MUGEN の シンゾウ




















序章

暗い通路を何者かが歩いている。
そう推察できる。小さな、規則的な音がこえる。足音─。
暗いではなく、一条の光も射さぬとしなければならない。真の闇だった。地下通路と考えるのが自然であり、照明装置に供給されるエネルギーが断たれた、或いは元々照明装置など設けられていなかったと考えるのが自然だろう。その通路は一本道ではなかった。幾筋にも分岐していた。
道順を完璧に記憶しているのか、何者かは遅滞なく歩く。その足音から不安や逡巡、脅えなどは感じられない。立ちどまった。通路の終わりか、扉に突き当たった。右手で軽く触れるように押す。仄かな明かりが洩れてきて、その者の姿が浮かびあがった。
少女、或いは娘だった。
年齢は、一七、八か。童顔だとしても二〇には達していないだろうし、逆に実年齢より上に見えるとしても一五未満ではあるまい。女性ということを考慮に入れれば、既に成長はとまっている。身長は平均より七、八センチメートル低く、やや痩せ気味。体形には幼さが残るも、顔のは整っている。白人のように色が白く、髪は首筋を隠すくらい、前髪は眉毛の上で軽く切りそろえられていた。モデルにはなれなくともそこいらのヴァーチャル・アイドルを遙かに凌ぐ魅力がある。
高校の制服らしきものを身に着けている。青いブレザーだ。
両開きの扉は厚さ三〇センチメートルばかり、高さが五メートル強、片方の幅が三メートル弱、材質は判然としないが、重さはかなりのものだろう。少女が中に入ると音もなく、勝手に閉じた。
空間が拡がる。広い、というより奇妙な感覚を受ける場所、地下室だった。青い光は大きな質量を有しているのか、壁も床も天井も、確とは視認できず、その源の特定も難しい。
少女の前方一〇〇メートルに、巨大な塊がある。光沢のない黒い球体が浮いており、その手前に佇む者がいた。
少女はその方へ歩を進める。
「理事長」
声をかけると、背を向けていた者は振り向いた。
「美翔か」
太い声が少女をそう呼んだ。
全身をグレンフェルで包んだ、白髪の男だった。背は平均、恰幅が良い。浅黒い顔には艶気があり、皺も浅く、四十代のそれだが、髪は綺麗に白くなっている。
「調査は進んでおるのか」
「進展はありません。それとなく探りを入れてはいるものの、それらしい噂すら皆無です。真にあれが、あるのですか、あそこに?」
少女、美翔は問う。冷たい声だった。
「信じられぬか、儂が」
美翔は顔を青ざめさせる。
「いえ」
震えていた、声も身体も。
「種を蒔け」
男は厳然と命じた。
「邪神の種子を、でありますか?」
「いつからお前はそうも鈍くなった。聞かねば断ぜられぬか」
美翔は半歩さがっていた。
「お前ともあろうものが平和惚けか。少々鍛えなおす必要があるかもしれんな」
「御容赦を、それだけは」
「まあ、良い。ゆけ、時間は無限にあるとは限らぬのだ、今の儂らには」
「承知いたしました」
美翔は深々と一礼し、踵を返し扉へと歩く。くる時に比べ微妙に歩調が早くなっていた。扉を押し開き、闇の中へ入ると、大きく息を洩らした。


























一章

足をとめて空を見あげ、顔で幾粒かの水滴を受けとめ俯き、石畳に小さな染みが拡がっていくのを数秒眺めていると、隣を歩いていたはずの恋人は数メートル先を歩調を緩めるでもなく歩き、待ってよ、と小さく叫んで漸く、オルドビス系から発掘されたアンモナイトみたいな化石を模したのか、それとも本物か、あの時はわからなかった敷石の上に、誕生日に送った新品同様の白いバッシュは行儀良く並び、大股になった私のスニーカーの微かな足音が近づくと再び動きだす。
平らかになるよう何か透明な素材で表面を包まれた敷石のアンモナイトの化石のようなものには、殻に何者か、勿論古代の生物に食いつかれたような痕跡があったので、本物かもしれないと思ったのを、あれは複製、と複製などであるはずのないのに、短く否定した聖の後を追いかけて、普段より急ぎ足になった駅の利用者の一人になり改札を通ると、雨足が強まるのが聞こえ人の疎らなホームに入ってきたあまり本数のない、それでも収益率の低そうな電車に乗り、乗降口の硝子に映る濡れたうちに入らない前髪を気にしていた隣で同じように前髪を指でいじっている瞳は、確かにガラスに映る彼と瀬羅を合鏡のように映していたが、唐突に視線を網棚に移動し、それを追うと重量で僅かに沈む黒い銃身が目に入り、SIG/SAUER MODELP3291かなと首を傾げると小さく当たりと言い手を伸ばして、確かに3291と刻印された銃から.40S&Wを収納したマガジンを抜き、スライドを引いて弾薬が装填されていないのを確認すると銃口を覗き異物の有無を確かめ、グリップを九本の指でしっかり握り腰を落とし、反対側の乗降口の硝子に映る自らの額に照準を合わせ、静かにトリガを引きハンマーを落とし、三度ストロークを確かめてマガジンを入れ、初弾を装填し再び腰を落として自己の額に照準を合わせ、次いで隣の腰を落とした聖より高い位置にある瀬羅の半分前髪に隠れた額をポイントすると、やめてよと瀬羅が半歩離れても銃口は寸分の狂いもなく動きに追随し、硝子の中で微かに唇をつりあげる笑みを浮かべると静かに指をトリガにかけ、やめてよ、ねえ、やめて、虚像ではなく実体に銃口を向けられているかのように脅えさり長い髪に隠れた背中を硝子に押しつけても、照準は虚像の瀬羅から外れずに、小さく聖は、もう邪魔だと唇を動かし声を発しはせず静かにトリガを引いて、轟音と共に発射された弾丸が額の中央を撃ち抜き、マズル・フラッシュと共に闇へと消え、瀬羅が硝子の中で吹き飛ばされ額から少量の血を流し確かにこと切れるのを見届けると、聖はP3291を硝子に投げつける。
硝子が派手な音をたて割れた。
階下で割れた硝子か何かの音が殆ど聞こえる訳はないのに、その音で目覚めたのだと思い、今は短い髪をかきあげる動作をし小さく「なんだ」と呟き、唇はその続きを綴ったはずが声にはなっていなかった。枕元の巨大で古典的なデザイン(銀のずんぐりしたボディと巨大な振動する鈴に、厳格なギリシャ文字の文字盤がミスマッチではあるが)の、目覚まし時計を両手で抱え顔の前に持ってきて、針が午前六時を指しているのを目を擦りながら確認し、それを元の位置である枕元、パイプ・ベッドに横付けした小さな台に置き、昨日読みかけた、常用ではない漢字が多数含まれる文章と基本の型を示すイラストをプリント・アウトした紙の束が、無残に床に散乱した状態にあるのが目にとまったものの、音の正体を突きとめようとスリッパを履き、自室をでて、廊下の突き当たりの洗面台で顔を洗ってから、エレベーターの横の半ばでUターンする階段をおり、システム・キッチンに入る。
屈んで、割れたピエールカルダンのグラスの破片を拾い、お盆に集めていたが顔をあげ、「お早う、今日当番あたしよ」と言う。「その音。タイミングがぴったりだっただけ」「そんなに大きな音した? 起こしちゃって御免」
首を左右に振るとゆっくりした動作で破片を拾うのを手伝う。
欠陥商品よね。まったく。そんなやりとりをしながら、集めた硝子片を危険物の塵芥箱に流し込んで、シンプルなデザインの掛け時計に目をやると、午前六時一五分を回っていて、キッチンでは御飯が蒸されている状態なだけだった。急がなくちゃ、とパジャマにエプロン姿の夏未が腕捲りをするのを、慌てないで、あたしも手伝うからと声をかけて、椅子の背凭れにかけてあった自分のエプロンをし、「何があるの?」訊くと、夏未は冷蔵庫を開けて「手羽先とチンゲンサイとホウレンソウにプチトマト、レタスピーマン海草サラダの素に、後はレンジでチンのクリーム・コロッケ」答えた。
「とは自宅よね」
「あたし達は週二だったのにね、体育」
夏未は不満そうに口を尖らせる。
「それだけ危険度が増したってことよ、多分感謝すべきね、あたし達が今冬華程無力じゃないってことに」
そんなもんかなぁと夏未はぼんやり返事をする。生姜を炒めてから手羽先を炒め、色づいたところで水を加えて仕舞うと、暫くは灰汁を取るくらいで手透きになったので、「二人起こしてくるから」と濡れた手をエプロンで拭いてキッチンをでる。キッチンからリビングに移動し、玄関からの廊下を歩いて突き当たりにトイレ、その廊下を挟んで向き合う二人の部屋の扉を軽く叩き、
「秋恵、冬華、朝だよ」
と心持ち大きな声をだすと、秋恵の方からは眠たげな、
「起きてる」信用し難い返事がしたが冬華の反応はなかった。再び秋恵の部屋の扉を叩き「入るよ」声をかけて静かに扉を押し開いた。
秋恵は寝台の上で身を起こし開かない目の上を軽く拳を作って揉んでいた。秋恵の小さな机は両側面の抽斗と天然木の天板が分離する構造で、上にラップトップ型のパソコンが置いてあり、フライト・シミュレーターのようなスクリーン・セーバーが立ちあがっていて、カーソルを動かしてみると3Dタイプの一見してRPGと判る画面が表示され、NETに接続したままなのが見えて肩を竦め、接続料金お小遣いからださせようかな、定額だけど、秋恵のお小遣いは月三〇〇円、回線の料金が月額三〇円だから、そう負担にはならないわよね、と呟いた。
「眠そうね、どうせ遅くまでゲームしてたんでしょ、自宅だからまだ寝ててもいいけど、授業の前にその寝癖はなおしなさい」
「ん、起きる」
秋恵は背筋と腕を伸ばしつつ欠息をする。
「あ、そうだ、進路相談の通知がきてたんだ、お姉ちゃんみといてよ」
「そう? 進路相談ってまだ直接?」
秋恵が首肯すると瀬羅は小さな溜め息をついて机の上に置かれているパソコンで走っているRPGを終了し、電子手紙のバックアップ・ファイルを開く。進路相談の趣旨と日程(御都合の悪い方は早めに御連絡下さい)が記されたそれは、六月一〇日水曜日、詰まりは一昨日から生徒の名字の五十音順に割り振られ、さ行は凡そ三日目に固まっていて、秋恵は一二日(今日のこと)の午後三時二〇分から、三〇分の予定だと伝えていた。二階の自分のコンピューターにアクセスし、週間予定表を画面に表示する。
そういえば、と予定があったなと呟くと、「デート? 実はずっと前から妖しいと思ってたんだ、でも綾さんがもう一人のお姉さんになるんなら、デート?」秋恵に大真面目に訊かれたので「秋恵」強い口調で言いつつ簡単に打った予定変更の趣旨の電子手紙を綾に送った。
「配付日二週間近く前じゃない。駄目でしょう、もっと早くみせなきゃ。まあ、いいわ、じゃ冬華起こして、顔洗ってきてね」
効き目のないだろう言葉を残してキッチンに戻ると、手羽先の醤油煮は調味料を加え煮詰める段階になっていた。
「もういいかな、お皿だして」夏未が言う。
ロイヤルクラウンダービーの器を適当にテーブルに並べ、海草サラダと茹でたホウレンソウを盛りつけ、茶碗に二人分の御飯をよそっていると、電子レンジが調理完了の合図をした。
「お姉ちゃん、御飯それだけ? この頃食事残すこと多いけどどうしたの? まさかダイエットなんてことないよね、お姉ちゃんちょっと痩せ過ぎだよ」
「ん、食欲がないだけ」
クリーム・コロッケとできあがった手羽先の醤油煮を盛りつけ終えた頃、下の二人が顔をだして、それぞれ自分の茶碗に御飯をよそり、箸を取って「いただきます」と声を揃えた。
「そろそろでしょ、秋恵の進路相談」夏未が秋恵との話を聞いていたかのように言ったので箸を休め、「母さんが帰ってこられるはずもないし、じゃあやっぱりあたしの役目か、あまり好きじゃないんだよな」言う。
「去年の平井(あたしの元担任ね)なんて完全に社会人だって勘違いしてたものね。母さんの服着てヒールの靴履いて、化粧もするから中学生には見えなくて。お姉ちゃんまた伸びたでしょ、身長、もう母さんと同じくらいあるんじゃないかな」
秋恵と冬華がじっと見つめて深く頷く。口の中のクリーム・コロッケを呑み込み唇を尖らせてその通りよと答え、お味噌汁は必要ねと呟き、確かに大人に見られる方が得だったけど、それはそれで複雑なのよ、化粧には手間取るし足は痛いし気苦労は絶えないし、疲れたわよ、秋恵はどうするつもりなの、進路、と妹の視線を振り払うように言い、時計に目をやる。
「う〜ん、お姉ちゃん達と同じ学校でいいや」
サラダからチェリートマトを分けながら夏未は渋面を作って、「やめときなよ、うざったいよあそこは、週三は登校しなきゃならないし学食は不味いしいいことないって」愛校心のもないようなことを言い、秋恵は顔をめて「そんなに邪険にすることないでしょ」と非難した。
「去年だって頻繁に間違われてたじゃない、双子でもないのに、それもこれも」
二人は同時に言った。
「夏未が成長するのが一年遅いのが悪いのよ」
「秋恵が成長するのが一年早いのが悪いのよ」
「半年ずつ早かったり遅かったりするだけだと思う」
「冬華は黙ってて、お姉ちゃんはどっちが正しいと思う?」
二人が声を揃える。煩さくない程度に水彩調の絵柄でチューリップの模様が描かれているるジバンシーのティー・ポットから同じデザインの湯飲みにほうじ茶を注いでいた動作を停止することなく冬華に賛成ねと応じ、両手で包むように湯飲みを持ってお茶を飲んだ。
「あたしお姉ちゃんみたいに生まれたかったな、ストレート・ヘアの方がいい」
僅かに癖のある髪の秋恵は寝癖のついた細い前髪(どんな寝相なのか皆疑問に思っている)を指で摘む。
「冬華はどっちがいい?」
「あたしは、今の自分に特に不満はないけど、父さんも癖っ毛だったらしいから、瀬羅お姉ちゃんの髪って確率低そう。他の造りも何となく私達と違うっていう気がする」
同じデザインに彩色の異なる湯飲みの半ばまでお茶を注ぎ、義務教育四年目の冬華は不思議なのか当然なのかわからないけど、と付け足す。
「怖いこと言うね、冬華は、でもいい勘、私だけ父親違うのよ」
手羽先に伸びかけていた夏未と秋恵の箸が静止し、テーブルに肘を付けたまま湯飲みの淵に唇を付けた冬華が大きく一度喉を鳴らして、三人は目だけで瀬羅を凝視した。夏未が引きつった笑いを浮かべながら首を無理矢理といった風に曲げる。
「お姉ちゃん、それ、初耳」
湯飲みをテーブルに置き、
「そう? 母さんからは何も聞いてないの?いい加減ね。ごちそうさま」
再び時計に目をやり、立ちあがると食器を食器洗い機に片付ける。
「急がないと遅れるわよ、夏未」
自室に戻りブルーとオフ・ホワイトの横縞のパジャマを脱いで下着姿になると、クロゼットを開け黒いパンツとチェック柄のシャツ、黒のショート・セーターを手にし寝台の上に放って、クリアBOXの中からチャコール・グレーの靴下を選びクロゼットを閉め、寝台に腰をおろし靴下を履く、パンツを穿きシャツを着たところでカーテンを開け空模様を伺い、久し振りの雲のない空に再びクロゼットを開けショート・セーターを元に戻し、黒のジャケットを着てクロゼットを閉め、再び洗面所にいき歯を磨いていると夏未が階段を駆けあがってきたのでそんなに慌てないの、と声をかけ、髪にブラシを当ててから自室に戻り、机のから初弾こそ装填されていないが六発装弾のマガジンを入れたままのBERTTA MODEL 25Aをジャケットのポケットに滑り込ませてベランダにでると、眠りにつく時も振り続いていた雨の湿気を帯びた空気はそう不快でもなく、プランターとコンテナ・ガーデンを日の当たる場所へ移動しジョウロで水をやってから庭をざっと眺め三重の窓を閉めて(スイッチ一つで開閉するから手間はかからない)黒無地のリュックを右肩に掛け一階におりる。
庭の芝が真夏の陽光を反射する水の飛沫を弾き、垣根の手前の煉瓦で囲った花壇のあまり背の高くない小さな花を沢山つけたヒマワリと白いペンキを塗った杭で半円形に囲った花壇のサルビア、ダリア、マリーゴールドの組み合わせ、ホースの先についた水量調節機から飛びだす細かな水の鎖の束に七色の光を眺めていた記憶は幻かもしれない。白い無地のTシャツにハーフ・パンツ、スポーツ・サンダルという恰好をした三十半ばの男が休日毎、決まって暑い盛りに水をやっていたら芝生がああも青々とした色を保つこともなかっただろうし、男の日に焼けていない白い首筋を伝う汗や時々手を濡らしてウェーブのある髪を後ろに撫でつける仕種も、今思うとそれ程確かなこととは思えず、まして当時今の冬華と同じ年齢だった自分が初めての夏休みの夏未の宿題をテラスで手伝いながら、男の名を呼んで極めてさりげなさそうに振り返った男に、緊張してない? と言ったことなど、幻想なのだろう。Tシャツは汗と機器の操作を間違えた拍子に浴びた水で濡れ、男のまださ程崩れていない、ただ下腹に多少中年の兆候が伺える上半身に張りついていて、男の表情が僅かに強張り、白いサマー・ドレス(男が他界してから母が着なくなったこのサマー・ドレスが男の手によって酷く難儀そうに脱がされてゆくのを目撃、或いは盗み見たのはいつ何処でだったろう)姿の買い物袋を手にした母があなた、みず、みず、と花壇のミモザの周りに水溜まりを作っている男に軽やかな声をかけた記憶の何処まてが現実で何処まてが幻想かわからない。
ほんの三ヵ月前までは瀬羅も着ていた制服、グレイのプリーツ・スカートにブラウス、紺のベスト、エンジのリボン・タイに着替えた夏未が慌てて黒のローファーを履く、じゃ、いってくるねと声をかけて門をでると、燃える塵の袋を持った向かいに住むという夫を持つ三十路前のさんに会ってお早うございますと挨拶し、お早うございます、今日は夏未ちゃんも登校なの? 中学生ともなると大変みたい、気をつけてね、という言葉に夏未が如才なく受け答えするのを聞き流す。あのミモザは枯れてしまっただろうか。
「さっきの話って本当なの?」
早足の自分の足に合わせて小走りになっている夏未が言ったので、歩調を落として、「さっきの話ってあたしだけ父親が違うって話? 多分ね、本当、本当の父親って顔も見たことないけど、母さんがそう言ったから」
夏未の横に並ぶ。
「どんな人か気にならない?」
夏未が顔を見あげる視線を感じ、笑みを浮かべてから、「気にならないこともないけど未だに話したがらないから、母さん、それにもう今更ね、父親ですって名乗りでてこられても困るもの、夏未のピアノと同じ」と応じる。「同じかなあ、あれは秋恵が使ってくれたからいいけど、代りっていると思う?」
「それは気持ちのいい言い方じゃないな、いてくれた方が気楽だけど、全然気にかけてくれてなかったってのも癪だろうしね、でも、いなくても平気な人だと思うよ」
バス通りにでる。
「そっか、お姉ちゃんだけ父親違うのか、言われてみればそうかな、名前も一人だけ季節が入らないし、あたしと秋恵が似過ぎてるだけに頷ける気がするな、でもお姉ちゃん心配しないでね、たとえ秋恵と冬華が辛く当ってもあたしだけはお姉ちゃんの味方だから、あっ、綾さんお早うございます、じゃ、気をつけてねお姉ちゃん」
「お早う。何話してた? 今」
「ん、まあ他愛もないことを。メール読んでくれた?」
「読んでない、忙しかったから、今朝、で、何なの?」
言いつつ線路の上を横切る歩道橋を登り、左腕にはめた腕時計に綾は目をやる。一本電車を逃すと次は急行の通過待ちをしなければならず遅れたくはないが、利用する私鉄の駅はほぼ平行して走るJRの線路を横切る必要があり、歩道橋には時々邪魔者が現れる。その一つを目にし足をとめ、今日の予定駄目になったと口にした刹那、ブルー・ジーンズを穿き、白地にイルカの絵がプリントされたTシャツの上にデニムのジャケット、靴は特殊素材のスニーカーという出で立ちの綾は「伏せろ!」普段通りジャケットの下に隠していたZASTAVA MODEL Cz175をコンマ一秒で抜き、歩道橋を歩いていた疲れたスーツを着たサラリーマン風の男、夏未と同じ制服の中学生の男女(友達か恋人同士かはちょっとわからない)、派手な服と化粧の若い女性(仕事帰りの水商売だろうか)、といった面々が綾の声と、綾の銃口が向いているものに気づきフェンスに背を付けた。綾は舌打ちし、初弾を装填し前方五メートル空中に出現したソフトボール大の黒い球体を撃ち抜いた。
「こんなのが日常茶飯事じゃね、でも、基本がなってないけど、あ、順番間違えた」
とZASTAVAを突きつけて呟くと、綾は、「9mmと6.35mmじゃ分が悪いよ、で、理由は?」と笑顔を見せた。
「秋恵の進路相談、去年の夏未の時と同じであたしがいかないとね、そのすぐ銃口人に向けるのいい加減やめたら? 殺意があるかないかなんて、一目わからないんだから」
停車しない下り列車が足元を通り過ぎる音が聞こえる。通路に落ちた球体は割れ内部の粘性の低い液体を吐きだし、墨のようなそれが割れた球体を囲むように拡がると球体は底のない穴に落ちた如く消え、液体は見る間に蒸発した。
「装填されてない25でも脅しにはなるか」
綾は歩きながらマガジンを抜き、装填された弾薬を排出、再度マガジンに詰めマガジンを入れて、ZASTAVAをホルスターに戻した。ポケットから手をだす。ホームで電車を待つ人の中に中学生時代の知り合いをみつけて、
「お早う」と綾が声をかける。
「お早う」と声を返してきた。
停車する六両編成の上りと下りの電車がほぼ同時にやってくる。乗車した途端綾が小さな声をあげたので、「どうかした?」と声をかけて綾の視線を辿ると、向かいのホーム、すぐ隣に停車中の電車の乗客に聖がいた。
期待していた春休みが完膚なき空振りに終わったことを責めるべく待ち受けていたホームには現れなかったので、(勿論こんな大して人のいない場所で見落とすことなどないから、先の電車に乗ったのかな、随分早くにでたつもりだったけど)慌てて入学式に間に合う最後の電車に乗ったが、多分三年間通うことになる県立高等学校でも姿は見られなかった。結局、入学式の成果は聖がA、綾がB、瀬羅がFという組に振り分けられたこと、F組に同じ中学出身の生徒は三人いたものの、皆名前を知っているという程度でまた新しく友人(?)を作りなおさなければと認知したのみであり、朝鏡の前で(絶対、許さないんだから)入れた気合は虚しかったな、と奇妙な脱力感に捕らわれて綾と二人、駅からの歩道橋をおりたところに聖は立っていて、入学式どうしたの、と訊く前に「別れよう」と言われ、その後に続いた確証的な言葉以来、声を耳にしていなかったし姿も目にしていなかった男の背中を二枚の硝子を隔てて見つめていた時間は、数秒のことだった。名前を呼ばれジャケットの袖を引っ張られて顔を下に向けると、瀬羅、大丈夫、座ろうよ、と綾に言われ、言われるままに座席の端に腰をおろす。
クリスマスのネオンが視界から遠ざかってゆく電車の内部には、三両編成で普段から空いてるけど、何故だろう、二人しかいない。一車両に六つあるモニターに流れる『明日の天気、注意報、新発売の家電製品(海馬の働きを増進します)、厚生省認知一粒で脂肪を五〇〇グラム燃焼する錠剤、クリスマス・プレゼントに特化した宝石、等のCM、スポーツ速報』を見あげていた聖に、椅子に腰掛けた瀬羅は、座らないの? と声をかけ、疲れてないから、と短く答えられ何故か恥ずかしくなって立ちあがった。
あれ以来かな、手、震えてる「平気、もう、立ってられる」手すりに背を凭せかけ窓の外を見る。電車は三つの駅で停車し、次の駅で最寄り駅には停車しないJRに乗り換えだった、駅間は一分程だ。
「お早う」
左手で釣り革を(あまり余裕があるとは言えない)掴み、右手に単行本サイズの出力専用端末を持ちショルダー・バッグを肩からさげる、オフ・ホワイトのジーンズと長袖Yシャツといった、中学一、二年生に見えるに二人は声をかけた。隆司は顔をあげ、二人の姿を隣の乗車ドアの付近に確認すると「お早う」と何処かに固さの残る声で挨拶しNETWORKに接続されていない、多分中には食事のメニュー、瀬羅が見せてもらった時は過去三ヵ月の家族の食料事情が、カロリー計算は勿論食べ合わせや有害物質の推定含有量をも含めて入力されていた端末の電源を切って鞄の中に仕舞い、頬の辺りが強張った笑みを浮かべた。ドアが閉まり、電車は僅かな振動を伝えながら走行する。次の駅で下車、瀬羅と綾は乗り換えてすぐ降りる感覚で、停車しないJRに結局は乗り換えて微妙に憤りを感じるし、乗換するくらいなら歩いていった方が早いこともままあり、一時限目に、一キロ少々を早足か駆けることなく間に合うようにするには、この車両に乗らなければならない。電車に乗ってから、乗換え、電車を降りるのに三六分かかるのだが、乗車時間は十分弱であり、この車両に乗るとHRの一五分ほど前に教室に着くことになる。でも隆君の場合乗り換えなくていいんだから、もう一本遅い電車でもいいはずよねと世羅は呟いた。
乗車率は約六割、その三割は県立成咲高等学校の生徒が占めている。制服がないので部外者が近寄り難い雰囲気は薄れているが、奇異に映らないこともない。成咲高校生徒に登校が義務付けられているのは入学式、卒業式、始業式、テスト、終業式等の行事の日のみで、授業はNETWORKに接続した双方向通信の可能な端末さえある場所なら何処で受けても構わない。平常登校する生徒は三割程度の為、御近所の成咲南高等学校が廃校になって以来電車はいつも(行事のある日は除いて)空いていた。
大抵は数人で集まり、他愛もないお喋りをしている生徒の中で一人、椅子に座り俯いて白いレースのハンカチで口許を抑えている少女(白のブラウス、青いチェックのティアード・スカートからペチコートが覗いている、白い靴下と青い靴、何処となく初々しさが残っているから一年生だろうか)に、瀬羅は気づいて歩み寄った。
「どうかなさいましたか?」声をかけると、綾と隆司も少女の周りにやってくる。
反応はなく、答える余裕もないくらい具合が悪いのかなと瀬羅が綾と隆司に意見を求めようと視線を向けた時、少女の口から低い、細い首と滑らかな喉からあり得ない低く嗄れた呻き声がもれ、黒目勝ちな二重の目が見開かれ頬がこけてゆき頬骨の線が浮きでて、何かに押しだされて眼球が落ち新たに青い球体がを埋め、目の周囲に皺が寄り青い球体に亀裂のような筋が走り中心で縦に裂ける。
隣に座って音楽ソフトを聴いていた、袖の部分がシー・スルーの白いスーツ(上等の代物だけど、日焼けしていてとても似合っているとはいえない)姿のOL(オフィス・ワーカーというべきかもしれないが、そうするとオフィス・ガールと断定してしまいたくなるのでやめておこう)がその変化に気づき、悲鳴をあげて立ちあがる。呻くような声は唸りに変わり、車内にいた者全てが少女の変化を視認する。OLのように悲鳴をあげる者はいない。
少女だった者は立ちあがる。髪の毛が動き、伸びて全身に絡みついて鋭利な刃物になっているのか服と靴を寸断し裸体を露にする。裸体は蠢いている。肋が突きだし腹が凹み背骨にそって剣竜のような鋭利な骨が露出し、口が開くと牙が形成されている。耳は収縮しこめかみの辺りから角のようなものが生えた。肋が皮膚を突き破る。肋は発達し互いの隙間を埋めた。髪の動きが激しくなる。髪は幾筋かに纏まり両腕に巻きつき、そして変形する。あるものは手首から突出する刃となりあるものは関節を守る防具となり鋭利な爪と化す。
「瀬羅!」
綾が叫ぶ。凶器と化した腕が瀬羅の顎目掛けて正確に突きあげられた。瀬羅は咄嗟にバック・ステップを踏みながら首を捻っていた。左頬が僅かに裂ける。綾がZASTAVAを抜き、隆司はBERTTAを抜いた。他の乗客も武器を携帯している者は既に少女だったものを標的として捉えている。それは、まだ変形を続けていた。皮膚が金属光沢を帯びてゆく。頬骨が発達し顔面を覆うフェース・ガードとなり、蛇のように細く長くなった舌が素早く出入りする。
足の指が伸び爪が発達して、踵に刃が生える。そして吼えると同時、跳躍した。先程のOLに飛び掛かる。OLは38口径のリボルバーを手にしていた。爆音三度、初弾は窓硝子に穴を穿ち、後の二発は胸部に命中した。四発目が放たれることはなくOLの首が床に落ち、続いて首無しの死体が倒れた。
「家計が」
跳弾が腕をかすめシャツが駄目になった隆司が呟く。多分同じ高校の生徒、長身の瀬羅より頭一つ高く格闘技かウェイト・リフティングでもやっていそうな男子が、化け物と無工夫な叫び声をあげ銃を構えるのに瀬羅は気づいた。
『まさかTURNING TRICKSTER、この状況で』
DESERT EAGLE 50AEの発展形の、名称を全く反映しない威力の狂銃を使いこなす素材であるかもしれないが、今使いこなせると期待はできそうもなく、瀬羅はジャケットのポケットに手を入れ普段煙草は吸わないが所持しているライターを掴みそれを投じた。手の甲に命中しセーフティーがかかったままの五〇口径銃が落ちた。暴発はせず、「銃は使うな」スーツ姿の四十男が鋭く場を制した。社内の穏健派といった風の整ってはいるが柔和な顔立ちの男は両手に重厚かつ鋭利なナイフを握っている。少女だった者はその男の方を向いたが興味を持たなかったのか男の狙いを察知してか即座に次の獲物、武器を持たない若い会社員風の男に突進する。反応できない男を嘲笑するかのように長い爪で大腿部を貫いて、絶叫する男の首を締める。
綾が動く、床に転がったTRICKSTERを拾い、
「いてっ」
少女だった者の頭に照準を合わせ、トリガを引いた。次の瞬間綾の両腕は天井に垂直になり、巨大なマズル・フラッシュと爆音と共に発射された弾丸は、異形の生命のフェース・ガード、耳があった辺りに命中している。異形は吹き飛び車両前部の壁に叩きつけられるも「生きてるぞ」効いた様子なく跳ね起る。「銃は無駄ってことか」
綾は狂銃のマガジンを抜き装填された弾薬を抜く。サバイバルナイフの男が前にでて、
「近寄るなよ」残りの乗客を車内の後方(既に半数は隣の車両に移っている)に追いやり異形と相対する。一足で間合いを詰め正確に首筋を狙ってきた異形の一撃を左のナイフで受け流し、流れるような連続技の異形の蹴りを右のナイフでブロックする。
青い空に白い雲、夏休みの終わりの日は暑く、照りつける太陽の光を反射しない訓練用模擬ナイフの刃が合わさり、不意打ちの積もりが最初の攻撃を受けとめられては、力に劣る瀬羅に勝ち目はないのだが、日に当たると「常夏の国の海の色」に見えると夏未が言ったワンピースが翻るのも構わず上段蹴りを放ち、空を切った蹴り足を地に付ける前に背後から目の前に突きだされたラバーの刃に瀬羅は首筋を差しだし、死ぬぞと耳元で囁く聖に殺してと答えると聖は離れて、短い方が似合うかもしれないな、髪と言い「そうかな」振り向いた瀬羅にもう一度、と腰を落としナイフを捨てた。
異形の攻め、男の受けが続く電車は減速する。男が体勢を崩し異形の右フックをナイフで受け損ない異形の拳は男の左二の腕に深く食い込む。
手加減なしの攻撃を素手で悉く受け流しその上攻撃は仕掛けてこない聖は、瀬羅が動けなくなっても呼吸を乱さずに─砂浜に座り込み荒い息を付く全身から吹きでる汗は常夏の国の海の色を暗く、胸元や腰の辺りは特に、染めていた─瀬羅のひかがみと脇の下に手を廻し抱きあげ、岩影におろして合格だよと依存性のある植物の名を冠した炭酸飲料の缶を首筋に押し当て、声をあげた瀬羅に理由もなく声を立てて笑う。
左のナイフを落とし呻く男に異形は大きく裂けた口で笑みを作り、善戦した獲物に敬意を払うとでもいうように五指の全てが鋭利な刃物と化した手を男の眼前で蠢かす。男は懸命に左腕の自由を取り戻そうともがくが外れる気配はなかった。瀬羅は落ちたナイフを拾い立ちあがり様、異形の目に突き刺した。異形は刹那状況を把握しかねてか動きをとめ、絶叫し自己を傷つけた警戒すべき相手を睨み右腕を振る。振り回された男は放りだされ乗降口のドアに体を強かに打ちつけた。ナイフを抜きもせず異形は丸腰、ジャケットのポケットにBERTTA M25Aがあるだけの瀬羅を凝視する、椅子に座り俯いて白いレースのハンカチで口許を抑え、白のブラウス、青いチェックのティアード・スカートからペチコートが覗いている、白い靴下と青い靴、何処となく初々しさを感じた少女だった者を見据え、「斉藤さんっ」隆司を右手を水平にあげ掌を後ろに向けて制し、瀬羅は異形の背後に立つ綾に頷いてみせた。綾はドアに打ちつけられた男に肩を貸している。電車が停止し、開いたドアからホームにおりる乗客と入れ代わるように車内に風が流れ入る。

『気づかれたか』
目標は駅の改札を通るとすぐ立ちどまり人指し指を口許に当て小首を傾げ、何事か小さく呟いて転身し、定期を使って改札を通り階段をおりて、駅からすぐのスーパーに入り缶ジュース一本とチョコレート三枚を買い外にでて、駅から遠ざかる方向に僅かに歩くと右折した。下校中の近頃珍しい学ラン姿の中学生が四人道に拡がって立ちどまっている横をすり抜け次の角を右折、小さな美容院と郵便局のCD設置所の前を過ぎて右折し、駅前に戻っていた。駆け寄って肩を叩く。
「先輩」は振り向くなりステンレスの銃口を突きつけた相手が高校で所属する演劇部の部長であることを知り、慌てて銃(MAUSER MODEL 140P COMPACT)を胸のホルスターに戻す。肩をすぼめ目を丸くしてみせた。「済みません、誰かに尾行されてたので、つい」誰かって私? と苦笑しながら訊くと子供のように頭を左右に大きく振って、「男の子でしたよ、身長は先輩くらいかな、白いパーカー着てベースボール・キャップ被ってました」声を落とした。
「夕香が好きだとか」
「そんな相手に好きになられてもなぁ、子供だし」
顔が笑っている、子供だろうと何だろうと悪い気はしないのだろう。
「あっ、それで何か御用ですか?」
セーフティーがかかったままの拳銃を突きつける程怯えていたのに、意図のない言葉で納得してしまったらしい。
『尾行に気づいたのは良かったが、知り合いを見て安心したか、高校生だな。たが、そんな高校生に勘づかれるとは、本当に平和惚けか?』
「今度の演目のことでちょっとね、時間あるかな」
演劇部で夕香は脚本を担当している。古典では冗長と思われる部分をカット(邪道とばかりも言っていられない)したり時代的、文化的に理解し難い箇所を手直しもするが、脚本家(の卵)の見せ場はやはりオリジナルになる。夏休み中旬に上演(体育館でNETWORKにも流れる)するオリジナルの脚本を、夕香は先日書きあげたばかりだった。そのシナリオを採用すると決定してはないので、表情を相当に硬くして、はいと頷いた。
「じゃ、ちょっと歩くけどいい場所知ってるから、ついてきて」
駅前から商店街を抜けて五分、注意して歩かなければそうと知れずに通り過ぎてしまいそうな、こぢんまりとしたブティックの前で立ちどまる。狭いながらも歩行通路を曲線にした庭があり、庭は通路を除いて花屋だろうかと勘違いしそうなくらい色彩豊かに多様な花を咲かせた植物が息づいている。建物は煉瓦造り(に見える)の三階建てで、キュービズムを高らかに唱うような形状をしている。ショー・ウインドーはなく、コンテナ・ガーデンに彩られた出窓はレースのカーテンがかかってい、店名を刻んだ玄関の小さなプレートは道からではよく見えない。
「ここ、こう見えてもブティックなんだけど、無料の休憩所もやってるの、常連客がたまにくるくらいだから、落ちつけるよ、だいじょぶ、オーナーと知り合いだから」
青木夕香は曖昧な返事をし気乗りしなさそうに後ろを歩いている。
『boutique mort soudaine』プレートを声にして読む。
夕香は意味までは判らないのか小首を傾げ(癖だろう、ポニーテールが揺れて中々似合っている)た。頓死という意味のフランス語、店名からして経営者の商売っ気のなさと変人振りが伺える。ドアを押し開いた、呼び鈴のcowbellが何処となく長閑な音をたてる。
「いらっしゃい、あ、真紀ちゃんか、今日はお客様かな」
カウンターに肘を付いてチェス盤を凝視していた男が声をかけた。男は二十台後半に見える。細い顎と程良い高さの通った鼻筋に二重の目、ウェーブの強い髪は細く柔らかそうに伸びており、華奢な印象の男に夕香は見惚れていた。
「そだね、三千円くらいならだせるかな。お茶でるんでしょう」
店内はカーテンを通して射し込む光と反射を利用した間接照明の穏やかな明るさに包まれ、以前は喫茶店だった(今でも半ば喫茶店だ)ことを示すように部屋の隅のカウンターの後ろの壁は食器戸棚になっていて、大掛かりなウォーター・ドリップの器具やパーコレーターやサイフォンやコーヒー・ミル、様々な種類のカップとグラス類(タンブラーとかゴブレットとかブランデー・グラス、シャンペン・グラス等)と、ワインやウィスキーやブランデーが陳列され(ブレンドには過剰な量は、バーも兼ねているのだろうか)ていた。男は邪気のない笑顔を返し、
「紅茶とコーヒー、どっちがいい?」
夕香に尋ると、
「あの、コーヒーを、お願いします」
少しかすれた声を受けて楽しそうに豆を拿き始める。
「素敵なお店ですね、それにさっきの店員さんも」
夕香が耳打ちする。
歳の割には浮足立った言動がなく物静かな印象があったので、夕香の言葉は少し意外な気がした。窓際で小さな白いテーブルと二脚の椅子が陽光に包まれ、オリジナル・ブランドの服が並ぶ店内は不思議と違和感がない。そのテーブルを指し示し背凭れの部分は硝子にイタリックの文字が刻まれたアンティークの椅子に座る。
「はオーナーよ、ついでにデザイナー、でも妻帯者だからね、ま、それはいいとして夕香のシナリオだけど」鞄からノート・パソコンを取りだし立ちあげて表示した。
「シナリオ全体としては合格点をあげる。NETWORKの魅力に取り憑かれた人間がNETWORKこそ望む場所だと考えて、現実世界の自己の存在を抹消していき、最後に望み通りNETWORKのみに存在する者となる。決して新しい素材じゃないけど起承転結もしっかりしてるし、テーマも明確ね。演出に難があるのはこっちで手を入れるから」
功亮がコーヒーとクッキーをテーブルに並べ、「冷めないうちにどうぞ」声をかけ画面を覗き込む。
夕香が俯いた。恥ずかしいらしい。
「ほんとに冷めないうちに飲んだほうがいいよ、コーヒーだけは美味しいからね、ここ」
クリームが浮いているので砂糖は入っていると判断し、そのままカップに口をつけ嘗めるように飲むと微かにブランデー(コニャック)の香りがした。『グロリアが好きだなんて、まだ覚えているか』クッキーにも手を伸ばす。夕香も特に疑問を持つでもなく追従するようにコーヒーを飲んでいる。
「私が気になったのは危機感の欠如。現実から消える少女ではなく少女を好きな少年の、ね。彼は少女が世界から消えてゆくのを知っていた、そして彼は世界で上手くやっていければいいと願っていた、だから彼は少女を世界に繋ぎとめようと色々手を尽くすわ。でもね、それを認めさせるには危機感が足らないのよ、このシナリオは少女が消えてしまうことの上に成り立っているけど、彼はその引き立て役のみで人ではなくなっている」
話していくうちに青木夕香の目に脅えが宿るのがわかった。
「せん、ぱい?」
恐れ戦き、椅子を倒して立った夕香の両肩を功亮が押さえた。功亮の口許から笑みが消え、いや、消えてはいない、柔らかな笑みが冷たく、それでいて欲望に染まったものにわっていた。
「嘘、でしょ、先輩。冗談、ですよね」
コーヒーを吐きだした。
「そんな、そんなことって、やだあっ!」
功亮が口を開いた。息が夕香の首筋にかかる。
「功亮」
平静な声に功亮の口が閉じた。
「が先じゃ、承知しておろうが」
立ちあがり、震えて腰砕けになった夕香に歩み寄る、ゆるりと。
「お願い、許して……。何でもいうこと聞くから、だから、やだ、こないで、誰か、あああっ」
白い首筋に唇をつける。途端夕香が恍惚とした表情を浮かべたのは、疑うべくもない。
「様、私にも」
「わかっておる。そちはそちらを吸えば良いじゃろう」
功亮が深い笑みを作る。鋭い牙が見て取れた。

危険地帯ならともかく、人間、或いは人の形をした者が異形の生命に変身し無目的な殺戮行為に及んだのは希有な事件であり、事情聴取から取り敢えず開放されたのは午後二時を回った頃だった為に、警察署から地下街を一〇分歩いた駅を利用して帰宅すると午後二時五〇分、秋恵の進路相談は忙しく、学校へ歩いて九分かかり二〇分以内に支度をせねばならず、朝妹達の前で、嬉しくもあるしショックでもあるようなことを言ったものの、やはり大人と思ってもらった方が好都合で、していこうと考えていた大人らしく見せるメーキャップをするのは諦め、ストッキングを穿きシャツを無地の物に替え、母の部屋の宝石箱から借りた小さなダイヤの入った一八金の指輪をし、一四の、母と同じ誕生日に届いた、小さな、血の色をしたルビーが控えめに存在を主張している金のイヤリングをしただけで、母の靴を履こうとすると履けなくなっていて渋面を作り、『最近靴が少しきついとは思っていたけど』、数秒悩んだ末結局ヒールのない靴を履き秋恵と一緒に家をでて、どうやら社会人と勘違いされたまま(どうして家族構成くらい頭に入れておかないのだろう)進路相談を終え、秋恵と並び正門から学校の敷地の外へでてほっと息を付いた。
どうして年齢誤解されるような恰好するのと言う秋恵に、母の代役をやるにしても高校一年生、選挙権もなく結婚も認められていない子供だなんて思われたら、まともに話しちゃくれないものと小声で答え、仮に二年後冬華の時もこうなるのだとしたら化粧の練習くらいしておこうか、年齢的に本当に薄化粧でいいのだから、そんなに手間もかからないと思い、帰宅し指輪をケースに入れて元の場所に戻しNETWORKの化粧品宣伝を眺めていると、綾から電話があり、『遊びにいっていい?』「ええ」『じゃ、いくね』と極短い会話をしてから、ジャケットをクロゼットに戻しストッキングも脱ごうとパンツを椅子の背凭れにかけた時ドアをノックする音が聞こえ、誰と瀬羅は声をかける。
「あたし」というのは冬華だった。
「何? 鍵掛かってないよ」とドアの向こうに言うと静かに躊躇い勝ちにドアを開けて「いいの?」入って構わないのかと訊く。
「姉相手に何遠慮してるのよ」と椅子に腰掛けストッキングを脱ぎながら顔を見た。
「だって、家族にだってプライバシーがあるでしょ」半ば口籠もるように言うので、「そりゃプライバシーはあるけど妹に下着姿見られるくらいどってことないから、あたしは、冬華は繊細っていうか気にする方だろうね、で、普通は姉が妹に言うことでしょ、それでどうかしたの?」パンツを穿く。
「今朝話してたこと本当なのかなって気になって」
「本当だと何かあるの? 家族と認めないからでてってとか?」
椅子に腰掛けたまま冬華と同じ視線の高さで茶々を入れると珍しく頬を膨らませ、「子供って、そういうこと言われると冗談だって思っても本気にしちゃうんだから」、と腰に手を当て、子供らしくない、要するにこましゃくれた態度で詰め寄り、間近に迫ってきた小さく薄い唇に瀬羅は軽く唇を寄せる。頬を朱に染めた妹に「戦メリ戦法良く利くんだよね冬華みたいなタイプ」と肩を竦めてから、ひょっとしてファースト・キスかもしれないと気づく。冬華はすぐに正気になった。
「そうやってすぐ自分のペースに引き込もうとするのって、他人のペースに乗るのが怖いからなの?」
頷いて脱ぎ捨てたストッキングを手に取り丸めて塵芥箱に捨てる。
「本当に怖いくらいに鋭いな、冬華、朝の不満がないって言葉嘘なんでしょう、伝えたいことを言葉にしなさい」白の靴下を履いた。
「あたし姉さんのこと好きなの、昔から姉さんに憧れて姉さんみたいになりたいって思ってたし、そうなれるんじゃないかって考えてた、でも」
と真っ直ぐ瞳を覗き込むような視線の無表情な冬華の言葉尻を受け、「でも父親が違うとあたしが言った、だからその考えは間違っていたんじゃないか、それは馬鹿な考えよ」そう表情を殺して見返すと冬華はそっと下唇を噛み目を細めた。高校生の部屋にそぐわない灰色の無骨なスチール・デスク、その二段目の抽斗からセラミクス・フレームのオートマチックを手にし、スライドを引いて弾薬の装填されていないことを確認した。銃口を冬華の額に向ける。(やめてよと瀬羅が半歩離れても銃口は寸分の狂いもなく動きに追随し、硝子の中で微かに唇をつりあげた笑みを浮かべると、静かに指がトリガにかかり、やめてよ、ねえ、やめて、虚像ではなく実体に銃口を向けられているかのように脅えさり長い髪に隠れた背中を硝子に押しつけても、照準は虚像の瀬羅から外れずに、小さく聖は、もう邪魔だと唇を動かし声を発しはせず指が静かにトリガを引くと、轟音と共に発射された弾丸は額の中央を撃ち抜き、マズル・フラッシュと共に闇へと消え、瀬羅は硝子の中で吹き飛ばされ額から少量の血を流し確かにこと切れて聖はP3291を硝子に投げつけて、硝子が派手な音をたて割れる)小さく細いたやすくれてしまいそうな、実際に指を巻きつければ片手だけで事足りる、白い首を震わせ左右に振る冬華の前でスライドを引きトリガに指をかける、静かに引いた。
スライドが動き、当然カートは排出されず弾丸は発射されない。
「弾薬の入っていない銃ははったりにしかならない。冬華、あなたとあたしは似ているの、そこに勘違いしないこと、撃とうとして弾薬がないのに気づくのは、辛いわ」
「考えとく、ところでお姉ちゃん、あたしの初めての接吻を奪った償いは、してもらうから、覚えといてね」と釘を刺し階下におりる妹の足音に耳を澄まし、姿見の前に立ち銃を構えて、静かに八度トリガを引いた。

「死ぬかと思った」
借りたメタリック・シルバーのヘルメットを突きつけ安堵の溜め息とともに言うと「安全運転してたよ、瀬羅が一緒だったもの」白地にピンクのラインの入ったレーシング・スーツ姿の綾は平然としている。週末の金曜日駅北の国内大手電気メーカーの工場を中心に発展した街は、駅の南部(線路が南西から北東に走っているのを境にして南)に関してはほぼ放射状に道路が発達し、歩行者も通行車両もかなりの数になるのに、北部の工場地帯は危険地帯に指定され工場が閉鎖になって以来閑散としており、その老朽化した施設を撤去さえしていない工場跡地に自動車やバイク、稀には自転車が駐車されている元社員駐車場がある。自動車はファミリー・カーやスポーツ・カー、高級セダン、廃車寸前から新車、バイクの方もポケ・バイからリッター・クラスまで、ガソリン・エンジン、高圧縮水素、電気など様々な車種が二百台あまりは駐車してあるだろうか、綾は500CCクラスの電動二輪車を空いていたスペースに置いた。新たに入ってくる車両もでてゆく車両もないが、何処にいたのか、鳥打帽を被り防弾ブルゾンにダーク・ブラウンのボトム、黒い革靴という出で立ちの四十男が近づいてきて、綾が紙幣を一枚渡すと睨むように一瞥し、まあ気をつけなと言いコルス544mk3(奇妙な名前だと瀬羅は思う)という五年前の型の赤いツー・シーターの影に、月明かりに生まれた影に沈むように、消えた。駐車場の管理人、ということだろう。無論自主的なものだけど、信用商売だからな仕事はしないはず、と綾は言い、フル・フェイスのヘルメットをハンドルの両側に引っかけ歩きだすので、ついてゆくと人気のない工場跡に一棟だけ明かりが点き怒声や罵声或いは歓声が聞こえてくる建物があるのがわかった。その建物、旧体育館の入口に立ち、卑猥で無個性な落書きだらけ(良く観察すると天皇制反対の文字や何年か前に放映されたアニメのキャラクターなども少数見受けられた)の玄関の厚い硝子の前で綾の腰より太い腕を組んだ上半身裸の黒人にチケットを渡し半券を受け取って、中に入り周囲を見回す。あちこちの床板が踏み抜かれ、壁には幾つもの穴が開きバスケットボールのリンクにも厚く埃が積もる体育館に、集まる者達の大半は十代前半から二十台の男達であり、綾と瀬羅の存在に気づいた者は口笛を吹いた。小学生くらいの少女も何人かいるが、男連れでないのは珍しく、殊に自分達は目立つと自覚している瀬羅は決して心地よいとは言えない視線を無視し、
「本当にこんなとこにいるの、君」
と綾に囁くように尋ねた。
「そう聞いたんだけど」
綾は人の輪の中に恋人の姿を探す。一六歳にして一九〇センチ近い身長のは普段なら人込みの中でも簡単に見つけられるが、ここに集まる男達の大半はその程度の身長はあり、一八五を下回ると小柄と見做される集団だった。あの中に入っていくのは、気が進まないな。滅多に持ちだすことのないS&WM45561にホルスターの上から軽く触れる。ストッピング・パワーに問題はないものの装弾数は8、脅しにしか使えない。『使う積もりもないけど』人の輪に向かって歩いた。
「来る場所間違えたんじゃないのか、ここじゃそんな脅しにも使えないぞ」
年齢二二身長一八五、といったところのインディゴ・ブルーのジーンズに白いTシャツ、髪を短く刈り込み金色に染めている。
「有り難う、でもあなたみたいなのと殴りあいにきたんじゃないから、ただの見物」
無表情に応じつつ声をかけてきた男を観察する。全うな方ね、この中では。
「だったら上にあがりな、下よりゃましだ」
二階に設けられた観客席にも人はいる。普通サイズをオーバーした者達ではなく、高級ブランドで武装した中年女性に大学生風のカップル、中年の冴えないスーツを着た男、その四人のみだ。
「あの中に知り合いがいるはずなんだけどそうした方が手っ取り早いみたいね」言い、綾と階段を使って観客席にあがる。男達が作る半径一〇メートルばかりの輪の中で二人の人間が闘っていた。素手とアーミー・ナイフの闘い、飛び道具以外の武器に制限はないらしい、ストリート・ファイトに近い。素手の男はボクサーで、遠い間合いで軽くステップを踏み中指を立て挑発するものの、ナイフの男は両腕を下げたまま眼中にないという態度を崩さない。素手側としては先に攻めさせたい。先手必勝の喧嘩も間合いの遠い武器相手では拳が達する前に刃物が体をる。相手の攻撃を躱し懐に飛び込み勝負としたいのだろうが、ナイフの男はその心理を熟知している。この状態が続けば素手側が体力を消耗するのみ、素手側が直線的に間合いを詰めた。拳はかなくともナイフは達く距離、白刃がきらめいた、胸の中央を狙った突きが速い。素手の男が体を沈め刃は頬を深く切り裂く。ボディ・ブローが決まる。男の体が浮いた。勝利を確信した凄惨な笑みを素手の男が浮かべ左拳をテンプルへ打ちおろす。
「作戦は良かったけど腕が伴わなかったってとこかな、あのボクサー崩れ強いと思う?」「相手が弱かっただけ」答えて俊樹の姿をみつけ綾に教える。ボクサー崩れは続けて闘う意思を示し人の輪の中心で軽いシャドーをしていた。頬から派手に血が流れ持久戦になれば影響があるだろう。
「連勝すると賞金が増えるそうだけど、興行してはいないそうだしどういうスポンサーなんだろ。牧村君やるみたいよ」
俊樹がボクサー崩れの前に進みでて、二階の綾と瀬羅に気づき親指を立てる。
「何か強烈に勘違いしてるなぁ」
綾がぼやいた。
「あれが相手なら大丈夫よ」
と気楽に保証し、俊樹に手を振ると周囲の雰囲気が険悪になるのが見て取れ、綾に睨まれて肩をすぼめる。
「勘違いよねぇ」
ボクサー崩れが先程ファイナル・ブローを決めた直前の表情を浮かべた。俊樹を与し易しと判断し、片腕を突きあげ人指し指を立てる「一撃かな」と綾が訊いてきたので「一分でしょ」と訂正した。本当のことなどわからないが、関係ない。
「舐められたね、俊樹」
綾の言葉に頷く。無理もない、俊樹は身長こそ一八八センチとボクサー崩れに見劣りしないが、黒のジーンズとネイビーのギンガム・チェックの長袖シャツの上からでも細いとわかり、そして若く不気味さもない。
俊樹は面白くなさそうに間合いを詰める。上段廻し蹴りをガードの上に叩き込みボクサー崩れを浮かした。顔色を失い距離を取ろうと後退する男に詰め寄り下段蹴り。男の足がとまったところに同じ箇所に蹴りを振りおろすとボクサー崩れは膝から落ちた。
「まだ続ける積もりみたいね」
仲間に肩を借り人の輪の外にでる敗者に冷たい視線を送り、俊樹は首を巡らせ新たな挑戦者を待つ。ウォーミング・アップにもならないような闘いの後に『体力の消耗はないだろうけど』意識して眉根を寄せる
「調子に乗ってるのかな、本当に強い相手がこないうちにやめないと、危ないわ」
綾は頭を抱え「あっの馬鹿」呟いて座席を蹴ったかと思うと手すりから身を乗りだし、瀬羅と短く注意を促す。
新たに俊樹の前に立ち閉かる、『冗談でしょ』独創性の砕片もない言葉を口にすると、春休みの間中音信不通だった理由も告げず、視線を逸らしたり表情に動揺の色を見せることなどなく、湿って生暖かい湯気を孕んだ産毛や髪の毛に唇を押し当て、初めて肌と肌を合わせ舌と唇や指先で、あたしのかたちを準えてから、何一つ隔てるものなく最も近い位置で寄り添おうとした時と同じ調子で、本気だよと言い、理由も告げずに背を向けた男は、確かにこちらを無表情に見あげ、僅かに目を細め視線を俊樹に戻した。殺気や気迫を纏わずに面食らった感じの俊樹を見据え、俊樹とは拳一つ違う瀬羅と大して身長の変わらない聖は罵声を浴びせられる。
「勝負にならないって思われてるみたい」
綾が呟いた。
「あたしも同感よ」と小さく答えた。
「勝てるわけないものね、俊樹」
寂しそうな綾の言葉を聞いた。
「きな、ここは餓鬼の遊び場じゃねぇ」
罵声を浴びせるのみでは飽き足らず聖を押し退けようと長く太い腕を振り回した二メートルはある男は、次の刹那人の輪の外へ吹き飛び気絶した。
「見えてはいるみたい、俊樹も」
輪を作る男達のうち闘う為にいるのは三割程度、残りは取り巻きやセコンドらしいが、聖の動きを把握したのは全体の一割くらいだろう。
「ただの上段蹴りだけど」呟いて目を瞬かせる男達に冷めた目を向けているのを意識した。
「燃えちゃったな、俊樹」
顔つきが変わっている、無表情に瞳だけが獣の輝きに濡れ右足を半歩前にだし腰を落としていた。
「今のが全力だったらいい勝負なんだろうけど」
聖は構えらしい構えも取らず距離を詰め、平然と歩き間合いに入る。俊樹の踏み込んだ左足を軸にしての右中段蹴りが唸りをあげ、空を切った。聖は跳躍している。攻撃を回避すると懐に飛び込むのとを一つの動作で行い、しかし攻撃はせず俊樹の肩に手を付きその背後におり立つとそのまま歩く。
「ふざけるなあ!」
怒声とともに放った裏拳も空を切り、俊樹は自分を無視して進む聖の前に回り込み無造作に右正拳を打ちおろし、首を捻り避けた聖の後頭部を突き抜けた右手で掴み、頭を抱え顔面に膝を入れた。『どういう積もり』瀬羅は僅かに眉根を寄せた。俊樹は更に膝を二発繰りだし聖の頭を放すとその首筋に蹴りを入れる。死して奇異でない打撃のはずだが小揺るぎもしないのは承知していた。
「遊んでるの?」
綾に尋ねられ首を左右に振った。
「わかんない、そういうの好きじゃないんだけど」
聖は相変わらず無表情に俊樹の足首を掴む。俊樹は構わずに自由な足で上段蹴りを放ち、聖は足首を放してその蹴りを側頭部に受けた。「お前、綾の何だ?」付き合って日の浅い恋人の名を聞き、俊樹の戦意が低下するのがわかる。
「それはこっちが聞きたいね」
とゆとりのない笑みを浮かべる俊樹が言い、中学時代の友人だろうなと聖が煮え切らない回答を示した。
「恋人だよ、一応」意表を突かれて雲散した気合を改めてる。聖が振り向き自分ではなく綾を見ると綾のに力が入っていた。見る目はあるなと唇が動いてすぐに視線を戻して、蹴りを受けた首に触れ薄く笑みを浮かべた。
「体術だけなら及第点、ここでもそこそこいけるだろう。でもそれがせいぜいさ、一流には遠く及ばない、調子には乗るな、綾が悲しむからな」
綾の表情は固く感情を圧し殺している。何をという思考を俊樹の気合の籠もった声に打ち消された。全力の中段蹴りを踏み込みながらブロックした聖の掌底が正確にに入り、膝を付いた俊樹は立ちあがれない。綾が手すりを越え飛びおり言葉を失った人々をかき分け俊樹に駆け寄り声をかけた。聖はもう闘う積もりはないというように背を向けて出口へと歩を進める。ちょっかいをだそうとする者はいなかったが、一人だけ道を開けない男がいた。長身痩躯という言葉に相応しい強いウェーブの豊かな黒髪の、彫りの深い、純粋な白色人種か少なくともハーフより濃くその血を引いていそうな男は、唇の端だけを吊りあげる笑みを浮かべ磁気カードを投げつけ、顔の前人指し指と中指で受け取った聖に賞金だよと告げた。二秒足をとめ、聖はそのまま旧体育館の外へ消えた。

六月一五日。
成咲高校二年B組はその日多少憂鬱な気分で登校し、酷く憂鬱になって家路についた。朝目覚め先ず憂鬱になったのは自室のコンピューターを丸一日塞いで光子追跡計算した画像が希望とかけ離れた姿でモニタに表示されていた為で、下校時に酷く憂鬱になっていたのは先週提出した『第五世代量子バイオ・コンピューターの演算処理能力の向上と記憶容量の拡大に因り可能になる次世代疑似人格がもたらす福音について』のレポートが、我ながら何を書いているか把握しかねていたものの、評価Dで返ってきた為であり、不合格、再提出、何が書いてあるかわからない添削を突きつけられては、単位取得への道は前途多難、望み薄、そうマイナス思考の海に三限目以降どっぷり浸かり、昼休みを終えたところでついに開き直って自棄食いしようと五限目の授業をさぼって早退したのだが、二週間続けてきたダイエットが今日一日で水泡に帰すかもしれないと、素材厳選のジャンク・フードを売る店の前で思いなおし、結局より一層のストレスを溜めて帰ろうと決心したという経緯はらしいとしか言い様がない。
今日何度目になるだろう、と記憶を手繰りながら溜め息をついて『あかん、前向きにならにゃ』と意味もなく鞄を振り回しながら自宅に五分の距離の曲がり角を曲がると、鞄は見事に通りかかりの高校生に命中した。全身を流れる血液が音を立てて引いてゆくのを実感し、血液循環説を最初に唱えたのは誰だったかなぁという疑問を追いやって、高校生にとにかく謝る。高校生と知れたのはその男性が青いブレザー、私立学園の制服を身に着けていたからだった。朝比奈学園は成咲高校と並ぶ名門進学校(尤も、今は希望すればほぼ全員が大学進学可能だけれど)で、一四年四月一四日の原因不明の東京壊滅後、新たに創設された新東京大学(もう少し命名に工夫しても良かったんじゃないかな)への合格者数で全国一を争っている。その男性は制服を着ていなければちょっと高校生には見えない。大人びていた。背が一八〇センチ以上あることと、頑強そうな体躯は、珍しくないし、高校生ともなれば肉体的にはもう充分大人だから、その表現は不適切かもしれない。しかし、雰囲気が大人だった。造作が整っている。切れ長の目と彫りが深くない、日本風の顔が美奈の好みだった。
『もしかしてLOVE LOVEチャンス到来』
朝比奈学園の男子生徒は微笑した。魅力的であり、背筋を寒くする微笑だった。アルカイックスマイルの一つ、と美奈は思う。
「幸運だな、これから探そうと考えていたが、手間が省けた」
「???」
「君、名前は?」
「村山美奈だけど、あなたは?」
「」
「探そうとって、僕を知ってるの?」
穂積那智は首を振って否定した。
『この人、なんか怖いよ』
美奈は危険を感じ、身を翻して脱兎の如く駆けだした。人通りが多い方へ。家からは遠ざかるが、かしの予防として有効なのは常に人目の多い場所に身を置き、かつ人に接近を許さないこと、くらいの知識はある。相手がただの高校生なら交番に駆け込んで「不審者がいるんです」とでも助けを求めておけばもう狙わないだろう。まして通う学校と姓名を知られているのだ、本当とは限らないものの。
走っているうちに奇異だと悟った。頻繁に通る道だ。交番への順路も熟知している。間違えるはずなどないのに、いつの間にか知らない場所にいた。森の中だった。それも人の手が入っていない、雑多な樹木が日光を遮る、薄暗い森だった。命を継続するのに日の光を必要としない草が生い茂り、ロング・スカートから少しだけ露出している素足を傷つける。
足をとめた。
「ここ何処なの。近くに森なんてないのに」
草をかきわける音がした。身体ごとその方へ向くと、穂積那智がいた。
「お前どういう了見なんだよ」
「選択肢は二つだ。犯されて苦痛を感じるか犯されて快楽を得るか」
那智の目はあからさまな欲情を示していた。「僕はお前の名前知ってるんだぞ、そんなことしたら泣き寝入りなんかしないからな。訴えられたら刑務所直行になるくらい、知ってるだろ、法律改正から何年経ってると思ってるんだ」
美奈は後退しながら虚勢を張る。スリットの浅いロング・スカートなんか選ぶんじゃなかった、と後悔した。
「国家権力など怖くはない。それに口を利けなくすればいいだけのこと」
抑揚のない言葉に膝が笑った。殺す気だ、と確信する。『この人、僕を犯して殺す気だ』言うことを聞かない足を必死で動かし、草木の葉や枝に傷つけられるのを無視して逃げだす。道などないし、帰る方法もない。森の中を彷徨い夜に凍死したり衰弱死したり、獣に襲われて死ぬかもしれなかった。それでもましだと想った。
「逃げるな。足を踏み外して崖に転落でもされたら少し困る。ネクロフィリアも悪くないが、今はその気分ではない」
声はすぐ後ろでした。肩に手をかけられ、押し倒される。那智は濡れた瞳で見おろしていた。押さえつけられていないのに動けない。
「喜べ、今私は機嫌がいい。では得られぬ快楽を味わわせてやろう」
焦げ茶色の虹彩がく輝いた瞬間、美奈は未知の感覚に捕らわれた。の芯が熱い。厭なのにスカートを脱ぎ、指を秘所に這わせている。
『やだ、最初で最後がこんなのって、ないよ。どうしてこんな? 僕何か悪いことした? 誰か助けてよ、誰か僕を助けて』
美奈は涙を流しながら喘ぎ声をあげる。

六月一六日。
昨夜降り始めた腐敗雨ではない雨は予報通り午前でやみ、暗いという程には暗くなくただ曇りというには重苦しい灰色の空の下、弾まない泥まみれの白球をは追っていた。追うでは不正確に過ぎるかもしれない。江藤は体の横をすり抜けようとする強い打球に跳びつき、或いは正面の打球を体を張ってとめ、弱く定位置には達さないような打球の時は泥を撥ねあげダッシュする、ホット・コーナーと呼ばれるポジションでノックを受けている。夏期大会に向け、雨の合間を縫っての猛練習といったところか、大きく肩で息をしているのにノックの終わる気配はない。
『最後の大会とは言え、良くやる』
滅多に使われない地球儀や吊りさげる型の巨大な日本地図、岩層の標本、コンピューターの端末と整理されているとは思えない山積みのディスク、何だかガラクタめいた埃の積もった用途不明の物体で賑やかな地学準備室で、朝比奈学園二年A組ルア・リップ・ソールズベリーとチェスをしながら、美翔真紀はクラスメイトの野球部員の練習風景を眺めていた。江藤の守備力は大したもので、難しいショート・バウンドにも上手にグラブを合わせるし、反射神経も良く強い打球にも正確に対応し出足も早く、倒れて補球した際も素早く起きあがり一塁に矢のような送球をする。コトと弱々しい駒音を聞き、真紀は注意を盤上に戻した。盤上は既に終盤を迎え、真紀のビショップによるチェックにルアがキングを右に動かしたところだった。
「そこはナイトが利いている」
ルアは美しい顔に皺を寄せ、慌ててキングを戻した。
「ツん出るんじゃないの化、これ」
「そうならチェックメイトと宣告している。逃げられる場所は左下しかない。そこにルークかクイーンを利かせれば終わりだ」
ルアは真紀を睨みつけ、盤を掴むと投げつけた。真紀は溜め息をつきながら首を傾け避ける。
「お前は本当に脳細胞の数が少ないな」
「売る差位。ちょっとあ玉がいいからっていい木になるな」
「今の言葉書いてみろ、この紙に」
真紀は万年筆をジャケットのポケットから取りだす。
「う、あたいはカナダうまれなんだから、かんじがニガテなのはシカタガナイだろ」
「二歳から日本にいてフランス語も英語も話せないくせに」
「カナダだぞ。フランスごもエイごもできなくてあたりまえだろ」
「幼稚園児といい勝負か。栄養が頭にいかないというのは、哀れだな」
「てめえ、きれぢにしてやるぞ、このクサレおめ、グア」
怒鳴り散らすルアの喉を真紀は絞めていた。
「不愉快にさせるな。誓うか? そうすれば許してやる。でなければ今ここで発狂する道を選べ」
「ち、ちかいます」
ルアは小さな嗄れ声を発した。真紀は放し、視線を江藤に戻した。ラストとノックをしていたチームメイト、確かという野球部のキャプテンだったはずだ、が声をあげ、江藤は荒い息のままおおっと声を返す。金属バットの高い音(騒音問題になり改良の末音そのものは小さい)がし、強い打球が江藤の正面に転がった。江藤は素早く腰を落とし基本に忠実に両手でボールを取りにゆく。その動きにミスはなかったがグラウンドは荒れていた。直前でバウンドが変化しボールは江藤の顔に向かう。咄嗟に顔を背けグラブをはめていない右手で庇っただけでも目を見張るべきだろう。ボールは人指し指と中指に直撃しレフトに転がった。膝を付き指を凝視して歯を食い縛る江藤の周りに人が集まり、心配そうに覗き込んでいる。江藤は間もなく立ちあがり、「多分突き指だと思うけど、一応保健室いってくるわ」と言った。真紀は席を立つ。
「用意しろ、ルア」
ルアは口許を歪めた。
タイトな白地に、胸のところに〈FISH BONE〉とロイヤル・ブルーのゴシック体で印刷されている、もう一工夫欲しいとも思うが、このくらいが丁度いいと感じるデザインのTシャツの下には何も身に着けていない。はっきりと隆起の形が見て取れる恰好をしている。
「やっと、ね。いいわ、けっこうタイプだもの」
二人が後にした地学準備室の床に転がっているものがあった。それは初老の男で、もう呼気はとまっていた。

江藤浩二が力を有していることはクラスメイトになった時に気がついていた。本人も自覚していまいし、周囲も気づいてはいないだろうが、注意して観察していれば異種とはいえ、永くその力に接してきた真紀にはわかる。真紀、正確には真紀の属する陣営は力を欲している。かつて対立していた、一族の者であろうと、協力してくれるのなら拘泥しない。そして敵に廻るというのなら……。
授業が終了し一時間半、用事のない生徒は帰宅し保健室には校医の一人可能性が高い。「先生!」故意に息を切らし保健室のドアを開けると、案の定中山恭子一人が端末の前に座り、書類の整理をしているだけだった。只事ではないと思ったのだろう、中山恭子はすぐに立ちあがりどうしたの、落ちついて話してと声をかける。
「先生……地学準備室で、倒れて……」
少し距離が短過ぎるのだが、息も絶え絶えに告げると、わかったわ、あなたは落ちついてから来なさい、中山恭子はそう言い残して走ってゆく。階段を登るのを見届け廊下のルアに合図する。ルアが室内に入り、寝台を覆うカーテンの向こうへ姿を隠した。一五分くらいは時間が稼げるだろう。端末の前に座りNETにアクセスして三名の人員を至急回すよう組織に連絡する。漏洩しても構わない内容だ。すぐに画面を元の状態に戻し右の親指に念を集中した。二センチ程度の傷が生じ血が滲む。薬品の入った戸棚を開けた。扉をノックし失礼しますと声をだし扉を開ける、その動作を殆ど同時にして江藤が保健室に入ってくる。振り向いた。
「あれ、江藤君、どうかしたの?」
江藤は保健室に足を踏み入れたものの、校医の姿がないことに多少戸惑ったようだ。
「ん、ちょっと突き指しちゃってさ、美翔さんこそどうかしたの」
あまり言葉を交わすことのないクラスメイトに江藤の様子には少しぎこちない、どんな口調で話すべきか探るような感じが伺える。親指を口許に持ってゆき僅かに舌をだして傷を舐め消毒液を棚から取りだす。
「小道具作ってて指切っちゃった。ぼうっとしてたからな」
江藤の顔を見て吹きだしてから、少し演技過剰かと思う。
「すっごい顔、突き指冷やすんならついでに顔も洗った方がいいな」
「そんな酷いかな、中山先生どしたの」
「私が来た時もういなかったから、どうしたのかな、突き指したって大丈夫? もうすぐ夏の予選始まるよね、早く冷やさなきゃ」
話をしながら傷口を消毒し絆創膏を張った。頷いて流しに歩き汚れた手を洗いつつ指を冷やす手元を覗き込む。戸惑い驚きというところか、江藤の手元が大きく震える。教室では大人しくしているから、気安い行動は意外でもあるはずだ。
「痺れてるような感じだから、ただの突き指だな、二、三日すれば問題ない。美翔さん演劇部の部長だったよね、やっぱり引退の日って決まってるの?」
「うん、夏休みに講演してね、それが最後。NETにも流れるから時間あったら観て、私はでないけど、ヒロインやる子本当に可愛いから損はしないよ、顔洗ったら」
曖昧な返事をして腰を屈めた江藤の背中は思っていたより広く、確かに球を飛ばす力を感じる。チーム自体は良くて三回戦止まりだが、江藤個人は注目されているという話も嘘ではないのだろう。
「江藤君、協力してくれないかしら」
唐突に切りだす。
「え?」
「協力して欲しいんだけど」
「俺に? 何を?」
「我々の組織に入って欲しいの」
江藤は濡れたままのきょとんとした顔をすぐに悪餓鬼のそれに変えた。
「組織というと、あれかな、地下に秘密基地を持っていて、巨大な力を手に入れて世界征服を目標にしているっていう」
「御名答」
「知らなかった、美翔さんもそんな冗談言うんだ」
「戯れ言ではない。江藤浩二、自覚はなかろうが、お前には力がある。本来は我々と敵対する力だが、な。こちら側につくというのなら久遠の業などどうでも良いのだ。もう一度言う。これは戯れ言ではない。信じられぬのなら」
「美翔さん、けるのはその辺にしといてよ。俺も暇じゃないからさ」
「決裂だな。ルア」
真紀は呼びかける。カーテンを開き、姿を現したルアは何も身に着けていなかった。グラマラスなを惜し気もなく晒している。一八〇近い身長と・・という肢体は日本人は滅多に有していない。
「誰だよ、あんた」
目を奪われつつも、江藤は警戒心を抱いていた。朝比奈学園に於いて有名人のルアも、他校で知っているのは一部の人間のみ。
「淫女か。俺を誘ってるみたいだな。お生憎様。どんな美人でも、願いさげだ、そんな女」
「あたいにそんな口キくのはんなにいないがよ、どんだけそのタイ度はつづくかね」
ルアを無視し江藤は踵を返そうとして、できなかった。目が虚ろになっている。そしてルアのつんと上を向いた乳首を持つ釣鐘型の乳房にやおら手を伸ばした。
「衰弱させてはいけないということは、承知しているだろうな」
顔を背け、真紀はドアに手をかけて言う。
「たまにはいっしょに楽しもうよ、マキちゃん。ジョークだってばジョーク、そんなにこわい顔するなよ、ビ少女がだいなしだぜ」
顔を横に向けると、ルアの揶揄はからかいになった。僅かに目を細め、正面を見てから保健室を後にする。

「ただいま」
お帰りという挨拶が返ってこないのはわかっていたが、はそう口にして家にあがった。そこだけでも一向に改善しない都市部及び都市近郊の住宅事情の悪さを伺わせる狭いに靴を脱ぎ、朝方の雨に汚れたスニーカーを小さな下駄箱に入れた。DKという名目の四畳程の部屋を抜け、六畳の自室に入ると自動的に電灯が灯き空調が作動する。狭い空間の反動かエネルギーだけは豊富に使用する造りだ。
ジャケットを脱いでハンガーにかけ、鞄からDISKを取りだすと机の上のパソコンのドライブに挿し、電源を入れる。より豊富なものがあった、この部屋にいるだけで処理能力を遙に越える情報が手に入る。恵美は処理する必要のある情報を端末の画面に表示した。現代文の授業で作文が課題にだされ、その内容を確かめる。
『自分の部屋を描写しなさい、字数制限無し、期限は来週のこの時間』
改めて自室を見回す。別に面白い物はないし、第一余分な物を置くスペースのある部屋というのは、庶民向けのマンション、矛盾を避けるならアパートメントないしフラットには存在しないだろう。それにありふれた物を細かに描写するような奇特な趣味も語彙もなく、乱雑さを異常に忌避する(と友達は言う)性格なので、フローリングの床には少女趣味のぬいぐるみとか、クッションとか、データ・ディスク、すら転がっていない生活感のない(とも友達は言う)部屋だ。六畳のフローリングの部屋は南にベランダにでる大きな窓があり、南東の隅に小さな机とその上にAR46タイプ3のコンピューター、西の壁沿いにソファー・ベッドと小さながあります、で事足りてしまう。
恵美は溜め息をついて画面をニュース・チャンネルに変えた。憂鬱な気分にさせる課題を与えた国語教諭のが恨めしい。時に関係のない情報に多く触れると気分が落ちつく。実際には感情が鈍磨するのだと何処かで聞いたが、それを気にしていられるような環境は知らない。昔から、まあそれなりに記憶の確かなのはせいぜいここ十年か、情報だけは大いに氾濫していた、必要なものを選ぶのが至難な程に。画面は株価の倦怠を伝えている。もう半年程上昇曲線も下降曲線も描かずに小幅な値動きを続けているのではないか、いい加減行き詰まったのだから何か革命でも起きなければ事件はないだろう。面白くないのでチャンネルを変える。警察の公開捜査番組になった。逃走中の犯罪者、家出、行方不明などに分類されて、年齢を考慮してCG合成などの処置がなされた顔写真と身体的特徴、名前やかつての身分などの情報が流れてゆく。最近の家出は十歳前後の者が多く、そうした年齢で家出をすれば当然犯罪に巻き込まれる可能性は高くなるし、自力で生きてゆこうと思えば男女を問わずストリートに立つくらいしか方法がない。才能があれば別の犯罪だけで生きていけるか、もっと安全で割の良い客の取り方ができるが、それは極一部であり、画面からは家出をした理由は伝わってこなかった。
項目が家出から行方不明に変わる。そろそろ別のチャンネルに回そうとキーボードに手を伸ばした時、画面に自分と関係のあるものを見つけて反射的に画面をコピーした。自分の通っている県立成咲高等学校の文字が目についた。コピーした画像を呼びだす。村山美奈、性別女、二〇三二年一月二〇日生まれ、身長一六二センチメートル体重五〇キロ、血液型O、県立成咲高等学校二年B組生徒、二〇四八年六月一五日(月)午後三時三〇分、県立成咲高等学校正門で友人と別れの挨拶を交わして以後行方不明─。目が大きく小さな鼻と唇の写真が表示される、行方不明後二四時間で届けられているのは村山美奈が真面目だった為だろう、大人しそうな娘だ。行方不明が村山美奈の本意ではないとしたら、危険地帯や夜の繁華街を歩きでもしたのだろうか、寄り道せずに登校し下校する限りは危険はくらい、高校生にもなってあれにやられるとは思えない。尤も、恵美も先日普段通り登校していて生命の危機に直面したばかりだった。朝の電車で偶然同じ車両に乗り合わせた少女が突然奇声を発したかと思うと昔のSF映画に登場したような生物に変身し、通勤中の会社員男女各一命を殺害するという場面に居合わせ、恵美と同じように乗り合わせた特異能力を有する少女が車両の半分諸共、怪物としか言い様のない生物を消し去らなければ、多分今頃生きてはいない。その少女は背の高いとびきりの美形で、同級生の斎藤瀬羅ということはすぐにわかった。
「背が高くて美形で特異能力者かあ」
恵美は溜め息をつく。その三つのうちどれか一つでいいからあたしも欲しい、そう思った。再び重い気分になり、チャンネルを変えるとチャイムが鳴った。画面を切替え玄関前をモニターする。馴染みの食料配送センターの制服を着た二十台半ばくらいの男性がプラスチックのケースを足元に置いて立っている。そういえば今日は配達日だったろうか、恵美は玄関のドアを開けると「御苦労様です」と声をかけてケースを受け取り、キッチンに運び入れると置いてあった空のケースを返却し、受領書にサインをし、硬直する。暗い銃口が胸元に向けられていた、弾の種類にもよるが貫通したとして助かる見込みの薄い口径、.44MAGNUM弾を使用する銃、ハンマーが落ちた次の瞬間にはきっと死んでいる。
「静かに」
と男は言って三和土にあがり、後ろ手にドアを閉めた。
「そこの壁に向いて立て、手は背中に回せ」
恵美は内心舌打ちしつつ男の言われるままにした。本物か玩具かわからないが、男が手錠を使って手首を拘束するのが判る。
「そこでうつ伏せになれ」
男の声は特に高圧的ではなく落ち着いている。大声をだしたとしても瞬時に気絶させるくらいの技術はあると思えた。男は足首の自由も奪い、恵美を仰向けにし上半身を起こさせると黄色の小豆大の錠剤を差しだし短く「飲め」と命令する。逡巡したが、銃口を胸元に突きつけられては従うしかなかった。目隠しをされ、抱えられてあげた悲鳴が声になっていないことに気づく。狭い空間、恐らくは返却しようとしたケースに閉じ込められたことを知った。身体を丸めてやっとだ、息が詰まる。蓋を閉められて必死で恐慌に陥らないように自己を叱咤する。
『冷静に、落ち着いて、目的は何?』
運ばれているという感覚がある。ということは押し込み強盗ではないし、強姦魔という線も薄い。誘拐、わざわざ平凡な高校生を自宅に押し入って誘拐する理由、利用している食料配送センターを調べその制服を揃えるという用意周到さは、計画性の高さを示す。
『私が誘拐される何らかの条件を満たしていたってことなの』
冷静に自分と、最近の行動を振り返ってみる。ありふれてはいないこと、稀少なこと、特別なこと、同じ意味の言葉が頭の中を巡る、何も思い浮かばない。強いてあげれば先日の少女変身事件の現場に居合わせたくらい。しかし恵美は逃げることを考えていただけであり、理由がそこにあるとは考えい。
『でもこういう現実がある。今更理由を考えても仕様がない、とにかく冷静でいよう』
身体の自由を拘束され武器も持たずというこの状況で可能なのは、下手に狼狽したり諦めたりしないことだけだ。本来はこの状況に陥る前に相手の目的と行動に気づかなければならない。今回の場合でいえば玄関ドアを開けた時に九分通り誘拐する側の勝ち、他人の心が読めでもしない限り不審に思うのは無理だった。
自動車に乗せられたようだ。僅かな振動と小さく低いモーターの回転音……。暫くあちこち走り回るのではという予想は外れ、程無く、感覚的には十分くらいで自動車は停止、いや、何かに衝突した。激しい衝撃があり、身動き取れない恵美はケースの内部で背中を強打する。誰かがケースの蓋を開け脇の下に手をいれ引っ張りだす『誰』声はまだでない。目隠しが外され手足の拘束が解かれた。そうしたのは拳銃を突きつけ誘拐した男だ。抱きあげられた。バンの収納スペースにいる。爆音、銃声がして窓硝子に穴が開く。恵美は状況がわからなかった。様子がおかしい。誘拐された者の救出にしては過激だし、露顕が早過ぎる。男は車から飛びだして走った。弾丸が間近をかすめてゆく、恵美は周囲を見回し暫し茫然とした。
『ここ、危険地帯』
人のいない荒廃した町並みが眼前にある。アスファルトの捲れあがった駅前のターミナル、建物の硝子という硝子が全て割れたようなかつてのデパート、半ばで何かに捩じ切られた街灯と、破壊箇所のない歩道に転がる風雨の浸食を受けた頭蓋骨、所々に溜まっている烏と鳩の羽、男が建物の影に隠れる間にそれらを目にした。
『何なの、一体、何がどうなってんの、どうしてこんなとこに連れてこられて、銃撃を受ける覚えなんてない、嘘だよ』
自分も射撃の標的になっていると恵美は理解し、否定する。男は恵美を地面に降ろしS&W MODEL 62955を手にした。その銀色に輝くボディを見つめ奇妙に気が静まってゆくのを自覚した。十歳の時から外出の際拳銃を携帯するのは当然だった。迫り来る危険は回避し脅威を排除する。最初に学習したことであり、その為の道具は大抵銃だった。人を殺した経験はなくても銃で身を守った経験は幾度かある。今もその延長線上にいると思えた。『冷静になろう。感情に負けて望まない死を迎えるのは癪だもの』
改めて周囲を見回し何か武器になりそうな物を探す。身を隠している建物の一部はかつての金融期間であり、厚い硝子越しにATMが破壊され、床と天井と壁のあちこちに黄色いペンキで人の形を描いたような痕跡がある。視線を移す。道路はあちこち掘削器で掘り起こしでもしたかのようにひび割れ、歩行者を車両から護る為の鉄柵は至るところで歪み波打っている、視界の隅で何かが動いた。
五歩程先の敷石が確かに揺れ小さく音を立てたはずだ、誰もいないのに。恵美は生唾を飲み込む。風景の一部が蜃気楼さながら人の形に揺れている『あっ』かすれた声もでなかった。不可視ではない揺れる影は近づいてくる。男はそれに気づいた様子はなく銃を胸元に引き寄せ周囲を伺っていた。体が動かない。逃げだしたくて堪らないのに、指一本動かすことも適わなかった。恐怖で硬直している、いや、違う、緊張しているし恐ろしい、そんなことは何度も経験しかつて体が動かなくなったことはない。力を入れているのに何かに押さえ込まれている感覚、揺らぎは眼前に迫っている。
『動けぇっ!』
動いた。突然枷が外れ自由になった脚で揺らぎの横を駆け抜ける。
「右」
と誰かが怒鳴り、自然にそちらに目を向けた。ショー・ウインドーの中何年か前の春物の色褪せたベージュのジャケットとパンツを纏ったマネキンの向こう、ダーク・グレーのつなぎ目のわからない服を身に着け、フルフェイスのヘルメットのようなものを被った、男だろう、が構えた銃のトリガを引く。回転しつつ弾丸が迫ってくる。放置すれば二の腕に命中するだろう。
『嘘。弾道が見えてる、あり得ない、そんなこと』
弾丸の初速は最低秒速二〇〇メートルはある。目で追える速度ではないし、思考を巡らす時間が存在するなど信じい。とにかく避けようと弾道から体を外そうと脚を速める。
恵美は慌てた。脚が動かない、いや、脚を地面におろすのに酷く時間がかかる。動作が緩慢なのではなく、時間が引き延ばされたのみだと悟った。
『冗談じゃない、これじゃ認識してる分だけ悲惨なだけだ、とまれっての』
自棄になって弾丸に八つ当たり、対象としては正しいのだが詮ないものに当たる。
弾丸がとまった。ウインドー硝子を貫通する寸前に運動エネルギーを消失し、床に落ちる。余計なことを考えないことにした。理屈がどうこうでなく現実と認識するものを信じて恵美は走った。大勢の犠牲の後危険と指定された地域から脱出しなければ、ならない。頭の中に地図を思い描く(環状線に沿って防壁が張ってあると記憶しているから、五分も走れば脱出可能)そう希望を持った途端、脇腹に強い打撃を受ける。
息がとまり歩道に右肩から落ちそのまま横滑りする。荒れた道で半身に傷を負い、一週間前抽選に七八日振りに当たり、NETで購入したばかりの、大量生産が嫌いな人気デザイナー(無名の頃から注目していて、初期作品を持っているのは数少ない自慢だ)の、付け根から先端に向かって黒から白にグラデーションしている翼が一枚、背中にプリントされている、長袖のTシャツが破れる。人形の揺らぎ、半身を起こし見あげる。
爆音、揺らぎが飛ばされ歪んだ街灯の支柱に激突し、支柱を更に歪ませる。続けざま.44MAGNUM弾が揺らぎに命中した。揺らぎは支柱を折り、車道に転がり立ちあがり低い唸り声を発する。電車の中で聞いたのと同じ、変身した少女が口からもらした音を揺らぎは発する。確かに揺らぎはマグナム弾の全てを弾き、そのエネルギーを全身で受けとめた。
初活力が一五〇〇ジュールの弾丸が通用しない相手には逃げるしかない。起きあがり、身を翻そうとした時視界の隅に鈍い輝きがある。全長三〇センチ、刃渡り一五センチくらいか、刃からグリップにかけてスリムでゆるやかな曲線をなす軽そうな武器に映っている恵美の背後には詰め襟の中学生らしい少年がいて、左の鎖骨の間からナイフで心臓を貫こうとする。無表情な、細身で色の白い顔をしたひ弱そうな少年は静かにナイフを突き立てる。鋭利な刃は確かに皮膚を裂き肉を裂き一五年の間拍動してきた心臓に穴を開けるだろう、恵美はそれを確信して少年の顔を凝視する。
終わりはやってこなかった。恵美の命を奪うのだと思われた少年の刃は肩に出現した蜘蛛の異形、体長は一五センチに満たないが、強烈な毒を持つ、を真っ二つにしていた。少年の顔を見つめる。
『あ、ありがとう』
困惑しながらそう口を動かした。
「こい」
『味方なの?』
「そうだ」
言葉はぞんざいでも口調はそうではなかった。だから恵美は頷いた。
小さな銃声がした。少年の手からナイフが弾き飛ばされる。音の小ささが威力の小ささに直結していたのは昔のことだ。
少年は恵美を抱え、崩壊しかかったビルに飛び込む。その直後雨霰と弾頭が降ってきた。支柱の影に身を隠す。コンクリートが数秒で形を失い、鉄筋も千切れた。もう駄目だと覚悟すると、静寂が訪れた。
『助かったの?』
恵美は少年に尋ねる。読唇術を徹底的に学んだのか少年は即座に首を横に振った。
「殺しはしないというだけだ、今は」
無表情だった顔が僅かに歪んだ。やっと気がつく。少年の左の膝から下が消失していた。
「悪いが、もう戦えない」
沢山の気配に包囲されるのを感じた。すぐに何かを撃ち込んでくる。計五発の円筒が霧のような物を辺りに撒き散らし、全身を覆うカメレオン・スーツを装備した者が六名建物に足を踏み入れてきたのが由美の最後の記憶だった。

真紀はディスプレイを注視していた。画面は三分割されている。下側三分の一に、二進数の連なり。上側三分の二は、縦に二分割されていて、左は心電図モニターのような状況を、右は複雑に入り組んだ、騙し絵の如き立体迷路を映していた。それらは目まぐるしく変化してゆく。二進数は常人が目で追うのは不可能な、真紀でも全てを把握できない速度で流れ、心電図は脳波や周波のような図に刻々と変じ、迷路は数式を視覚化したものやフラクタル図形のようなものに変わる。真紀にはそれらが何を意味するのかわからなかった。
八畳ばかりの部屋だった。窓はなく、分厚い金属扉があり、三台のコンピューターと、それとは別の三六のモニターがある。モニターは、県立成咲高等学校の各所に設置されている防犯カメラが送ってくる像を映している。一〇秒毎に切り替わっていた。モニターに映っていない信号も記録され、四八時間保存される。成咲高校地下隠し階段の先、隠し通路の奥の隠し部屋、一般教員と一般生徒の知らない第二保安室。
真紀は青年の背後にいた。青年は椅子に座っている。Xが三つか四つはつきそうなLサイズの、恒久を意味する単語をもじって社名にした仏蘭西メーカーの無地の赤いTシャツと、黒の亜米利加製ジーンズを身に着けた、肥満体だった。身長は一八〇以上あるだろが、体重も一五〇前後はありそうな青年は、端末の前で目を閉じていた。コントロール・パネルに触れてもいなければ、電脳デバイスを組み込んだ者や疑似人格を組み込んだロボットに可能な、直接電気信号を伝える方法に必要なコードを端子に接続してもいないし、現在一部の企業で研究中の、全くデバイスを組み込んでいない、純粋な生身の人間の脳波を判別し、電気信号に変換、コンピューターを操作する機器もつけていなかった。
『わたしのような者がこう思うのは滑稽なのだろうが、何度見ても信じ難い光景だな』
真紀は目の前の肥満体の青年、朝比奈学園一年F組生徒の、汗に濡れ色が濃くなったTシャツを見た。その表面で二秒に一つの割合で静電気が弾ける。
目の前のコンピューターは確かに建が操作している。
プロテクトを解いている最中だった。
床に男が二人、女が一人倒れている。年齢は三人とも三〇前後、成咲高校と契約している警備会社の制服(小口径の銃弾と通常の刃物を防ぐ繊維で織られた、黒のツータックのパンツと長袖の白い長袖のシャツにパンツと同色のベストで、左二の腕に緑の糸でRの刺繍があり、腰の右に11.2mmのリボルバー、左に電磁鞭)を着ていた。気を失っているのではない。仮死状態だった。
公共のNETに接続してあれば、それを介してアクセスできるのだが、このコンピューターは閉じている。だから苦労して第二保安室の存在と在りを突きとめ、危険を冒して侵入した。目的は成咲高校所有の地下シェルターの裏構造図の入手だった。表の構造図は、当然有事に備え教職員と生徒に配付される。裏の構造図というのは、真紀の想像だった。あると踏んだ、いや、あるかもしれないと頭に浮かんだ。そんな根拠のない可能性に、時間と労力をかけなければならない。
「破りました」
建の声に、真紀はディスプレイに目を戻す。分割されていた画面が一つになり、白い背景に中央に入力せよの文字を表示していた。*が四七並ぶ。次に発せの文字。声紋か音声認識の別のパスワードか、その両方か。その画面は二秒で消えた。漸く構造図が表れた。
「あったわね。建は記録してちょうだい、わたしは記憶するわ」
真紀は意識を集中する。ディスプレイを眺める。見つめるのではなく、全体を同時に把握する。それを刻みつける。
シェルターは地下一〇〇メートルに建造された。居住エリア、自家発電装置、換気浄化装置、食料備蓄庫、医療機器、などを備えている。想定収納人数は二〇〇〇名、食料は三ヵ月分、用意されている。ただし、当然のようにこれらの装置や、その装置の管理は電子化されていない。核のEMP効果を打ち消す方法は今のところ発見されていないからだ。万一に備え三箇所に設置された出入口から施設に到達するまでの順路、階段、倉庫、それらの鳥瞰図と立体図が次々に画面に表示された。居住エリアが終わったのは、二六分後だった。画面が元に戻ると、真紀はたった今記憶したものと表の構造図を呼び起こし、比較した。
「五箇所」
「居住区に他の四倍のスペースの部屋が二つ。倉庫の奥に通路が一つ。発電装置が二つ余分にありますね。あると思いますか?」
「わからないわ。あれの形状も大きさも知らないのだから。果たして質量があるのかさえも」
「あのお方も難しい注文を。あれだけの財力と、実質的な権力を持っていて、これ以上何を手に入れようといのうでしょうね」
「全てよ」
真紀は目を細めた。
ロスチャイルド、オッペンハイマー、クッゲンハイム、ウォーバーグ、アスター、サッスーン、グンツブルグ、パティーニョ、ロックフェラー、モルガン、など。それらを支配しているというのは、この地球を支配しているということだ。手に入らないものは、殆どない。
「永遠の命が欲しいのですかね。私は一五年と八ヵ月しか生きていませんから、永遠など想像もつかないのですが、どういうものなのですか、美翔先輩?」
「建の誕生日は確かルアと同じだったわね」
「ええ、霜月の七日です」
「わたしの誕生日は覚えている?」
「勿論です。卯月の七日です」
「なら生まれた年は?」
「残念ながら、わかりません」
「わたし自身も覚えてはいないわ。建の三〇倍以上の時間を生きてきたのは確かだけど、無限と有限は比べられない」
「なら、あとどのくらい生きていたいですか?」
「建はどう思っているの?」
「五〇年くらいは生きたいですね」
「わたしも、人間だった時はそんな風に考えていたわ。とんでもない長生き、当時の感覚では七〇歳くらいだったかしら、したら、もう充分と思えるんじゃないかって。でも未だにわたしは生きることに飽いてはいない。老いを忘れたという要因も、あるのでしょうけれど」
「さんはいつ死んでもいいと言っていましたよ」
「神楽の言うことなど真に受けない方がいいわ。でいる瞬間がない、粗暴で、筋力だけしか能がない男など」
「私も力には多少自信がありました。穂積さんの力を知った時上には上がいることを痛感し、神楽さんの力を知った時次元の違う、どんなに努力しても適わない相手がいることを知りました。そういえば神楽さんの停学解けるの、何日でしたっけ」
「来月の九日から登校してくるでしょう。始業式に教師を撲って病院送りにするなんてね。これで六回目、いかに退学にも警察沙汰にもならないとはいえ、動きくなることを考えていない。穂積とルアといいレベルよ」
「穂積さんもお酒好きですけど、頭は悪くはないですよ。ただ趣味で処女を強姦するというだけで」
「そうね。処女の血しか受けつけないわたしに穂積をとやかく言う資格なんてないわ」
「いえ、そういう意味ではなくて」
「いいのよ。もういきましょう。そろそろこの《失われし白き羽根》の構成員が目を覚ます頃よ。が薄れてきたわ」
「そうですね。私には人の脳を誤魔化す力はありません」
建が立ちあがるのを待ってから、真紀は扉を開けた。

オルドビス系から発掘されたアンモナイトみたいなと口にすると、アンモナイトはシルル記以降に堆積した地層からしか発掘されていないよと即座に訂正し、中学の一年から二年に進級する間の短い春休みの最後の日、通りに沿って植林された染井吉野の改良種の桜の花びらが、チェス盤のように白と黒の敷石が敷きつめられた歩道を覆い尽くすくらいに舞い散り、卒業式の日の帰りに誕生日のプレゼント何がいい? と訊くと数分歩いてからバッシュかなと呟いた、常識的に考えたらそう執着のない白いバッシュにも舞い降りた時、オルドビス記ってシルル記の前だったっけと頭の上に降ってきた薄く微かに湿ったような花弁を摘み、一つ前、カンブリア記の後、眺めていた白と淡い紅色の混じった花弁を放し灰色のニットの肩を払い、同じ組だといいな、その方が共通の話題が増えるし明日の宿題とか教師に対する不満とかそんなどうでもいいことが話題にないと、疲れるものね、話すのも、と同意を求めると、そういう風に頑張って話すから疲れるのだろう、沈黙を苦痛と感じなければいいんだよ、お互いにお喋りって訳じゃなし、と諭すように話したのは聖だったが、釣り革には手が達かずに座席脇の手すりに捕まっている冬華は表示専用の携帯端末に静かに目を落とし画面に表示される文字を追い、姉(記憶が曖昧なうちに父親と幽明境を異にし、産後間もなく職場復帰し留守勝ちになった母親とも接する機会が少なかった冬華にとって、最も長く時間を共有した者)と、一緒にいるのだから苦痛でないのは当然だろうが、あの時付き合って六ヵ月でしかなかった相手に求めるべきものではなかったはずだ、と恋愛中にしては抑制不能の感情の昂りにあまり(皆無ではなかったけれど)縁がなかったことの反動だったのかな、そう先月の自分を瀬羅は顧みる。
初めての接吻を奪った償いに一日頂戴という冬華の言葉に従い日曜日に外出したのも久し振りなのではないか。所々しか記憶のない二ヵ月の間には、もしかしたら外出したかもしれないが記憶にはないし、春休みには綾と何処かへ行ったかもしれない。卒業式の翌日に姿を消した聖は消息が知れず今も頻繁に欠席している。中学の時とは何かが変わったのに、先日冬華に対して忠告した殆どを瀬羅に言った男は自分のことを何も喋りはしないと腹が立ち空いている手をジャケットのポケットに入れると、記憶の曖昧な下校途中に引っ張りこまれた老朽化した下水管修理の工事機材置場は一昨年まで元ピアニストとヴァイオリニストの老夫婦の家であり、夏未が母親に駄々をこねて買ってもらい買ってもらった時には既に興味を失っていたスタインウェイを引き継いだ秋恵が、月水金とお爺さんにレッスンを受けにいっていたのだが、一昨年の春夕暮れ時に聞こえていたヴァイオリンの音が途絶え、夏に婦人が亡くなり残されたお爺さんは故郷の高知県に引っ越してゆき、古い建物は取り壊され更地のまま暫く放置されていた場所で、小型のパワーショベルとローラー車、土管と二トンの小型ダンプ、矢板や赤いコーンといった機材が平日なのに使われることなく置いてあり(時期的に暇なのだろうが)、重ねて積んである矢板の上には体の大きいキジ柄のニャオン(初めて逢ったのはドヴォルザークのチェロ協奏曲ロ短調作品104が流れていた聖のフラット、小学校を卒業してすぐ引っ越ししてきたのに、三ヵ月で両親は遠い所へ行ってしまったと言った3LDK、に七度目にお邪魔して、そっか、家の母もドイツから半年も帰って来ない、そういう共通点が嬉しく、写真見たいなと恐々口にすると、嫌いなんだ、そういうの、多分一枚もないよ、と何となく会話が途切れた時に窓硝子の向こう、ベランダからじっと瀬羅を睨んでいた容姿の良い雄猫)という先客がいて、瀬羅に気づくと欠伸をし猫科特有のしなやかな動きで前足を伸ばし頭を下げ尻尾をピンと立て伸びをして、柔らかそうな体と野良猫とは思えない艶のある毛並みにはいつも触れてみたいと思っていたのに、手を伸ばすとするりと逃げてコーヒーの入った銅製のアラビア風の幾何学模様が施されたマグカップを持って部屋に入ってきた聖の足元にすりよってニャと甘え声をだしたので、本当に雄猫なの? と唇を尖らせ、野良猫は警戒心強いからなと、慰めにもならない言葉に眉根を寄せたことを思いだして舌を鳴らし手招きするのに、俺はあんたとは反り合わないんだよという顔をしてフェンスの下の隙間を通っていってしまい、細面の二枚目といえるかもしれない顔の男は果物ナイフを突きつけて何か言っていて『大人しくしてりゃ殺しゃしない』(殺す、存在を脅かす行為、あたしは殺されるのだろうか、死ぬことによってあたしという存在が消失する訳ではなく単に生命活動が停止するだけでも、あたしのあたしである大部分は失われる)と思い、果物ナイフはステンレス製の柄の部分が白いプラスチックという何処にでもある(かつての法律はこれも違反だったらしい、でも凶器としては威圧感に欠けても殺傷能力は備えている、頸動脈を切れば相手は無力化し、目一杯腹部に突き刺せば大抵の人間はいずれも程無く死に至る、そう小振りで実の引き締まっていそうな艶のある林檎を剥きながら説明された時もこんな果物ナイフだったはずで、奇異な果物ナイフが存在するか多少疑問だけど)物で、刃渡り約一〇センチメートルの新品だったのだろうが、男の動きは緩慢、隙だらけで手首に手刀を入れると簡単に武器を落とし逆上して掴みかかってくるのを体を反転させ肘を脇腹に入れ、アーム・ロックをかけ足を刈り投げたら受け身も取らず動けなくなって、サッカー・ボールを蹴る要領で脇腹に数度入れた時点で完全に沈黙してしまい、ふとニャオンが丸まっていた矢板の上に金色に輝く五〇口径の弾薬を見つけ親指で薬莢の底、人指し指で弾頭を押さえて眼前に持ってきて無表情な自分の顔が映り込むのを見つめ、ニャオンの宝物かもしれないとそれから持ち歩くようになった、弾薬に指が触れた。
五〇口径というのは見慣れた.45ACP弾と比べて恐らく間違いなく、全長四〇ミリメートル強の重量三〇グラム弱、本物ではないだろう。目的の駅に到着し冬華を連れて改札を抜けると地下街をJRの駅方向に歩き行き着けのシューティング・レンジに入り、受付で会員証を提示し照合検査を受け防音扉を開くと銃声が耳に入るが、そこは防弾硝子で囲まれた休憩室なのでマグナム弾の爆音が聞き取れるくらいだ。アルコール類を除く飲料とホット・ドッグやハンバーガーを販売するのスペースがありその隣に拳銃をレンタルするカウンターがある。日曜日なので家族連れもあるものの冬華くらいの年齢の子はいない。瀬羅は店内をざっと見回し硝子ケースにハンドガンの並ぶカウンターでミリタリー・ルックに身を包む三十くらいの女性従業員に声をかけ.45ACPと.22SHORTの弾薬を二〇〇発ずつ購入し、BERTTA MODEL 950SBSをレンタルする。従業員が弾薬が装填されていないことを示し、弾箱、イヤー・プロテクター、ゴーグルと一緒に木製トレイに載せて差しだすのを受け取り、二十あるブースを眺めた。
「一五番と一六番のブースをお使い下さい」
イヤー・プロテクターをして射撃スペースに入り、テーブルに銃口を標的に向けた状態でBERTTAを置く。イヤー・プロテクターには無線が内蔵されていて、連絡が入ることもある。会話は聞こえるものの、プライバシーを考慮しての措置だ。
「安全確認から、やってみな」
BERTTA MODEL 950SBSは瀬羅が所有するMODEL 25Aより僅かに小さく使用する弾薬は.22SHORTで玩具みたいに見える。瀬羅に促されもう消滅したチームのベースボール・キャップを反対に被りゴーグルをした冬華は拳銃を掴み、マガジンを抜きスライドを引いた。当然弾薬は装填されていない。その間冬華は標的に対し横を向き銃口は絶えず標的に向いていた。銃口を覗き異物の有無を確認する。マガジンに六発装填しグリップに入れる。標的に正対し構えた。
いいよ、そう声をかけたる同時冬華は発射した。レンジは一〇メートル。初弾の着弾はセンター。銃は小型だが反動は殆どない。残りの弾を速射した。標的を引き寄せる。紙のマン・ターゲットには十点圏内に直径二センチメートル弱の穴か一つ開いていた。
「暗殺者になれそう。敵にはしたくないな、大したもんよまったく。銃を置いて掌を向けて、そう、まあ大した衝撃はないだろうけど、グリップもよさそう。次は標的を二〇メートルにさげて撃ってみましょう。安全確認は忘れずに、少しでも疲れたと感じたらマガジンを空っぽにして中断すること、じゃ、あたしも撃ってるから何かあったら声かけて」
安全確認、弾薬の装填、標的に正対、慎重に狙いを定めトリガを引く(基本は二連射だ、それで命中させなければこちらがやられる、非早い動作でしかし決してせず狙いを定めて撃つ)。七発ともセンターに命中、ターゲットを新しい物に変え距離を三〇メートルに、そして五〇発、十点以内に集弾はしている。
直径三センチメートル弱の穴が一つ、が二ヵ月前に比べ腕が落ちている(運動は基本的に後天的に学習されるものだ、一週間休めば元の状態にするのに一月はかかる)、体で覚えたことは体で呼び覚ますしかない。ターゲットを変え再び三〇メートルにセット、(集中して音が消える、マガジン内の残弾数を数えながら速射し、空になるとマガジンを抜き弾薬を装填し撃つ、それを良いと言うまで繰り返せと聖が命令したのは夏休みの初日、旅行しようと誘われ待ち合わせの場所(二つ隣の駅のバス・ロータリー、理由を訊いても教えてくれなかった)に指示通り七日分の着替えの詰まったスポーツ・バッグを抱えて待っていると、約束の時間五分前に二年前に生産終了した黄色のRV車を運転して現れ、無免許運転に恐々同乗して連れていかれたのは人気のない山林に立つ山小屋で、一息つく暇もなくSIG/SAUER MODEL P3291を押しつけた時のことだった)、そして最後の弾丸がセンターを通過する。ジャムはなかった。
「お姉ちゃん、目立ってるよ」
レンジで撃っているのは瀬羅のみ。他の者は手を休め驚異的な腕前の少女に視線を注いでいる。そんな状況を無視しターゲットを引き寄せる。先刻より多少増しかと唇を噛み冬華に目を向けると、百発程撃ったらしいターゲットがテーブルの上に乗っていた。八割は十点、残りは九点の範囲に収まっている。疲れた? じゃ休憩しようかと声をかけ、熱を帯びたS&Wをホルスターに戻しゴーグルを外す。弾薬の装填されていないBERTTAを預かりゴーグルと残りの.22SHORTをブースに置いたまま休憩室に入りイヤー・プロテクターを外して空いている四人掛けの円卓に着いた。
「どう? こつは掴めたみたいだけど、後半きつかったでしょ」
ミネラル・ウォーターを飲みながら訊く。
「うん、腕と精神が消耗して後半弾がばらけた」
「問題ない問題ない、実戦でそんなに撃つなんてそうないし、基礎体力作りは中学生以降で間に合うから、本当に大切なのは危険に遭遇しないこと、残りも撃ってく?」
冬華は数秒考え、今日はもういい、もう学習効率はあがらないと思うからお姉ちゃんの見てる、と向けた小さな掌にはグリップの跡が白く残っていて、その掌を包むように握ると顔を赤らめる。可愛いなぁ、冬華(こじ開けたのはその言葉だったろうか、かれこれ五日間断続的に雨が降っていた金曜日の学校は静かだった。朝からの雨は深夜まで降り続くという予報に早々体育は中止になり、美術部の部室にペンナイフを忘れて取りに来た瀬羅は綺麗に白髪になった常駐の警備員から鍵を借り、大量の油彩絵の具が無作為に付着したモーゼルの足元に良く切れる自分のペンナイフを見つけ、手にして鍵を返却しようと警備員室に戻る途中音楽室の前でふと足をとめ、無頓着で不用心な警備員が寄越した鍵の束に音楽室の鍵もあったという偶然に音楽室の鍵を開け中に入った。国内メーカーのグランド・ピアノは鍵が掛かっていなくて人指し指で鍵盤の真ん中くらいのドのキーを押してみる。長く引きのばされた音の振動が感じられなくなり隣のキー、レを押した。隣のドまで繰り返す。夏未が欲しいと駄々をこね家に届いた時には興味を失い代わりに秋恵が弾いているピアノに触れたことはあまりない。秋恵は今『月光』を練習していてあんな指の動きは無理だけれど、ジムノペディくらいは弾けるかもしれないと最初の音を探すと不思議と次の音がわかった。左手を無視して一番を弾き終えた時、もう一度聴かせてくれないかと小さく後ろで声がして慌てて首を曲げると聖は、可愛いな、斎藤さん、と顔を赤らめた瀬羅に言い、その言葉にもっと顔を赤くすると、可愛いな、斎藤さん、そう笑う)、視界の隅に隆司がいて冬華と同じくらいの歳の男の子を二人(良く似ている)、そういえば双子の弟がいると聞いた、連れていた、席を立ち弾薬を購入している隆司の背後につき小さく鋭く、手をあげろ、人指し指を後頭部に突きつける。

斎藤さんを好きになるのは自然と言えるかもしれないと隆司は思う。
自然という言葉が不自然なら、ありふれた、或いは有り勝ちな、不思議ではない、没個性的な感情の動き、そう換言してもいい。初めて目にしたのは入学式の日だった。背が高く上級生か教師かとすら思えたがすぐに同じ組とわかり、どういう訳か友達になった。最初、大方の女子と同様に他人を拒絶する(女子の言葉を用いればお高くとまっている、いけすかない)人だと考えていた。休み時間になっても誰とも話すことなく、机に座ったまま前を向いて、次の授業を待ち、全ての授業が終了し下校の時間になっても自分から動こうとせず、他のクラスから友人らしい女子(綾のこと)に促されて初めて立ちあがるといった様子で、唖なのだという噂が立つくらい(数学の授業で指名された時回答したのですぐに消えた)言葉を発することが少なく、感情が見えなかった。
好きになるのは不自然かもしれない。近寄り難く得体の知れない自分より二二センチ背の高い美形に憧れるのではなく好きになる。良くわからない。好きになるとしたら多分目立たない大人しい娘かとにかく明るい娘だと思っていた。
「なんでもします、だから撃たないで」
四月一七日の金曜日、自習室で一週間の食事メニューの予定を立て、カロリー、有効成分、推定含有有害物質量の計算ソフトの修正を行い帰宅しようと玄関に向かい、教室の前を通ると斎藤さんだけが椅子に座ったまま残っていた。足をとめて数秒の間に随分迷った末、斎藤さんは帰らないのと声をかけたのは自分にしては良くやった方だろう。無視されるかと思ったら廊下にいる隆司に顔を向け、「あなた誰」と呟くように言った。
『同じ組の隆司です』
『そうですか、一条さん、岐原綾を見かけませんでしたか?』
『岐原って、斎藤さんがいつも一緒に帰ってる人? 見なかったけど』
『わかりました。私は帰った方がいいでしょうか?』
戸惑った。話し方に抑揚がなく意志と判断力が欠落しているようなことを言う。
『もうすぐ下校時間だし、帰った方がいいと思うよ、夜になる前に』
そうですねと呟いて斎藤瀬羅は立ちあがり、丁寧に椅子を戻した。声をかけなければ月曜日までずっと座っていたのではないだろうか。下校時刻を過ぎれば警備員が見回りに来るし、土曜日には清掃会社の人が入るが、そう思えた。
『有り難うございます。私は斎藤瀬羅といいます、宜しくお願いします』
言葉は操れても初めて日本を訪れた異国人、そんな感じがした瀬羅が変わったのは二週間前だろうか。ロングの髪を切り口調が変わり、クラスの女子とは未だ打ち解けていないが隆司には積極的に質問するようになった。
「五〇メートルで一〇〇発、テカピンで勝負」
振り向いて見あげる。一五年間生きても背が低いという現実は大きなコンプレックスだった。女子の平均身長を五センチメートル以上下回る背丈というのは、人を好きになる時や実生活に於いて非常に厄介で、電車の棚に荷物を置くのも苦労する。
瀬羅が提示したレートなら、最大限に負けても二食分の食事代に収まる。

そういう経緯で、隆司は渋る弟達の面倒を瀬羅の妹の冬華に頼み(年齢は弟達と同じと聞いたが、冬華と話していると隆司は同級生を相手にしているように感じた)、瀬羅と並んでブースに付いた。去年使えるようになったBERTTA MODEL 109CBに.40S&W弾を送り込む。かつて米国軍の正式採用拳銃だったBERTTA MODEL 92FSの発展形である109CBに対し、瀬羅は同じ.40S&W弾を使うSIG/SAUER MODEL P3291をレンタルした。自衛隊で正式採用されていたP220の発展形であるP229を更に改良した拳銃でP229は同時代の96Dよりは使い易いと感じたが、改良の末性能的に109CBとP3291は互角と見て良くなった。隆司はBERTTAの方がフィーリングが合う。
「力を使うのは反則だよ」
斎藤瀬羅が特異能力者で、風を操る術を持つということは会話をするようになって間もなく知れた。弾丸の軌道を操作されては勝ち目はないので釘を刺しておく。特異能力者としての力量は先日電車内の事件で明らかだった。車両の半分を灰塵に帰すような使い手は他に知らない。
「当然、それを使ったらリハビリにならないからね」
『リハビリ、射撃のだろうか、それとも精神のだろうか』
マガジンセット、ターゲットのセンターを狙う。初弾の軌道が全てを決する。初弾が大きくセンターを外れれば修正するだけでマガジンが空になる。疲労のないうちは十点に集弾させたかった。.40S&Wの衝撃は小さくない。数をこなしてゆけば肉体的にも精神的にも疲労がくる。マン・ターゲットの中心にのみ精神を集中した。
トリガを引く。浅いストロークでハンマーが落ち衝撃が手首から肘、肩に突き抜ける。
『ど真ん中』
グリップもいい。流れに任せ続けて撃つ。十発でマガジンは空になった。横を見る。十発だけ装填していた瀬羅もSIGを撃ち終え隆司の視線に微笑を返した。慌てて目を逸らし隆司はマン・ターゲットを引き寄せるボタンを押しマガジンに弾薬を装填する。弾丸は拳程度の面積に集まっていた。隆司にとってはこれ以上は望めない結果だ、横を見る。
『嘘だろぉ』
瀬羅の標的に穴は一つしか開いていなかった。しかも弾着穴の端が繋がるようなワン・ホールではなく、直径は一五ミリ以下の穴がセンターに開いている。能力を使ったのかとの疑念を打ち消す。力を使えば隆司にだって関知できる。ワン・ホールではなくとも十点に命中させれば構わない。ターゲットを新しいものに変えた、調子自体はいい。
点数上互角で進行したのは前半までだった。それ以降隆司の弾着穴は徐々に左右に振れだし、最終的に十発九点に外し、最後の弾をセンターの穴に通した瀬羅に昼食一食分の負けを被る。ベスト・スコアを叩きだしたのに完敗した隆司は悔しさよりも無力感に打ちのめされ、熱くなった109CBをテーブルに投げだした。瀬羅は十枚のターゲットを重ね繋がった穴を凝視している。美しい横顔には汗一つなく、表情もない。隆司の視線に気づき初めて笑顔を作る。パーフェクトは当然なのだろうかと、隆司は瀬羅の使ったSIGに目を向けた。射撃の腕に関する自信が音を立てて崩壊してゆく。
「その腕で金かけてたら友達なくすよ」
何気なく発した言葉に瀬羅は笑顔を消して手中のSIGのスライドをオープンし、テーブルに置く。「そうだといいな」との呟きの意味はわからず、隆司は109CBを鞄の中にしまった。何か気の利いた言葉でもかけられればいいのだが、口下手な方だし、そうするには理解が足りない。
「何だか、あまり上手くいってないみたいね」
休憩室でとが退屈している。周囲に迷惑をかける年齢でもないが、隆司の目にはがさつで図々しいと映る弟二人が退屈しているという構図は珍しい。
「あの子も人付き合い下手だから、似なくていいのに似るんだよね、変なとこばっかり」
「姉妹だから仕方ないよ。は結局家族そろって背が低いもんなぁ、塩基配列が恨めしいと幾度思ったことか。両親もそのまた両親も背が低いと遺伝子組み換えも期待できないしなぁ、斎藤さんと話すのも結構首が疲れる」
「その斎藤さんっていうのやめませんか? 一条さん」
瀬羅はSIGとゴーグルをトレイに載せ空の弾箱を塵芥箱に捨てる。
「ふむ。じゃなんて呼べばいいかな。斎藤君じゃおかしいし」
隆司は腕組みをし、本気で考え込む。斎藤でいいんじゃないのと瀬羅が言った。
「それは少し乱暴な気がする、何だか無意識で自分の優位性を主張しているようで嫌だ」
「気にするねぇ、さんも君も駄目呼び捨ても駄目なら名前かあだ名しかないと思うけど」
『確かにその通りなのだが、瀬羅と呼び捨てるのは論外だし瀬羅さんというのも。君付けというのはそんな固定観念もなく第一年下にするものだろう、男の場合、しかしあだ名で呼ぶ程親しいのだろうか』
隆司は頭を抱えた。最も相応しい人の呼び方を選択するのは昔から苦手だという奇妙な自覚があった。あだ名で呼び合う相手は一五年の人生の中で牧村俊樹だけだ。尤も昔のあだ名を人前で呼ぶと照れ隠しに殴られるので、最近はあまり呼んでいない。
「さっきから人が悩むの楽しんでない?」
「面白い。でもま、取り敢えずそれは後にして、向こうの緊張をどうにかしよか、呼び方は後でレポートに纏めて提出しなさい、今日の勝ちは付けにしとくから」
瀬羅はトレイを持ちブースを離れ、数歩行って立ちどまり顔を右に向ける。
隆司もそうした。その方向に違和感を覚えた。記憶にある感覚、熱帯夜に冷房を忘れ、背中に寝汗を吸った綿のシャツや夏物の薄手のパジャマが張りついたような皮膚感覚、電車で少女が変態するのを目撃した時のそれ。あの後成咲高校一年C組のだとわかった、人間の異形への変態事件はかつて危険地帯で数件報告されていて、少女の数日の行動に危険地帯への無断進入があり結局誰にも原因がわからないまま解決とされた事件。あの時少女だった者を瀬羅は何の躊躇いもなく抹殺し、表情一つ変えなかったが、隆司は数日気分が優れず、もうあんな場面には遭遇したくないと思っていた。
視線の先に高校生らしい少年がいる。隆司よりずっと背が高く瀬羅より少し低いという中背中肉の、髪は短く肌は日に焼けているので高校の運動部に所属しているのかもしれない、少年はブースにうずくまっていた。
『あの時と同じだ。しかし、どうする』
瀬羅は休憩室へと向かう。隆司は変調を伺わせる少年に近づいた。少年は端の二〇番ブースで射撃していた。隣のブースではスーツ姿の四十男がGLOCK、多分9mm×19を撃っていて、少年の様子は認知していない。最も恐ろしいのは周囲の人間が恐慌を来すことだ。レンジでは十数人が射撃している。無闇に使われたらどんな惨状になるかは想像に難くない。そして少年があれと同じモノになるのなら、拳銃は通用しないのは明らかだ。
『最善は変態する前に殺してしまうこと。しかしそれではただの殺人になる恐れがある。第一、人の形をした者を殺せるのか、僕は』
隣の男が少年に目をやり、声をかけ、反応がないと拳銃をテーブルに置いた。低い唸り声が聞こえる、猶予がない。隆司は走った。
「退いて下さいっ!」
怒鳴った。感覚は強まる一方、迷っている暇はない。しかし遅かった。男の首が転がっていた。変態が早い。大越環の時は髪から徐々に変化した感があったが、少年は立ちあがった時既に変態を終え、纏っていた服は寸断されて足元に落ちていた。
『どうする、僕には一瞬で消し去るような真似はできない』
レンジの客が少年の変態した姿を認め、近くのブースにいた男が早速COLTの銃口を向ける。発射。しかし外れた。異形の姿を成した者はトリガが引かれる寸前身を沈め、.44MAGNUM 弾は壁に埋まる。男に次弾を発射する時間は与えられなかった。長く鋭利な爪のある手が肉と肋を引き裂き心臓を握り潰す。絶叫。異形は死体を投げ捨て、死体は背後の壁に衝突した。
『死者二名、僕の甘さが招いた結果か。だがこれ以上はさせない』
かつてインストラクターに受けた戦闘訓練は護身術の範疇をでるものではなかった。積極的に仕掛ける訓練はしていないし、人間ではない眼前の少年だった異形に通用する技術は知らない。隆司は正面から異形に突進する。野太い唸り声、異形の前蹴り、蹴り脚に正面から拳を叩きつける、同時に練っていた力を開放した。
常人なら行動不能、下手をすれば心停止する力を受けた異形の蹴りはとまらない。腕が弾かれ腋の下に攻撃を受ける。激痛が走り体が浮いた。
『右足と右腕の交換、多少分があるかな、しかしまともに食らったら逝くぞ』
異形の脚は硬化している。隆司の腕も筋が伸び使いものにならなくなったが、バランスが極端に崩れた異形よりは失点が少ない。隆司は着地するなり休まず攻めた。打撃を与える必要はなく触れるのみで攻撃は成立する。冷静に相手の攻撃を見て致命的一撃をしていれば勝てるという自信が生まれた。片足が使えない異形は動きが鈍い。ぎこちない右ロング・フックを踏み込んで避け異形の盛りあがった胸部に掌を押しつけた。力を送り後退して距離を取る。効いたはずだ。異形が片膝を着く。
『もう一撃で勝てるけど』
息があがってきた。無駄に力を消耗できない。次で確実に決めようと力を練る。異形には先手を打つ余力がないようだ。呼吸を整える。気合が乗ったところで息をとめ、駆け寄り、力感の失せた異形の攻撃(左腕を横に振るだけだが、爪に捕らわれれば逆転だろう)を避け、背後に回り背中に力を叩きつけた、異形は力を失い前のめりに倒れる。
息をついた。
『常人なら四、五回は死んでいる、しかし意味がないな、人類を何回消し去れるってのと同じだ、五〇回が三〇回になっても何もかわらない、それに全滅する訳じゃなし』
異形が動いた。左手の指先が僅かに痙攣している。
『息がある。とどめを刺すか、でももう力を練れはしない、それに』
迷いが生じた。今は見境なく人に襲いかかる異形も数分前は隆司と大して歳の変わらない少年だった。好き好んでこんな姿になった訳ではないだろう、何か回復させる手立てがあるかもしれないと、気を抜いた刹那、異形は体を反転させ左腕を大きく振り回す。最後の攻撃だと隆司には判り、同時に異形の腕が伸び爪の軌道上に自分の頭があることを意識する。時々訪れる時間が引き延ばされた感覚だった。特殊な力を有する者の何割かはこの状態を体験する。経験から異形の攻撃を避け得ないとも確信した。
『死ぬのか』
怖くはなかった。実感がわかない。だが異形の爪は確実に迫ってくるし、力を身体能力の向上に利用できない隆司に躱す術はなかった。
『うるちゃんなら簡単に避けるだろうな』
小中と同じ学校に通い、高校も同じになった、力を身体能力の向上にのみ利用できる能力者の友人を思いだす。最近牧村俊樹の姿を目にしていないことが気にかかった。
死をもたらす爪を白いスニーカーが叩き落とす。ブラックのパンツに包まれた長い脚が異形の手首を踏みつけ、隆司は助かったことを実感し胸が苦しくなる。瀬羅は表情のないまま喘ぐ異形の口にCOLT MODEL ANACONDA(セラミックの銃身からシリンダーにかけて今は亡き持ち主の血液が付着している)を突っ込み、トリガを引いた。弾丸は貫通しない、それだけに全ての力が固い殻に包まれた頭の中で爆発することになる。
異形は激しく痙攣し数秒、活動を停止した。

二階にあがったところで遭遇したのはナイト・ストーカーだった。
そう呼ばれる怪物はホームレスの末路であることが多いが、三体のナイト・ストーカーの中の一体はSWAT装備に身を包んだ、元の年齢は二十歳程度であろう人の形をしてい、危険地帯でシューティング・ゲームをしていた者と推測できた。確かに人気のない寂れた感のある町並みはゲームに最適かもしれないが、危険地帯特有の悪気に充てられれば理性を失い彷徨する脱け殻となる。脱け殻とは言え無力ではなかった。理性が消失した為に肉体の本当の全力、良く言われる火事場の馬鹿力的なそれで、同類ではない者に襲いかかる。
残りの二人の服装は薄汚れて統一感がなく厚着、住む場所を追われ仕様がなく危険地帯に流入してきたホームレスの成れの果てと俊樹は推測した。
俊樹にとって敵としての脅威は小さな存在だった。ナイト・ストーカーは9mm程度の銃を多少食らっても動き続けるが、.44 MAGNUM 辺りで撃ち抜けば機能的損傷を受け停止し、力押しが利く。逆に言えば破壊力の小さい武器しか持たない者にとっては脅威だが、俊樹の手足はマグナム弾を遙に凌ぐ威力を持つ凶器となる。正気はあるかと俊樹は訊いた。当然返答などなく、代わりにSWAT装備がM16Aのモデルガンを手に飛び掛かってくる。スピードが違った。ナイト・ストーカーの発揮する能力は人としての限界、対する俊樹の特異な力は人としての限界を越えている。力の膜で覆った右拳はSWAT装備のプロテクターを打ち抜きナイト・ストーカーの心臓を直接粉砕した。休まない、覆い被さるように残りが飛び込んで来ている。両方の拳をそれぞれの心臓目掛けて繰りだす。
それで戦闘は終了した。相手にならない、踏み台としては小さ過ぎると俊樹は呟く。
二階に動く者が他にないことを確認すると俊樹は廃屋を後にし、商店街へ戻る。先程掃除したばかりのグリーン・アカセイアの集団は既に復活し、路地裏にたゆたっていた。それが俊樹に気づく。アカセイアの武器は全身を覆う骨盤の鋭利な突起物であり、体当たりがその攻撃法の全てだった。五体のアカセイアは一斉に俊樹目掛けて突進してきた。被害者を食うでもなくただ殺す、その習性は今の俊樹と同じだった。聖に敗れて以来、俊樹は危険地帯に入り、強敵を求めてひたすら殺戮を繰り返している。強くなりたい、俊樹の願いはそれのみ、屈辱を晴らさなければならない。
アカセイアも力押しが利く。無論防御力はナイト・ストーカーの比ではないし、接近戦は危険が伴うということは先週二〇針縫う傷を腹部に受けて承知している。左右の手の親指に力を集中した。力を練り親指で空気を弾く。それだけで圧縮された空気が音速を越え弾丸となってアカセイアを撃ち抜く。威力は同時に二体のアカセイアを貫通する程だ。左右の指弾で四体の敵が消えた。残り一体、俊樹は敢えて指弾を用いず、接近してきたアカセイアの胴体に正面から拳を打ちつけた。貫通した拳は傷ついていない。
「強くなったことは自分でもわかる、しかし奴にはきっと及ばない」
鎧袖一触に撃退した俊樹は静かに呟く。銃声が聞こえた、人がいる。
銃声のした方に俊樹は歩を進めた。人がいて、何かに襲われているのなら敵がいる。俊樹のように、ただ武器を用いて危険なハンティングをする狂った人間でもいい。踏み台が必要だと俊樹は考えた。強くなる為に必要な試金石と言ってもいい。
今回は後者だった。手に入れた44MAGの威力を試したくて仕方のない大学生、そんなところだろうか。三人組で三人共に髪が長く、場所にそぐわない恰好、ショート・パンツにTシャツという組み合わせにアクセサリーの大同小異が俊樹の気を削ぐ。
三人は俊樹の姿に最初怯んだ様子を見せたが、俊樹が正常な人であるらしいことに安心したのか、あんたの得物は何だい? と仲間と見做して話しかけて来る。俊樹は答えなかった。三人が怯えてTURNING TRICKSTER MODEL.44 MAGNUMの銃口を俊樹に向ける。ここは危険地帯だと三人のうち一人が言った。返答がなければ撃つとの意味だ。
「ナイト・ストーカーに遭わなかったのか。ああなりたくなかったら、さっさと帰った方がいい」
挑発になることはわかっていたが、気を使うのも面倒な連中だと俊樹は思った。戦闘に慣れ過ぎて気が荒んでいる。幸いその挑発に乗る程三人は子供でもなかったのか、暫く俊樹を睨んだ後声を掛け合って歩きだした。俊樹も敢えて正常な人間と闘う意志はなく、闘ったところで試金石にならないことも承知していたが、三人の進行方向に覚えのある気配を察知し足をとめた。
「おい、とまれ」
声を掛けると同時駆けだした。勘違いした三人が各々の銃を俊樹に向け、発砲する。俊樹は舌打ちした。弾道は一発だけが脚をかすめる、動く標的をろくに狙いもしないで撃った割には良い方だが、好んで実戦に飛び込んでいい腕ではない。俊樹は力を体内に循環させ弾道を回避して疾駆する。次弾が発砲される前に懐に飛び込むことは容易だった。三つの銃を奪い取る。
「逃げた方がいい、あそこにいるのはちょっと厄介な奴だ」
囁くように言った時、漸く自分達の進行方向に黒い影を発見した三人は現状を把握したのかしないのか、立ち尽くした。三つ首の犬の形をした黒い影、シャドウ・オブ・ケルベロスと呼ばれる危険地帯でも強力な異形はナイト・ストーカーとは根本的に異なる存在だ。元来がただの人であるナイト・ストーカーに対し、ケルベロスの影は黒球やグリーン・アカセイアと同様に、実体は《向こう側の者》と呼ばれる異形であり、拳銃では歯が立たず当初人間側は逃げるしかなかった相手だった。危険地帯に送り込まれた特殊部隊にも数多くの死をもたらした存在だ。ライフル、手榴弾、対戦車ミサイルでの攻撃は悉く通用せず、危険地帯そのものに触らぬ神に祟りなしという判断を下す要因にもなった異形、俊樹の集めた知識がそう断定を下す。
「返せよ」
TURNING TRICKSTERの持ち主が俊樹から銃を取り返しゆっくりと向かってくるシャドウ・オブ・ケルベロスに今度は正確な狙いを付けて放つ。弾丸は弾かれなかった。貫通することもなく、しかし命中した衝撃もなく異形は澱みなく歩き続ける。影を撃ったかのように手応えのない男は「外れたのか」狼狽する。
「外れちゃいない、あれはそういう相手だ、わかったらさっさと逃げな」
「逃げろったってお前はどうすんだ」