| 【第3章第1節より】 |
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| “わたくしは、わたくし自身を、一つの全体として見るようになりました。またわたくしは、自分が一人の人間であるこということを実感しはじめるようになりました。このことは、わたくしにとって重要な洞察でした。以前の優秀な学業成績、職業の成功、社交場面における落ちつきなどと、現在の消極性、憂うつ、無感動、落第などは、すべてわたくしによってなされた適応行動であることがわかりました。このことは、わたくしが自己自身についての感情を再体制化しなければならない、すなわち、すぐれた適応は真の‘わたくし’の表現であり、神経症的な行動はそうでないという非現実的な考え方をもはや固執してはならないという意味でした。時には成熟した行動をとり、時には克服し難いように思われる問題に直面して神経症的な役割をとるのも、同じわたくしという人間なのだと感ずるようになりました。自己を一人の人間として受容することにより、わたくしは再体制化のプロセスに大きな力を得たのです。今わたくしは、則るべき基礎、統一の核心をもっているのです。”と。 |
| (全集8 pp.18-19) |
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「社交場面における落ちつき(ease in social situation)」は、「社交場面での気楽さ」くらいの訳がいいのではないか。
「消極性(withdrawal)」は「引きこもり」がよいだろう。
「憂うつ(dejection) 」は、melancholyやdepressionを連想させがちなので、「意気消沈」などの訳語をあてておく方がよいだろう。
「感情を再体制化し(reorganize my feelings)」は、専門用語ではあるが会話なので、「気持ちを整理し直す」のような訳にした方がよいかもしれない。
「すべてわたくし……」および「真の‘わたくし’……」の「わたくし」はmeである。私はこれを「自分」と訳すことにしている。前者は、すべて主体的な自己がしでかしたことだという意味にもとれるが、ここでは、悪い自分もまた客観的な自己に帰属しているのだと分かった、という意味にとるのがよいだろう。
「基礎(substratum)」は、baseやbasis などと混同されがちなので、「基層」などと訳しておく方がよいだろう。
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| この苦痛にみちた自己知覚の崩壊と再体制化(dis-and re-organization) は、セラピィの関係における二つの要素によって可能となる。その第一は、すでに述べられたことであるが、その新しい、暫定的な、矛盾にみちた、あるいは以前には否定されていた自己知覚が、がんこな構造をもつ局面とまったく同じように、セラピストに大事にされる(valued)ということである。このようにして後者から前者への移行はあまりにも悲惨な自尊心の喪失をともなうことなしに、あるいは古いものから新しいものへのあまりにもおそろしい飛躍の必要もなしに可能となるのである。この関係における第二の要素は、新しく発見された経験の局面に対するセラピストの態度である。クライエントにとってそれらは脅威的なもの、わるいもの、不可能なもの、破壊的なものに思われている。しかし彼は、それらのものに対するセラピストの静かな受容の態度を経験する。彼は、ある程度この態度を投射的に取り入れる(introject)
ことができ、自分の経験を、自分の一部として所有し、同一化し、象徴化し、そして受容することのできるものと見ることができるようになる。 |
| (全集8 p.79) |
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「自尊心(self-worth)」は、たいていはpride かself-esteem を連想させるので、「自己の値打ち」などの訳にしておくべきだろう。この状態は、プライドが傷つけられたというよりも、自分が空虚になってしまったという感じに近いだろう。
「投射的に取り入れる」は、introject 一語を訳したものであり、「投射的に」は無用。
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| セラピスト(あるいは成長を促進する人)はまず第1に真実であり、そして防衛的なとりつくろった態度のうしろにかくれたりしないで、クライエントに対してその人が全身で感じている感情のままに出会うのである。……第2の態度の特質は共感的理解である。……最後にセラピストはこのような関係の中では、クライエントに対して無条件の肯定的関心を経験している。……セラピストはクライエントが可能性をもった人間であると考え、あるがままのクライエントを尊敬し、あるがままのクライエントを受け入れるのである。……受容は、最も成長を促進させるタイプの愛情であり、その中で人はありのまま、しかも、可能性をもった存在として尊重されるのである。 |
| (全集12 pp.93-94) |
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「無条件の肯定的関心」は、unconditional positive regard 。「積極的な関心」と訳されている場合もある。「関心」という訳語では、interestやconcern の訳語だろうかと思えて紛らわしい。ちなみに私は、これを「無条件の肯定的な眼差し」と訳すことにしている。
ここの「愛情(love)」は、affection と混同されてしまう可能性があるので、「愛」の方がいいだろう。
ここの「尊重される」は、prized (貴ばれる) 。
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| 三つのセラピィ的な諸条件が記述される順序は、それらが論理的にからみ合わされているので、ある重要な意味をもつのである。おそらくこのことは、明確にされうるであろう。セラピストが、ある高いレベルの正確な共感を達成するということは、重要である。しかしながら、別の人の、瞬間、瞬間の“あり方(being)"に深く敏感であるということは、われわれが、第一にこの他人を受け容れ、そしてある程度までとうとぶ(prize)
ということを、セラピストとしてのわれわれに要求するのである。したがって、ある満足のゆくレベルの共感は、かなりの程度の無条件の肯定的な配慮もまた、あるのでなければ、ほとんど存在しえないのである。しかし、これらの諸条件のいずれも、それらがほんとうのものでなければ、その関係において意味のあるものとはとてもなりえないのである。したがってそのセラピストが、これらの点、およびほかの点において、セラピィ的な出会い(therapeutic
encounter) の中で統合されており、かつ純粋であるのでなければ、ほかの条件は、満足のゆくような程度まで存在することがほとんどできないであろう。したがって、純粋さ、もしくは一致という、この要素が、三つの諸条件のうちでいちばん基本的であると思われるであろう。 |
| (全集19 p.177) |
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「瞬間、瞬間の(moment-to-moment)」は、「その時点その時点での」くらいに訳しておいた方がよい。
ここの「敏感」はsensitive toであり、知的にではなく感情的側面から反応することを意味している。私はたれを「感受性鋭く」と訳すことにしている。
ここの「純粋」もgenuine 。「嘘偽りのない」や「正真正銘の」と訳しておいた方が意味が通じる。
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| 【第3章第2節より】 |
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| 私の経験しているところでは、クライエントは、他人に依存しないでも、ある程度は、その否定され、抑制された感情を発見することができるけれども、そのような感情を情緒的に十分に受容することは、自分の力だけではできないのである。このような“恐ろしい”感情がまずセラピストによって十分に受容され、その後にクライエントに受容されるのは、ただ愛の関係(a caring relationship) においてのみなのである。 |
| (全集12 pp.57-58) |
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「恐ろしい(awful) 」はfearful と勘違いされる可能性があるので、「すさまじい」くらいの訳にしておいたほうがよい。
「愛の関係(a caring relationship) 」ではあまりにも曖昧なので、「気遣う関係」という訳の方がいいだろう。
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| 【第3章第3節より】 |
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| サイコセラピィの課題は、コミュニケーションの失敗の処理にこそある。情緒不適応とみられる“神経症者”が感じている困難は、第1には彼が彼自身の内部でコミュニケーションがしゃ断されていること、第2には、その結果、他人とのコミュニケーションもまた阻害されている、ということによって起こる。もし、このようないいまわしが、なにか奇異にきこえるなら、言葉をかえて説明してみよう。“神経症的”なひとは、無意識界や、抑圧されたり、意識化が否定されている部分がしゃ断されているので、その部分に働きかけたり、意識化するためのコミュニケートができなくなっているのである。これが事実である限り、彼は他人とのコミュニケートに歪みを生じ、その結果自己自身にも、対人関係の面にも苦しむようになるのである。サイコセラピィの任務は、セラピストとの特殊な人間関係をとおして、クライエントが自己の内部でコミュニケーションをよくするよう助力することである。これが一度達せられると、クライエントは他人に対して、より自由に、さらにより効果的にコミュニケートできるようになる。それゆえ、サイコセラピィとは、個人の内部および個人間の、適切なコミュニケーションを進めることであるということができよう。 |
| (全集6 p.168) |
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「サイコセラピィの課題」および「サイコセラピィの任務」はともにtaskという原語が使われているのに、なぜわざわざ訳語を変える必要があるのか。
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| 私は、意味のある継続的関係に於ては、持続している感情が最も表現されるのに気づきました。感情が、私が所有するものとして表現されるなら、一時的には混乱が見られたとしても、結果的には、それらを否定したり隠したりするよりはるかに役立ちます。 |
| (『人間尊重の心理学』p.43) |
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「持続している(persistent)」という訳語に関しては、個人的な好みの問題かもしれないが、私は「尾をひいている」と訳すことにした。
「混乱(upsetting) 」は、「気が動転する」くらいに訳しておいた方がconfusion
と混同されることもなくなり、よいのではないか。ちなみにMacmillan English
Dictionary(以下MEDと略記する) によれば、confusion は"a feeling
that you do not understand something or cannot decide what to do"や"a
situation in which things are messy, badly organized, or not clear"と説明され、upsetting
は"making you feel sad, worried, or angry"と説明されている。
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私のみるところでは、クライエントや一般の人びとによくみられる孤独感には、ふたつの要素があると思う。第一は、人間の自己疎外(estrangement of man for himself) 、つまり、人間が自分自身の有機体の経験から分離していることである。こうした基本的な分離があると、有機体は、経験からあるひとつの意味を感じているにもかかわらず、他人の愛情をうるために、それとは違った意味を意識するのである。多くの行動は、意識された意味に支配されているが、有機体がじかに感じとっている別の意味は、自然とあらわれ出てくるまで意識から拒否され、無視されるのであり、われわれは、こうした宿命的な分離を背負っているのである。そこで人間は、自分自身と自由に通じあうことができないために、孤独を感ずるのである。
現代人の孤独にみられるもうひとつの要素は、われわれがわが心の底で経験していること――つまり、真の自己(real self) を伝えることができるような人間関係をもたないということ、である。われわれは、分離した自己の両面、つまり、意識された面とさらに深いレベルの経験との両方、を伝える人間関係をもたないならば、他人と心底から接触していないという孤独を感ずるのである。 |
| (全集11 pp.335-336;選集上 pp.192-193にも同文あり) |
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「孤独感(sense of aloneness)」は、lonliness と混同されないように、「独りぼっちの感覚」などと訳した方がよいのではないかと思う。ただし、alone にはlonelyの意味もあるので、文脈からいっても「孤独感」でも間違いなわけではない。
「有機体の経験から分離」の原語にはestrangement(疎外)が用いられ、直後の「基本的な分離」の原語にはrift(亀裂)が用いられ、「運命的な分離」の原語にはdivisionが用いられている。
全集11の底本は選集上の底本とは違っており、私は前者の底本を持っていないので、この箇所については確かなことは言えない。
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| 【第3章第4節より】 |
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| セラピストがセラピィの関係のなかで脅威を感じたり、不快感を経験しながらも、クライエントを受容し理解していることにしか気づいていないならば、そのなかでは経験と自己概念が一致していないのであり、セラピィは阻害されるであろう。その瞬間の自己がどんな状態にあったとしても、セラピストはその関係のなかで本当に“自己自身になりきる”ことが重要であると思われる。 |
| (全集8 p.213) |
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「不快感(discomfort)」というよりも「心地悪さ」という訳の方が近いのではないか。
「阻害される(suffer)」というより「そのあおりを受ける」と訳した方が文の前半とよくつながるだろう。
「その瞬間の自己」も、私は「その時点での自己」と訳す。
「自己自身になりきる(be himself)」でもよいのだが、私は「自分自身でいる」と訳すことにしている。
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| たしかに、セラピストが彼自身の感情をすっかり表現し、あるいは吐き出してしまうということが目的なのではなくて、彼が自己自身についてクライエントを欺いてはならないということなのである。 |
| (全集4 p.124) |
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「彼自身の感情を……吐き出してしまう(talk out his own feelings) 」に関しては、MEDではtalk something outを"to discuss a problem thoroughly with someone who disagrees with you about it"と説明しているので、「徹底して感じ方について意見を言い合う」に近いイメージなのだろう。
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| 信頼に値するということは、厳密に矛盾のないことが必要なのではなくて、本当のことをいっているのだと信用されることが必要であると認めるようになってきた。一致している(congruent) という用語は、いつも私がこうありたいと思うあり方をいい表わすのによく使ってきた。この言葉は、たとえ私がどのような感情や態度を経験していても、その態度を自分が気づいていることによって、それと一致しているという意味である。事実そのとおりであるならば、その瞬間に私は統一のとれた、統合された人間であることができる。それだから、どんなに自分の深いところでも自分自身であることができるのである。他人が信頼できると感じる真実とはこのようなものである。 |
| (全集6 p.33) |
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あとの方の「一致している」は、be matched (マッチしている) 。
「真実」の原語は、reality 。
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| このように、私が援助的であると思う関係は、私の側の一種の透明さ――その関係においては、私の真の感情が表わされている――ならびにこの他人を、自分自身の権利をもった価値のある独立した人間として受容すること、かつ、彼の私的な世界を私が、彼の眼をとおして見ることができるような、深い共感的理解をすることによって特徴づけられる。このような条件がつくられた時、私はクライエントの道連れ(companion)
となり、彼とともにかつては恐ろしかった自己探索の道を歩むのである。そして彼は、今ではそのことを自由にしてみたいという気になっているのである。 |
| (全集6 p.7) |
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「透明さ(transparency)」を私は「明け透けさ」と訳すことにしている。こちらの方がフランクな感じがあってイメージしやすいし、紛らわしい用例として、某少年の犯行声明文に「(他人からは見えない)透明なボク」という表現があるからである。
「真の」の原語はreal。
「独立した人間(a separate person) 」は、independent personと紛らわしいので「別個の人間」などと訳す方がよい。
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| 私は、ときどき、透明(transparency)という言葉が個人の一致というこの要素を述べるのに役にたつと考えてきた。もしも、私の内部で動いている、その関係に関連するあらゆることを、クライエントが見ることができるならば、また、彼が“わたくしをはっきりと見とおす”ことができるならば、そして、私が喜んでこの真実さをたえず関係の中で示すならば、これこそ、2人が学び発展させる意味深い出合いである、ということにほぼ確信をもつことができる。 |
| (全集6 p.50) |
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「喜んで(willing) 」は、英和辞典には「厭わない」「異議はない」「その気になっている」「進んでする」という訳語が載っていて、どの程度の「やる気」を意味しているのか判然としない。だが実際には、「〜してもよいという気がある」「〜しても構わないという気がある」くらいの意味であり、私はこの単語に後者の訳をあてることにしている。なのにここで「喜んで」と表現されると、「嬉々として自分の真実を見せびらかす」というような意味に誤解される可能性がある。セラピストの自己開示は、もっと穏健なはずである。「喜んで」という訳になる場合は、本当はそうしたくないのに役割として敢えてそうする必要があって反動形成でそう表現しているような面があるのではないか。商人が顧客(クライエント)の面倒な注文に「喜んでお手伝いさせていただきます。」と言う場合を考えるとよいだろう。
「真実さ(realness)」を私は「リアルさ」と訳すことにしているが、これはセラピストが「realである状態・態度」を意味する。
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| しかし、純粋であることが常に援助的なのであろうか? 否定的感情についてはどうするのか? カウンセラーがクライエントに対していだいている本当の感情が、当惑、退屈、憎しみ、などである時はどうするのであろうか? 私の仮定的な答では、次つぎにわいてくる感情がすべてそのような否定的なものであっても、感じてもいないみせかけの興味、関心、好意、を示すよりは、カウンセラーとしてむしろ真実を示した方がよい、ということである。 |
| (全集6 p.48) |
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「仮定的(tentative) な答え」ではよく分からないので、「暫定的な答え」と訳した方がよい。
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| 純粋であること、正直であること、一致している(be congruent)こと、あるいは真実であることは、“自分自身”に対してそうであるということである。私は、他の人にとって何が真実であるかを“知らない”ので、他の人について真実であることはできない。ただ、私が本当に正直でありたいと思うときには、私の内部に起こりつつあることを話すことができるだけである。 |
| (選集下 p.69) |
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「真実」の原語はreal、「本当に」の原語はtruelyである。
「私の内部に起こりつつあること(what is going on in me)」というより「私の中で進行しつつあること」である。カウンセラーといえども自分の中に兆していることまで捉えられるかどうか疑問であるし、それをあまり性急に話してしまうのも考えものである。
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| 【第3章第5節より】 |
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| それは、クライエントに心を配る(care for)ことであるが、所有的(possessive)な、あるいはセラピスト自身の欲求を満足させるためだけの心配りではない。それは、クライエントを分離した(separate)人間として心を配ることであり、彼に自分自身の感情をもち、自分自身の体験をもつように許すことである。 |
| (全集4 pp.125-126) |
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「心を配る(care for)」は、おそらく「心配する」に引っかけて訳語をつくったのだと思われるが、やはり意味が分かりにくいので、私はこれを「気遣い」と訳すことにしている。
「分離した(separate)人間」も「別個の人間」とした方が分かりやすいのではないか。
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| 彼女が自分のなかで体験しているすべての感情、すべての思考、すべての方向転換、すべての意味づけを、評価を加えずに受容していること。この受容は完全なものであると思うが、ひとつだけ例外がある。それを説明しておくほうがよいであろう。彼女の依存したい気持ち、答えを出してくれる権威としての私に頼りたい気持ちを、私は心から受容している。私が彼女の頼りたい“気持ち”を受容していることに注意してほしい。このことは、私が彼女の期待に応ずるように振る舞うという意味では“ない”。私が彼女の依存したい気持ちを容易に受容することができるのは、私が自分の立場を知っており、彼女には私が権威として映っていても、実際には私は権威的人物には“ならない”ことを知っているからである。 |
| (選集上 pp.181-182) |
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「彼女の依存したい気持ち」はfeeling(気持ち) ではなくdesire (願望) である。
「彼女の頼りたい“気持ち”」はwish (願い) である。
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| それは、クライエントを一個に人間として尊重することを意味しているのであって、ちょうど、親が子供に対して、その時の特殊な行動にはかかわりなしに、彼をひとりの人間として尊重するのと同じ気持である。このことは、クライエントを可能性をもった人間として、支配的でないやり方で心をかけてやるということを意味している。また、その時クライエントの中にある気持がどんなものであろうと――敵意かやさしさ、反抗か服従、うぬぼれか卑下、のいずれであっても――クライエントを明らさまに喜んで受け入れるということを意味している。それは、あるがままのクライエントに対する一種の愛といえる。この場合の愛という言葉は、神学者のいう“アガペ(agape) ”と等しいもので、通俗的な、ロマンティックで、所有欲をともなった意味ではない。私が述べている感情は、温情主義的、感傷的なものではない。また、表面上はあたりがよくて快い、というものでもない。それは、他の人をひとりの独立した人間として尊重するのであって、彼を支配するのではない。それは、一種の好意である。その好意は強さを持っているが、押しつけがましいものではない。私たちは、それを、肯定的配慮(positive regard) と名づけたのである。 |
| (全集6 p.53-54) |
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ここの「尊重する」は、prize(貴ぶ) である。
「心をかける」はcare for (気遣う) である。
「明らさまに喜んで受け入れる(open willingness)」は、「鷹揚でいる気がある」とでも訳すといいだろう。
「ひとりの独立した(separate)人間」は、「ひとりの別個の人間」
「押しつけがましい(demanding) 」というよりは「要求がましい」と訳した方が精確ではないか。
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| あるクライエントは、そのセラピストについて、彼は、“これが私の体験だ、私は本当にそれを体験しているのだ、というように‥‥私自身の体験を私が所有することを励ました。すなわち、私は、私の考えることを考え、私の感ずることを感じ、私の欲することを欲し、私の恐れることを恐れることができた。そこには、‘もし’とか、‘しかし’とか、‘本当はそうじゃないでしょう’というような気持はまったく表現されなかった。”と述べている。このような型式の受容(acceptance)こそ、パースナリティの変化が起こるために必要であると仮定された受容なのである。 |
| (全集4 p.126) |
| 〔原文〕One client describes the therapist as "fostering my possession of my own experience ... that [this] is my experience and that I am actually having it: thinking what I think, feeling what I feel, wanting what I want, fearing what I fear: no `ifs,' `buts,' or `not reallys.'" This is the type of acceptance which is hypothesized as being necessary if personality change is to occur. |
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邦訳は第二文の主語を「私」にしているが、原文をみると「セラピスト」が意味上の主語だともとれる。すなわち、fostering, thinking, feeling, wanting, fearingを文法的に同格だと見なすのである。この場合、セラピストは鏡の役割を果たしていることになる。セラピストが主語だという見解をとる理由は、引用符(“ ”)内はクライエントによってセラピストがどのように描写されているかを示すものだから、そして、コロン(:)はその前後が同格(または後の部分が前の部分を詳しく説明したもの)であることを示す記号だから、である。とはいうものの、thinking以下がhaving it を言い換えたものだと見なすなら、主語を「私」とするのが正しいことになる。
第三文も、邦訳では主語を「私」と想定しているが、上記のコメントが正しいとすると、ここの意味上の主語も「セラピスト」ととることができる。「というような気持はまったく表現され」は、原文にはないからである。セラピストが主語だとすれば、その代わりに「というような応答はまったく表現され」が訳文に補足されることになろう。これは、余計な意見をさしはさまないというカウンセラーの自制的態度を意味している。
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| セラピィ関係がもっとも効果的であるときには、それは、ひとつのいちばん重要な価値――すなわち、この人間が、このクライエントが、値打ちがあるということ――によって特徴づけられているように、わたくしには思われるのであります。ひとりの人間としてのクライエントは、その人が別個であり、ユニークであることにおいて、尊ばれます。クライエントが、ゆっくりと、自分自身のさまざまな面を尊び始めることができるのは、その人が、自分はひとりの人間として大切にされている、ということを知覚して、まざまざと実感するとき、なのであります。 |
| (全集23 pp.49-50) |
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ここの二箇所の「尊ぶ」は、value 。
「大切にされている」は、is prized 。
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| もちろん、このような無条件的配慮をいつも感じ続けることは不可能である。誠実な治療者は、しばしばクライエントに対してそれと非常に異なった感情、たとえば否定的感情を持つ時もあろう。それゆえ、治療者はクライエントに対して無条件の肯定的配慮を持つべきであるというように「当為」と見なしてはならない。それは、もしこの態度的要素がその関係の中に適度な頻度で存在しなかったならば、建設的なクライエントの変化は起こりにくいだろうという、単なる事実を言っているのである。 |
| (『人間の潜在力』p.14) |
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「無条件的配慮(unconditional caring)」は、unconditional regardと混同される危険が大なので、「無条件的気遣い」などと訳しておくべきである。
「誠実な治療者(A therapist who is real) 」は、sincere と混同されるので、「リアルである治療者」と訳すべきであろう。
「べき」と「当為」は同じshouldだが、前の方のは「はず」(ありそうな未来または期待)を意味する用法だと考えた方がよい。かつて日本語の「べし」には、そのような用法もあった。「クライエントが変化したなら、セラピストに無条件の肯定的配慮があったはずなんですが... 」と理解してほしいという意味である。
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| 【第3章第6節より】 |
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| もし、私が、あなたについては何も知らないんですが、あなたを“受け入れ”ましょう、というならば、それはまったくあさはかな受容である。私が、実際にあなたをよく知るようになれば、この気持が変るかもしれないということは、あなたにはわかるであろう。しかしながら、もし私が共感的にあなたを理解し、あなたの姿、あなたの感じていること、していることをあなたの立場に立ってみつめ、あなたの世界に入りこんでそっくり同じような考え方ができ、しかもあなたを受容するならば、その時にこそ、ほんとうに安全であるということになる。このようなふんい気のなかでこそ、人は、真実の自己をあらわにして、環境とかかわりながら、それをいろいろな新しい形で表現できるようになる。 |
| (全集6 pp.249-250) |
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「雰囲気(climate) 」は、atmosphereと混同されるので、別の訳語を使った方がよい。「風土」が一般的なのだが、どうもイメージしにくいので、私はこれを「環境条件」にしたものか「気風」にしたものかと迷っている。
最後の一文は、「人は……表現できるようになる」ではなくて、「あなたは、……表現することを、許容することができる。」である。
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| 第5の条件は、クライエントの自己自身の体験についての意義に対して、セラピストが正確な感情移入的理解(empathic understanding)を体験するということである。 |
| (全集4 p.127) |
| 〔原文〕The fifth condition is that the therapist is experiencing an accurate, empathic understanding of the client's awareness, of his own experience. |
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「意義(awareness) 」は気づきの間違い。
awareness の後にカンマが付いているので、二つの`of 〜 '句を、ともに`an
accurate, empathic understanding' にかけて訳すべきではないかと思う。すなわち、「クライエントが気づいているものについて、クライエント自身の経験について、セラピストが的確な感情移入的理解を経験しつつあること。」
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★トラックス(1967)による共感性尺度
ステージ1
セラピストはクライエントの最もはっきりした感情でさえも全く気づいてはいない。彼の応答はクライエントの発言の雰囲気や内容に適していないし、共感性が見られない。セラピストは退屈しているか、関心がないかまたは助言しようとしている。けれどもクライエントのその時の感情について気づいたことを伝えようとはしていない。
ステージ8
セラピストはクライエントが現在認めている感情のすべてを正確に了解している。またクライエントが抱く感情のなかで最も深く隠された部分を見出し、クライエントが少ししか気づいていない体験の意味を表現する。彼はクライエントが暗に示している感情や体験の中へ入りこみ、敏感に正確に理解する。気づかれてくる感情は新しいが孤立したものではない。ステージ8を示すセラピストも誤りを犯すが、これは不調和とはならず、応答の慎重な特性によって補われる。また、セラピストは自分の誤りに敏感で、途中から応答を変える。つまりクライエント自身の探究に於て話されること、追求されることをはっきり認識しているのである。セラピストは試行錯誤の探求のなかでクライエントとの一致点に反応する。声の調子は誠実さと共感的理解の深さを反映している。 |
| (『人間尊重の心理学』pp.135-136) |
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「雰囲気(mood)」は気分と訳すべきだろう。
「クライエントのその時の感情(the client's current feelings) 」は、「クライエントの今流れている気持ち」の方がよいだろう。「その時の」だと、クライエントが過去の出来事について話している場合に、過去の感情について気づいたことを伝達するという意味にとれてしまうおそれがある。
「孤立した(alien) 」は、MEDでは"completely different from what you usually do, feel, or know"と解説されているように、異質性が問題なのである。私は今のところ「相いれない」を用いる予定。
ここの「敏感」はsensitive 。
「クライエントとの一致点に反応する(reflect a togetherness with the client)」は、「そのクライエントと一緒にいることを反映している」と訳すべきだろう。
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| 関係を促進させる第3の局面は共感的理解(empathic understanding)である。これはクライエントが体験しつつある感情やその個人的な意味づけを、セラピストが正確に感じとっており、この受容的な理解をクライエントに伝えるということである。共感的理解が最もよくすすむときにはセラピストは、他者の私的な内面の世界にまで深く入り込んでいるので、クライエントが気づいている意味づけだけでなく、クライエントが気づいていない深いレベルの意味づけまでをも明確化することができる。 |
| (選集上 p.163) |
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「クライエントが気づいていない深いレベル(just below the level of awareness)
」は、気づくレベルのすぐ下、すなわち、気づくか気づかないかのぎりぎりのところ。MEDによれば、just
behind/above/below etc.は、"in a position very close to someone or
something"の意味である。
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他者に対して共感的であるあり方はいくつかの側面を有します。それは、他者が私的に知覚する世界に入りこみ、そこで居心地よく感じることを意味します。他者の内部を流れゆく瞬間ごとに変化する感じをつかむこと、その個人が体験しつつあるものが恐れ、怒り、やさしさ、困惑等何であろうとつかむ事を意味します。それは、一時的に他者の生活にはいりこみ、判断を停止して微妙に動いていくことを意味します。つまり個人がほとんど認識していない意味を感じとり、それでいて無意識の感情を暴露することはあまりに脅威的なので行わないのです。それは、ある個人が恐怖感を抱いている事柄を新鮮な恐れのない目で見つめ感じとり、それを伝えていくことを含みます。あなたが感じとったままをその個人と共によく検討し、相手から受けとる反応によって歩んでいくことを意味します。あなたは相手の体験過程というこの役立つ指標に焦点を当て、その意味を十分に体験し、その経験の中で前進するよう援助するのです。
|
| (『人間尊重の心理学』p.133) |
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「居心地よく感じる(at home) 」よりも「慣れ親しむ」くらいの方がよいのではないか。クライエントの内的世界が居心地よいかどうかは分からない。むしろ「勝手知ったる……」という感じであろう。
「他者の内部を流れゆく瞬間ごとに変化する感じをつかむ(being sensitive,
moment by moment, to the changing felt meanings which flow in this other
person)」に関しては、「瞬間ごとに」は「変化する感じ」にかかるのではなく、「つかむ」(感受性鋭くある)にかかる。私の訳は、「こういう他の人間の中に流れている変化していく感じられた意味(changing
felt meanigs) に対して……その時点ごとに(moment by moment)感受性鋭くあること」。
「判断を停止して微妙に動いていくこと(moving about in it delicately without making judgements) 」は、「判定をしないできめ細かくその中をあちこち動き回ること」と訳した方が日本語としてこなれているのではないか。
「指標(referent)」は、他の箇所では照合体と訳されている場合もあるが、私は「照合先」と訳すことにしている。
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| 第一に、共感は疎外を解き放ちます。しばしの間であろうとも、受け手は人間世界につながった自分を見出します。うまい表現とは言えないかもしれませんが、その経験は次のようなものです。「私はこれまで隠してきたことを語った! 自分自身にさえ隠してきた奇妙で、多分に常軌を逸した感情を。他者に一度も語ったことがなかったし、自分でも明確にしてこなかった。それだというのに、他の人がわかってくれた。私の気持を私自身よりもはっきりわかってくれた。私の話すことを誰かがわかるのなら、ともかく私は極端に変で、孤独でひとりぼっちではないと言える。私は他の人と通じるのだ。ともかく私は人と触れ合えるのだ。私はもうひとりぼっちじゃない。 |
| (『人間尊重の心理学』p.142) |
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「解き放つ(dissolve)」は、「解消する」でいいのでは?
「孤独(alien) 」は、「疎外されても」の方が冒頭の「疎外」と対応していてよい。
「ひとりぼっち(set apart) 」は、「引き離されて」くらいの訳がいいだろう。
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| 共感的理解から生じる第二の結果は、受け手が価値、思いやり、存在を受けとめられた感じを持つ事です。これは共感という領域を踏み越えた他の事を言っているように思われるかもしれません。しかし、そうではありません。他者の認知する世界を正確に感じとることは、あなたがその個人の価値を認め、彼の世界を認めるのでなければ、即ちその個人を大切に思うのでなければ不可能であります。それによって、次のようなメッセージが受け手に伝わっていくのです。「この人は私を信用している。私が価値あるものだと思っている。多分、私は何かの価値があるのだろう。私は自分を認めてよいのだろう。自分を大切に思ってよいのだろう。 |
| (『人間尊重の心理学』p.143) |
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「受け手が価値、思いやり、存在を受けとめられた感じを持つ(the recipient feels valued, cared for, accepted as the person that he or she is.)」は、「受け手は、彼または彼女であるその人間として価値を認められ、気遣われ、受容されたと感じます。」
「大切に思う」はcare。
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1.共感性の評価的でない受容的な特性は、これまで検討してきたように、自己自身を認め大切にする態度を育てる。
2.理解的な人に聞いてもらう体験は、その個人をして自己に対してより正確に耳を傾けさせ、自己の全身的経験やぼんやりと捉えられる意味を共感的に見つめる方向にむかわせる。
3.自己理解、自己承認の増大は、より確固とした自己概念の一部となるような新しい側面への気付きを導く。 |
| (『人間尊重の心理学』p.150) |
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「自己自身を認め大切にする態度(prizing caring attitude toward themselves) 」は、「自分自身を貴び気遣う態度」。
「自己の全身的経験(their own visceral experiencing) 」は、一般人には理解しやすい訳だが、専門用語を表示すれば「自分自身の内臓的な体験過程」となる。
「自己理解、自己承認の増大(greater understanding of and prizing of themselves)」は、「自分自身を大いに理解し貴ぶ」
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| 【第3章第7節より】 |
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| クライエント:そうですね、私は非常に大事な発見をしたのです。こういうことなんです――〈笑う〉このことがどうなっていくかということについて、あなたがほんとうに気を配っている(care)ことを発見したのです。〈一緒に笑う。〉なんといったらいいんでしょうか――“きっとあなたがそこに入っていけるようにしてあげる”という式のことだという感じなんですね。それは――別のいい方をすれば、試験の答案に正しい解答ができたんだろうと思う、いわばそんな感じなんですね――でもそれは突然私にわかりはじめたんですけれども――クライエントとカウンセラーの間がらで、ここに何が起こってくるかについて、あなたがほんとうに心配していらっしゃる(actually care) んですね。それは啓示(revelation)だった――いやそうではない。そういう言葉ではあらわせません。それは――そうですね、私がそこに、もっと近づくことができたとき、それは伸び伸びした気持(relaxation)、――弛緩(a letting down)ではないけれども――〈間〉なにか緊張なしにすっきりする(a straightening out) といったらいいんでしょうか。よくわかりません。 |
| (全集4 p.81) |
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「きっとあなたがそこに入っていけるようにしてあげる(maybe I'll let you get in the act) 」は、前後関係が詳しくないので確言はできないが、「できたら、私はあなたに一枚かんでもらおう」すなわち「一役かってもらおう」という意味ではないか。
「弛緩(a letting down)」は、「気が抜ける」くらいの訳がいいのではないか。
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| 彼らは、自分の中に起こった変化の原因は、その関係の中での次のようなセラピストの態度によるものであったと指摘している。すなわち、セラピストに対して感じた信頼、セラピストによって理解されたこと、選択や決定に際して自主的に行なったという感情などである。セラピストの手法の中で彼らが最も援助的であると認めたのは、クライエントがぼんやりと、ためらいがちにしか考えてみることのできなかった感情を、セラピストが明りょう化し、はっきりと述べたことである。 |
| (全集6 p.22) |
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第一文を直訳すれば、「彼ら〔=クライエント〕は、その関わりの中でのこれらの態度上の要素が、彼らの中に生起した変化の原因となったということを示した。」であり、セラピストという語は出て来ない。そして、次に具体的に述べられている三つの態度は、むしろクライエントの態度である。したがって、最初の二文(原文は、両者がコロン:でつながって一文になっている)は、クライエント自身の態度――というか彼らの気持ち――が変化の原因になったという意味にとれる。
「はっきりと述べる(openly stated) 」は、直訳すれば「オープンに述べる」。
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| 【第3章第8節より】 |
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| クライエントによって種々の特殊性があるにもかかわらず、同一の条件があれば、セラピィが十分行なわれるとみなすことは、従来の伝統にとらわれているセラピストたちにとってもっとも大きな驚きをもたらすものであろう。今日までのわれわれの経験でわかったことは、セラピィの関係は、クライエントが各人各様に利用するものであるけれども、クライエントの特殊性に応じて関係を巧みに操作する(manipulate)ことは不必要であり、かつ援助的でもないということである。このような操作は、セラピィの経験のなかでもっとも援助的であり、しかも重要な局面を破壊してしまうように思われる。すなわち、そのような局面とは、セラピストとクライエントという二人の間の純粋な関係(genuine
relationship)なのであり、その相互作用のなかで互に自己の能力の限りをつくして、自分自身になろうと努力することなのである。 |
| (全集8 p.212) |
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「このような操作は、セラピィの経験のなかでもっとも援助的であり、しかも重要な局面を破壊してしまう」は、日本語がうまく使えていない例。意味をよく考えながら読まないと、操作が援助的であるかのように誤読してしまう場合もあるかもしれない。この箇所は、「援助的かつ重要な局面を破壊してしまう」とでも訳しておくべきである。
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| また、私は、どういう種類の人にどういう種類の援助的関係が効果的であるか、ということを公式化することも可能であることに気づいている。分裂病者の治療にあたっている私たちの仲間のセラピストのうち何人かは、非常に条件的な(highly conditional)態度で臨み、精神病者特有の行動を受容しない時に効果をあげている。このことは二通りに解釈できる。たぶん、条件的な態度の方が、これらの人たちにとっては援助的なのであろう。あるいは、おそらく――私にはこの解釈の方が事実によりよく合っていると思うのであるが――これらの精神病者は、条件的態度を、セラピストがほんとうに自分のことを考えてくれているという意味に知覚し、他方の無条件の態度を、冷淡な無関心の態度として受け取るのであろう。ともかく、私が述べてきたことは、初歩的な公式であり、今後学んで行くことがらによって修正され、訂正されるにちがいないということを、明らかにしておきたい。 |
| (全集6 p.58) |
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一つ目の「条件的な態度」には態度に相当する原語はなく、二つ目の「条件的な態度(condtional set)」は、「条件的な構え」と訳した方が精確だろう。三つ目・四つ目の「態度」はattitudeであり、最後の「無関心な態度(noncaring) 」には、態度という原語はなく、「気遣いがない」とでも訳しておくべきである。
「自分のことを考えてくれている」は、care (気遣う) である。
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| 鋭い診断的知覚は共感性と相関しない。セラピストが作り出す共感的雰囲気は学問的業績や知的能力と関連しないことを知るのは重要なことです(Bergin & Jasper,1969; Bergin & Solomon, 1970)。個性を正確にとらえる事、診断能力とも関連しません。事実、後者とは負の相関があるのです(Fiedler,1953)。これは最も重要な発見です。もしも学問的能力や診断的能力が重要でないなら、共感性という特性は心理学的思考と精神医学的思考とは異った領域の語り合いに属すると言えます。多くのセラピストはこの意味を受けいれるのが不快なことでしょう。 |
| (『人間尊重の心理学』p.140) |
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「鋭い診断的知覚は共感性と相関しない(Brilliance and diagnostic perceptiveness are unrelated to empathy.)」のうち、「鋭い……知覚」がperceptivenessの訳だとすれば、「聡明さ」という訳が欠けていることになる。また、「相関しない」はcorrelate が使われているのではないのだから、「関連しない」という訳の方がよいのではないか。
「もしも学問的能力や診断的能力が重要でないなら、共感性という特性は心理学的思考と精神医学的思考とは異った領域の語り合いに属すると言えます。」は、直訳すると、「もし学問的聡明さや診断的技能が重大でないなら、明らかに共感的な特性は、最も臨床的な思考――心理学的・精神医学的な〔思考〕――とは異なった領域の論説(discourse) に属すると言えます。」となる。
「意味(implications)」は、「含意」と訳すのが正しい。ここに明言された意味だけでなく、そこから派生するさまざまな意味も含んでのことである。
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| テストが伝統的なやり方で行なわれるときは、それはクライエント中心的カウンセリングの原理とほぼ完全に対立する。たとえカウンセラーがクライエントと責任を分担していても、テストはカウンセラーにカウンセリング過程に対するより大きな責任をとらせる。テストは本来評価的なもので、クライエントについてなにがしかの判定を下すものである。テストはクライエントに自分自身を発見できると感じさせるよりは、むしろ専門家だけが自分について知ることができると感じさせる。テストには標準点(norms) があるので、自分がその標準点や一般に受けいれられている標準とは異なるときに、クライエントが自分自身を受容することをますます困難にするからである。 |
| (全集4 p.64) |
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「対立する(contradict)」というよりは、「矛盾する」と訳すべきだろう。両方でせめぎ合うというよりは、あちらが立てばこちらが立たずという意味である。
「テストはカウンセラーにカウンセリング過程に対するより大きな責任をとらせる。」という訳よりは、「それら〔=テスト〕はカウンセラーに、カウンセリング・プロセスに対して第一に責任があるようにさせる。」という訳の方がよいのではないか。
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| 心理テストはまさに次のような場合だけ、非指示的カウンセラーが同意しうる目的をもつと思われる。 (1)テストの必要がクライエントの症候的行動の重要な側面としてみとめられる場合、 (2)クライエントが選択の責任を負うのが不可能である場合、 (3)研究目的のためにはっきりと変化している特質を測定する必要がおこる場合、などである。 |
| (全集4 p.68) |
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「テストの必要(the need to take tests)」は、前後関係が詳しくないので確言はできないが、たぶん「テストをとってもらいたいという欲求」ではないかと思う。
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| 私は、サイコセラピストがもっている、ある記述可能な態度的条件――純粋性、受容、センシティヴな共感的理解が――、サイコセラピーのなかでセラピトスとしてかかわりをもっているクライエントまたは患者の変化にとって、必要にして十分な条件である、という主張をしております。 |
| (選集下 p.19) |
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「態度的条件(attitudinal set) 」は、「態度的な構え」と訳した方が精確だろう。
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