| 【第6章第1節より】 |
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| サイコセラピィにおける私の経験からみると、こうした前進する力や、健全な成長へと向かう一定の傾向は、人間に関する最も深い真理であるように思われる。……もし私が成長に役だつ諸条件を用意することができるならば、この肯定的な傾向が建設的な結果をもたらすことを発見してきている。……科学者は細胞をある方向あるいは別の方向へ発達させることはできない。しかし、もし科学者が自分の技術を細胞が生き残り、成長することのできるような条件をつくることに向けるならば、成長への傾向、成長への方向が建設的に現われてくるのである。しかも、これらは有機体の内部から生まれてくるものなのである。私はサイコセラピィについてこれ以上良い類比を思いつくことができない。つまり、もし私が心理学的な培養液を用意することができるならば建設的な前進する運動が起こるであろう。 |
| (全集12 pp.92-93) |
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「細胞を発達させる(cause the cell to develop) 」は、「細胞が発達する原因となる」くらいの明確な表現で訳しておいた方がよいだろう。またこの直後に、「DNA分子を形成することもコントロールすることもできない。」という文が抜けている。
「培養液(amniotic fluid)」は、「羊水」と訳した方が精確だろう。心理療法的な環境を子宮内に類比するならば、そこから新たな自己が生まれるという意味も暗示でき、培養液という訳よりもはるかにずっと豊かな含蓄をもっている。
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| 人間は生理学的、心理学的な発達と分化と成熟への傾向を示すものである。人間は生理学的にも心理学的にも、依存を必要とする段階から独立の段階へと発展していく傾向がある。人間は欲求を満たすために自動的に調和を保つように機能する微妙な感覚のフィードバックシステムというものを発達し分化する傾向がある。人間は他のすべての有機体と同じように自分を維持し、そして発展させていく傾向があるが、しかし、人間の行動は(私が後に述べるような)ある好ましい条件のもとではまた人間の種の保存と発展に向かって進み、またその種の進化に向かって進むものである。 |
| (全集12 p.91) |
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「発展させる(enhance) 」はdevelop と混同される虞があるので訳語には注意が必要。邦訳ではenhance を「強化する」と訳している場合もあり、非常に紛らわしくなっている。私はこれを「増強」と訳すことにしている。
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| 【第6章第2節より】 |
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| 私たちの臨床経験のなかで育ってきたもっとも革命的な概念の一つは、人間性の内奥の核心、パースナリティの最深の層、かのいわゆる“動物性"(animal
nature)といわれるものの基盤――は、基本的には社会的なもの(socialized)であり、前向きのもの(forward-moving)であり、合理的なものであり、リアルなもの(realistic)
であるという認識がますます大きくなりつつあるということである。 |
| (全集4 p.93) |
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「基本的には社会的なもの」の前に、「その本性においてポジティヴであり」が脱落している。 |
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| “セラピィのなかで人間は、人間有機体というものの意味する豊かなもののいっさいをもったそれに、ほんとうになっていくのである。彼は現実的に彼自身をコントロールすることができ、矯正しがたいくらいに彼の欲望は社会化されるのです。人間の中に獣性はありません。人間のなかには人間があるのみです。そして私たちが解放することができるのは、それなのです。” |
| (全集4 p.112) |
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「ほんとうになっていく(has actually become) 」は、「実際になった」または「実際になってきた」と訳すのが文法的に正しいだろう。
「人間」の原語はここで三種類ある。冒頭の人間はindividual、人間有機体はhuman organism、それ以外はman 。
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| 人間が人間として尊重されている時は、彼らが選ぶ価値は起こりうるすべての可能性を網羅してはいない、ということには意味があることに私は気づいた。つまり、そうした自由な雰囲気の中で、ある人が詐欺や殺人や窃盗を価値づけるようになったり、ある人が自己犠牲の生活を価値づけたり、またある人は金銭のみをありがたがるということはみられないのである。そのかわり、そこにはひとすじの共通性が深く根ざしているように思われる。私はあえて次のことを信じたい。人間が深く価値づけているものが何であっても、それを内面的に自由に選ぶことができるとき、その人は自分自身の生存と成長と発展をもたらし、他者の生存と発展を助けるような対象や経験や目的を価値づける傾向がある。私は次のように仮定する。つまり、人が成長を促進するような雰囲気におかれたとき、このような実現を好み、社会化された目的を好むということは、人間という有機体の特質である。 |
| (全集12 p.394) |
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「人間が人間として」は前者がindividuals 、後者がpersons 。
「尊重されている(prized)」は「貴ばれている」
「雰囲気(climate) 」は、二つとも「気風」。
「価値づける(value) 」は「価値を認める」と訳した方がわかりやすいだろう。
「その人は自分自身……」の個所は、「その人間存在(human being) は自分自身……」の方が精確。
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| しかしながら、複数の真理が存在するとの仮説に基づいた共同体や社会を構成できるのだろうかという問題が浮かび上がってきます。そのような社会は、完全に利己主義的無政府状態になってしまわないだろうか? 私はそうは考えないのです。あなたの世界観が受けいれられ、あなた独自の視点を持つ権利があること、私がうらやんだりせずにそれを受けいれるという状況を考えていただきたいのです。他者にとっての真実を、危険だとか異端だとか愚かだといって閉め出してしまわないで、それを探求し学ぼうとする事を想像出来ますか? あなたの側も私に対して同じ態度をとることを想定していただきたいのです。社会がもつ結果はどうなるでしょうか? 私は、その社会は真理とされる理由、考え、見方に盲従することなく、互いが権利を持った別個の人間として、独自の真理を持った人間として共に参加すると思います。人間が所有している他者を大切に思う基本傾向は、「あなたは私と同じ考えだから大切に思う」のでなく、「私と違っているあなたを尊敬し大切に思う」方向で生かされるでしょう。 |
| (『人間尊重の心理学』p.103) |
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「利己主義的無政府状態(individualistic anarchy) 」は、selfish と混同されるかもしれないから、「個人主義的な無政府状態」がいいのかもしれない。
「盲従する(blind commitment)」は、訳としてはこなれていてよいのだが、「盲目的な関与」のように関与という訳語を出しておいた方が原語を想像できてよいと思う。
「同じ考えだから大切に思う(care)」「尊敬し大切に思う(prize and treasure)」のように違う原語を同じ訳語にするのはよくない。私の訳では、各々「気遣う」「貴び、大事にする」となる。
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| 【第6章第3節より】 |
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| クライエント中心療法の中で、われわれは行動を予測したり、影響を与えたり、あるいは統制さえもやっている。セラピストとして、われわれはある一定の態度の条件を設定する。クライエントはこうした条件設定にはあまり口出しをしない。これらの条件が設定されると、ある一定の行動が結果としてクライエントに起こるのを予測することができる。この点までは、大部分が外的統制であり、スキナーが述べたことと同じであり、また私がこの論文でこれまで述べてきたことと変わりがない。しかし、類似点があるのはここまでである。 |
| (全集12 p.232) |
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「あまり口出しをしない(has relatively little voice) 」は、「比較的少しの発言権しかない」ではあるまいか。MEDではvoice の二番目の意味として"[singular] the right or opportunity to express your opinions and influence what happens" をあげ、次の成句と文例を載せている。"have a voice (in something): Parents should have a voice in any changes to the school curriculum." クライエント中心療法は、クライエントにとって比較的心地よい雰囲気に感じられるので文句をつけることもないのだろうが、ここに訳文から感じられる以上の一方的な雰囲気を想定してもよいかもしれない。
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| かくて、関与は決定以上のものである。それは、彼自身の中に現われてきつつある方向を探究している人間の機能である。キルケゴールは“真理は生成のプロセスの中に、接近していくプロセスの中にのみ存在する”(1943,
72ページ) 、と述べている。関与の本質は、行為をとおして、暫定的な個人的真理を創りだすことなのである。 |
| (全集12 pp.316-317) |
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「接近していく(appropriation) 」は、「私有化」という訳がよいかもしれない。『原典訳記念版 キェルケゴール著作全集』第六巻(大谷長訳
創言社. 1989年 p.349)では、「同化〔自分のものにすること〕」という訳が当てられている。MEDではappropriation
を、"the action of taking something, especially when you have no right
to take it"と説明しており、本来は所有してはいけないものを敢えて所有しようとする行為を意味する。しかし、ここではそこまで否定的な意味はないようである。
この論文「自由と関与(Feedom and commitment) 」と同じ内容が全集23にも「自由と委託」という題名で邦訳されている。「委託」という訳では、無関与または責任の丸投げで、むしろ逆の意味になってしまうだろう。
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