この用語〔=内在化〕は、一般意味論(general semantics) から得られたものである。もし人が内在的な様式で反応したり知覚したりするならば、経験を絶対で無条件なものとみなし、過度に一般化してしまい、概念や信念によって支配され、その反応を空間と時間のなかに位置づけるのに失敗し、事実と評価とを混同し、現実検証によるよりは抽象化に頼りがちになる。……
……内在化は、防衛状態にある人の行動の特質をあらわす用語である。 |
| (全集8 p.198) |
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「内在化(intensionality)」という訳語では、internalization と混同されやすいので、論理学でよく用いられている「内包性」という専門用語をあてておいた方がよいと思う。 |
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| 【『概説』第2章第7節より】 |
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セラピィのなかで人間は、正確に象徴化された経験と一致するように自己概念を改めていくようにみえる。……
このように自己経験が正確に象徴化され、この正確に象徴化された形で自己概念のなかに包含される場合が、自己と経験との一致の状態である。もし、これがすべての自己経験について完全に当てはまる人は、十分に機能している人間(fully functioning person)となるであろう。……もしこれがある特定の関係とか、ある特定の瞬間とかいうように、限られた面の経験についてのみ当てはまるなら、その人はその程度だけ一致の状態にあるということになる。統合された(integrated)、全体的な(whole) 、純粋な(genuine) 、などという言葉が一般に用いられているが、これらは経験と自己との一致をあらわす同義語である。 |
| (全集8 pp.198-199) |
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「十分に機能している人間」は、既に定着している訳語ではあるのだが、この表現は意識的な有能性を重視しているような感じがするので、私はこれを「十全に機能している人間」と訳すことにしている。
「もし、これがすべての自己経験に……」は仮定法過去である。それを明確にして訳すなら以下のようになる。「もし仮にこれが一切の自己経験について完全に当てはまるとしたら、その個人は十全に機能している人間(fully functioning person)であることだろう。」 十全に機能している人間は、想定上の・理念的な存在なのである。
「瞬間(moment of time)」は「時機」とでも訳すべきであろう。
「純粋な」で意味がよく分かる人は少ないのではないか。全集以外の一般的な翻訳では「真正な」「正真正銘の」などが使われるが、私は「嘘偽りない」という訳語をできるだけあてる予定にしている。 |
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| もし外在的な仕方で反応したり知覚したりするならば、経験を限定あるいは分化した仕方でみる傾向になり、事実の時間・空間的なよりどころに気づき、概念よりは事実を重んじ、いろいろな方向から評価し、さまざまの段階での抽象化に気づくようになり、自分の推理や抽象化の作用を現実と対照して検証していくようになる。 |
| (全集8 p.200) |
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「外在的(extensional) 」も、論理学で用いられている「外延的」という訳語を使った方がよいのではないか。 |
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| 意味論者たちは、言葉や記号と、実在の世界(world of reality)との関係は、地図とその地図が表現している実際の地域との関係とまったく同じである、と指摘している。 |
| (全集8 p.95) |
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地図との対比を表現したいのなら、「実際の地域(territory) 」よりも「現地」という訳語の方が感じがつかめるだろう。 |
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| その人がもし次のような態度であれば、成熟した行動をあらわしているといえよう。すなわち、現実的で外在的な態度で知覚し、防衛的ではなく、自分が他人とは異なっているという責任をとり、自分の行動についての責任を受けいれ、経験を自分の感覚にもとづいた証拠によって評価し、新たな証拠によってのみ経験の評価を変え、他のひとびとをそれぞれ自分とは異なる独自の個人として受け入れ、自分を尊重し、他人をも尊重するような行動を示す時である。 |
| (全集8 p.200) |
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「尊重する(prize) 」は、respect を連想させるので、別の訳語を使うべきである。私はこれに「貴ぶ」という訳語をあてている。 |
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| 【『概説』第2章第8節より】 |
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| 二人の人間が互いに相手の経験の場のなかに知覚される、あるいは潜在知覚される差異をひき起こした場合、その二人は心理的に接触している、あるいは最少限度の関係をもっているのである。 |
| (全集8 p.201) |
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「差異をひき起こす(make a difference) 」は、非常に訳しにくいフレーズである。これは、何事かが有るのと無いのでは大きな違いが出てくるという意味である。したがってこの箇所は、「各々が〔居ることで〕相手の経験の場に、ある知覚されたあるいは潜在知覚された違いをつくりだす時には、その二人の人間は心理的に触れ合っている、あるいは関わりの最小不可欠のものをもっている。」くらいに訳しておくのがよいだろう。 |
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| 【『概説』第2章第9節より】 |
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| 他人に無条件の肯定的な配慮を感ずるということは、その人を“尊重する”(prize) ことである。……これはその人の個々の行動について、いろいろと異なった評価が与えられるかも知れないが、そのようなことにかかわりなく、その人を尊重することを意味している。ある親がその子どもを“尊重している”場合、必ずしもその親が、その子のいろいろな行動をすべて同じように、高く評価しているということはないものである。受容(acceptance)という言葉は、これと同じ意味を表わすためにしばしば用いられてきた言葉である……。……受容と尊重することとは、いずれも無条件の肯定的な配慮と同義語である。 |
| (全集8 pp.202-203) |
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「配慮(regard)」もまたすでに定着した用語ではあるが、私は「眼差し」と訳すことにしている。
「比較する(discriminated) 」は、直訳すれは「識別する」である。意味としては比較するでもよいのだが、これは定義文だから、精確に訳しておいた方がよいのではないかと思う。
「その人を尊重することを意味している」の箇所のみvalue 。他の3箇所の「尊重」は、prize 。「高く評価している」もvalue 。prize という言葉をvalue という言葉で説明しようとしている箇所だから、訳に工夫は必要だろう。 |
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| 受容というのは無条件の自己価値をもった人間(a person of uncontditional self-worth) として――彼の状況、彼の行動、彼の感情がどのようなものであろうと、価値をもっている人間として――クライエントに暖かな配慮(a warm regard) をもっている、ということである。それは、どのようなかたちにおいても彼を評価するということからまったく離れて、彼を大事にする(prizing) ということである。それは、彼をひとりの分離した人間(a separate person) として尊重することであり、彼が彼自身の感情を自分の好きなようにもつように、喜んで許すことである。それは、彼の態度がいかに絶望的なものであっても、あるいはいかに自信過剰であっても、またいかに強くとも、いかに弱くとも、あるいは過去にもっていた他の態度といかにひどく矛盾するものであっても、彼のその瞬間の態度を受容するということである。他の人間の浮動してやまないすべての局面をこのように受容するということは、彼にとってはそれが、暖かな安全な関係になるということである。そして、ひとりの人間として好かれ、大事にされているという安全感は、援助関係(a helping relationship)において、きわめて重要な要素であると思われるのである。 |
| (全集15 pp.43-44) |
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「無条件の自己価値をもった人間(a person of uncontditional self-worth) 」は、「無条件に自己に値打ちがある人間」くらいに訳した方がいいのではないか。ちなみに私は、value とworth をあえて区別するために、おのおのに「価値」と「値打ち,‥‥に値する」という訳語をあてることにしている。
「ひとりの分離した人間(a separate person) 」は、「ひとりの別個の人間」の方が分かりやすいのではないか。
「彼のその瞬間の態度を受容する」も、「彼のその時点での態度を受容する」と訳した方が実際のカウンセリングの感じに近いだろう。 |
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| セラピストの態度は、その理想的な状態では、一般に愛(love)と呼ばれている体験の多くにみられる、代償という性質(quid pro quo aspect) を欠いている。それはただ、ある人間の他の人間に向かってあふれでる人間的な感情(the simple outgoing human feeling of one individual for another) なのであり、性愛的な感情とか親の感情(sexual or parental feeling)よりももっと基本的でさえある感情なのだと私には思われる。それは、彼の発達を妨害したくない、あるいは自分自身の発展(self-aggrandizing) のために彼を利用したくないという、その人間についての十分な気配りなのである。彼が自分の流儀に従って成長することができるように彼が自由になり得たときに、そこに私たちの満足があるのである。 |
| (全集4 pp.84-85) |
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「自分自身の発展(self-aggrandizing) のために」よりは、「自己栄達の(self-aggrandizing) 目標のために」という訳の方が意味がよく通じる。
「気配り(caring about)」は、「心配り」とも訳されているが、私はこれを「気遣い」と訳すことにしている。ちなみに、MEDではcare aboutを"to be interested in something and feel strongly that it is important"と説明し、care for someoneを"to do the necessary things for someone who needs help or protection" と説明しているが、私はあえて両者を訳し分けない。 |
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| 私は、肯定的感情を提供したり受けとめたりすることに恐れを感じなくなってから、他者をより尊重するようになりました。また、他者を尊重することは難しいことであると考えるようになりました。自分の子供に対してすらそうなのです。子供達を心から尊重して愛するよりも、彼らを思いのままに動かして愛していることがあまりに多いのです。私が最も充実を感じるのは、私が日没の美しさを心からいとおしむように、目の前にいる人を心からいとおしんでいる時です。その人をありのままに受けとめるなら、日没の光景と同じように素晴らしいものです。私達が日没を心からいとおしむのは、太陽を思い通りに動かせる等と思ってもみないからでしょう。夕焼けを見ながら、「右側のオレンジ色をもう少しぼかして、下の方の紫をもう少し広げて、雲はバラ色にしたいな」等とつぶやくことはありません。日没を自分の意志で動かそうとは思いません。日が沈む様を、畏敬をこめて見守ります。これと同じように、同僚、息子、娘、孫達を見守るのが私は最高に好きなのです。こういうあり方は東洋的態度なのだと思います。私にとっては、それが最も満足できることなのです。 |
| (『人間尊重の心理学』p.21) |
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ここの二カ所の「尊重する」はappreciate (真価を認める) である。「心からいとおしむ」もappreciateであり、この単語がかなり多義的な意味で用いられているのが分かる。 |
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次のような質問がしばしば発せられる:すなわち、“しかし、自分のクライエントの利己的な、もしくは非社会的な行動に対するセラピストの態度はどうなのか? 彼は,これを評価なしに受け容れることになるのか?”と。ときにはこの質問は、効果的なセラピストはその人をとうとぶのであって、必ずしもその人の行動をとうとぶのではない、ということによって答えられる。だがしかし、これが適切な、もしくは本当の答えであるかどうかは疑わしいのである。確かにセラピストは、ひとつの特定の行動が社会的に受け容れられない、もしくは社会的にいけない、彼が自分自身の中では賛成することができないであろうようなものである、そして、社会的なグループの福祉のために有害な行動のしかたである、ということを感ずるかもしれないのである。しかし、効果的なセラピストはたぶん、望ましい行動としてではなくて、このクライエントの状況、諸経験、および感情の、当然の結果として、彼のクライエントのこの行動についての受容を感ずるであろう。そこでセラピストの受容はたぶん、次のような感情に基づいているのであろう:“もしもわたくしが、同じ背景、同じ状況、同じ諸経験をもっていたならば、わたくしがこのようなやり方で行為するであろうということは、このクライエントの場合にそうであるのと同じように、わたくしの場合にも避けられないであろう。” このような点で彼は、彼の子どもが、恐れとろうばいのときに、彼の着物の中でうんちをしてしまった、よい親のようなのである。愛している親の反応は、その子どもに対する配慮と、その状況のもとではまったく当然なできごととしてのその行為の受容、との両方を含むのである。これは、その親がこのような行為全般に賛成する、ということを意味するのではないのである。
このようにセラピストが、自分のクライエントをとうとび、自分のクライエントのいろいろの思いもしくは行動の、そのクライエントの中での意味もしくは価値をわかろうとしているときに、彼は、賛同もしくは不賛同という反応を感じない傾向があるのである。彼は、現にあるものの受容を感ずるのである。
無条件の肯定的な配慮は、そのセラピストによって伝えられるときに、そのクライエントが、自分の内的な自己のもっとも深くおおい隠されている諸要素を探索し、かつ体験することができるような、非-脅威的な背景(non-threatening context) を供給するように機能するのである。セラピストは、父親的でもないし、センチメンタルでもないし、表面的に社交的で愛想よくもない。しかし彼の深い配慮は、そのクライエントが自分というものを探索するようになり、もうひとりの人間と深く分かち合うようになることができる、ひとつの「安全な」背景を供給するうえで、必要なひとつの要素なのである。 |
| (全集19 pp.183-184) |
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「利己的な、もしくは非社会的な行動(asocial or antisocial behavior)」は、素直に「非社会的または反社会的な行動」と訳していいのではないか。
ここに出てくる「とうとぶ」はprize である。
「恐れとろうばいのときに」は、「恐れやパニックの時点で」 「子供に対する配慮」や「彼の深い配慮」の箇所は、regardではなくてcaringが使われている。
「父親的」は、paternalistic である。MEDによるとpaternalism とは、"a system in which someone in authority advises and helps people but also controls them by not letting them make their own decisions and choices" であり、我々がdirectiveness と言っているものと一致する。「父性的」と訳した方がよいのかもしれない。やはり原語を挿入しておくべきだろう。 |
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| クライエントの経験においては、もしもその問題が深くうえつけられているならば、とくに唯一の安定した経験の部分は、セラピストによって受容されている失敗のない時間であるように思われる。この意味において、クライエント中心療法は、外観的な意味においては“支持的”もしくは是認することではないけれども、支持しているとして、すなわち、渾沌とした困難の大海にある誠意の小島として、経験されるのである。この誠意と安全さこそ、クライエントをしてセラピィを経験するようにするのであり、われわれが現在考察しようとしている事態なのである。 |
| (全集3 pp.95-96) |
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「受容されている失敗のない時間(unfailing hour of acceptance)」は非常に翻訳しにくいが、私は「たゆむことなく受け止められている時間」と訳そうかと思っている。unfailing は、MEDでは"never changing or ending"と説明されている。
「誠意の小島(island of constancy) 」:constancy に文学的な"loyalty
to a person or belief" という意味と形式的な"the quality of staying
the same" という意味が重なっているので、訳しにくいフレーズである。邦訳は前者の意味で訳しているようだが、後者の意味で「変わることのない小島」という訳でもいいように思う。 |
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| クライエント中心療法(client-centered therapy) に関して公表された多くの著作や研究をみると、自己の受容(the
acceptance of self)がセラピィの向かう方向であり、結果であるということが強調されている。私たちは、成功したサイコセラピィにおいては、自己に対するネガティヴな態度が減少し、ポジティヴな態度(positive
attitudes)が増加する、という事実を確認している。私たちの測定したところによれば、自己受容(self-acceptance)
が漸次増加し、それと相関的に他人の受容(acceptance of others)も増加するのである。……クライエントは自己自身を受容するのみでなく――このような述べ方は、止むを得ないことをしぶしぶと出し惜しみをしながら受容するというような意味あいをもっている――、彼はほんとうに自分が好きになる(actually comes to like himself)のである。これは決して、誇張的な、または自己主張的な自己愛ではなくて、むしろ、自己自身になること(being one's self)に静かな喜びをもつということなのである。 |
| (全集4 pp.88-89) |
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beには確かにbecomeの意味もあるので、「自己自身になること(being one's self)」でも間違いではないが、「自分の自己でいること」という非常に現状肯定的な意味に訳した方が、ここではふさわしい。 |
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| 【『概説』第2章第10節より】 |
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| いろいろの経験に結びつけられている諸価値や、自己構造(the self structure)の一部である諸価値は、ある場合には有機体によって直接的に経験される諸価値であり、ある場合には他人から投射され(introject) もしくは受けつがれるが、しかし、あたかも直接的に経験されたかのように歪めたかたちで知覚されるものである。 |
| (全集8 p.113) |
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「投射され(introjected) 」ではprojected と混同されてしまうので、「取り入れられ」と訳されるべきである。 |
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| 愛、賞賛、尊敬を、手に入れようとする、または引き止めようとする、ひとつの試みにおいて、個人は、幼年期には自分のものであった評価の主体を放棄して、それを、他人のなかに置きます。個人は、自分の行動への手がかりとしては、自分自身の体験過程への基本的な不信を持つことを、学ぶのであります。個人は、ほかの人びとから多くの概念化された諸価値を学び、たとえそれらが、自分の経験しているものとは大きく食い違っていようとも、それらを、自分自身のものとして取り入れる、のであります。これらの諸概念は、自分自身の価値づけにもとづいておりませんので、流動的で変化してゆくよりはむしろ、固定的で硬い傾向があります。 |
| (全集23 p.45) |
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「賞賛(approval)」は、admirationと勘違いされるといけないから、素直に「是認」と訳しておくべきだろう。
「尊敬(esteem)」もrespect と勘違いされる可能性がある。MEDではesteemを、名詞形では"a
feeling of admiration and respect for someone" 、動詞形では"to
admire and respect someone" や"to think of someone or something
in a positive way"と説明しているので、尊敬でも間違いではないのだが、細かく区別しようとするとこれは非常に訳しにくい単語である。文脈からいえば、「お誉め」「誉め言葉」あたりの訳語をつけておけばよいのではないか。
「手がかり(guide) 」よりは「導き手」であろう。この部分の拙訳をあげておく。「彼は、自分の行動の導き手としての自分自身の体験過程に対しては基本的な“不”信を持つことを学びます。」 |
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| わたくしたちは、直接に評価するこのような能力を失って、社会的な賞賛、愛情、尊敬をもたらすであろうようなやり方で行動し、そのような諸価値によって行為するようになると思われる、と、わたくしは述べてきました。愛を買い取るために、わたくしたちは、価値づけ過程を放棄するのであります。わたくしたちの生活の中心は、今や、他人のなかにあるので、わたくしたちは、恐れており、そうして不安定であって、自分が投入している諸価値にがっちりと、しがみつかなければならないのであります。 |
| (全集23 p.62) |
|
「能力(capacity)」は、ability と混同されるから、訳語を区別した方がよいかもしれない。capacityは、ability とちがって生来的能力をいう。私は前者を一貫して「力量」と訳すことにしている。
「愛情(affection) 」は、love (愛) とは違う原語なので注意。
ここの「尊敬」もesteemである。
「放棄する(relinquish)」は、「譲り渡す」と訳した方が価値づけのプロセスが他者に移動していくのが暗示されていてよい。
「自分が投入している諸価値(the values we have introjected)」は「私たちが〔他者たちから〕取り入れた諸価値」と訳されるべき。 |
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| ここで、読者の疑問や恐怖を解くために、他人を評価することをやめるということは、なんらかの感想をもつことをやめてしまうということではないことを指摘しておかねばならない。当然のことであるが、反応をすることは自由である。“わたくしはあなたの考え(あるいは絵画、発明、著作)が好きではありません”というのは、反応であって評価ではない。これは、“あなたのやっていることはよくないこと(あるいはよいこと)であり、この評価は外的なものによって与えられたものである”という判断とは、明らかにちがう。先の叙述は、創造者自身が自分の評価基準をもちつづけることを許容している。実際には非常に優れたものだが、自分にはそれが理解できていない、という可能性を含んでいる。しかし、あとのいい方では、個人は讃辞であれ非難であれ、外的な力によって左右されるようである。所産が、創作者当人にとって価値ある表現かどうかを、自分自身に問うことさえできないと告げられたも同然である。その場合は、彼は他人がどう思っているかを、まず考えねばならないのである。そこで、彼は、創造性からはまったく遠ざけられてしまっていることになる。 |
| (全集6 p.249) |
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「なんらかの感想をもつことをやめてしまう」は、直訳すれば「反応するのをやめる」となる。
「自分の評価基準をもちつづける」は、直訳すれば「彼自身の評価の拠点を維持する」(全集訳に従えば「彼自身の評価の主体を維持する」)である。やはり専門用語はきちんと表記しておくべきだろう。
前後の文脈で分からないことはないが、「それが理解できていない」は「その真価を認める(appreciate)ことができない」の意味である。 |
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| 幼児期には、われわれは、自分の経験の中に住んでいる。その経験を信頼している。赤ん坊は腹がすいたら、腹がすいているかどうかを疑ったりしないし、食物を求める努力をすべきかどうかなど考えたりしない。なんら意識することなく、自己の経験を信頼している状態にある。しかし、両親や他の人が子どもに次のような意味のことをいったりすることがある。“そんなふうに思うんなら、可愛がってやらないよ” そこで子どもは、現実に感ずることではなくて、感じなければならないことを感ずるようになる。こうして彼は、感じなければならないことを感ずるような自我をつくりあげ、その自我は、有機体の一部なのであるが、彼自身は有機体全体が実際に経験していることにほとんど気づかなくなり、ときたま、びっくりしたように気づくことがあるだけになるのである。 |
| (全集11 pp.340-341) |
|
私はこのテキスト自体は所有していないので確認できないが、のちに再録された文書から推測するに、ここでの「自我」は、おそらく「自己(self)」である。ロジャースには自己という専門用語があるのだから、ego となっている場所だけ自我と訳した方がよいのではないか。
「なければならない(should)」は、mustと勘違いされやすいので、「(感じる)べき」と訳しておいた方がよい。shouldの用法からして、「(感じる)はず」という意味も含まれているだろう。
「びっくりしたように気づく(frightening glimpses)」は、びっくりよりは「ぞっとする」に近い感じであろうし、気づくというよりも「ちらっと見る」が原義である。 |
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| 彼は他の人に対する評価の場を放棄し、自分自身の価値づけの過程との接触を失っているので、自分の価値観はひどく不安定であり、簡単におびやかされると感じている。もしこれらの概念のいくつかが破壊されたら何がそれにとってかわるだろう。この脅かされるという可能性があるために、彼は自分の価値概念を、なお固く確保することになる。さもなくばさらに当惑し、あわてふためいてしがみつくことになる。あるいはその両方かもしれない。 |
| (全集12 p.385) |
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「彼は他の人に対する評価の場を放棄し(he has relinquished the locus of evaluation to others) 」は、「彼は評価の拠点を他者たちに譲り渡して」とすべきだろう。 |
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| 【『概説』第2章第11節より】 |
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この用語〔=内部的照合枠〕は、その個人が意識する可能性のあるあらゆる領域の経験をいうのである。つまり、意識にはいってくる可能性のある感覚、知覚、意味、記憶などのすべてが含まれている。
この内部的照合枠は、個人の主観的な世界であって、それを十分に知っているのは、彼だけなのである。他人は、それを感情移入的に推しはかる以外には、決して知ることができないものである。しかも、そのようにしても、完全には知ることができない。 |
| (全集8 p.207) |
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「内部的照合枠(internal frame of reference) 」を、私は「内的準拠枠」と訳すことにしている。その人個人のものの見方・考え方・感じ方を意味するには、準拠枠の方がよいと思うからである。
「完全には(perfectly) 」はcompletelyと区別しにくいので、「完璧には」と訳し分けたらどうだろう。 |
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| もしもわれわれが、個人の感官的・内臓的感覚をことごとく、感情を移入して経験する(empathically experience) ことができるならば、すなわち、意識的な諸要素と同時に、意識のレベルにはもたらされないような経験をも包含している個人の全体的な現象の場(his whole phenomenal field)を経験することができるならば、われわれは、その個人の行動の意味を理解し、その個人の今後の行動を予測するための、完全な基盤をもつことになるであろう。 |
| (全集8 p.108) |
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ここは仮定法過去で記述されている。現実はなかなかそうはいかないというニュアンスが暗示されている。
ここの「完全な」も、perfect(完璧な) 。 |
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