(the urge toward professionalism builds up a rigid bureaucracy.)」は、「〜へのせき立て」を訳し忘れている。精確には「専門性へのせき立てが……」
「官僚主義(bureaucracy)」について。MEDではbureaucracy を"a complicated and annoying system of rules and processes"と説明している。また、bureaucratを"someone who is employed to help run an office or government department. This word can suggest that you do not like people like this because you think they have too much power and care too much about rules and systems"と説明している。必ずしも国家の官僚機構の介在を意味しているわけではないだろう。公的な装いをもつ「○○資格認定協会」というような団体も、もし過度に杓子定規になるならば、官僚主義的組織に含まれるのではないかと思われる。
「正しい判定(sound judgement) 」は、「健全な判定」と訳されるべきだろう。杓子定規な判定は必ずしも信頼できる適切な判定ではない、ということを言いたいのだから。
「百五十時間〔のスーパービジョン〕しか受けなかった(he has 150 hours of supervised therapy)」は、「監督指導された〔=スーパーヴィジョンを受けながらの〕セラピーを百五十時間した」ではないか?
「幅をきかせ(dominate the scene)」は、「現場を支配する」の方がよいのでは?
「専門性(profession)を著しく後退させます」は、professionalism と区別できるように訳語を変えておくべきだろう。「専門職の仕事」とでも訳しておくべきか。
 これと裏表の関係にあるものがあります。私が最近知遇を得た命の電話カウンセラーのことが浮かびます。電話を通して彼らは麻薬の悪酔、自殺予告、もつれた恋愛関係、家庭不和等あらゆる個人的問題に対応します。ほとんどの人は大学生かそれより少し経験を積んだ人々で、最小限の集中的職業訓練を受けています。そして私は、彼らが多くの危機的場面で、専門家もうらやむ能力と判断力を示しているのを知っています。伝統的基準に照らせば全くの無資格者です。しかし、彼らは献身的で有能なのです。
 また私のグループ体験のことが思い浮かびます。いわゆる純粋なメンバーが、難しい個人や難しい状況に対して私自身や専門家である他の促進者よりもはるかにすぐれた知恵を持っているのです。これらを見れば頭を冷やすよい経験となります。また夫婦のためのグループ・リーダーとして最高の人を思い浮かべてみると、男女一名ずつ思い浮かびますが、どちらも初級の資格証明書すら持っていません。有能な人々が免許の垣根の外に存在しています。
(『人間尊重の心理学』p.233)
「命の電話カウンセラー("hot-line”worker) 」にはカウンセラーという語はない。
「職業訓練("on-the-job”training) 」は、現場訓練とか実地訓練と訳した方がよいだろう。
「純粋なメンバー(naive member)」は、genuine と勘違いされる可能性もあるので、「素朴なメンバー」などの訳にしておくべきだろう。
「無資格者(unqualified) 」、前の段落の「有能な(competent) 」、後の段落の「有能な(qualified) 」のように、訳語が曖昧に適用されているように思われる。私の訳では、この順に「適格でない」「有能な」「適格な」。ちなみにMEDでは、qualified を"thoroughly trained for a particular job" や"able to do something, because you have the knowledge, skill, or experience that is needed" と説明し、unqualified を"not having the education or experience to do a particular job" と説明している。すなわち、訓練済みか否かを意味する単語である。そして、competent を"capable of doing something in a satisfactory or effective way" と説明している。
「資格証明書」と「免許」は、いずれもcredentialの訳語。後者は、license と混同されないように前者と同じ訳語を当てておいた方がよいだろう。
 人間と向き合う時、免許は真の資質を保障するものではないという事実を真正面から見つめねばなりません。私達が尊大にならなければ、資格のない人からも多くのことを学べます。なぜなら人は人間関係に於ては思いもよらない力を発揮する事があるからです。
(『人間尊重の心理学』p.234)
「免許(a certificate) 」は、認定証とでも訳しておくべきでだろう。「資格のない(uncertified) 」も、これにならって「認定されていない」と訳すべきだろう。
「私達が尊大にならなければ、資格のない人からも多くのことを学べます。」は仮定法過去であり、本当は尊大なので学べないというニュアンスが言外に含まれていると思われる。
「なぜなら人は……」の人は、資格のない人を先行詞とする関係代名詞。because 等の理由を表わす語は原文にはない。
 一般の人々を守るためには、消費者保護機関と類似のものを作ることができるでしょう。役立たない、あるいは倫理に反する行為への苦痛が一件持ちこまれるなら釈明して終わります。しかし、ひとりの人に対して多くの苦情が来るなら、その名前を公表し、「利用者は注意してください」という形にします。
(『人間尊重の心理学』p.235)
「一般の人々を守るためには(as a supplement to guide the public) 」は、直訳すれば「公衆を案内するための補足として」
「類似のもの(the equivalent)」は「同等のもの」または「〜に対応するようなもの」
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