カール・ロジャース誤訳・迷訳集(2)
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  【『概説』第2章第3節より】
 行動は、過去に起こった何かに“起因する”(caused)ものではない。現在の緊張と現在の要求こそが、有機体が除去、もしくは充足しようと努力する唯一の緊張であり要求なのである。過去の経験が、現在の経験において知覚されるところの意味を改変する上にたしかに役だっている、ということは事実であるけれども、しかもなお、なんらかの現在の要求と結合しない行動は全然ないのである。
(全集8 p.105)
「要求(need)」よりは「欲求」の方がよいだろう。必ずしも他人に何かを求めるというわけでもないのだから。
 経験するということを簡単にいえば、そのときどきに生起している感官的、あるいは生理的な事象の刺激を有機体が受けとることである。
(全集8 p.185)
「感官」という意味(感覚器官のこと)が分からない人もいるようだから、「感官的(sensory) 」は「五感的」と訳しておいた方がよいのかもしれない。
「刺激」という訳はstimulusを連想させるが、ここはインパクトの訳語である。
 情動は、前述のような目標指向的な行動をともない、かつ、一般的には、このような目標指向的な行動を促進するものである。情動の種類は、行動の追求的様相か完成的様相に関連しており、情動の強さは、有機体の維持と強化に対する意味についての知覚と結びついている。
(全集8 p.105)
「行動の追求的様相……」は、これだけでは意味不明である。もう少し補足的に訳して「その行動が追求的な局面にあるか完了的な局面にあるかに関連しており」くらいに訳しておく方がよいだろう。逐語訳ではうまく伝わらない典型例である。
  【『概説』第2章第4節より】
 この三つの用語〔=気づくこと、象徴化、意識〕は同義語である。……意識(あるいは気づくこと)は、経験の象徴化されたものである。それゆえ気づくということは、経験の一部を象徴的に表わしたものと考えられる(それは必ずしも言語的記号(verbal symbols)によるとは限らない) 。この表わし方の鮮明さと生々しさにはいろいろの程度があって、素地(ground)として存在するものをぼんやりと気づいている状態から、図柄(figure)として中心にあるものをはっきりと気づいている状態まである。
(全集8 p.186)
awarenessとconsciousness は訳し分けておく方がよい。両者には微妙な違いがあると思われるが、ここで同義語とされているためか、全集訳では両者をきちんと訳し分けずに、ほとんど意識で統一しようとしている。この箇所では、前者の訳語として「気づくこと」が当てられているが、「気づき」や「自覚」という訳語が当てられることもある。
英語のsymbolには、「象徴」のほかに「記号」という意味もあるので、symbolization は「記号化」と訳しておいた方がよいかもしれない。とくに臨床心理学で用いられる「象徴」という言葉は、人間の意識を越えたところで作用する何ものかの存在を告知する自然の働きを指すのであって、意識的に象徴化するなどということはできないのである。
ゲシュタルト心理学において「図と地」という用語があるのだから、「素地」や「図柄」はやめておいた方がよいのではないか。
 ある経験が防衛的に否定されたり歪曲されたりすることなく、自由に象徴化されるとき、その経験は意識されやすい。
(全集8 p.186 [1959])
「意識されやすい(availabe to awareness)」は、意訳である。私はこれを「気づきにとって利用可能な」と訳している。つまり、気づきがそれ〔=経験〕を使える状態にあることを意味している。
 受容的な関係(acceptant relationship)という安全な状態の中で、私の心の中に沸き出てくるように感じられる何ものか、――それはいったい何であろうか。それは悲しみなのか、怒りなのか、後悔なのか、自己に対するあわれみなのか、失われた機会に対する怒りなのか――ある一つの記号が“ぴったりする”(fits)“ちょうどよいと感じる”(feels right) 、あるいはその有機体的な経験にほんとうにふさわしいと思われるようになるまで、私は実に無数の記号をあてはめてみながら、つまずき歩くのである。このようなことをやっているうちにクライエントは、あたかも自分が言葉をおぼえようとしている幼児ででもあるかのように、感情や情緒の言葉を学ばなければならないのだと気づくようになる。多くの場合、もっと悪いことには、ほんとうの言葉を学ぶ前に、今まで学んできた誤った言葉をすてなければならないことに気づくであろう。
(全集12 pp.330-331)
「あわれみ(sorrow)」と訳すと憐憫(pity)を連想しがちなので、「残念さ」くらいに訳しておいた方がよいだろう。
「ふさわしいと思われるようになるまで」よりも「マッチするように思われるまで」とそのまま訳しておく方が通じるのではないか。
ここで使われている「言葉」は、words ではなくlanguageの訳語。一つ一つの語を学ぶことではなくて、どういう風に表現するかを学ぶことを問題にしていると言ってよいだろう。Macmillan English Dictionary(以下MEDと略記する)には、languge の説明のひとつとして"signs, symbols, sounds, and other methods of communicating information, feelings, or ideas"というのがある。
 われわれの意識を構成しているシンボルは、必ずしも“本当の”(real)経験や“現実”(reality) に一致したり、あるいは対応しているとは限らない。それで精神病者は、実際には存在しないような電気刺激を体のなかにあると意識(象徴化)したりするのである。……
……あらゆる知覚は(私はあらゆる自覚をもこれに加えたい)、本来推移的(transactional) なものであり、過去の経験から構成されたものであったり、未来の仮説や予測であったりする……。……正確に意識に象徴化されるということは、意識に含まれている仮説にもとづいて行動し検討することによって、その仮説が実証されるということなのである。
(全集8 pp.186-187)
ここの「意識」は、consciousness ではなくawareness(気づき) である。
ロジャースの引用の場合、「一致したり」はcongruent をすぐに連想させてしまうので、ここではそのまま「マッチしたり」と訳しておく方がよいだろう。
transactional は、「推移的」よりは「相互交渉的」と訳した方がよいだろう。これは、有機体が環境との相互交渉によって発展していくという当時の哲学思想を反映して出てきた言葉だと思われる。
 有機体は、場に対して、その場が経験され知覚されるままのものに、反応する。この知覚の場は、個人にとって実在(reality) なのである。
(全集8 p.94)
reality は「現実」「真実」「実在」などさまざまに訳されている。訳語によってだいぶイメージが変わってしまうので注意が必要。
  【『概説』第2章第5節より】
 全体的な知覚の場の一部は、次第に自己(the self)として分化されるようになる。
(全集8 p.111)
「全体的な知覚の場」というのは意味が取りにくいが、これは「知覚の場すべてのうち」という意味である。
 それ〔=自己経験〕は個人によって弁別される現象の場における事象や実在と定義され、また“自己”(self)、“客体的自己”(me)、“主体的自己”(I) 、あるいはそれに関連したものなどとして弁別されるものである。一般に自己経験は、体制化された自己概念が形成される素材なのである。
(全集8 p.189)
ここの「実在」はreality ではなくてentityである。ちなみにMEDではentityを"a separate unit that is complete and has its own character"と説明している。むしろ「実体」と訳した方がイメージが近くなるのではないか。
私はmeを「自分」、Iを「私」と訳すことにしている。
「体制化された(organized) 」は、とくにゲシュタルト心理学などで定着している用語ではあるが、ややイメージしにくいので、私はしばしば「組織(化)された」とも訳している。また、organizationを「態勢」と訳す場合もある。
 抑圧(repression)という因習的な概念はそれまで、禁止された、あるいは社会的にタブーとなっている衝動に関するものと考えられていたが、それは事実にそぐわないと認められるようになった。もっとも深く否定されている衝動や感情が、しばしば自己のなかにある愛や、優しさや、自信などのポジティヴな感情であることがある。外見上は意識のなかにはいることを許されそうもない、一団の謎のような経験をいかに説明したらよいのであろうか? 次第に、経験と自己との一致性ということが重要な原理であることが認められるようになった。個人の自己概念と一致しないような経験は、社会的な性質がどのようなものであろうと、意識に否定される傾向があるのである。われわれは、自己というものが、有機体が意識することを快く思わないような経験をしめ出すための一つの規準であると考え始めた。
(全集8 p.192)
「一致性」というとすぐにcongruenceを思い浮かべるが、これは「首尾一貫性(consistency) 」とでも訳した方が精確だろう。ただし直後の「一致しない」はincongruent である。congruence系の単語とconsistency 系の単語は、意味的には並行しており、両系統の訳語を区別しないことによって訳文が分かりやすくなるという面もあるが、逆に文章の厚みをなくしてしまっているとも言える。
最初の二つの「意識」はawareness、最後の「意識」はconsciousness。
 この独自性(separateness)――自分の経験を自分独自のかたちで用い、自分に独自な意味をそのなかに発見するというすべての人間のこの権利――は、人生の最も貴重な可能性のひとつなのであります。すべての人は、きわめて現実的な意味で、自分独自のひとつの島なのです。そして、何よりもまず彼がすすんで自分自身となり、自分自身になることを許すときに、はじめて他の島々に渡る橋を作ることができるのです。それゆえ、私が他の人間を受容することができるとき――彼の感情、態度、信念を彼の現実的な、生き生きとした一部として、そのとおりに受容するということですが、私は、彼が他と違ったはっきりしたひとりの人間(a distinct person) となるのを援助しているのであります。そして私は、この関係のなかには大きな価値があると思っているのです。
(全集15 p.84)
「独自性(separateness)」は、uniquenessと混同されそうな訳語なので、「別個であること」あたりが適訳だろう。ただし、「自分独自の(かたち)」「自分に独自な(意味)」は、his own 。「自分独自の(ひとつの島)」は、unto himself。
「すすんで自己自身になり」はwilling to be himself。この前後を私のやり方で訳し直すと、「何よりもまず彼が自分自身でいても構わないという気があり、自分自身でいることを許容されている場合にのみ……」となる。
「そのとおりに受容する(specifically accept) 」:MEDには、"in an exact and detailed way"という説明もあるので、「そのとおりに」でも間違いではないが、「委細にわたって」とか「個々具体的に」とか「きちんと」という訳はどうか。
 多くの場合、その傾向は生活体のあらゆる力の発達を包含するかのように語られている。そうではない。誰かが指摘したように、生活体は嫌な気持ちを起こすような能力を発達させようとはしないし、自己破壊力や苦痛に耐える力を発達させることもない。異常な事態、悪環境においてのみ、そのような能力が現われてくるのである。自己実現志向は選択的方向づけを持った建設的なものである。
(『人間の潜在力』p.309)
「生活体(organism)」は、全集では「有機体」と訳している。訳語が変わるとちょっと紛らわしい。
「あらゆる力」や「自己破壊力」の「力」は、force やpower ではなくて「潜在可能性(potentiality)」である。
「自己実現志向」は、正確には「実現傾向」である。実現傾向は、構成概念の定義では「自己実現の傾向」とは別ものなのだから、ここは正しく訳しておくほうがよい。
  【『概説』第2章第6節より】
定義:第II領域 この領域は、社会的もしくはその他の経験が、象徴化されるにあたって歪曲され、その個人自身の経験の一部として知覚される現象の場の部分をあらわすものである。
(全集8 p.150)
この直後にある以下の一文が欠落している。「知覚対象、諸概念、価値観は、両親や周囲の他者たちから取り入れられているのだが、この現象の場ではそれらは五感的証拠の産物として知覚されている。」
 (a) “わたくしは、機械的な物を取り扱うことには全然適していないんですが、このことが、全般的にうまくゆかない一つの証拠なんです。” これは、内面へと投影された概念、およびその概念と結びついている価値であり、その個人が、両親から受け取ったものである。引用符号をつけたところは、それが、あたかも一切の機械的な物について失敗ばかりしていたという直接的な感官的経験であるかのように知覚されているが、しかしそうではないということを示す。この経験は、“両親が、私は機械的な方面に適しないとみる”ということであった。すなわち、その歪曲された象徴化は、“私は機械的な方面には適しない”である。歪曲した基本的な理由は、自己構造の重要な部分、すなわち、“私は両親に愛される”を喪失することに対して擁護したいということである。これは、次のように図式化される感情へとつながってゆく。すなわち、“私は両親に受け容れられるような人間でありたいので、私はこのような人間であると両親が思うような人間として、自分自身を経験しなければならないのです。”と。
(全集8 p.151)
「内面へと投影された(introjected) 」は、「取り入れられた」と訳すべきだろう。投影は、内面にあるものを否定して外界にそれを見いだす防衛機制である。
「両親から受け取った(take over) 」も、「引き継いだ」と訳しておく方が精確である。
 このような分裂や分離(rift)や疎外(estrangement)は、人間が後天的に学びとっていくものであり、まだ実現していない行動に対して、実現傾向のあるものを誤った形で関連づけようとするものであると考えられるのである。このように考えると、それは、性衝動が後天的な学習によって、その本来の生理学的、進化的な目的とはほど遠い行動に誤って関連づけられる場面とよく似ている。このような点について、私の考えは、最近かなり変ってきた。10年前、私は、自己と経験との分裂、すなわち、われわれが意識している目標と有機体としての方向とのくい違いは、不幸なことであるが、何か自然な必然的なものであると説明しようとしていた。しかし、現在では、人間が文化によって条件づけられ、影響をうけ、強化されて、事実上、統一のとれた実現傾向という自然の方向とくい違った行動をとるようになるのだと信んじている。
(全集12 p.421)
「分裂(dissociation)」は、むしろ「解離」と訳しておいた方がよいのではないかと思う。というのは、少し心理療法に詳しい人ならば、分裂というとすぐにsplitting を連想してしまうからである。
私は「分離(rift)」を「亀裂」と訳すことにしている。
(自己と経験との)「分裂」、「くい違い」は、いずれもriftの訳語であり、非常に紛らわしい翻訳になっている。
「自然の方向とくい違った」は、たぶんpreversionを翻訳した部分だと思われるが、おそらく原文がperversionの誤植であり、「倒錯」と訳した方がよいだろう。
この部分は簡潔なコメントがしにくいので、拙訳の全文を掲載しておこう。「学習された何事かとしてのこうした解離(dissociation)、亀裂(rift)、疎隔(estrangement)は、実現傾向のいくらかに、実現しない行動へとむかう倒錯的な誘導路をつけることである、と私は次第に見るようになった。この点でそれ〔=解離など?〕は〔以下のような状況と類似している、すなわち〕、性的せき立てに、これらの衝動の生理学的・進化的な目標からはるかにかけ離れた行動へと学習を通して倒錯的に誘導路がつけられ得る、という状況と類似しているのであろう。この点では、私の考えはここ10年の間に変わってきた。10年前、私は、自己と経験との間の、すなわち意識的な目標と有機体の方向との間の亀裂を、嘆かわしいことではあるが、何か自然な必然的なものであると説明しようと努力していた。今や私は、個々人が、文化的に条件づけられ、報われ、強化されて、事実上は統一のとれた実現傾向という自然な方向の倒錯であるところの諸行動へとむかうのだ、と信じている。」
 傷つきやすさという用語は、自己と経験の不一致の状態を指す言葉として用いられるが、とくに心理的混乱をひき起こす可能性のある状態を強調する場合に用いられる。自己と経験の不一致があり、しかもその人がそれに気づいていない場合は、不安、脅威、混乱に対して、たぶんに傷つきやすい。もしも重要な新たな経験から自己と経験とのズレが明らかに示されて、それをはっきりと知覚せざるをえないようになると、その人は脅威を感じ、その自己概念は、この矛盾した、同化することのできない経験によって混乱させられてしまうであろう。
(全集8 p.195)
ここの「混乱」は、前二者はdsiorganization 、最後のものはdisorganizedである。これらは専門用語であるし、混乱という訳語はふつうconfusion やupset あたりを連想させるので、避けた方がよい。
significant とimportant をどのように区別するか。私は前者を「重大な」、後者を「重要な」と訳し分けている。前者には「意義深い」とか「有意味な」という意味も含まれているので、訳語から原語が想像できると特定のニュアンスを把握できて便利だろう。
 この図式にあらわされる個人が、自分自身を不適応と感ずるか感じないかは、その個人の環境によるであろう。もしその個人の環境が、その個人の自己構造に“類似”(quasi) した諸要素を支持するならば、その個人は“傷つけられやすい”人間ではあるけれども、自分のパースナリティのなかに緊張的な力を認識することは決してなかろう。もしもその文化が、その個人の自己構造に対して十分に強い支持を与えるならば、その個人は、自己に対して肯定的な態度をもつであろう。その個人は、その個人の文化もしくは圧倒する程の感官的証拠が、その個人のパースナリティ内における矛盾対立についてのばくぜんとした知覚を与えられる限りにおいてのみ、緊張や不安を経験し、不適応を感ずるであろう。また、もしもその個人が、自己体制の境界を弛緩させられるような、そして、通常は意識にのぼることを否認されている諸経験がおぼろげながら知覚されうるような、きわめて許容的な状況にさらされるならば、このような意識もしくは不安もまた、あらわれてくるであろう。たとえこのような不安もしくは懸念が生じようとも、その個人が、みずから進んでサイコセラピィを受けようとするようになるのは、まさしくこのような状態においてのことなのである。
(全集8 pp.154-155)
「自己構造に対して」は、「自己の概念に対して」の間違い。
ここの条件節はすべて仮定法過去である。私はこれを「もし仮に……であるとしたら...」という表現形式で一貫して訳すことにした。どうでもいいようなことに思えるかもしれないが、精確に理解するためには、著者がそこで現実のことを述べているのか想像上のことを述べているのかをきちんと区別しておいた方がよい。ちなみにここの文脈では、「現実には、そんなに神経症者に都合のいいように周りの人々が気を使ってくれることもなかろうし……」というニュアンスが入っているのである。
 この用語〔=内在化〕は、一般意味論(general semantics) から得られたものである。もし人が内在的な様式で反応したり知覚したりするならば、経験を絶対で無条件なものとみなし、過度に一般化してしまい、概念や信念によって支配され、その反応を空間と時間のなかに位置づけるのに失敗し、事実と評価とを混同し、現実検証によるよりは抽象化に頼りがちになる。……
 ……内在化は、防衛状態にある人の行動の特質をあらわす用語である。
(全集8 p.198)
「内在化(intensionality)」という訳語では、internalization と混同されやすいので、論理学でよく用いられている「内包性」という専門用語をあてておいた方がよいと思う。
  【『概説』第2章第7節より】
 セラピィのなかで人間は、正確に象徴化された経験と一致するように自己概念を改めていくようにみえる。……
 このように自己経験が正確に象徴化され、この正確に象徴化された形で自己概念のなかに包含される場合が、自己と経験との一致の状態である。もし、これがすべての自己経験について完全に当てはまる人は、十分に機能している人間(fully functioning person)となるであろう。……もしこれがある特定の関係とか、ある特定の瞬間とかいうように、限られた面の経験についてのみ当てはまるなら、その人はその程度だけ一致の状態にあるということになる。統合された(integrated)、全体的な(whole) 、純粋な(genuine) 、などという言葉が一般に用いられているが、これらは経験と自己との一致をあらわす同義語である。
(全集8 pp.198-199)
「十分に機能している人間」は、既に定着している訳語ではあるのだが、この表現は意識的な有能性を重視しているような感じがするので、私はこれを「十全に機能している人間」と訳すことにしている。
「もし、これがすべての自己経験に……」は仮定法過去である。それを明確にして訳すなら以下のようになる。「もし仮にこれが一切の自己経験について完全に当てはまるとしたら、その個人は十全に機能している人間(fully functioning person)であることだろう。」 十全に機能している人間は、想定上の・理念的な存在なのである。
「瞬間(moment of time)」は「時機」とでも訳すべきであろう。
「純粋な」で意味がよく分かる人は少ないのではないか。全集以外の一般的な翻訳では「真正な」「正真正銘の」などが使われるが、私は「嘘偽りない」という訳語をできるだけあてる予定にしている。
 もし外在的な仕方で反応したり知覚したりするならば、経験を限定あるいは分化した仕方でみる傾向になり、事実の時間・空間的なよりどころに気づき、概念よりは事実を重んじ、いろいろな方向から評価し、さまざまの段階での抽象化に気づくようになり、自分の推理や抽象化の作用を現実と対照して検証していくようになる。
(全集8 p.200)
「外在的(extensional) 」も、論理学で用いられている「外延的」という訳語を使った方がよいのではないか。
 意味論者たちは、言葉や記号と、実在の世界(world of reality)との関係は、地図とその地図が表現している実際の地域との関係とまったく同じである、と指摘している。
(全集8 p.95)
地図との対比を表現したいのなら、「実際の地域(territory) 」よりも「現地」という訳語の方が感じがつかめるだろう。
 その人がもし次のような態度であれば、成熟した行動をあらわしているといえよう。すなわち、現実的で外在的な態度で知覚し、防衛的ではなく、自分が他人とは異なっているという責任をとり、自分の行動についての責任を受けいれ、経験を自分の感覚にもとづいた証拠によって評価し、新たな証拠によってのみ経験の評価を変え、他のひとびとをそれぞれ自分とは異なる独自の個人として受け入れ、自分を尊重し、他人をも尊重するような行動を示す時である。
(全集8 p.200)
「尊重する(prize) 」は、respect を連想させるので、別の訳語を使うべきである。私はこれに「貴ぶ」という訳語をあてている。
  【『概説』第2章第8節より】
 二人の人間が互いに相手の経験の場のなかに知覚される、あるいは潜在知覚される差異をひき起こした場合、その二人は心理的に接触している、あるいは最少限度の関係をもっているのである。
(全集8 p.201)
「差異をひき起こす(make a difference) 」は、非常に訳しにくいフレーズである。これは、何事かが有るのと無いのでは大きな違いが出てくるという意味である。したがってこの箇所は、「各々が〔居ることで〕相手の経験の場に、ある知覚されたあるいは潜在知覚された違いをつくりだす時には、その二人の人間は心理的に触れ合っている、あるいは関わりの最小不可欠のものをもっている。」くらいに訳しておくのがよいだろう。
  【『概説』第2章第9節より】
 他人に無条件の肯定的な配慮を感ずるということは、その人を“尊重する”(prize) ことである。……これはその人の個々の行動について、いろいろと異なった評価が与えられるかも知れないが、そのようなことにかかわりなく、その人を尊重することを意味している。ある親がその子どもを“尊重している”場合、必ずしもその親が、その子のいろいろな行動をすべて同じように、高く評価しているということはないものである。受容(acceptance)という言葉は、これと同じ意味を表わすためにしばしば用いられてきた言葉である……。……受容と尊重することとは、いずれも無条件の肯定的な配慮と同義語である。
(全集8 pp.202-203)
「配慮(regard)」もまたすでに定着した用語ではあるが、私は「眼差し」と訳すことにしている。
「比較する(discriminated) 」は、直訳すれは「識別する」である。意味としては比較するでもよいのだが、これは定義文だから、精確に訳しておいた方がよいのではないかと思う。
「その人を尊重することを意味している」の箇所のみvalue 。他の3箇所の「尊重」は、prize 。「高く評価している」もvalue 。prize という言葉をvalue という言葉で説明しようとしている箇所だから、訳に工夫は必要だろう。
 受容というのは無条件の自己価値をもった人間(a person of uncontditional self-worth) として――彼の状況、彼の行動、彼の感情がどのようなものであろうと、価値をもっている人間として――クライエントに暖かな配慮(a warm regard) をもっている、ということである。それは、どのようなかたちにおいても彼を評価するということからまったく離れて、彼を大事にする(prizing) ということである。それは、彼をひとりの分離した人間(a separate person) として尊重することであり、彼が彼自身の感情を自分の好きなようにもつように、喜んで許すことである。それは、彼の態度がいかに絶望的なものであっても、あるいはいかに自信過剰であっても、またいかに強くとも、いかに弱くとも、あるいは過去にもっていた他の態度といかにひどく矛盾するものであっても、彼のその瞬間の態度を受容するということである。他の人間の浮動してやまないすべての局面をこのように受容するということは、彼にとってはそれが、暖かな安全な関係になるということである。そして、ひとりの人間として好かれ、大事にされているという安全感は、援助関係(a helping relationship)において、きわめて重要な要素であると思われるのである。
(全集15 pp.43-44)
「無条件の自己価値をもった人間(a person of uncontditional self-worth) 」は、「無条件に自己に値打ちがある人間」くらいに訳した方がいいのではないか。ちなみに私は、value とworth をあえて区別するために、おのおのに「価値」と「値打ち,‥‥に値する」という訳語をあてることにしている。
「ひとりの分離した人間(a separate person) 」は、「ひとりの別個の人間」の方が分かりやすいのではないか。
「彼のその瞬間の態度を受容する」も、「彼のその時点での態度を受容する」と訳した方が実際のカウンセリングの感じに近いだろう。
 セラピストの態度は、その理想的な状態では、一般に愛(love)と呼ばれている体験の多くにみられる、代償という性質(quid pro quo aspect) を欠いている。それはただ、ある人間の他の人間に向かってあふれでる人間的な感情(the simple outgoing human feeling of one individual for another) なのであり、性愛的な感情とか親の感情(sexual or parental feeling)よりももっと基本的でさえある感情なのだと私には思われる。それは、彼の発達を妨害したくない、あるいは自分自身の発展(self-aggrandizing) のために彼を利用したくないという、その人間についての十分な気配りなのである。彼が自分の流儀に従って成長することができるように彼が自由になり得たときに、そこに私たちの満足があるのである。
(全集4 pp.84-85)
「自分自身の発展(self-aggrandizing) のために」よりは、「自己栄達の(self-aggrandizing) 目標のために」という訳の方が意味がよく通じる。
「気配り(caring about)」は、「心配り」とも訳されているが、私はこれを「気遣い」と訳すことにしている。ちなみに、MEDではcare aboutを"to be interested in something and feel strongly that it is important"と説明し、care for someoneを"to do the necessary things for someone who needs help or protection" と説明しているが、私はあえて両者を訳し分けない。
 私は、肯定的感情を提供したり受けとめたりすることに恐れを感じなくなってから、他者をより尊重するようになりました。また、他者を尊重することは難しいことであると考えるようになりました。自分の子供に対してすらそうなのです。子供達を心から尊重して愛するよりも、彼らを思いのままに動かして愛していることがあまりに多いのです。私が最も充実を感じるのは、私が日没の美しさを心からいとおしむように、目の前にいる人を心からいとおしんでいる時です。その人をありのままに受けとめるなら、日没の光景と同じように素晴らしいものです。私達が日没を心からいとおしむのは、太陽を思い通りに動かせる等と思ってもみないからでしょう。夕焼けを見ながら、「右側のオレンジ色をもう少しぼかして、下の方の紫をもう少し広げて、雲はバラ色にしたいな」等とつぶやくことはありません。日没を自分の意志で動かそうとは思いません。日が沈む様を、畏敬をこめて見守ります。これと同じように、同僚、息子、娘、孫達を見守るのが私は最高に好きなのです。こういうあり方は東洋的態度なのだと思います。私にとっては、それが最も満足できることなのです。
(『人間尊重の心理学』p.21)
ここの二カ所の「尊重する」はappreciate (真価を認める) である。「心からいとおしむ」もappreciateであり、この単語がかなり多義的な意味で用いられているのが分かる。
 次のような質問がしばしば発せられる:すなわち、“しかし、自分のクライエントの利己的な、もしくは非社会的な行動に対するセラピストの態度はどうなのか? 彼は,これを評価なしに受け容れることになるのか?”と。ときにはこの質問は、効果的なセラピストはその人をとうとぶのであって、必ずしもその人の行動をとうとぶのではない、ということによって答えられる。だがしかし、これが適切な、もしくは本当の答えであるかどうかは疑わしいのである。確かにセラピストは、ひとつの特定の行動が社会的に受け容れられない、もしくは社会的にいけない、彼が自分自身の中では賛成することができないであろうようなものである、そして、社会的なグループの福祉のために有害な行動のしかたである、ということを感ずるかもしれないのである。しかし、効果的なセラピストはたぶん、望ましい行動としてではなくて、このクライエントの状況、諸経験、および感情の、当然の結果として、彼のクライエントのこの行動についての受容を感ずるであろう。そこでセラピストの受容はたぶん、次のような感情に基づいているのであろう:“もしもわたくしが、同じ背景、同じ状況、同じ諸経験をもっていたならば、わたくしがこのようなやり方で行為するであろうということは、このクライエントの場合にそうであるのと同じように、わたくしの場合にも避けられないであろう。” このような点で彼は、彼の子どもが、恐れとろうばいのときに、彼の着物の中でうんちをしてしまった、よい親のようなのである。愛している親の反応は、その子どもに対する配慮と、その状況のもとではまったく当然なできごととしてのその行為の受容、との両方を含むのである。これは、その親がこのような行為全般に賛成する、ということを意味するのではないのである。
 このようにセラピストが、自分のクライエントをとうとび、自分のクライエントのいろいろの思いもしくは行動の、そのクライエントの中での意味もしくは価値をわかろうとしているときに、彼は、賛同もしくは不賛同という反応を感じない傾向があるのである。彼は、現にあるものの受容を感ずるのである。
 無条件の肯定的な配慮は、そのセラピストによって伝えられるときに、そのクライエントが、自分の内的な自己のもっとも深くおおい隠されている諸要素を探索し、かつ体験することができるような、非-脅威的な背景(non-threatening context) を供給するように機能するのである。セラピストは、父親的でもないし、センチメンタルでもないし、表面的に社交的で愛想よくもない。しかし彼の深い配慮は、そのクライエントが自分というものを探索するようになり、もうひとりの人間と深く分かち合うようになることができる、ひとつの「安全な」背景を供給するうえで、必要なひとつの要素なのである。
(全集19 pp.183-184)
「利己的な、もしくは非社会的な行動(asocial or antisocial behavior)」は、素直に「非社会的または反社会的な行動」と訳していいのではないか。
ここに出てくる「とうとぶ」はprize である。
「恐れとろうばいのときに」は、「恐れやパニックの時点で」   「子供に対する配慮」や「彼の深い配慮」の箇所は、regardではなくてcaringが使われている。
「父親的」は、paternalistic である。MEDによるとpaternalism とは、"a system in which someone in authority advises and helps people but also controls them by not letting them make their own decisions and choices" であり、我々がdirectiveness と言っているものと一致する。「父性的」と訳した方がよいのかもしれない。やはり原語を挿入しておくべきだろう。
 クライエントの経験においては、もしもその問題が深くうえつけられているならば、とくに唯一の安定した経験の部分は、セラピストによって受容されている失敗のない時間であるように思われる。この意味において、クライエント中心療法は、外観的な意味においては“支持的”もしくは是認することではないけれども、支持しているとして、すなわち、渾沌とした困難の大海にある誠意の小島として、経験されるのである。この誠意と安全さこそ、クライエントをしてセラピィを経験するようにするのであり、われわれが現在考察しようとしている事態なのである。
(全集3 pp.95-96)
「受容されている失敗のない時間(unfailing hour of acceptance)」は非常に翻訳しにくいが、私は「たゆむことなく受け止められている時間」と訳そうかと思っている。unfailing は、MEDでは"never changing or ending"と説明されている。
「誠意の小島(island of constancy) 」:constancy に文学的な"loyalty to a person or belief" という意味と形式的な"the quality of staying the same" という意味が重なっているので、訳しにくいフレーズである。邦訳は前者の意味で訳しているようだが、後者の意味で「変わることのない小島」という訳でもいいように思う。
 クライエント中心療法(client-centered therapy) に関して公表された多くの著作や研究をみると、自己の受容(the acceptance of self)がセラピィの向かう方向であり、結果であるということが強調されている。私たちは、成功したサイコセラピィにおいては、自己に対するネガティヴな態度が減少し、ポジティヴな態度(positive attitudes)が増加する、という事実を確認している。私たちの測定したところによれば、自己受容(self-acceptance) が漸次増加し、それと相関的に他人の受容(acceptance of others)も増加するのである。……クライエントは自己自身を受容するのみでなく――このような述べ方は、止むを得ないことをしぶしぶと出し惜しみをしながら受容するというような意味あいをもっている――、彼はほんとうに自分が好きになる(actually comes to like himself)のである。これは決して、誇張的な、または自己主張的な自己愛ではなくて、むしろ、自己自身になること(being one's self)に静かな喜びをもつということなのである。
(全集4 pp.88-89)
beには確かにbecomeの意味もあるので、「自己自身になること(being one's self)」でも間違いではないが、「自分の自己でいること」という非常に現状肯定的な意味に訳した方が、ここではふさわしい。
  【『概説』第2章第10節より】
 いろいろの経験に結びつけられている諸価値や、自己構造(the self structure)の一部である諸価値は、ある場合には有機体によって直接的に経験される諸価値であり、ある場合には他人から投射され(introject) もしくは受けつがれるが、しかし、あたかも直接的に経験されたかのように歪めたかたちで知覚されるものである。
(全集8 p.113)
「投射され(introjected) 」ではprojected と混同されてしまうので、「取り入れられ」と訳されるべきである。
 愛、賞賛、尊敬を、手に入れようとする、または引き止めようとする、ひとつの試みにおいて、個人は、幼年期には自分のものであった評価の主体を放棄して、それを、他人のなかに置きます。個人は、自分の行動への手がかりとしては、自分自身の体験過程への基本的な不信を持つことを、学ぶのであります。個人は、ほかの人びとから多くの概念化された諸価値を学び、たとえそれらが、自分の経験しているものとは大きく食い違っていようとも、それらを、自分自身のものとして取り入れる、のであります。これらの諸概念は、自分自身の価値づけにもとづいておりませんので、流動的で変化してゆくよりはむしろ、固定的で硬い傾向があります。
(全集23 p.45)
「賞賛(approval)」は、admirationと勘違いされるといけないから、素直に「是認」と訳しておくべきだろう。
「尊敬(esteem)」もrespect と勘違いされる可能性がある。MEDではesteemを、名詞形では"a feeling of admiration and respect for someone" 、動詞形では"to admire and respect someone" や"to think of someone or something in a positive way"と説明しているので、尊敬でも間違いではないのだが、細かく区別しようとするとこれは非常に訳しにくい単語である。文脈からいえば、「お誉め」「誉め言葉」あたりの訳語をつけておけばよいのではないか。
「手がかり(guide) 」よりは「導き手」であろう。この部分の拙訳をあげておく。「彼は、自分の行動の導き手としての自分自身の体験過程に対しては基本的な“不”信を持つことを学びます。」
 わたくしたちは、直接に評価するこのような能力を失って、社会的な賞賛、愛情、尊敬をもたらすであろうようなやり方で行動し、そのような諸価値によって行為するようになると思われる、と、わたくしは述べてきました。愛を買い取るために、わたくしたちは、価値づけ過程を放棄するのであります。わたくしたちの生活の中心は、今や、他人のなかにあるので、わたくしたちは、恐れており、そうして不安定であって、自分が投入している諸価値にがっちりと、しがみつかなければならないのであります。
(全集23 p.62)
「能力(capacity)」は、ability と混同されるから、訳語を区別した方がよいかもしれない。capacityは、ability とちがって生来的能力をいう。私は前者を一貫して「力量」と訳すことにしている。
「愛情(affection) 」は、love (愛) とは違う原語なので注意。
ここの「尊敬」もesteemである。
「放棄する(relinquish)」は、「譲り渡す」と訳した方が価値づけのプロセスが他者に移動していくのが暗示されていてよい。
「自分が投入している諸価値(the values we have introjected)」は「私たちが〔他者たちから〕取り入れた諸価値」と訳されるべき。
 ここで、読者の疑問や恐怖を解くために、他人を評価することをやめるということは、なんらかの感想をもつことをやめてしまうということではないことを指摘しておかねばならない。当然のことであるが、反応をすることは自由である。“わたくしはあなたの考え(あるいは絵画、発明、著作)が好きではありません”というのは、反応であって評価ではない。これは、“あなたのやっていることはよくないこと(あるいはよいこと)であり、この評価は外的なものによって与えられたものである”という判断とは、明らかにちがう。先の叙述は、創造者自身が自分の評価基準をもちつづけることを許容している。実際には非常に優れたものだが、自分にはそれが理解できていない、という可能性を含んでいる。しかし、あとのいい方では、個人は讃辞であれ非難であれ、外的な力によって左右されるようである。所産が、創作者当人にとって価値ある表現かどうかを、自分自身に問うことさえできないと告げられたも同然である。その場合は、彼は他人がどう思っているかを、まず考えねばならないのである。そこで、彼は、創造性からはまったく遠ざけられてしまっていることになる。
(全集6 p.249)
「なんらかの感想をもつことをやめてしまう」は、直訳すれば「反応するのをやめる」となる。
「自分の評価基準をもちつづける」は、直訳すれば「彼自身の評価の拠点を維持する」(全集訳に従えば「彼自身の評価の主体を維持する」)である。やはり専門用語はきちんと表記しておくべきだろう。
前後の文脈で分からないことはないが、「それが理解できていない」は「その真価を認める(appreciate)ことができない」の意味である。
 幼児期には、われわれは、自分の経験の中に住んでいる。その経験を信頼している。赤ん坊は腹がすいたら、腹がすいているかどうかを疑ったりしないし、食物を求める努力をすべきかどうかなど考えたりしない。なんら意識することなく、自己の経験を信頼している状態にある。しかし、両親や他の人が子どもに次のような意味のことをいったりすることがある。“そんなふうに思うんなら、可愛がってやらないよ” そこで子どもは、現実に感ずることではなくて、感じなければならないことを感ずるようになる。こうして彼は、感じなければならないことを感ずるような自我をつくりあげ、その自我は、有機体の一部なのであるが、彼自身は有機体全体が実際に経験していることにほとんど気づかなくなり、ときたま、びっくりしたように気づくことがあるだけになるのである。
(全集11 pp.340-341)
私はこのテキスト自体は所有していないので確認できないが、のちに再録された文書から推測するに、ここでの「自我」は、おそらく「自己(self)」である。ロジャースには自己という専門用語があるのだから、ego となっている場所だけ自我と訳した方がよいのではないか。
「なければならない(should)」は、mustと勘違いされやすいので、「(感じる)べき」と訳しておいた方がよい。shouldの用法からして、「(感じる)はず」という意味も含まれているだろう。
「びっくりしたように気づく(frightening glimpses)」は、びっくりよりは「ぞっとする」に近い感じであろうし、気づくというよりも「ちらっと見る」が原義である。
 彼は他の人に対する評価の場を放棄し、自分自身の価値づけの過程との接触を失っているので、自分の価値観はひどく不安定であり、簡単におびやかされると感じている。もしこれらの概念のいくつかが破壊されたら何がそれにとってかわるだろう。この脅かされるという可能性があるために、彼は自分の価値概念を、なお固く確保することになる。さもなくばさらに当惑し、あわてふためいてしがみつくことになる。あるいはその両方かもしれない。
(全集12 p.385)
「彼は他の人に対する評価の場を放棄し(he has relinquished the locus of evaluation to others) 」は、「彼は評価の拠点を他者たちに譲り渡して」とすべきだろう。
  【『概説』第2章第11節より】
 この用語〔=内部的照合枠〕は、その個人が意識する可能性のあるあらゆる領域の経験をいうのである。つまり、意識にはいってくる可能性のある感覚、知覚、意味、記憶などのすべてが含まれている。
 この内部的照合枠は、個人の主観的な世界であって、それを十分に知っているのは、彼だけなのである。他人は、それを感情移入的に推しはかる以外には、決して知ることができないものである。しかも、そのようにしても、完全には知ることができない。
(全集8 p.207)
「内部的照合枠(internal frame of reference) 」を、私は「内的準拠枠」と訳すことにしている。その人個人のものの見方・考え方・感じ方を意味するには、準拠枠の方がよいと思うからである。
「完全には(perfectly) 」はcompletelyと区別しにくいので、「完璧には」と訳し分けたらどうだろう。
 もしもわれわれが、個人の感官的・内臓的感覚をことごとく、感情を移入して経験する(empathically experience) ことができるならば、すなわち、意識的な諸要素と同時に、意識のレベルにはもたらされないような経験をも包含している個人の全体的な現象の場(his whole phenomenal field)を経験することができるならば、われわれは、その個人の行動の意味を理解し、その個人の今後の行動を予測するための、完全な基盤をもつことになるであろう。
(全集8 p.108)
ここは仮定法過去で記述されている。現実はなかなかそうはいかないというニュアンスが暗示されている。
ここの「完全な」も、perfect(完璧な) 。
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※学苑社より刊行予定の『ロジャース理論概説(仮題)』は、まだ発行されていません。発行時には私の無料メールマガジン「カウンセリングと東洋思想」で告知しますので、よろしかったらご登録ください。


 ここに掲載する誤訳・迷訳は、私がそのうち学苑社から出版する予定の『ロジャース理論概説(仮題)』に引用するカール・ロジャースの邦訳の一部である。
 ここでいう誤訳とは、訳者が別の単語と勘違いして間違った意味にしてしまったと思われる翻訳であり、迷訳とは、完全な間違いではないが他の原語を想像させてしまうために邦訳しか読まない読者が本文をだいぶ違ったニュアンスにとってしまう翻訳や、ぴったりした訳語が選択されていないために、読者にはそもそも意味がよく分からない翻訳である。そして以下は、それに対する私のコメントである。これらを参考にしてあらためて邦訳を読み直してみると、訂正箇所以外まで違った意味を帯びてくることがあり、ロジャースを精確に理解するためにはこれまでの翻訳がいかにアテにならない代物か、また、彼の言わんとすることをいかに伝えてこなかったかが分かるはずである。
 『ロジャース理論概説(仮題)』では、ここに掲載した引用箇所のみならず、ほとんどすべての引用箇所について原典にあたって明解な日本語に訳し直してあるので、ロジャースの真意をはるかに明確に捉えることができるようになるだろう。
 なお引用の後の「全集*」は、岩崎学術出版社『ロージァズ全集』第*巻を意味し、「選集上」は、誠信書房『ロジャーズ選集』上巻を意味する。