MUGEN の シンゾウ
序章
暗い通路を何者かが歩いている。
そう推察できる。小さな、規則的な音がこえる。足音─。
暗いではなく、一条の光も射さぬとしなければならない。真の闇だった。地下通路と考えるのが自然であり、照明装置に供給されるエネルギーが断たれた、或いは元々照明装置など設けられていなかったと考えるのが自然だろう。その通路は一本道ではなかった。幾筋にも分岐していた。
道順を完璧に記憶しているのか、何者かは遅滞なく歩く。その足音から不安や逡巡、脅えなどは感じられない。立ちどまった。通路の終わりか、扉に突き当たった。右手で軽く触れるように押す。仄かな明かりが洩れてきて、その者の姿が浮かびあがった。
少女、或いは娘だった。
年齢は、一七、八か。童顔だとしても二〇には達していないだろうし、逆に実年齢より上に見えるとしても一五未満ではあるまい。女性ということを考慮に入れれば、既に成長はとまっている。身長は平均より七、八センチメートル低く、やや痩せ気味。体形には幼さが残るも、顔のは整っている。白人のように色が白く、髪は首筋を隠すくらい、前髪は眉毛の上で軽く切りそろえられていた。モデルにはなれなくともそこいらのヴァーチャル・アイドルを遙かに凌ぐ魅力がある。
高校の制服らしきものを身に着けている。青いブレザーだ。
両開きの扉は厚さ三〇センチメートルばかり、高さが五メートル強、片方の幅が三メートル弱、材質は判然としないが、重さはかなりのものだろう。少女が中に入ると音もなく、勝手に閉じた。
空間が拡がる。広い、というより奇妙な感覚を受ける場所、地下室だった。青い光は大きな質量を有しているのか、壁も床も天井も、確とは視認できず、その源の特定も難しい。
少女の前方一〇〇メートルに、巨大な塊がある。光沢のない黒い球体が浮いており、その手前に佇む者がいた。
少女はその方へ歩を進める。
「理事長」
声をかけると、背を向けていた者は振り向いた。
「美翔か」
太い声が少女をそう呼んだ。
全身をグレンフェルで包んだ、白髪の男だった。背は平均、恰幅が良い。浅黒い顔には艶気があり、皺も浅く、四十代のそれだが、髪は綺麗に白くなっている。
「調査は進んでおるのか」
「進展はありません。それとなく探りを入れてはいるものの、それらしい噂すら皆無です。真にあれが、あるのですか、あそこに?」
少女、美翔は問う。冷たい声だった。
「信じられぬか、儂が」
美翔は顔を青ざめさせる。
「いえ」
震えていた、声も身体も。
「種を蒔け」
男は厳然と命じた。
「邪神の種子を、でありますか?」
「いつからお前はそうも鈍くなった。聞かねば断ぜられぬか」
美翔は半歩さがっていた。
「お前ともあろうものが平和惚けか。少々鍛えなおす必要があるかもしれんな」
「御容赦を、それだけは」
「まあ、良い。ゆけ、時間は無限にあるとは限らぬのだ、今の儂らには」
「承知いたしました」
美翔は深々と一礼し、踵を返し扉へと歩く。くる時に比べ微妙に歩調が早くなっていた。扉を押し開き、闇の中へ入ると、大きく息を洩らした。
一章
足をとめて空を見あげ、顔で幾粒かの水滴を受けとめ俯き、石畳に小さな染みが拡がっていくのを数秒眺めていると、隣を歩いていたはずの恋人は数メートル先を歩調を緩めるでもなく歩き、待ってよ、と小さく叫んで漸く、オルドビス系から発掘されたアンモナイトみたいな化石を模したのか、それとも本物か、あの時はわからなかった敷石の上に、誕生日に送った新品同様の白いバッシュは行儀良く並び、大股になった私のスニーカーの微かな足音が近づくと再び動きだす。
平らかになるよう何か透明な素材で表面を包まれた敷石のアンモナイトの化石のようなものには、殻に何者か、勿論古代の生物に食いつかれたような痕跡があったので、本物かもしれないと思ったのを、あれは複製、と複製などであるはずのないのに、短く否定した聖の後を追いかけて、普段より急ぎ足になった駅の利用者の一人になり改札を通ると、雨足が強まるのが聞こえ人の疎らなホームに入ってきたあまり本数のない、それでも収益率の低そうな電車に乗り、乗降口の硝子に映る濡れたうちに入らない前髪を気にしていた隣で同じように前髪を指でいじっている瞳は、確かにガラスに映る彼と瀬羅を合鏡のように映していたが、唐突に視線を網棚に移動し、それを追うと重量で僅かに沈む黒い銃身が目に入り、SIG/SAUER MODELP3291かなと首を傾げると小さく当たりと言い手を伸ばして、確かに3291と刻印された銃から.40S&Wを収納したマガジンを抜き、スライドを引いて弾薬が装填されていないのを確認すると銃口を覗き異物の有無を確かめ、グリップを九本の指でしっかり握り腰を落とし、反対側の乗降口の硝子に映る自らの額に照準を合わせ、静かにトリガを引きハンマーを落とし、三度ストロークを確かめてマガジンを入れ、初弾を装填し再び腰を落として自己の額に照準を合わせ、次いで隣の腰を落とした聖より高い位置にある瀬羅の半分前髪に隠れた額をポイントすると、やめてよと瀬羅が半歩離れても銃口は寸分の狂いもなく動きに追随し、硝子の中で微かに唇をつりあげる笑みを浮かべると静かに指をトリガにかけ、やめてよ、ねえ、やめて、虚像ではなく実体に銃口を向けられているかのように脅えさり長い髪に隠れた背中を硝子に押しつけても、照準は虚像の瀬羅から外れずに、小さく聖は、もう邪魔だと唇を動かし声を発しはせず静かにトリガを引いて、轟音と共に発射された弾丸が額の中央を撃ち抜き、マズル・フラッシュと共に闇へと消え、瀬羅が硝子の中で吹き飛ばされ額から少量の血を流し確かにこと切れるのを見届けると、聖はP3291を硝子に投げつける。
硝子が派手な音をたて割れた。
階下で割れた硝子か何かの音が殆ど聞こえる訳はないのに、その音で目覚めたのだと思い、今は短い髪をかきあげる動作をし小さく「なんだ」と呟き、唇はその続きを綴ったはずが声にはなっていなかった。枕元の巨大で古典的なデザイン(銀のずんぐりしたボディと巨大な振動する鈴に、厳格なギリシャ文字の文字盤がミスマッチではあるが)の、目覚まし時計を両手で抱え顔の前に持ってきて、針が午前六時を指しているのを目を擦りながら確認し、それを元の位置である枕元、パイプ・ベッドに横付けした小さな台に置き、昨日読みかけた、常用ではない漢字が多数含まれる文章と基本の型を示すイラストをプリント・アウトした紙の束が、無残に床に散乱した状態にあるのが目にとまったものの、音の正体を突きとめようとスリッパを履き、自室をでて、廊下の突き当たりの洗面台で顔を洗ってから、エレベーターの横の半ばでUターンする階段をおり、システム・キッチンに入る。
屈んで、割れたピエールカルダンのグラスの破片を拾い、お盆に集めていたが顔をあげ、「お早う、今日当番あたしよ」と言う。「その音。タイミングがぴったりだっただけ」「そんなに大きな音した? 起こしちゃって御免」
首を左右に振るとゆっくりした動作で破片を拾うのを手伝う。
欠陥商品よね。まったく。そんなやりとりをしながら、集めた硝子片を危険物の塵芥箱に流し込んで、シンプルなデザインの掛け時計に目をやると、午前六時一五分を回っていて、キッチンでは御飯が蒸されている状態なだけだった。急がなくちゃ、とパジャマにエプロン姿の夏未が腕捲りをするのを、慌てないで、あたしも手伝うからと声をかけて、椅子の背凭れにかけてあった自分のエプロンをし、「何があるの?」訊くと、夏未は冷蔵庫を開けて「手羽先とチンゲンサイとホウレンソウにプチトマト、レタスピーマン海草サラダの素に、後はレンジでチンのクリーム・コロッケ」答えた。
「とは自宅よね」
「あたし達は週二だったのにね、体育」
夏未は不満そうに口を尖らせる。
「それだけ危険度が増したってことよ、多分感謝すべきね、あたし達が今冬華程無力じゃないってことに」
そんなもんかなぁと夏未はぼんやり返事をする。生姜を炒めてから手羽先を炒め、色づいたところで水を加えて仕舞うと、暫くは灰汁を取るくらいで手透きになったので、「二人起こしてくるから」と濡れた手をエプロンで拭いてキッチンをでる。キッチンからリビングに移動し、玄関からの廊下を歩いて突き当たりにトイレ、その廊下を挟んで向き合う二人の部屋の扉を軽く叩き、
「秋恵、冬華、朝だよ」
と心持ち大きな声をだすと、秋恵の方からは眠たげな、
「起きてる」信用し難い返事がしたが冬華の反応はなかった。再び秋恵の部屋の扉を叩き「入るよ」声をかけて静かに扉を押し開いた。
秋恵は寝台の上で身を起こし開かない目の上を軽く拳を作って揉んでいた。秋恵の小さな机は両側面の抽斗と天然木の天板が分離する構造で、上にラップトップ型のパソコンが置いてあり、フライト・シミュレーターのようなスクリーン・セーバーが立ちあがっていて、カーソルを動かしてみると3Dタイプの一見してRPGと判る画面が表示され、NETに接続したままなのが見えて肩を竦め、接続料金お小遣いからださせようかな、定額だけど、秋恵のお小遣いは月三〇〇円、回線の料金が月額三〇円だから、そう負担にはならないわよね、と呟いた。
「眠そうね、どうせ遅くまでゲームしてたんでしょ、自宅だからまだ寝ててもいいけど、授業の前にその寝癖はなおしなさい」
「ん、起きる」
秋恵は背筋と腕を伸ばしつつ欠息をする。
「あ、そうだ、進路相談の通知がきてたんだ、お姉ちゃんみといてよ」
「そう? 進路相談ってまだ直接?」
秋恵が首肯すると瀬羅は小さな溜め息をついて机の上に置かれているパソコンで走っているRPGを終了し、電子手紙のバックアップ・ファイルを開く。進路相談の趣旨と日程(御都合の悪い方は早めに御連絡下さい)が記されたそれは、六月一〇日水曜日、詰まりは一昨日から生徒の名字の五十音順に割り振られ、さ行は凡そ三日目に固まっていて、秋恵は一二日(今日のこと)の午後三時二〇分から、三〇分の予定だと伝えていた。二階の自分のコンピューターにアクセスし、週間予定表を画面に表示する。
そういえば、と予定があったなと呟くと、「デート? 実はずっと前から妖しいと思ってたんだ、でも綾さんがもう一人のお姉さんになるんなら、デート?」秋恵に大真面目に訊かれたので「秋恵」強い口調で言いつつ簡単に打った予定変更の趣旨の電子手紙を綾に送った。
「配付日二週間近く前じゃない。駄目でしょう、もっと早くみせなきゃ。まあ、いいわ、じゃ冬華起こして、顔洗ってきてね」
効き目のないだろう言葉を残してキッチンに戻ると、手羽先の醤油煮は調味料を加え煮詰める段階になっていた。
「もういいかな、お皿だして」夏未が言う。
ロイヤルクラウンダービーの器を適当にテーブルに並べ、海草サラダと茹でたホウレンソウを盛りつけ、茶碗に二人分の御飯をよそっていると、電子レンジが調理完了の合図をした。
「お姉ちゃん、御飯それだけ? この頃食事残すこと多いけどどうしたの? まさかダイエットなんてことないよね、お姉ちゃんちょっと痩せ過ぎだよ」
「ん、食欲がないだけ」
クリーム・コロッケとできあがった手羽先の醤油煮を盛りつけ終えた頃、下の二人が顔をだして、それぞれ自分の茶碗に御飯をよそり、箸を取って「いただきます」と声を揃えた。
「そろそろでしょ、秋恵の進路相談」夏未が秋恵との話を聞いていたかのように言ったので箸を休め、「母さんが帰ってこられるはずもないし、じゃあやっぱりあたしの役目か、あまり好きじゃないんだよな」言う。
「去年の平井(あたしの元担任ね)なんて完全に社会人だって勘違いしてたものね。母さんの服着てヒールの靴履いて、化粧もするから中学生には見えなくて。お姉ちゃんまた伸びたでしょ、身長、もう母さんと同じくらいあるんじゃないかな」
秋恵と冬華がじっと見つめて深く頷く。口の中のクリーム・コロッケを呑み込み唇を尖らせてその通りよと答え、お味噌汁は必要ねと呟き、確かに大人に見られる方が得だったけど、それはそれで複雑なのよ、化粧には手間取るし足は痛いし気苦労は絶えないし、疲れたわよ、秋恵はどうするつもりなの、進路、と妹の視線を振り払うように言い、時計に目をやる。
「う〜ん、お姉ちゃん達と同じ学校でいいや」
サラダからチェリートマトを分けながら夏未は渋面を作って、「やめときなよ、うざったいよあそこは、週三は登校しなきゃならないし学食は不味いしいいことないって」愛校心のもないようなことを言い、秋恵は顔をめて「そんなに邪険にすることないでしょ」と非難した。
「去年だって頻繁に間違われてたじゃない、双子でもないのに、それもこれも」
二人は同時に言った。
「夏未が成長するのが一年遅いのが悪いのよ」
「秋恵が成長するのが一年早いのが悪いのよ」
「半年ずつ早かったり遅かったりするだけだと思う」
「冬華は黙ってて、お姉ちゃんはどっちが正しいと思う?」
二人が声を揃える。煩さくない程度に水彩調の絵柄でチューリップの模様が描かれているるジバンシーのティー・ポットから同じデザインの湯飲みにほうじ茶を注いでいた動作を停止することなく冬華に賛成ねと応じ、両手で包むように湯飲みを持ってお茶を飲んだ。
「あたしお姉ちゃんみたいに生まれたかったな、ストレート・ヘアの方がいい」
僅かに癖のある髪の秋恵は寝癖のついた細い前髪(どんな寝相なのか皆疑問に思っている)を指で摘む。
「冬華はどっちがいい?」
「あたしは、今の自分に特に不満はないけど、父さんも癖っ毛だったらしいから、瀬羅お姉ちゃんの髪って確率低そう。他の造りも何となく私達と違うっていう気がする」
同じデザインに彩色の異なる湯飲みの半ばまでお茶を注ぎ、義務教育四年目の冬華は不思議なのか当然なのかわからないけど、と付け足す。
「怖いこと言うね、冬華は、でもいい勘、私だけ父親違うのよ」
手羽先に伸びかけていた夏未と秋恵の箸が静止し、テーブルに肘を付けたまま湯飲みの淵に唇を付けた冬華が大きく一度喉を鳴らして、三人は目だけで瀬羅を凝視した。夏未が引きつった笑いを浮かべながら首を無理矢理といった風に曲げる。
「お姉ちゃん、それ、初耳」
湯飲みをテーブルに置き、
「そう? 母さんからは何も聞いてないの?いい加減ね。ごちそうさま」
再び時計に目をやり、立ちあがると食器を食器洗い機に片付ける。
「急がないと遅れるわよ、夏未」
自室に戻りブルーとオフ・ホワイトの横縞のパジャマを脱いで下着姿になると、クロゼットを開け黒いパンツとチェック柄のシャツ、黒のショート・セーターを手にし寝台の上に放って、クリアBOXの中からチャコール・グレーの靴下を選びクロゼットを閉め、寝台に腰をおろし靴下を履く、パンツを穿きシャツを着たところでカーテンを開け空模様を伺い、久し振りの雲のない空に再びクロゼットを開けショート・セーターを元に戻し、黒のジャケットを着てクロゼットを閉め、再び洗面所にいき歯を磨いていると夏未が階段を駆けあがってきたのでそんなに慌てないの、と声をかけ、髪にブラシを当ててから自室に戻り、机のから初弾こそ装填されていないが六発装弾のマガジンを入れたままのBERTTA MODEL 25Aをジャケットのポケットに滑り込ませてベランダにでると、眠りにつく時も振り続いていた雨の湿気を帯びた空気はそう不快でもなく、プランターとコンテナ・ガーデンを日の当たる場所へ移動しジョウロで水をやってから庭をざっと眺め三重の窓を閉めて(スイッチ一つで開閉するから手間はかからない)黒無地のリュックを右肩に掛け一階におりる。
庭の芝が真夏の陽光を反射する水の飛沫を弾き、垣根の手前の煉瓦で囲った花壇のあまり背の高くない小さな花を沢山つけたヒマワリと白いペンキを塗った杭で半円形に囲った花壇のサルビア、ダリア、マリーゴールドの組み合わせ、ホースの先についた水量調節機から飛びだす細かな水の鎖の束に七色の光を眺めていた記憶は幻かもしれない。白い無地のTシャツにハーフ・パンツ、スポーツ・サンダルという恰好をした三十半ばの男が休日毎、決まって暑い盛りに水をやっていたら芝生がああも青々とした色を保つこともなかっただろうし、男の日に焼けていない白い首筋を伝う汗や時々手を濡らしてウェーブのある髪を後ろに撫でつける仕種も、今思うとそれ程確かなこととは思えず、まして当時今の冬華と同じ年齢だった自分が初めての夏休みの夏未の宿題をテラスで手伝いながら、男の名を呼んで極めてさりげなさそうに振り返った男に、緊張してない? と言ったことなど、幻想なのだろう。Tシャツは汗と機器の操作を間違えた拍子に浴びた水で濡れ、男のまださ程崩れていない、ただ下腹に多少中年の兆候が伺える上半身に張りついていて、男の表情が僅かに強張り、白いサマー・ドレス(男が他界してから母が着なくなったこのサマー・ドレスが男の手によって酷く難儀そうに脱がされてゆくのを目撃、或いは盗み見たのはいつ何処でだったろう)姿の買い物袋を手にした母があなた、みず、みず、と花壇のミモザの周りに水溜まりを作っている男に軽やかな声をかけた記憶の何処まてが現実で何処まてが幻想かわからない。
ほんの三ヵ月前までは瀬羅も着ていた制服、グレイのプリーツ・スカートにブラウス、紺のベスト、エンジのリボン・タイに着替えた夏未が慌てて黒のローファーを履く、じゃ、いってくるねと声をかけて門をでると、燃える塵の袋を持った向かいに住むという夫を持つ三十路前のさんに会ってお早うございますと挨拶し、お早うございます、今日は夏未ちゃんも登校なの? 中学生ともなると大変みたい、気をつけてね、という言葉に夏未が如才なく受け答えするのを聞き流す。あのミモザは枯れてしまっただろうか。
「さっきの話って本当なの?」
早足の自分の足に合わせて小走りになっている夏未が言ったので、歩調を落として、「さっきの話ってあたしだけ父親が違うって話? 多分ね、本当、本当の父親って顔も見たことないけど、母さんがそう言ったから」
夏未の横に並ぶ。
「どんな人か気にならない?」
夏未が顔を見あげる視線を感じ、笑みを浮かべてから、「気にならないこともないけど未だに話したがらないから、母さん、それにもう今更ね、父親ですって名乗りでてこられても困るもの、夏未のピアノと同じ」と応じる。「同じかなあ、あれは秋恵が使ってくれたからいいけど、代りっていると思う?」
「それは気持ちのいい言い方じゃないな、いてくれた方が気楽だけど、全然気にかけてくれてなかったってのも癪だろうしね、でも、いなくても平気な人だと思うよ」
バス通りにでる。
「そっか、お姉ちゃんだけ父親違うのか、言われてみればそうかな、名前も一人だけ季節が入らないし、あたしと秋恵が似過ぎてるだけに頷ける気がするな、でもお姉ちゃん心配しないでね、たとえ秋恵と冬華が辛く当ってもあたしだけはお姉ちゃんの味方だから、あっ、綾さんお早うございます、じゃ、気をつけてねお姉ちゃん」
「お早う。何話してた? 今」
「ん、まあ他愛もないことを。メール読んでくれた?」
「読んでない、忙しかったから、今朝、で、何なの?」
言いつつ線路の上を横切る歩道橋を登り、左腕にはめた腕時計に綾は目をやる。一本電車を逃すと次は急行の通過待ちをしなければならず遅れたくはないが、利用する私鉄の駅はほぼ平行して走るJRの線路を横切る必要があり、歩道橋には時々邪魔者が現れる。その一つを目にし足をとめ、今日の予定駄目になったと口にした刹那、ブルー・ジーンズを穿き、白地にイルカの絵がプリントされたTシャツの上にデニムのジャケット、靴は特殊素材のスニーカーという出で立ちの綾は「伏せろ!」普段通りジャケットの下に隠していたZASTAVA MODEL Cz175をコンマ一秒で抜き、歩道橋を歩いていた疲れたスーツを着たサラリーマン風の男、夏未と同じ制服の中学生の男女(友達か恋人同士かはちょっとわからない)、派手な服と化粧の若い女性(仕事帰りの水商売だろうか)、といった面々が綾の声と、綾の銃口が向いているものに気づきフェンスに背を付けた。綾は舌打ちし、初弾を装填し前方五メートル空中に出現したソフトボール大の黒い球体を撃ち抜いた。
「こんなのが日常茶飯事じゃね、でも、基本がなってないけど、あ、順番間違えた」
とZASTAVAを突きつけて呟くと、綾は、「9mmと6.35mmじゃ分が悪いよ、で、理由は?」と笑顔を見せた。
「秋恵の進路相談、去年の夏未の時と同じであたしがいかないとね、そのすぐ銃口人に向けるのいい加減やめたら? 殺意があるかないかなんて、一目わからないんだから」
停車しない下り列車が足元を通り過ぎる音が聞こえる。通路に落ちた球体は割れ内部の粘性の低い液体を吐きだし、墨のようなそれが割れた球体を囲むように拡がると球体は底のない穴に落ちた如く消え、液体は見る間に蒸発した。
「装填されてない25でも脅しにはなるか」
綾は歩きながらマガジンを抜き、装填された弾薬を排出、再度マガジンに詰めマガジンを入れて、ZASTAVAをホルスターに戻した。ポケットから手をだす。ホームで電車を待つ人の中に中学生時代の知り合いをみつけて、
「お早う」と綾が声をかける。
「お早う」と声を返してきた。
停車する六両編成の上りと下りの電車がほぼ同時にやってくる。乗車した途端綾が小さな声をあげたので、「どうかした?」と声をかけて綾の視線を辿ると、向かいのホーム、すぐ隣に停車中の電車の乗客に聖がいた。
期待していた春休みが完膚なき空振りに終わったことを責めるべく待ち受けていたホームには現れなかったので、(勿論こんな大して人のいない場所で見落とすことなどないから、先の電車に乗ったのかな、随分早くにでたつもりだったけど)慌てて入学式に間に合う最後の電車に乗ったが、多分三年間通うことになる県立高等学校でも姿は見られなかった。結局、入学式の成果は聖がA、綾がB、瀬羅がFという組に振り分けられたこと、F組に同じ中学出身の生徒は三人いたものの、皆名前を知っているという程度でまた新しく友人(?)を作りなおさなければと認知したのみであり、朝鏡の前で(絶対、許さないんだから)入れた気合は虚しかったな、と奇妙な脱力感に捕らわれて綾と二人、駅からの歩道橋をおりたところに聖は立っていて、入学式どうしたの、と訊く前に「別れよう」と言われ、その後に続いた確証的な言葉以来、声を耳にしていなかったし姿も目にしていなかった男の背中を二枚の硝子を隔てて見つめていた時間は、数秒のことだった。名前を呼ばれジャケットの袖を引っ張られて顔を下に向けると、瀬羅、大丈夫、座ろうよ、と綾に言われ、言われるままに座席の端に腰をおろす。
クリスマスのネオンが視界から遠ざかってゆく電車の内部には、三両編成で普段から空いてるけど、何故だろう、二人しかいない。一車両に六つあるモニターに流れる『明日の天気、注意報、新発売の家電製品(海馬の働きを増進します)、厚生省認知一粒で脂肪を五〇〇グラム燃焼する錠剤、クリスマス・プレゼントに特化した宝石、等のCM、スポーツ速報』を見あげていた聖に、椅子に腰掛けた瀬羅は、座らないの? と声をかけ、疲れてないから、と短く答えられ何故か恥ずかしくなって立ちあがった。
あれ以来かな、手、震えてる「平気、もう、立ってられる」手すりに背を凭せかけ窓の外を見る。電車は三つの駅で停車し、次の駅で最寄り駅には停車しないJRに乗り換えだった、駅間は一分程だ。
「お早う」
左手で釣り革を(あまり余裕があるとは言えない)掴み、右手に単行本サイズの出力専用端末を持ちショルダー・バッグを肩からさげる、オフ・ホワイトのジーンズと長袖Yシャツといった、中学一、二年生に見えるに二人は声をかけた。隆司は顔をあげ、二人の姿を隣の乗車ドアの付近に確認すると「お早う」と何処かに固さの残る声で挨拶しNETWORKに接続されていない、多分中には食事のメニュー、瀬羅が見せてもらった時は過去三ヵ月の家族の食料事情が、カロリー計算は勿論食べ合わせや有害物質の推定含有量をも含めて入力されていた端末の電源を切って鞄の中に仕舞い、頬の辺りが強張った笑みを浮かべた。ドアが閉まり、電車は僅かな振動を伝えながら走行する。次の駅で下車、瀬羅と綾は乗り換えてすぐ降りる感覚で、停車しないJRに結局は乗り換えて微妙に憤りを感じるし、乗換するくらいなら歩いていった方が早いこともままあり、一時限目に、一キロ少々を早足か駆けることなく間に合うようにするには、この車両に乗らなければならない。電車に乗ってから、乗換え、電車を降りるのに三六分かかるのだが、乗車時間は十分弱であり、この車両に乗るとHRの一五分ほど前に教室に着くことになる。でも隆君の場合乗り換えなくていいんだから、もう一本遅い電車でもいいはずよねと世羅は呟いた。
乗車率は約六割、その三割は県立成咲高等学校の生徒が占めている。制服がないので部外者が近寄り難い雰囲気は薄れているが、奇異に映らないこともない。成咲高校生徒に登校が義務付けられているのは入学式、卒業式、始業式、テスト、終業式等の行事の日のみで、授業はNETWORKに接続した双方向通信の可能な端末さえある場所なら何処で受けても構わない。平常登校する生徒は三割程度の為、御近所の成咲南高等学校が廃校になって以来電車はいつも(行事のある日は除いて)空いていた。
大抵は数人で集まり、他愛もないお喋りをしている生徒の中で一人、椅子に座り俯いて白いレースのハンカチで口許を抑えている少女(白のブラウス、青いチェックのティアード・スカートからペチコートが覗いている、白い靴下と青い靴、何処となく初々しさが残っているから一年生だろうか)に、瀬羅は気づいて歩み寄った。
「どうかなさいましたか?」声をかけると、綾と隆司も少女の周りにやってくる。
反応はなく、答える余裕もないくらい具合が悪いのかなと瀬羅が綾と隆司に意見を求めようと視線を向けた時、少女の口から低い、細い首と滑らかな喉からあり得ない低く嗄れた呻き声がもれ、黒目勝ちな二重の目が見開かれ頬がこけてゆき頬骨の線が浮きでて、何かに押しだされて眼球が落ち新たに青い球体がを埋め、目の周囲に皺が寄り青い球体に亀裂のような筋が走り中心で縦に裂ける。
隣に座って音楽ソフトを聴いていた、袖の部分がシー・スルーの白いスーツ(上等の代物だけど、日焼けしていてとても似合っているとはいえない)姿のOL(オフィス・ワーカーというべきかもしれないが、そうするとオフィス・ガールと断定してしまいたくなるのでやめておこう)がその変化に気づき、悲鳴をあげて立ちあがる。呻くような声は唸りに変わり、車内にいた者全てが少女の変化を視認する。OLのように悲鳴をあげる者はいない。
少女だった者は立ちあがる。髪の毛が動き、伸びて全身に絡みついて鋭利な刃物になっているのか服と靴を寸断し裸体を露にする。裸体は蠢いている。肋が突きだし腹が凹み背骨にそって剣竜のような鋭利な骨が露出し、口が開くと牙が形成されている。耳は収縮しこめかみの辺りから角のようなものが生えた。肋が皮膚を突き破る。肋は発達し互いの隙間を埋めた。髪の動きが激しくなる。髪は幾筋かに纏まり両腕に巻きつき、そして変形する。あるものは手首から突出する刃となりあるものは関節を守る防具となり鋭利な爪と化す。
「瀬羅!」
綾が叫ぶ。凶器と化した腕が瀬羅の顎目掛けて正確に突きあげられた。瀬羅は咄嗟にバック・ステップを踏みながら首を捻っていた。左頬が僅かに裂ける。綾がZASTAVAを抜き、隆司はBERTTAを抜いた。他の乗客も武器を携帯している者は既に少女だったものを標的として捉えている。それは、まだ変形を続けていた。皮膚が金属光沢を帯びてゆく。頬骨が発達し顔面を覆うフェース・ガードとなり、蛇のように細く長くなった舌が素早く出入りする。
足の指が伸び爪が発達して、踵に刃が生える。そして吼えると同時、跳躍した。先程のOLに飛び掛かる。OLは38口径のリボルバーを手にしていた。爆音三度、初弾は窓硝子に穴を穿ち、後の二発は胸部に命中した。四発目が放たれることはなくOLの首が床に落ち、続いて首無しの死体が倒れた。
「家計が」
跳弾が腕をかすめシャツが駄目になった隆司が呟く。多分同じ高校の生徒、長身の瀬羅より頭一つ高く格闘技かウェイト・リフティングでもやっていそうな男子が、化け物と無工夫な叫び声をあげ銃を構えるのに瀬羅は気づいた。
『まさかTURNING TRICKSTER、この状況で』
DESERT EAGLE 50AEの発展形の、名称を全く反映しない威力の狂銃を使いこなす素材であるかもしれないが、今使いこなせると期待はできそうもなく、瀬羅はジャケットのポケットに手を入れ普段煙草は吸わないが所持しているライターを掴みそれを投じた。手の甲に命中しセーフティーがかかったままの五〇口径銃が落ちた。暴発はせず、「銃は使うな」スーツ姿の四十男が鋭く場を制した。社内の穏健派といった風の整ってはいるが柔和な顔立ちの男は両手に重厚かつ鋭利なナイフを握っている。少女だった者はその男の方を向いたが興味を持たなかったのか男の狙いを察知してか即座に次の獲物、武器を持たない若い会社員風の男に突進する。反応できない男を嘲笑するかのように長い爪で大腿部を貫いて、絶叫する男の首を締める。
綾が動く、床に転がったTRICKSTERを拾い、
「いてっ」
少女だった者の頭に照準を合わせ、トリガを引いた。次の瞬間綾の両腕は天井に垂直になり、巨大なマズル・フラッシュと爆音と共に発射された弾丸は、異形の生命のフェース・ガード、耳があった辺りに命中している。異形は吹き飛び車両前部の壁に叩きつけられるも「生きてるぞ」効いた様子なく跳ね起る。「銃は無駄ってことか」
綾は狂銃のマガジンを抜き装填された弾薬を抜く。サバイバルナイフの男が前にでて、
「近寄るなよ」残りの乗客を車内の後方(既に半数は隣の車両に移っている)に追いやり異形と相対する。一足で間合いを詰め正確に首筋を狙ってきた異形の一撃を左のナイフで受け流し、流れるような連続技の異形の蹴りを右のナイフでブロックする。
青い空に白い雲、夏休みの終わりの日は暑く、照りつける太陽の光を反射しない訓練用模擬ナイフの刃が合わさり、不意打ちの積もりが最初の攻撃を受けとめられては、力に劣る瀬羅に勝ち目はないのだが、日に当たると「常夏の国の海の色」に見えると夏未が言ったワンピースが翻るのも構わず上段蹴りを放ち、空を切った蹴り足を地に付ける前に背後から目の前に突きだされたラバーの刃に瀬羅は首筋を差しだし、死ぬぞと耳元で囁く聖に殺してと答えると聖は離れて、短い方が似合うかもしれないな、髪と言い「そうかな」振り向いた瀬羅にもう一度、と腰を落としナイフを捨てた。
異形の攻め、男の受けが続く電車は減速する。男が体勢を崩し異形の右フックをナイフで受け損ない異形の拳は男の左二の腕に深く食い込む。
手加減なしの攻撃を素手で悉く受け流しその上攻撃は仕掛けてこない聖は、瀬羅が動けなくなっても呼吸を乱さずに─砂浜に座り込み荒い息を付く全身から吹きでる汗は常夏の国の海の色を暗く、胸元や腰の辺りは特に、染めていた─瀬羅のひかがみと脇の下に手を廻し抱きあげ、岩影におろして合格だよと依存性のある植物の名を冠した炭酸飲料の缶を首筋に押し当て、声をあげた瀬羅に理由もなく声を立てて笑う。
左のナイフを落とし呻く男に異形は大きく裂けた口で笑みを作り、善戦した獲物に敬意を払うとでもいうように五指の全てが鋭利な刃物と化した手を男の眼前で蠢かす。男は懸命に左腕の自由を取り戻そうともがくが外れる気配はなかった。瀬羅は落ちたナイフを拾い立ちあがり様、異形の目に突き刺した。異形は刹那状況を把握しかねてか動きをとめ、絶叫し自己を傷つけた警戒すべき相手を睨み右腕を振る。振り回された男は放りだされ乗降口のドアに体を強かに打ちつけた。ナイフを抜きもせず異形は丸腰、ジャケットのポケットにBERTTA M25Aがあるだけの瀬羅を凝視する、椅子に座り俯いて白いレースのハンカチで口許を抑え、白のブラウス、青いチェックのティアード・スカートからペチコートが覗いている、白い靴下と青い靴、何処となく初々しさを感じた少女だった者を見据え、「斉藤さんっ」隆司を右手を水平にあげ掌を後ろに向けて制し、瀬羅は異形の背後に立つ綾に頷いてみせた。綾はドアに打ちつけられた男に肩を貸している。電車が停止し、開いたドアからホームにおりる乗客と入れ代わるように車内に風が流れ入る。
『気づかれたか』
目標は駅の改札を通るとすぐ立ちどまり人指し指を口許に当て小首を傾げ、何事か小さく呟いて転身し、定期を使って改札を通り階段をおりて、駅からすぐのスーパーに入り缶ジュース一本とチョコレート三枚を買い外にでて、駅から遠ざかる方向に僅かに歩くと右折した。下校中の近頃珍しい学ラン姿の中学生が四人道に拡がって立ちどまっている横をすり抜け次の角を右折、小さな美容院と郵便局のCD設置所の前を過ぎて右折し、駅前に戻っていた。駆け寄って肩を叩く。
「先輩」は振り向くなりステンレスの銃口を突きつけた相手が高校で所属する演劇部の部長であることを知り、慌てて銃(MAUSER MODEL 140P COMPACT)を胸のホルスターに戻す。肩をすぼめ目を丸くしてみせた。「済みません、誰かに尾行されてたので、つい」誰かって私? と苦笑しながら訊くと子供のように頭を左右に大きく振って、「男の子でしたよ、身長は先輩くらいかな、白いパーカー着てベースボール・キャップ被ってました」声を落とした。
「夕香が好きだとか」
「そんな相手に好きになられてもなぁ、子供だし」
顔が笑っている、子供だろうと何だろうと悪い気はしないのだろう。
「あっ、それで何か御用ですか?」
セーフティーがかかったままの拳銃を突きつける程怯えていたのに、意図のない言葉で納得してしまったらしい。
『尾行に気づいたのは良かったが、知り合いを見て安心したか、高校生だな。たが、そんな高校生に勘づかれるとは、本当に平和惚けか?』
「今度の演目のことでちょっとね、時間あるかな」
演劇部で夕香は脚本を担当している。古典では冗長と思われる部分をカット(邪道とばかりも言っていられない)したり時代的、文化的に理解し難い箇所を手直しもするが、脚本家(の卵)の見せ場はやはりオリジナルになる。夏休み中旬に上演(体育館でNETWORKにも流れる)するオリジナルの脚本を、夕香は先日書きあげたばかりだった。そのシナリオを採用すると決定してはないので、表情を相当に硬くして、はいと頷いた。
「じゃ、ちょっと歩くけどいい場所知ってるから、ついてきて」
駅前から商店街を抜けて五分、注意して歩かなければそうと知れずに通り過ぎてしまいそうな、こぢんまりとしたブティックの前で立ちどまる。狭いながらも歩行通路を曲線にした庭があり、庭は通路を除いて花屋だろうかと勘違いしそうなくらい色彩豊かに多様な花を咲かせた植物が息づいている。建物は煉瓦造り(に見える)の三階建てで、キュービズムを高らかに唱うような形状をしている。ショー・ウインドーはなく、コンテナ・ガーデンに彩られた出窓はレースのカーテンがかかってい、店名を刻んだ玄関の小さなプレートは道からではよく見えない。
「ここ、こう見えてもブティックなんだけど、無料の休憩所もやってるの、常連客がたまにくるくらいだから、落ちつけるよ、だいじょぶ、オーナーと知り合いだから」
青木夕香は曖昧な返事をし気乗りしなさそうに後ろを歩いている。
『boutique mort soudaine』プレートを声にして読む。
夕香は意味までは判らないのか小首を傾げ(癖だろう、ポニーテールが揺れて中々似合っている)た。頓死という意味のフランス語、店名からして経営者の商売っ気のなさと変人振りが伺える。ドアを押し開いた、呼び鈴のcowbellが何処となく長閑な音をたてる。
「いらっしゃい、あ、真紀ちゃんか、今日はお客様かな」
カウンターに肘を付いてチェス盤を凝視していた男が声をかけた。男は二十台後半に見える。細い顎と程良い高さの通った鼻筋に二重の目、ウェーブの強い髪は細く柔らかそうに伸びており、華奢な印象の男に夕香は見惚れていた。
「そだね、三千円くらいならだせるかな。お茶でるんでしょう」
店内はカーテンを通して射し込む光と反射を利用した間接照明の穏やかな明るさに包まれ、以前は喫茶店だった(今でも半ば喫茶店だ)ことを示すように部屋の隅のカウンターの後ろの壁は食器戸棚になっていて、大掛かりなウォーター・ドリップの器具やパーコレーターやサイフォンやコーヒー・ミル、様々な種類のカップとグラス類(タンブラーとかゴブレットとかブランデー・グラス、シャンペン・グラス等)と、ワインやウィスキーやブランデーが陳列され(ブレンドには過剰な量は、バーも兼ねているのだろうか)ていた。男は邪気のない笑顔を返し、
「紅茶とコーヒー、どっちがいい?」
夕香に尋ると、
「あの、コーヒーを、お願いします」
少しかすれた声を受けて楽しそうに豆を拿き始める。
「素敵なお店ですね、それにさっきの店員さんも」
夕香が耳打ちする。
歳の割には浮足立った言動がなく物静かな印象があったので、夕香の言葉は少し意外な気がした。窓際で小さな白いテーブルと二脚の椅子が陽光に包まれ、オリジナル・ブランドの服が並ぶ店内は不思議と違和感がない。そのテーブルを指し示し背凭れの部分は硝子にイタリックの文字が刻まれたアンティークの椅子に座る。
「はオーナーよ、ついでにデザイナー、でも妻帯者だからね、ま、それはいいとして夕香のシナリオだけど」鞄からノート・パソコンを取りだし立ちあげて表示した。
「シナリオ全体としては合格点をあげる。NETWORKの魅力に取り憑かれた人間がNETWORKこそ望む場所だと考えて、現実世界の自己の存在を抹消していき、最後に望み通りNETWORKのみに存在する者となる。決して新しい素材じゃないけど起承転結もしっかりしてるし、テーマも明確ね。演出に難があるのはこっちで手を入れるから」
功亮がコーヒーとクッキーをテーブルに並べ、「冷めないうちにどうぞ」声をかけ画面を覗き込む。
夕香が俯いた。恥ずかしいらしい。
「ほんとに冷めないうちに飲んだほうがいいよ、コーヒーだけは美味しいからね、ここ」
クリームが浮いているので砂糖は入っていると判断し、そのままカップに口をつけ嘗めるように飲むと微かにブランデー(コニャック)の香りがした。『グロリアが好きだなんて、まだ覚えているか』クッキーにも手を伸ばす。夕香も特に疑問を持つでもなく追従するようにコーヒーを飲んでいる。
「私が気になったのは危機感の欠如。現実から消える少女ではなく少女を好きな少年の、ね。彼は少女が世界から消えてゆくのを知っていた、そして彼は世界で上手くやっていければいいと願っていた、だから彼は少女を世界に繋ぎとめようと色々手を尽くすわ。でもね、それを認めさせるには危機感が足らないのよ、このシナリオは少女が消えてしまうことの上に成り立っているけど、彼はその引き立て役のみで人ではなくなっている」
話していくうちに青木夕香の目に脅えが宿るのがわかった。
「せん、ぱい?」
恐れ戦き、椅子を倒して立った夕香の両肩を功亮が押さえた。功亮の口許から笑みが消え、いや、消えてはいない、柔らかな笑みが冷たく、それでいて欲望に染まったものにわっていた。
「嘘、でしょ、先輩。冗談、ですよね」
コーヒーを吐きだした。
「そんな、そんなことって、やだあっ!」
功亮が口を開いた。息が夕香の首筋にかかる。
「功亮」
平静な声に功亮の口が閉じた。
「が先じゃ、承知しておろうが」
立ちあがり、震えて腰砕けになった夕香に歩み寄る、ゆるりと。
「お願い、許して……。何でもいうこと聞くから、だから、やだ、こないで、誰か、あああっ」
白い首筋に唇をつける。途端夕香が恍惚とした表情を浮かべたのは、疑うべくもない。
「様、私にも」
「わかっておる。そちはそちらを吸えば良いじゃろう」
功亮が深い笑みを作る。鋭い牙が見て取れた。
危険地帯ならともかく、人間、或いは人の形をした者が異形の生命に変身し無目的な殺戮行為に及んだのは希有な事件であり、事情聴取から取り敢えず開放されたのは午後二時を回った頃だった為に、警察署から地下街を一〇分歩いた駅を利用して帰宅すると午後二時五〇分、秋恵の進路相談は忙しく、学校へ歩いて九分かかり二〇分以内に支度をせねばならず、朝妹達の前で、嬉しくもあるしショックでもあるようなことを言ったものの、やはり大人と思ってもらった方が好都合で、していこうと考えていた大人らしく見せるメーキャップをするのは諦め、ストッキングを穿きシャツを無地の物に替え、母の部屋の宝石箱から借りた小さなダイヤの入った一八金の指輪をし、一四の、母と同じ誕生日に届いた、小さな、血の色をしたルビーが控えめに存在を主張している金のイヤリングをしただけで、母の靴を履こうとすると履けなくなっていて渋面を作り、『最近靴が少しきついとは思っていたけど』、数秒悩んだ末結局ヒールのない靴を履き秋恵と一緒に家をでて、どうやら社会人と勘違いされたまま(どうして家族構成くらい頭に入れておかないのだろう)進路相談を終え、秋恵と並び正門から学校の敷地の外へでてほっと息を付いた。
どうして年齢誤解されるような恰好するのと言う秋恵に、母の代役をやるにしても高校一年生、選挙権もなく結婚も認められていない子供だなんて思われたら、まともに話しちゃくれないものと小声で答え、仮に二年後冬華の時もこうなるのだとしたら化粧の練習くらいしておこうか、年齢的に本当に薄化粧でいいのだから、そんなに手間もかからないと思い、帰宅し指輪をケースに入れて元の場所に戻しNETWORKの化粧品宣伝を眺めていると、綾から電話があり、『遊びにいっていい?』「ええ」『じゃ、いくね』と極短い会話をしてから、ジャケットをクロゼットに戻しストッキングも脱ごうとパンツを椅子の背凭れにかけた時ドアをノックする音が聞こえ、誰と瀬羅は声をかける。
「あたし」というのは冬華だった。
「何? 鍵掛かってないよ」とドアの向こうに言うと静かに躊躇い勝ちにドアを開けて「いいの?」入って構わないのかと訊く。
「姉相手に何遠慮してるのよ」と椅子に腰掛けストッキングを脱ぎながら顔を見た。
「だって、家族にだってプライバシーがあるでしょ」半ば口籠もるように言うので、「そりゃプライバシーはあるけど妹に下着姿見られるくらいどってことないから、あたしは、冬華は繊細っていうか気にする方だろうね、で、普通は姉が妹に言うことでしょ、それでどうかしたの?」パンツを穿く。
「今朝話してたこと本当なのかなって気になって」
「本当だと何かあるの? 家族と認めないからでてってとか?」
椅子に腰掛けたまま冬華と同じ視線の高さで茶々を入れると珍しく頬を膨らませ、「子供って、そういうこと言われると冗談だって思っても本気にしちゃうんだから」、と腰に手を当て、子供らしくない、要するにこましゃくれた態度で詰め寄り、間近に迫ってきた小さく薄い唇に瀬羅は軽く唇を寄せる。頬を朱に染めた妹に「戦メリ戦法良く利くんだよね冬華みたいなタイプ」と肩を竦めてから、ひょっとしてファースト・キスかもしれないと気づく。冬華はすぐに正気になった。
「そうやってすぐ自分のペースに引き込もうとするのって、他人のペースに乗るのが怖いからなの?」
頷いて脱ぎ捨てたストッキングを手に取り丸めて塵芥箱に捨てる。
「本当に怖いくらいに鋭いな、冬華、朝の不満がないって言葉嘘なんでしょう、伝えたいことを言葉にしなさい」白の靴下を履いた。
「あたし姉さんのこと好きなの、昔から姉さんに憧れて姉さんみたいになりたいって思ってたし、そうなれるんじゃないかって考えてた、でも」
と真っ直ぐ瞳を覗き込むような視線の無表情な冬華の言葉尻を受け、「でも父親が違うとあたしが言った、だからその考えは間違っていたんじゃないか、それは馬鹿な考えよ」そう表情を殺して見返すと冬華はそっと下唇を噛み目を細めた。高校生の部屋にそぐわない灰色の無骨なスチール・デスク、その二段目の抽斗からセラミクス・フレームのオートマチックを手にし、スライドを引いて弾薬の装填されていないことを確認した。銃口を冬華の額に向ける。(やめてよと瀬羅が半歩離れても銃口は寸分の狂いもなく動きに追随し、硝子の中で微かに唇をつりあげた笑みを浮かべると、静かに指がトリガにかかり、やめてよ、ねえ、やめて、虚像ではなく実体に銃口を向けられているかのように脅えさり長い髪に隠れた背中を硝子に押しつけても、照準は虚像の瀬羅から外れずに、小さく聖は、もう邪魔だと唇を動かし声を発しはせず指が静かにトリガを引くと、轟音と共に発射された弾丸は額の中央を撃ち抜き、マズル・フラッシュと共に闇へと消え、瀬羅は硝子の中で吹き飛ばされ額から少量の血を流し確かにこと切れて聖はP3291を硝子に投げつけて、硝子が派手な音をたて割れる)小さく細いたやすくれてしまいそうな、実際に指を巻きつければ片手だけで事足りる、白い首を震わせ左右に振る冬華の前でスライドを引きトリガに指をかける、静かに引いた。
スライドが動き、当然カートは排出されず弾丸は発射されない。
「弾薬の入っていない銃ははったりにしかならない。冬華、あなたとあたしは似ているの、そこに勘違いしないこと、撃とうとして弾薬がないのに気づくのは、辛いわ」
「考えとく、ところでお姉ちゃん、あたしの初めての接吻を奪った償いは、してもらうから、覚えといてね」と釘を刺し階下におりる妹の足音に耳を澄まし、姿見の前に立ち銃を構えて、静かに八度トリガを引いた。
「死ぬかと思った」
借りたメタリック・シルバーのヘルメットを突きつけ安堵の溜め息とともに言うと「安全運転してたよ、瀬羅が一緒だったもの」白地にピンクのラインの入ったレーシング・スーツ姿の綾は平然としている。週末の金曜日駅北の国内大手電気メーカーの工場を中心に発展した街は、駅の南部(線路が南西から北東に走っているのを境にして南)に関してはほぼ放射状に道路が発達し、歩行者も通行車両もかなりの数になるのに、北部の工場地帯は危険地帯に指定され工場が閉鎖になって以来閑散としており、その老朽化した施設を撤去さえしていない工場跡地に自動車やバイク、稀には自転車が駐車されている元社員駐車場がある。自動車はファミリー・カーやスポーツ・カー、高級セダン、廃車寸前から新車、バイクの方もポケ・バイからリッター・クラスまで、ガソリン・エンジン、高圧縮水素、電気など様々な車種が二百台あまりは駐車してあるだろうか、綾は500CCクラスの電動二輪車を空いていたスペースに置いた。新たに入ってくる車両もでてゆく車両もないが、何処にいたのか、鳥打帽を被り防弾ブルゾンにダーク・ブラウンのボトム、黒い革靴という出で立ちの四十男が近づいてきて、綾が紙幣を一枚渡すと睨むように一瞥し、まあ気をつけなと言いコルス544mk3(奇妙な名前だと瀬羅は思う)という五年前の型の赤いツー・シーターの影に、月明かりに生まれた影に沈むように、消えた。駐車場の管理人、ということだろう。無論自主的なものだけど、信用商売だからな仕事はしないはず、と綾は言い、フル・フェイスのヘルメットをハンドルの両側に引っかけ歩きだすので、ついてゆくと人気のない工場跡に一棟だけ明かりが点き怒声や罵声或いは歓声が聞こえてくる建物があるのがわかった。その建物、旧体育館の入口に立ち、卑猥で無個性な落書きだらけ(良く観察すると天皇制反対の文字や何年か前に放映されたアニメのキャラクターなども少数見受けられた)の玄関の厚い硝子の前で綾の腰より太い腕を組んだ上半身裸の黒人にチケットを渡し半券を受け取って、中に入り周囲を見回す。あちこちの床板が踏み抜かれ、壁には幾つもの穴が開きバスケットボールのリンクにも厚く埃が積もる体育館に、集まる者達の大半は十代前半から二十台の男達であり、綾と瀬羅の存在に気づいた者は口笛を吹いた。小学生くらいの少女も何人かいるが、男連れでないのは珍しく、殊に自分達は目立つと自覚している瀬羅は決して心地よいとは言えない視線を無視し、
「本当にこんなとこにいるの、君」
と綾に囁くように尋ねた。
「そう聞いたんだけど」
綾は人の輪の中に恋人の姿を探す。一六歳にして一九〇センチ近い身長のは普段なら人込みの中でも簡単に見つけられるが、ここに集まる男達の大半はその程度の身長はあり、一八五を下回ると小柄と見做される集団だった。あの中に入っていくのは、気が進まないな。滅多に持ちだすことのないS&WM45561にホルスターの上から軽く触れる。ストッピング・パワーに問題はないものの装弾数は8、脅しにしか使えない。『使う積もりもないけど』人の輪に向かって歩いた。
「来る場所間違えたんじゃないのか、ここじゃそんな脅しにも使えないぞ」
年齢二二身長一八五、といったところのインディゴ・ブルーのジーンズに白いTシャツ、髪を短く刈り込み金色に染めている。
「有り難う、でもあなたみたいなのと殴りあいにきたんじゃないから、ただの見物」
無表情に応じつつ声をかけてきた男を観察する。全うな方ね、この中では。
「だったら上にあがりな、下よりゃましだ」
二階に設けられた観客席にも人はいる。普通サイズをオーバーした者達ではなく、高級ブランドで武装した中年女性に大学生風のカップル、中年の冴えないスーツを着た男、その四人のみだ。
「あの中に知り合いがいるはずなんだけどそうした方が手っ取り早いみたいね」言い、綾と階段を使って観客席にあがる。男達が作る半径一〇メートルばかりの輪の中で二人の人間が闘っていた。素手とアーミー・ナイフの闘い、飛び道具以外の武器に制限はないらしい、ストリート・ファイトに近い。素手の男はボクサーで、遠い間合いで軽くステップを踏み中指を立て挑発するものの、ナイフの男は両腕を下げたまま眼中にないという態度を崩さない。素手側としては先に攻めさせたい。先手必勝の喧嘩も間合いの遠い武器相手では拳が達する前に刃物が体をる。相手の攻撃を躱し懐に飛び込み勝負としたいのだろうが、ナイフの男はその心理を熟知している。この状態が続けば素手側が体力を消耗するのみ、素手側が直線的に間合いを詰めた。拳はかなくともナイフは達く距離、白刃がきらめいた、胸の中央を狙った突きが速い。素手の男が体を沈め刃は頬を深く切り裂く。ボディ・ブローが決まる。男の体が浮いた。勝利を確信した凄惨な笑みを素手の男が浮かべ左拳をテンプルへ打ちおろす。
「作戦は良かったけど腕が伴わなかったってとこかな、あのボクサー崩れ強いと思う?」「相手が弱かっただけ」答えて俊樹の姿をみつけ綾に教える。ボクサー崩れは続けて闘う意思を示し人の輪の中心で軽いシャドーをしていた。頬から派手に血が流れ持久戦になれば影響があるだろう。
「連勝すると賞金が増えるそうだけど、興行してはいないそうだしどういうスポンサーなんだろ。牧村君やるみたいよ」
俊樹がボクサー崩れの前に進みでて、二階の綾と瀬羅に気づき親指を立てる。
「何か強烈に勘違いしてるなぁ」
綾がぼやいた。
「あれが相手なら大丈夫よ」
と気楽に保証し、俊樹に手を振ると周囲の雰囲気が険悪になるのが見て取れ、綾に睨まれて肩をすぼめる。
「勘違いよねぇ」
ボクサー崩れが先程ファイナル・ブローを決めた直前の表情を浮かべた。俊樹を与し易しと判断し、片腕を突きあげ人指し指を立てる「一撃かな」と綾が訊いてきたので「一分でしょ」と訂正した。本当のことなどわからないが、関係ない。
「舐められたね、俊樹」
綾の言葉に頷く。無理もない、俊樹は身長こそ一八八センチとボクサー崩れに見劣りしないが、黒のジーンズとネイビーのギンガム・チェックの長袖シャツの上からでも細いとわかり、そして若く不気味さもない。
俊樹は面白くなさそうに間合いを詰める。上段廻し蹴りをガードの上に叩き込みボクサー崩れを浮かした。顔色を失い距離を取ろうと後退する男に詰め寄り下段蹴り。男の足がとまったところに同じ箇所に蹴りを振りおろすとボクサー崩れは膝から落ちた。
「まだ続ける積もりみたいね」
仲間に肩を借り人の輪の外にでる敗者に冷たい視線を送り、俊樹は首を巡らせ新たな挑戦者を待つ。ウォーミング・アップにもならないような闘いの後に『体力の消耗はないだろうけど』意識して眉根を寄せる
「調子に乗ってるのかな、本当に強い相手がこないうちにやめないと、危ないわ」
綾は頭を抱え「あっの馬鹿」呟いて座席を蹴ったかと思うと手すりから身を乗りだし、瀬羅と短く注意を促す。
新たに俊樹の前に立ち閉かる、『冗談でしょ』独創性の砕片もない言葉を口にすると、春休みの間中音信不通だった理由も告げず、視線を逸らしたり表情に動揺の色を見せることなどなく、湿って生暖かい湯気を孕んだ産毛や髪の毛に唇を押し当て、初めて肌と肌を合わせ舌と唇や指先で、あたしのかたちを準えてから、何一つ隔てるものなく最も近い位置で寄り添おうとした時と同じ調子で、本気だよと言い、理由も告げずに背を向けた男は、確かにこちらを無表情に見あげ、僅かに目を細め視線を俊樹に戻した。殺気や気迫を纏わずに面食らった感じの俊樹を見据え、俊樹とは拳一つ違う瀬羅と大して身長の変わらない聖は罵声を浴びせられる。
「勝負にならないって思われてるみたい」
綾が呟いた。
「あたしも同感よ」と小さく答えた。
「勝てるわけないものね、俊樹」
寂しそうな綾の言葉を聞いた。
「きな、ここは餓鬼の遊び場じゃねぇ」
罵声を浴びせるのみでは飽き足らず聖を押し退けようと長く太い腕を振り回した二メートルはある男は、次の刹那人の輪の外へ吹き飛び気絶した。
「見えてはいるみたい、俊樹も」
輪を作る男達のうち闘う為にいるのは三割程度、残りは取り巻きやセコンドらしいが、聖の動きを把握したのは全体の一割くらいだろう。
「ただの上段蹴りだけど」呟いて目を瞬かせる男達に冷めた目を向けているのを意識した。
「燃えちゃったな、俊樹」
顔つきが変わっている、無表情に瞳だけが獣の輝きに濡れ右足を半歩前にだし腰を落としていた。
「今のが全力だったらいい勝負なんだろうけど」
聖は構えらしい構えも取らず距離を詰め、平然と歩き間合いに入る。俊樹の踏み込んだ左足を軸にしての右中段蹴りが唸りをあげ、空を切った。聖は跳躍している。攻撃を回避すると懐に飛び込むのとを一つの動作で行い、しかし攻撃はせず俊樹の肩に手を付きその背後におり立つとそのまま歩く。
「ふざけるなあ!」
怒声とともに放った裏拳も空を切り、俊樹は自分を無視して進む聖の前に回り込み無造作に右正拳を打ちおろし、首を捻り避けた聖の後頭部を突き抜けた右手で掴み、頭を抱え顔面に膝を入れた。『どういう積もり』瀬羅は僅かに眉根を寄せた。俊樹は更に膝を二発繰りだし聖の頭を放すとその首筋に蹴りを入れる。死して奇異でない打撃のはずだが小揺るぎもしないのは承知していた。
「遊んでるの?」
綾に尋ねられ首を左右に振った。
「わかんない、そういうの好きじゃないんだけど」
聖は相変わらず無表情に俊樹の足首を掴む。俊樹は構わずに自由な足で上段蹴りを放ち、聖は足首を放してその蹴りを側頭部に受けた。「お前、綾の何だ?」付き合って日の浅い恋人の名を聞き、俊樹の戦意が低下するのがわかる。
「それはこっちが聞きたいね」
とゆとりのない笑みを浮かべる俊樹が言い、中学時代の友人だろうなと聖が煮え切らない回答を示した。
「恋人だよ、一応」意表を突かれて雲散した気合を改めてる。聖が振り向き自分ではなく綾を見ると綾のに力が入っていた。見る目はあるなと唇が動いてすぐに視線を戻して、蹴りを受けた首に触れ薄く笑みを浮かべた。
「体術だけなら及第点、ここでもそこそこいけるだろう。でもそれがせいぜいさ、一流には遠く及ばない、調子には乗るな、綾が悲しむからな」
綾の表情は固く感情を圧し殺している。何をという思考を俊樹の気合の籠もった声に打ち消された。全力の中段蹴りを踏み込みながらブロックした聖の掌底が正確にに入り、膝を付いた俊樹は立ちあがれない。綾が手すりを越え飛びおり言葉を失った人々をかき分け俊樹に駆け寄り声をかけた。聖はもう闘う積もりはないというように背を向けて出口へと歩を進める。ちょっかいをだそうとする者はいなかったが、一人だけ道を開けない男がいた。長身痩躯という言葉に相応しい強いウェーブの豊かな黒髪の、彫りの深い、純粋な白色人種か少なくともハーフより濃くその血を引いていそうな男は、唇の端だけを吊りあげる笑みを浮かべ磁気カードを投げつけ、顔の前人指し指と中指で受け取った聖に賞金だよと告げた。二秒足をとめ、聖はそのまま旧体育館の外へ消えた。
六月一五日。
成咲高校二年B組はその日多少憂鬱な気分で登校し、酷く憂鬱になって家路についた。朝目覚め先ず憂鬱になったのは自室のコンピューターを丸一日塞いで光子追跡計算した画像が希望とかけ離れた姿でモニタに表示されていた為で、下校時に酷く憂鬱になっていたのは先週提出した『第五世代量子バイオ・コンピューターの演算処理能力の向上と記憶容量の拡大に因り可能になる次世代疑似人格がもたらす福音について』のレポートが、我ながら何を書いているか把握しかねていたものの、評価Dで返ってきた為であり、不合格、再提出、何が書いてあるかわからない添削を突きつけられては、単位取得への道は前途多難、望み薄、そうマイナス思考の海に三限目以降どっぷり浸かり、昼休みを終えたところでついに開き直って自棄食いしようと五限目の授業をさぼって早退したのだが、二週間続けてきたダイエットが今日一日で水泡に帰すかもしれないと、素材厳選のジャンク・フードを売る店の前で思いなおし、結局より一層のストレスを溜めて帰ろうと決心したという経緯はらしいとしか言い様がない。
今日何度目になるだろう、と記憶を手繰りながら溜め息をついて『あかん、前向きにならにゃ』と意味もなく鞄を振り回しながら自宅に五分の距離の曲がり角を曲がると、鞄は見事に通りかかりの高校生に命中した。全身を流れる血液が音を立てて引いてゆくのを実感し、血液循環説を最初に唱えたのは誰だったかなぁという疑問を追いやって、高校生にとにかく謝る。高校生と知れたのはその男性が青いブレザー、私立学園の制服を身に着けていたからだった。朝比奈学園は成咲高校と並ぶ名門進学校(尤も、今は希望すればほぼ全員が大学進学可能だけれど)で、一四年四月一四日の原因不明の東京壊滅後、新たに創設された新東京大学(もう少し命名に工夫しても良かったんじゃないかな)への合格者数で全国一を争っている。その男性は制服を着ていなければちょっと高校生には見えない。大人びていた。背が一八〇センチ以上あることと、頑強そうな体躯は、珍しくないし、高校生ともなれば肉体的にはもう充分大人だから、その表現は不適切かもしれない。しかし、雰囲気が大人だった。造作が整っている。切れ長の目と彫りが深くない、日本風の顔が美奈の好みだった。
『もしかしてLOVE LOVEチャンス到来』
朝比奈学園の男子生徒は微笑した。魅力的であり、背筋を寒くする微笑だった。アルカイックスマイルの一つ、と美奈は思う。
「幸運だな、これから探そうと考えていたが、手間が省けた」
「???」
「君、名前は?」
「村山美奈だけど、あなたは?」
「」
「探そうとって、僕を知ってるの?」
穂積那智は首を振って否定した。
『この人、なんか怖いよ』
美奈は危険を感じ、身を翻して脱兎の如く駆けだした。人通りが多い方へ。家からは遠ざかるが、かしの予防として有効なのは常に人目の多い場所に身を置き、かつ人に接近を許さないこと、くらいの知識はある。相手がただの高校生なら交番に駆け込んで「不審者がいるんです」とでも助けを求めておけばもう狙わないだろう。まして通う学校と姓名を知られているのだ、本当とは限らないものの。
走っているうちに奇異だと悟った。頻繁に通る道だ。交番への順路も熟知している。間違えるはずなどないのに、いつの間にか知らない場所にいた。森の中だった。それも人の手が入っていない、雑多な樹木が日光を遮る、薄暗い森だった。命を継続するのに日の光を必要としない草が生い茂り、ロング・スカートから少しだけ露出している素足を傷つける。
足をとめた。
「ここ何処なの。近くに森なんてないのに」
草をかきわける音がした。身体ごとその方へ向くと、穂積那智がいた。
「お前どういう了見なんだよ」
「選択肢は二つだ。犯されて苦痛を感じるか犯されて快楽を得るか」
那智の目はあからさまな欲情を示していた。「僕はお前の名前知ってるんだぞ、そんなことしたら泣き寝入りなんかしないからな。訴えられたら刑務所直行になるくらい、知ってるだろ、法律改正から何年経ってると思ってるんだ」
美奈は後退しながら虚勢を張る。スリットの浅いロング・スカートなんか選ぶんじゃなかった、と後悔した。
「国家権力など怖くはない。それに口を利けなくすればいいだけのこと」
抑揚のない言葉に膝が笑った。殺す気だ、と確信する。『この人、僕を犯して殺す気だ』言うことを聞かない足を必死で動かし、草木の葉や枝に傷つけられるのを無視して逃げだす。道などないし、帰る方法もない。森の中を彷徨い夜に凍死したり衰弱死したり、獣に襲われて死ぬかもしれなかった。それでもましだと想った。
「逃げるな。足を踏み外して崖に転落でもされたら少し困る。ネクロフィリアも悪くないが、今はその気分ではない」
声はすぐ後ろでした。肩に手をかけられ、押し倒される。那智は濡れた瞳で見おろしていた。押さえつけられていないのに動けない。
「喜べ、今私は機嫌がいい。では得られぬ快楽を味わわせてやろう」
焦げ茶色の虹彩がく輝いた瞬間、美奈は未知の感覚に捕らわれた。の芯が熱い。厭なのにスカートを脱ぎ、指を秘所に這わせている。
『やだ、最初で最後がこんなのって、ないよ。どうしてこんな? 僕何か悪いことした? 誰か助けてよ、誰か僕を助けて』
美奈は涙を流しながら喘ぎ声をあげる。
六月一六日。
昨夜降り始めた腐敗雨ではない雨は予報通り午前でやみ、暗いという程には暗くなくただ曇りというには重苦しい灰色の空の下、弾まない泥まみれの白球をは追っていた。追うでは不正確に過ぎるかもしれない。江藤は体の横をすり抜けようとする強い打球に跳びつき、或いは正面の打球を体を張ってとめ、弱く定位置には達さないような打球の時は泥を撥ねあげダッシュする、ホット・コーナーと呼ばれるポジションでノックを受けている。夏期大会に向け、雨の合間を縫っての猛練習といったところか、大きく肩で息をしているのにノックの終わる気配はない。
『最後の大会とは言え、良くやる』
滅多に使われない地球儀や吊りさげる型の巨大な日本地図、岩層の標本、コンピューターの端末と整理されているとは思えない山積みのディスク、何だかガラクタめいた埃の積もった用途不明の物体で賑やかな地学準備室で、朝比奈学園二年A組ルア・リップ・ソールズベリーとチェスをしながら、美翔真紀はクラスメイトの野球部員の練習風景を眺めていた。江藤の守備力は大したもので、難しいショート・バウンドにも上手にグラブを合わせるし、反射神経も良く強い打球にも正確に対応し出足も早く、倒れて補球した際も素早く起きあがり一塁に矢のような送球をする。コトと弱々しい駒音を聞き、真紀は注意を盤上に戻した。盤上は既に終盤を迎え、真紀のビショップによるチェックにルアがキングを右に動かしたところだった。
「そこはナイトが利いている」
ルアは美しい顔に皺を寄せ、慌ててキングを戻した。
「ツん出るんじゃないの化、これ」
「そうならチェックメイトと宣告している。逃げられる場所は左下しかない。そこにルークかクイーンを利かせれば終わりだ」
ルアは真紀を睨みつけ、盤を掴むと投げつけた。真紀は溜め息をつきながら首を傾け避ける。
「お前は本当に脳細胞の数が少ないな」
「売る差位。ちょっとあ玉がいいからっていい木になるな」
「今の言葉書いてみろ、この紙に」
真紀は万年筆をジャケットのポケットから取りだす。
「う、あたいはカナダうまれなんだから、かんじがニガテなのはシカタガナイだろ」
「二歳から日本にいてフランス語も英語も話せないくせに」
「カナダだぞ。フランスごもエイごもできなくてあたりまえだろ」
「幼稚園児といい勝負か。栄養が頭にいかないというのは、哀れだな」
「てめえ、きれぢにしてやるぞ、このクサレおめ、グア」
怒鳴り散らすルアの喉を真紀は絞めていた。
「不愉快にさせるな。誓うか? そうすれば許してやる。でなければ今ここで発狂する道を選べ」
「ち、ちかいます」
ルアは小さな嗄れ声を発した。真紀は放し、視線を江藤に戻した。ラストとノックをしていたチームメイト、確かという野球部のキャプテンだったはずだ、が声をあげ、江藤は荒い息のままおおっと声を返す。金属バットの高い音(騒音問題になり改良の末音そのものは小さい)がし、強い打球が江藤の正面に転がった。江藤は素早く腰を落とし基本に忠実に両手でボールを取りにゆく。その動きにミスはなかったがグラウンドは荒れていた。直前でバウンドが変化しボールは江藤の顔に向かう。咄嗟に顔を背けグラブをはめていない右手で庇っただけでも目を見張るべきだろう。ボールは人指し指と中指に直撃しレフトに転がった。膝を付き指を凝視して歯を食い縛る江藤の周りに人が集まり、心配そうに覗き込んでいる。江藤は間もなく立ちあがり、「多分突き指だと思うけど、一応保健室いってくるわ」と言った。真紀は席を立つ。
「用意しろ、ルア」
ルアは口許を歪めた。
タイトな白地に、胸のところに〈FISH BONE〉とロイヤル・ブルーのゴシック体で印刷されている、もう一工夫欲しいとも思うが、このくらいが丁度いいと感じるデザインのTシャツの下には何も身に着けていない。はっきりと隆起の形が見て取れる恰好をしている。
「やっと、ね。いいわ、けっこうタイプだもの」
二人が後にした地学準備室の床に転がっているものがあった。それは初老の男で、もう呼気はとまっていた。
江藤浩二が力を有していることはクラスメイトになった時に気がついていた。本人も自覚していまいし、周囲も気づいてはいないだろうが、注意して観察していれば異種とはいえ、永くその力に接してきた真紀にはわかる。真紀、正確には真紀の属する陣営は力を欲している。かつて対立していた、一族の者であろうと、協力してくれるのなら拘泥しない。そして敵に廻るというのなら……。
授業が終了し一時間半、用事のない生徒は帰宅し保健室には校医の一人可能性が高い。「先生!」故意に息を切らし保健室のドアを開けると、案の定中山恭子一人が端末の前に座り、書類の整理をしているだけだった。只事ではないと思ったのだろう、中山恭子はすぐに立ちあがりどうしたの、落ちついて話してと声をかける。
「先生……地学準備室で、倒れて……」
少し距離が短過ぎるのだが、息も絶え絶えに告げると、わかったわ、あなたは落ちついてから来なさい、中山恭子はそう言い残して走ってゆく。階段を登るのを見届け廊下のルアに合図する。ルアが室内に入り、寝台を覆うカーテンの向こうへ姿を隠した。一五分くらいは時間が稼げるだろう。端末の前に座りNETにアクセスして三名の人員を至急回すよう組織に連絡する。漏洩しても構わない内容だ。すぐに画面を元の状態に戻し右の親指に念を集中した。二センチ程度の傷が生じ血が滲む。薬品の入った戸棚を開けた。扉をノックし失礼しますと声をだし扉を開ける、その動作を殆ど同時にして江藤が保健室に入ってくる。振り向いた。
「あれ、江藤君、どうかしたの?」
江藤は保健室に足を踏み入れたものの、校医の姿がないことに多少戸惑ったようだ。
「ん、ちょっと突き指しちゃってさ、美翔さんこそどうかしたの」
あまり言葉を交わすことのないクラスメイトに江藤の様子には少しぎこちない、どんな口調で話すべきか探るような感じが伺える。親指を口許に持ってゆき僅かに舌をだして傷を舐め消毒液を棚から取りだす。
「小道具作ってて指切っちゃった。ぼうっとしてたからな」
江藤の顔を見て吹きだしてから、少し演技過剰かと思う。
「すっごい顔、突き指冷やすんならついでに顔も洗った方がいいな」
「そんな酷いかな、中山先生どしたの」
「私が来た時もういなかったから、どうしたのかな、突き指したって大丈夫? もうすぐ夏の予選始まるよね、早く冷やさなきゃ」
話をしながら傷口を消毒し絆創膏を張った。頷いて流しに歩き汚れた手を洗いつつ指を冷やす手元を覗き込む。戸惑い驚きというところか、江藤の手元が大きく震える。教室では大人しくしているから、気安い行動は意外でもあるはずだ。
「痺れてるような感じだから、ただの突き指だな、二、三日すれば問題ない。美翔さん演劇部の部長だったよね、やっぱり引退の日って決まってるの?」
「うん、夏休みに講演してね、それが最後。NETにも流れるから時間あったら観て、私はでないけど、ヒロインやる子本当に可愛いから損はしないよ、顔洗ったら」
曖昧な返事をして腰を屈めた江藤の背中は思っていたより広く、確かに球を飛ばす力を感じる。チーム自体は良くて三回戦止まりだが、江藤個人は注目されているという話も嘘ではないのだろう。
「江藤君、協力してくれないかしら」
唐突に切りだす。
「え?」
「協力して欲しいんだけど」
「俺に? 何を?」
「我々の組織に入って欲しいの」
江藤は濡れたままのきょとんとした顔をすぐに悪餓鬼のそれに変えた。
「組織というと、あれかな、地下に秘密基地を持っていて、巨大な力を手に入れて世界征服を目標にしているっていう」
「御名答」
「知らなかった、美翔さんもそんな冗談言うんだ」
「戯れ言ではない。江藤浩二、自覚はなかろうが、お前には力がある。本来は我々と敵対する力だが、な。こちら側につくというのなら久遠の業などどうでも良いのだ。もう一度言う。これは戯れ言ではない。信じられぬのなら」
「美翔さん、けるのはその辺にしといてよ。俺も暇じゃないからさ」
「決裂だな。ルア」
真紀は呼びかける。カーテンを開き、姿を現したルアは何も身に着けていなかった。グラマラスなを惜し気もなく晒している。一八〇近い身長と・・という肢体は日本人は滅多に有していない。
「誰だよ、あんた」
目を奪われつつも、江藤は警戒心を抱いていた。朝比奈学園に於いて有名人のルアも、他校で知っているのは一部の人間のみ。
「淫女か。俺を誘ってるみたいだな。お生憎様。どんな美人でも、願いさげだ、そんな女」
「あたいにそんな口キくのはんなにいないがよ、どんだけそのタイ度はつづくかね」
ルアを無視し江藤は踵を返そうとして、できなかった。目が虚ろになっている。そしてルアのつんと上を向いた乳首を持つ釣鐘型の乳房にやおら手を伸ばした。
「衰弱させてはいけないということは、承知しているだろうな」
顔を背け、真紀はドアに手をかけて言う。
「たまにはいっしょに楽しもうよ、マキちゃん。ジョークだってばジョーク、そんなにこわい顔するなよ、ビ少女がだいなしだぜ」
顔を横に向けると、ルアの揶揄はからかいになった。僅かに目を細め、正面を見てから保健室を後にする。
「ただいま」
お帰りという挨拶が返ってこないのはわかっていたが、はそう口にして家にあがった。そこだけでも一向に改善しない都市部及び都市近郊の住宅事情の悪さを伺わせる狭いに靴を脱ぎ、朝方の雨に汚れたスニーカーを小さな下駄箱に入れた。DKという名目の四畳程の部屋を抜け、六畳の自室に入ると自動的に電灯が灯き空調が作動する。狭い空間の反動かエネルギーだけは豊富に使用する造りだ。
ジャケットを脱いでハンガーにかけ、鞄からDISKを取りだすと机の上のパソコンのドライブに挿し、電源を入れる。より豊富なものがあった、この部屋にいるだけで処理能力を遙に越える情報が手に入る。恵美は処理する必要のある情報を端末の画面に表示した。現代文の授業で作文が課題にだされ、その内容を確かめる。
『自分の部屋を描写しなさい、字数制限無し、期限は来週のこの時間』
改めて自室を見回す。別に面白い物はないし、第一余分な物を置くスペースのある部屋というのは、庶民向けのマンション、矛盾を避けるならアパートメントないしフラットには存在しないだろう。それにありふれた物を細かに描写するような奇特な趣味も語彙もなく、乱雑さを異常に忌避する(と友達は言う)性格なので、フローリングの床には少女趣味のぬいぐるみとか、クッションとか、データ・ディスク、すら転がっていない生活感のない(とも友達は言う)部屋だ。六畳のフローリングの部屋は南にベランダにでる大きな窓があり、南東の隅に小さな机とその上にAR46タイプ3のコンピューター、西の壁沿いにソファー・ベッドと小さながあります、で事足りてしまう。
恵美は溜め息をついて画面をニュース・チャンネルに変えた。憂鬱な気分にさせる課題を与えた国語教諭のが恨めしい。時に関係のない情報に多く触れると気分が落ちつく。実際には感情が鈍磨するのだと何処かで聞いたが、それを気にしていられるような環境は知らない。昔から、まあそれなりに記憶の確かなのはせいぜいここ十年か、情報だけは大いに氾濫していた、必要なものを選ぶのが至難な程に。画面は株価の倦怠を伝えている。もう半年程上昇曲線も下降曲線も描かずに小幅な値動きを続けているのではないか、いい加減行き詰まったのだから何か革命でも起きなければ事件はないだろう。面白くないのでチャンネルを変える。警察の公開捜査番組になった。逃走中の犯罪者、家出、行方不明などに分類されて、年齢を考慮してCG合成などの処置がなされた顔写真と身体的特徴、名前やかつての身分などの情報が流れてゆく。最近の家出は十歳前後の者が多く、そうした年齢で家出をすれば当然犯罪に巻き込まれる可能性は高くなるし、自力で生きてゆこうと思えば男女を問わずストリートに立つくらいしか方法がない。才能があれば別の犯罪だけで生きていけるか、もっと安全で割の良い客の取り方ができるが、それは極一部であり、画面からは家出をした理由は伝わってこなかった。
項目が家出から行方不明に変わる。そろそろ別のチャンネルに回そうとキーボードに手を伸ばした時、画面に自分と関係のあるものを見つけて反射的に画面をコピーした。自分の通っている県立成咲高等学校の文字が目についた。コピーした画像を呼びだす。村山美奈、性別女、二〇三二年一月二〇日生まれ、身長一六二センチメートル体重五〇キロ、血液型O、県立成咲高等学校二年B組生徒、二〇四八年六月一五日(月)午後三時三〇分、県立成咲高等学校正門で友人と別れの挨拶を交わして以後行方不明─。目が大きく小さな鼻と唇の写真が表示される、行方不明後二四時間で届けられているのは村山美奈が真面目だった為だろう、大人しそうな娘だ。行方不明が村山美奈の本意ではないとしたら、危険地帯や夜の繁華街を歩きでもしたのだろうか、寄り道せずに登校し下校する限りは危険はくらい、高校生にもなってあれにやられるとは思えない。尤も、恵美も先日普段通り登校していて生命の危機に直面したばかりだった。朝の電車で偶然同じ車両に乗り合わせた少女が突然奇声を発したかと思うと昔のSF映画に登場したような生物に変身し、通勤中の会社員男女各一命を殺害するという場面に居合わせ、恵美と同じように乗り合わせた特異能力を有する少女が車両の半分諸共、怪物としか言い様のない生物を消し去らなければ、多分今頃生きてはいない。その少女は背の高いとびきりの美形で、同級生の斎藤瀬羅ということはすぐにわかった。
「背が高くて美形で特異能力者かあ」
恵美は溜め息をつく。その三つのうちどれか一つでいいからあたしも欲しい、そう思った。再び重い気分になり、チャンネルを変えるとチャイムが鳴った。画面を切替え玄関前をモニターする。馴染みの食料配送センターの制服を着た二十台半ばくらいの男性がプラスチックのケースを足元に置いて立っている。そういえば今日は配達日だったろうか、恵美は玄関のドアを開けると「御苦労様です」と声をかけてケースを受け取り、キッチンに運び入れると置いてあった空のケースを返却し、受領書にサインをし、硬直する。暗い銃口が胸元に向けられていた、弾の種類にもよるが貫通したとして助かる見込みの薄い口径、.44MAGNUM弾を使用する銃、ハンマーが落ちた次の瞬間にはきっと死んでいる。
「静かに」
と男は言って三和土にあがり、後ろ手にドアを閉めた。
「そこの壁に向いて立て、手は背中に回せ」
恵美は内心舌打ちしつつ男の言われるままにした。本物か玩具かわからないが、男が手錠を使って手首を拘束するのが判る。
「そこでうつ伏せになれ」
男の声は特に高圧的ではなく落ち着いている。大声をだしたとしても瞬時に気絶させるくらいの技術はあると思えた。男は足首の自由も奪い、恵美を仰向けにし上半身を起こさせると黄色の小豆大の錠剤を差しだし短く「飲め」と命令する。逡巡したが、銃口を胸元に突きつけられては従うしかなかった。目隠しをされ、抱えられてあげた悲鳴が声になっていないことに気づく。狭い空間、恐らくは返却しようとしたケースに閉じ込められたことを知った。身体を丸めてやっとだ、息が詰まる。蓋を閉められて必死で恐慌に陥らないように自己を叱咤する。
『冷静に、落ち着いて、目的は何?』
運ばれているという感覚がある。ということは押し込み強盗ではないし、強姦魔という線も薄い。誘拐、わざわざ平凡な高校生を自宅に押し入って誘拐する理由、利用している食料配送センターを調べその制服を揃えるという用意周到さは、計画性の高さを示す。
『私が誘拐される何らかの条件を満たしていたってことなの』
冷静に自分と、最近の行動を振り返ってみる。ありふれてはいないこと、稀少なこと、特別なこと、同じ意味の言葉が頭の中を巡る、何も思い浮かばない。強いてあげれば先日の少女変身事件の現場に居合わせたくらい。しかし恵美は逃げることを考えていただけであり、理由がそこにあるとは考えい。
『でもこういう現実がある。今更理由を考えても仕様がない、とにかく冷静でいよう』
身体の自由を拘束され武器も持たずというこの状況で可能なのは、下手に狼狽したり諦めたりしないことだけだ。本来はこの状況に陥る前に相手の目的と行動に気づかなければならない。今回の場合でいえば玄関ドアを開けた時に九分通り誘拐する側の勝ち、他人の心が読めでもしない限り不審に思うのは無理だった。
自動車に乗せられたようだ。僅かな振動と小さく低いモーターの回転音……。暫くあちこち走り回るのではという予想は外れ、程無く、感覚的には十分くらいで自動車は停止、いや、何かに衝突した。激しい衝撃があり、身動き取れない恵美はケースの内部で背中を強打する。誰かがケースの蓋を開け脇の下に手をいれ引っ張りだす『誰』声はまだでない。目隠しが外され手足の拘束が解かれた。そうしたのは拳銃を突きつけ誘拐した男だ。抱きあげられた。バンの収納スペースにいる。爆音、銃声がして窓硝子に穴が開く。恵美は状況がわからなかった。様子がおかしい。誘拐された者の救出にしては過激だし、露顕が早過ぎる。男は車から飛びだして走った。弾丸が間近をかすめてゆく、恵美は周囲を見回し暫し茫然とした。
『ここ、危険地帯』
人のいない荒廃した町並みが眼前にある。アスファルトの捲れあがった駅前のターミナル、建物の硝子という硝子が全て割れたようなかつてのデパート、半ばで何かに捩じ切られた街灯と、破壊箇所のない歩道に転がる風雨の浸食を受けた頭蓋骨、所々に溜まっている烏と鳩の羽、男が建物の影に隠れる間にそれらを目にした。
『何なの、一体、何がどうなってんの、どうしてこんなとこに連れてこられて、銃撃を受ける覚えなんてない、嘘だよ』
自分も射撃の標的になっていると恵美は理解し、否定する。男は恵美を地面に降ろしS&W MODEL 62955を手にした。その銀色に輝くボディを見つめ奇妙に気が静まってゆくのを自覚した。十歳の時から外出の際拳銃を携帯するのは当然だった。迫り来る危険は回避し脅威を排除する。最初に学習したことであり、その為の道具は大抵銃だった。人を殺した経験はなくても銃で身を守った経験は幾度かある。今もその延長線上にいると思えた。『冷静になろう。感情に負けて望まない死を迎えるのは癪だもの』
改めて周囲を見回し何か武器になりそうな物を探す。身を隠している建物の一部はかつての金融期間であり、厚い硝子越しにATMが破壊され、床と天井と壁のあちこちに黄色いペンキで人の形を描いたような痕跡がある。視線を移す。道路はあちこち掘削器で掘り起こしでもしたかのようにひび割れ、歩行者を車両から護る為の鉄柵は至るところで歪み波打っている、視界の隅で何かが動いた。
五歩程先の敷石が確かに揺れ小さく音を立てたはずだ、誰もいないのに。恵美は生唾を飲み込む。風景の一部が蜃気楼さながら人の形に揺れている『あっ』かすれた声もでなかった。不可視ではない揺れる影は近づいてくる。男はそれに気づいた様子はなく銃を胸元に引き寄せ周囲を伺っていた。体が動かない。逃げだしたくて堪らないのに、指一本動かすことも適わなかった。恐怖で硬直している、いや、違う、緊張しているし恐ろしい、そんなことは何度も経験しかつて体が動かなくなったことはない。力を入れているのに何かに押さえ込まれている感覚、揺らぎは眼前に迫っている。
『動けぇっ!』
動いた。突然枷が外れ自由になった脚で揺らぎの横を駆け抜ける。
「右」
と誰かが怒鳴り、自然にそちらに目を向けた。ショー・ウインドーの中何年か前の春物の色褪せたベージュのジャケットとパンツを纏ったマネキンの向こう、ダーク・グレーのつなぎ目のわからない服を身に着け、フルフェイスのヘルメットのようなものを被った、男だろう、が構えた銃のトリガを引く。回転しつつ弾丸が迫ってくる。放置すれば二の腕に命中するだろう。
『嘘。弾道が見えてる、あり得ない、そんなこと』
弾丸の初速は最低秒速二〇〇メートルはある。目で追える速度ではないし、思考を巡らす時間が存在するなど信じい。とにかく避けようと弾道から体を外そうと脚を速める。
恵美は慌てた。脚が動かない、いや、脚を地面におろすのに酷く時間がかかる。動作が緩慢なのではなく、時間が引き延ばされたのみだと悟った。
『冗談じゃない、これじゃ認識してる分だけ悲惨なだけだ、とまれっての』
自棄になって弾丸に八つ当たり、対象としては正しいのだが詮ないものに当たる。
弾丸がとまった。ウインドー硝子を貫通する寸前に運動エネルギーを消失し、床に落ちる。余計なことを考えないことにした。理屈がどうこうでなく現実と認識するものを信じて恵美は走った。大勢の犠牲の後危険と指定された地域から脱出しなければ、ならない。頭の中に地図を思い描く(環状線に沿って防壁が張ってあると記憶しているから、五分も走れば脱出可能)そう希望を持った途端、脇腹に強い打撃を受ける。
息がとまり歩道に右肩から落ちそのまま横滑りする。荒れた道で半身に傷を負い、一週間前抽選に七八日振りに当たり、NETで購入したばかりの、大量生産が嫌いな人気デザイナー(無名の頃から注目していて、初期作品を持っているのは数少ない自慢だ)の、付け根から先端に向かって黒から白にグラデーションしている翼が一枚、背中にプリントされている、長袖のTシャツが破れる。人形の揺らぎ、半身を起こし見あげる。
爆音、揺らぎが飛ばされ歪んだ街灯の支柱に激突し、支柱を更に歪ませる。続けざま.44MAGNUM弾が揺らぎに命中した。揺らぎは支柱を折り、車道に転がり立ちあがり低い唸り声を発する。電車の中で聞いたのと同じ、変身した少女が口からもらした音を揺らぎは発する。確かに揺らぎはマグナム弾の全てを弾き、そのエネルギーを全身で受けとめた。
初活力が一五〇〇ジュールの弾丸が通用しない相手には逃げるしかない。起きあがり、身を翻そうとした時視界の隅に鈍い輝きがある。全長三〇センチ、刃渡り一五センチくらいか、刃からグリップにかけてスリムでゆるやかな曲線をなす軽そうな武器に映っている恵美の背後には詰め襟の中学生らしい少年がいて、左の鎖骨の間からナイフで心臓を貫こうとする。無表情な、細身で色の白い顔をしたひ弱そうな少年は静かにナイフを突き立てる。鋭利な刃は確かに皮膚を裂き肉を裂き一五年の間拍動してきた心臓に穴を開けるだろう、恵美はそれを確信して少年の顔を凝視する。
終わりはやってこなかった。恵美の命を奪うのだと思われた少年の刃は肩に出現した蜘蛛の異形、体長は一五センチに満たないが、強烈な毒を持つ、を真っ二つにしていた。少年の顔を見つめる。
『あ、ありがとう』
困惑しながらそう口を動かした。
「こい」
『味方なの?』
「そうだ」
言葉はぞんざいでも口調はそうではなかった。だから恵美は頷いた。
小さな銃声がした。少年の手からナイフが弾き飛ばされる。音の小ささが威力の小ささに直結していたのは昔のことだ。
少年は恵美を抱え、崩壊しかかったビルに飛び込む。その直後雨霰と弾頭が降ってきた。支柱の影に身を隠す。コンクリートが数秒で形を失い、鉄筋も千切れた。もう駄目だと覚悟すると、静寂が訪れた。
『助かったの?』
恵美は少年に尋ねる。読唇術を徹底的に学んだのか少年は即座に首を横に振った。
「殺しはしないというだけだ、今は」
無表情だった顔が僅かに歪んだ。やっと気がつく。少年の左の膝から下が消失していた。
「悪いが、もう戦えない」
沢山の気配に包囲されるのを感じた。すぐに何かを撃ち込んでくる。計五発の円筒が霧のような物を辺りに撒き散らし、全身を覆うカメレオン・スーツを装備した者が六名建物に足を踏み入れてきたのが由美の最後の記憶だった。
真紀はディスプレイを注視していた。画面は三分割されている。下側三分の一に、二進数の連なり。上側三分の二は、縦に二分割されていて、左は心電図モニターのような状況を、右は複雑に入り組んだ、騙し絵の如き立体迷路を映していた。それらは目まぐるしく変化してゆく。二進数は常人が目で追うのは不可能な、真紀でも全てを把握できない速度で流れ、心電図は脳波や周波のような図に刻々と変じ、迷路は数式を視覚化したものやフラクタル図形のようなものに変わる。真紀にはそれらが何を意味するのかわからなかった。
八畳ばかりの部屋だった。窓はなく、分厚い金属扉があり、三台のコンピューターと、それとは別の三六のモニターがある。モニターは、県立成咲高等学校の各所に設置されている防犯カメラが送ってくる像を映している。一〇秒毎に切り替わっていた。モニターに映っていない信号も記録され、四八時間保存される。成咲高校地下隠し階段の先、隠し通路の奥の隠し部屋、一般教員と一般生徒の知らない第二保安室。
真紀は青年の背後にいた。青年は椅子に座っている。Xが三つか四つはつきそうなLサイズの、恒久を意味する単語をもじって社名にした仏蘭西メーカーの無地の赤いTシャツと、黒の亜米利加製ジーンズを身に着けた、肥満体だった。身長は一八〇以上あるだろが、体重も一五〇前後はありそうな青年は、端末の前で目を閉じていた。コントロール・パネルに触れてもいなければ、電脳デバイスを組み込んだ者や疑似人格を組み込んだロボットに可能な、直接電気信号を伝える方法に必要なコードを端子に接続してもいないし、現在一部の企業で研究中の、全くデバイスを組み込んでいない、純粋な生身の人間の脳波を判別し、電気信号に変換、コンピューターを操作する機器もつけていなかった。
『わたしのような者がこう思うのは滑稽なのだろうが、何度見ても信じ難い光景だな』
真紀は目の前の肥満体の青年、朝比奈学園一年F組生徒の、汗に濡れ色が濃くなったTシャツを見た。その表面で二秒に一つの割合で静電気が弾ける。
目の前のコンピューターは確かに建が操作している。
プロテクトを解いている最中だった。
床に男が二人、女が一人倒れている。年齢は三人とも三〇前後、成咲高校と契約している警備会社の制服(小口径の銃弾と通常の刃物を防ぐ繊維で織られた、黒のツータックのパンツと長袖の白い長袖のシャツにパンツと同色のベストで、左二の腕に緑の糸でRの刺繍があり、腰の右に11.2mmのリボルバー、左に電磁鞭)を着ていた。気を失っているのではない。仮死状態だった。
公共のNETに接続してあれば、それを介してアクセスできるのだが、このコンピューターは閉じている。だから苦労して第二保安室の存在と在りを突きとめ、危険を冒して侵入した。目的は成咲高校所有の地下シェルターの裏構造図の入手だった。表の構造図は、当然有事に備え教職員と生徒に配付される。裏の構造図というのは、真紀の想像だった。あると踏んだ、いや、あるかもしれないと頭に浮かんだ。そんな根拠のない可能性に、時間と労力をかけなければならない。
「破りました」
建の声に、真紀はディスプレイに目を戻す。分割されていた画面が一つになり、白い背景に中央に入力せよの文字を表示していた。*が四七並ぶ。次に発せの文字。声紋か音声認識の別のパスワードか、その両方か。その画面は二秒で消えた。漸く構造図が表れた。
「あったわね。建は記録してちょうだい、わたしは記憶するわ」
真紀は意識を集中する。ディスプレイを眺める。見つめるのではなく、全体を同時に把握する。それを刻みつける。
シェルターは地下一〇〇メートルに建造された。居住エリア、自家発電装置、換気浄化装置、食料備蓄庫、医療機器、などを備えている。想定収納人数は二〇〇〇名、食料は三ヵ月分、用意されている。ただし、当然のようにこれらの装置や、その装置の管理は電子化されていない。核のEMP効果を打ち消す方法は今のところ発見されていないからだ。万一に備え三箇所に設置された出入口から施設に到達するまでの順路、階段、倉庫、それらの鳥瞰図と立体図が次々に画面に表示された。居住エリアが終わったのは、二六分後だった。画面が元に戻ると、真紀はたった今記憶したものと表の構造図を呼び起こし、比較した。
「五箇所」
「居住区に他の四倍のスペースの部屋が二つ。倉庫の奥に通路が一つ。発電装置が二つ余分にありますね。あると思いますか?」
「わからないわ。あれの形状も大きさも知らないのだから。果たして質量があるのかさえも」
「あのお方も難しい注文を。あれだけの財力と、実質的な権力を持っていて、これ以上何を手に入れようといのうでしょうね」
「全てよ」
真紀は目を細めた。
ロスチャイルド、オッペンハイマー、クッゲンハイム、ウォーバーグ、アスター、サッスーン、グンツブルグ、パティーニョ、ロックフェラー、モルガン、など。それらを支配しているというのは、この地球を支配しているということだ。手に入らないものは、殆どない。
「永遠の命が欲しいのですかね。私は一五年と八ヵ月しか生きていませんから、永遠など想像もつかないのですが、どういうものなのですか、美翔先輩?」
「建の誕生日は確かルアと同じだったわね」
「ええ、霜月の七日です」
「わたしの誕生日は覚えている?」
「勿論です。卯月の七日です」
「なら生まれた年は?」
「残念ながら、わかりません」
「わたし自身も覚えてはいないわ。建の三〇倍以上の時間を生きてきたのは確かだけど、無限と有限は比べられない」
「なら、あとどのくらい生きていたいですか?」
「建はどう思っているの?」
「五〇年くらいは生きたいですね」
「わたしも、人間だった時はそんな風に考えていたわ。とんでもない長生き、当時の感覚では七〇歳くらいだったかしら、したら、もう充分と思えるんじゃないかって。でも未だにわたしは生きることに飽いてはいない。老いを忘れたという要因も、あるのでしょうけれど」
「さんはいつ死んでもいいと言っていましたよ」
「神楽の言うことなど真に受けない方がいいわ。でいる瞬間がない、粗暴で、筋力だけしか能がない男など」
「私も力には多少自信がありました。穂積さんの力を知った時上には上がいることを痛感し、神楽さんの力を知った時次元の違う、どんなに努力しても適わない相手がいることを知りました。そういえば神楽さんの停学解けるの、何日でしたっけ」
「来月の九日から登校してくるでしょう。始業式に教師を撲って病院送りにするなんてね。これで六回目、いかに退学にも警察沙汰にもならないとはいえ、動きくなることを考えていない。穂積とルアといいレベルよ」
「穂積さんもお酒好きですけど、頭は悪くはないですよ。ただ趣味で処女を強姦するというだけで」
「そうね。処女の血しか受けつけないわたしに穂積をとやかく言う資格なんてないわ」
「いえ、そういう意味ではなくて」
「いいのよ。もういきましょう。そろそろこの《失われし白き羽根》の構成員が目を覚ます頃よ。が薄れてきたわ」
「そうですね。私には人の脳を誤魔化す力はありません」
建が立ちあがるのを待ってから、真紀は扉を開けた。
オルドビス系から発掘されたアンモナイトみたいなと口にすると、アンモナイトはシルル記以降に堆積した地層からしか発掘されていないよと即座に訂正し、中学の一年から二年に進級する間の短い春休みの最後の日、通りに沿って植林された染井吉野の改良種の桜の花びらが、チェス盤のように白と黒の敷石が敷きつめられた歩道を覆い尽くすくらいに舞い散り、卒業式の日の帰りに誕生日のプレゼント何がいい? と訊くと数分歩いてからバッシュかなと呟いた、常識的に考えたらそう執着のない白いバッシュにも舞い降りた時、オルドビス記ってシルル記の前だったっけと頭の上に降ってきた薄く微かに湿ったような花弁を摘み、一つ前、カンブリア記の後、眺めていた白と淡い紅色の混じった花弁を放し灰色のニットの肩を払い、同じ組だといいな、その方が共通の話題が増えるし明日の宿題とか教師に対する不満とかそんなどうでもいいことが話題にないと、疲れるものね、話すのも、と同意を求めると、そういう風に頑張って話すから疲れるのだろう、沈黙を苦痛と感じなければいいんだよ、お互いにお喋りって訳じゃなし、と諭すように話したのは聖だったが、釣り革には手が達かずに座席脇の手すりに捕まっている冬華は表示専用の携帯端末に静かに目を落とし画面に表示される文字を追い、姉(記憶が曖昧なうちに父親と幽明境を異にし、産後間もなく職場復帰し留守勝ちになった母親とも接する機会が少なかった冬華にとって、最も長く時間を共有した者)と、一緒にいるのだから苦痛でないのは当然だろうが、あの時付き合って六ヵ月でしかなかった相手に求めるべきものではなかったはずだ、と恋愛中にしては抑制不能の感情の昂りにあまり(皆無ではなかったけれど)縁がなかったことの反動だったのかな、そう先月の自分を瀬羅は顧みる。
初めての接吻を奪った償いに一日頂戴という冬華の言葉に従い日曜日に外出したのも久し振りなのではないか。所々しか記憶のない二ヵ月の間には、もしかしたら外出したかもしれないが記憶にはないし、春休みには綾と何処かへ行ったかもしれない。卒業式の翌日に姿を消した聖は消息が知れず今も頻繁に欠席している。中学の時とは何かが変わったのに、先日冬華に対して忠告した殆どを瀬羅に言った男は自分のことを何も喋りはしないと腹が立ち空いている手をジャケットのポケットに入れると、記憶の曖昧な下校途中に引っ張りこまれた老朽化した下水管修理の工事機材置場は一昨年まで元ピアニストとヴァイオリニストの老夫婦の家であり、夏未が母親に駄々をこねて買ってもらい買ってもらった時には既に興味を失っていたスタインウェイを引き継いだ秋恵が、月水金とお爺さんにレッスンを受けにいっていたのだが、一昨年の春夕暮れ時に聞こえていたヴァイオリンの音が途絶え、夏に婦人が亡くなり残されたお爺さんは故郷の高知県に引っ越してゆき、古い建物は取り壊され更地のまま暫く放置されていた場所で、小型のパワーショベルとローラー車、土管と二トンの小型ダンプ、矢板や赤いコーンといった機材が平日なのに使われることなく置いてあり(時期的に暇なのだろうが)、重ねて積んである矢板の上には体の大きいキジ柄のニャオン(初めて逢ったのはドヴォルザークのチェロ協奏曲ロ短調作品104が流れていた聖のフラット、小学校を卒業してすぐ引っ越ししてきたのに、三ヵ月で両親は遠い所へ行ってしまったと言った3LDK、に七度目にお邪魔して、そっか、家の母もドイツから半年も帰って来ない、そういう共通点が嬉しく、写真見たいなと恐々口にすると、嫌いなんだ、そういうの、多分一枚もないよ、と何となく会話が途切れた時に窓硝子の向こう、ベランダからじっと瀬羅を睨んでいた容姿の良い雄猫)という先客がいて、瀬羅に気づくと欠伸をし猫科特有のしなやかな動きで前足を伸ばし頭を下げ尻尾をピンと立て伸びをして、柔らかそうな体と野良猫とは思えない艶のある毛並みにはいつも触れてみたいと思っていたのに、手を伸ばすとするりと逃げてコーヒーの入った銅製のアラビア風の幾何学模様が施されたマグカップを持って部屋に入ってきた聖の足元にすりよってニャと甘え声をだしたので、本当に雄猫なの? と唇を尖らせ、野良猫は警戒心強いからなと、慰めにもならない言葉に眉根を寄せたことを思いだして舌を鳴らし手招きするのに、俺はあんたとは反り合わないんだよという顔をしてフェンスの下の隙間を通っていってしまい、細面の二枚目といえるかもしれない顔の男は果物ナイフを突きつけて何か言っていて『大人しくしてりゃ殺しゃしない』(殺す、存在を脅かす行為、あたしは殺されるのだろうか、死ぬことによってあたしという存在が消失する訳ではなく単に生命活動が停止するだけでも、あたしのあたしである大部分は失われる)と思い、果物ナイフはステンレス製の柄の部分が白いプラスチックという何処にでもある(かつての法律はこれも違反だったらしい、でも凶器としては威圧感に欠けても殺傷能力は備えている、頸動脈を切れば相手は無力化し、目一杯腹部に突き刺せば大抵の人間はいずれも程無く死に至る、そう小振りで実の引き締まっていそうな艶のある林檎を剥きながら説明された時もこんな果物ナイフだったはずで、奇異な果物ナイフが存在するか多少疑問だけど)物で、刃渡り約一〇センチメートルの新品だったのだろうが、男の動きは緩慢、隙だらけで手首に手刀を入れると簡単に武器を落とし逆上して掴みかかってくるのを体を反転させ肘を脇腹に入れ、アーム・ロックをかけ足を刈り投げたら受け身も取らず動けなくなって、サッカー・ボールを蹴る要領で脇腹に数度入れた時点で完全に沈黙してしまい、ふとニャオンが丸まっていた矢板の上に金色に輝く五〇口径の弾薬を見つけ親指で薬莢の底、人指し指で弾頭を押さえて眼前に持ってきて無表情な自分の顔が映り込むのを見つめ、ニャオンの宝物かもしれないとそれから持ち歩くようになった、弾薬に指が触れた。
五〇口径というのは見慣れた.45ACP弾と比べて恐らく間違いなく、全長四〇ミリメートル強の重量三〇グラム弱、本物ではないだろう。目的の駅に到着し冬華を連れて改札を抜けると地下街をJRの駅方向に歩き行き着けのシューティング・レンジに入り、受付で会員証を提示し照合検査を受け防音扉を開くと銃声が耳に入るが、そこは防弾硝子で囲まれた休憩室なのでマグナム弾の爆音が聞き取れるくらいだ。アルコール類を除く飲料とホット・ドッグやハンバーガーを販売するのスペースがありその隣に拳銃をレンタルするカウンターがある。日曜日なので家族連れもあるものの冬華くらいの年齢の子はいない。瀬羅は店内をざっと見回し硝子ケースにハンドガンの並ぶカウンターでミリタリー・ルックに身を包む三十くらいの女性従業員に声をかけ.45ACPと.22SHORTの弾薬を二〇〇発ずつ購入し、BERTTA MODEL 950SBSをレンタルする。従業員が弾薬が装填されていないことを示し、弾箱、イヤー・プロテクター、ゴーグルと一緒に木製トレイに載せて差しだすのを受け取り、二十あるブースを眺めた。
「一五番と一六番のブースをお使い下さい」
イヤー・プロテクターをして射撃スペースに入り、テーブルに銃口を標的に向けた状態でBERTTAを置く。イヤー・プロテクターには無線が内蔵されていて、連絡が入ることもある。会話は聞こえるものの、プライバシーを考慮しての措置だ。
「安全確認から、やってみな」
BERTTA MODEL 950SBSは瀬羅が所有するMODEL 25Aより僅かに小さく使用する弾薬は.22SHORTで玩具みたいに見える。瀬羅に促されもう消滅したチームのベースボール・キャップを反対に被りゴーグルをした冬華は拳銃を掴み、マガジンを抜きスライドを引いた。当然弾薬は装填されていない。その間冬華は標的に対し横を向き銃口は絶えず標的に向いていた。銃口を覗き異物の有無を確認する。マガジンに六発装填しグリップに入れる。標的に正対し構えた。
いいよ、そう声をかけたる同時冬華は発射した。レンジは一〇メートル。初弾の着弾はセンター。銃は小型だが反動は殆どない。残りの弾を速射した。標的を引き寄せる。紙のマン・ターゲットには十点圏内に直径二センチメートル弱の穴か一つ開いていた。
「暗殺者になれそう。敵にはしたくないな、大したもんよまったく。銃を置いて掌を向けて、そう、まあ大した衝撃はないだろうけど、グリップもよさそう。次は標的を二〇メートルにさげて撃ってみましょう。安全確認は忘れずに、少しでも疲れたと感じたらマガジンを空っぽにして中断すること、じゃ、あたしも撃ってるから何かあったら声かけて」
安全確認、弾薬の装填、標的に正対、慎重に狙いを定めトリガを引く(基本は二連射だ、それで命中させなければこちらがやられる、非早い動作でしかし決してせず狙いを定めて撃つ)。七発ともセンターに命中、ターゲットを新しい物に変え距離を三〇メートルに、そして五〇発、十点以内に集弾はしている。
直径三センチメートル弱の穴が一つ、が二ヵ月前に比べ腕が落ちている(運動は基本的に後天的に学習されるものだ、一週間休めば元の状態にするのに一月はかかる)、体で覚えたことは体で呼び覚ますしかない。ターゲットを変え再び三〇メートルにセット、(集中して音が消える、マガジン内の残弾数を数えながら速射し、空になるとマガジンを抜き弾薬を装填し撃つ、それを良いと言うまで繰り返せと聖が命令したのは夏休みの初日、旅行しようと誘われ待ち合わせの場所(二つ隣の駅のバス・ロータリー、理由を訊いても教えてくれなかった)に指示通り七日分の着替えの詰まったスポーツ・バッグを抱えて待っていると、約束の時間五分前に二年前に生産終了した黄色のRV車を運転して現れ、無免許運転に恐々同乗して連れていかれたのは人気のない山林に立つ山小屋で、一息つく暇もなくSIG/SAUER MODEL P3291を押しつけた時のことだった)、そして最後の弾丸がセンターを通過する。ジャムはなかった。
「お姉ちゃん、目立ってるよ」
レンジで撃っているのは瀬羅のみ。他の者は手を休め驚異的な腕前の少女に視線を注いでいる。そんな状況を無視しターゲットを引き寄せる。先刻より多少増しかと唇を噛み冬華に目を向けると、百発程撃ったらしいターゲットがテーブルの上に乗っていた。八割は十点、残りは九点の範囲に収まっている。疲れた? じゃ休憩しようかと声をかけ、熱を帯びたS&Wをホルスターに戻しゴーグルを外す。弾薬の装填されていないBERTTAを預かりゴーグルと残りの.22SHORTをブースに置いたまま休憩室に入りイヤー・プロテクターを外して空いている四人掛けの円卓に着いた。
「どう? こつは掴めたみたいだけど、後半きつかったでしょ」
ミネラル・ウォーターを飲みながら訊く。
「うん、腕と精神が消耗して後半弾がばらけた」
「問題ない問題ない、実戦でそんなに撃つなんてそうないし、基礎体力作りは中学生以降で間に合うから、本当に大切なのは危険に遭遇しないこと、残りも撃ってく?」
冬華は数秒考え、今日はもういい、もう学習効率はあがらないと思うからお姉ちゃんの見てる、と向けた小さな掌にはグリップの跡が白く残っていて、その掌を包むように握ると顔を赤らめる。可愛いなぁ、冬華(こじ開けたのはその言葉だったろうか、かれこれ五日間断続的に雨が降っていた金曜日の学校は静かだった。朝からの雨は深夜まで降り続くという予報に早々体育は中止になり、美術部の部室にペンナイフを忘れて取りに来た瀬羅は綺麗に白髪になった常駐の警備員から鍵を借り、大量の油彩絵の具が無作為に付着したモーゼルの足元に良く切れる自分のペンナイフを見つけ、手にして鍵を返却しようと警備員室に戻る途中音楽室の前でふと足をとめ、無頓着で不用心な警備員が寄越した鍵の束に音楽室の鍵もあったという偶然に音楽室の鍵を開け中に入った。国内メーカーのグランド・ピアノは鍵が掛かっていなくて人指し指で鍵盤の真ん中くらいのドのキーを押してみる。長く引きのばされた音の振動が感じられなくなり隣のキー、レを押した。隣のドまで繰り返す。夏未が欲しいと駄々をこね家に届いた時には興味を失い代わりに秋恵が弾いているピアノに触れたことはあまりない。秋恵は今『月光』を練習していてあんな指の動きは無理だけれど、ジムノペディくらいは弾けるかもしれないと最初の音を探すと不思議と次の音がわかった。左手を無視して一番を弾き終えた時、もう一度聴かせてくれないかと小さく後ろで声がして慌てて首を曲げると聖は、可愛いな、斎藤さん、と顔を赤らめた瀬羅に言い、その言葉にもっと顔を赤くすると、可愛いな、斎藤さん、そう笑う)、視界の隅に隆司がいて冬華と同じくらいの歳の男の子を二人(良く似ている)、そういえば双子の弟がいると聞いた、連れていた、席を立ち弾薬を購入している隆司の背後につき小さく鋭く、手をあげろ、人指し指を後頭部に突きつける。
斎藤さんを好きになるのは自然と言えるかもしれないと隆司は思う。
自然という言葉が不自然なら、ありふれた、或いは有り勝ちな、不思議ではない、没個性的な感情の動き、そう換言してもいい。初めて目にしたのは入学式の日だった。背が高く上級生か教師かとすら思えたがすぐに同じ組とわかり、どういう訳か友達になった。最初、大方の女子と同様に他人を拒絶する(女子の言葉を用いればお高くとまっている、いけすかない)人だと考えていた。休み時間になっても誰とも話すことなく、机に座ったまま前を向いて、次の授業を待ち、全ての授業が終了し下校の時間になっても自分から動こうとせず、他のクラスから友人らしい女子(綾のこと)に促されて初めて立ちあがるといった様子で、唖なのだという噂が立つくらい(数学の授業で指名された時回答したのですぐに消えた)言葉を発することが少なく、感情が見えなかった。
好きになるのは不自然かもしれない。近寄り難く得体の知れない自分より二二センチ背の高い美形に憧れるのではなく好きになる。良くわからない。好きになるとしたら多分目立たない大人しい娘かとにかく明るい娘だと思っていた。
「なんでもします、だから撃たないで」
四月一七日の金曜日、自習室で一週間の食事メニューの予定を立て、カロリー、有効成分、推定含有有害物質量の計算ソフトの修正を行い帰宅しようと玄関に向かい、教室の前を通ると斎藤さんだけが椅子に座ったまま残っていた。足をとめて数秒の間に随分迷った末、斎藤さんは帰らないのと声をかけたのは自分にしては良くやった方だろう。無視されるかと思ったら廊下にいる隆司に顔を向け、「あなた誰」と呟くように言った。
『同じ組の隆司です』
『そうですか、一条さん、岐原綾を見かけませんでしたか?』
『岐原って、斎藤さんがいつも一緒に帰ってる人? 見なかったけど』
『わかりました。私は帰った方がいいでしょうか?』
戸惑った。話し方に抑揚がなく意志と判断力が欠落しているようなことを言う。
『もうすぐ下校時間だし、帰った方がいいと思うよ、夜になる前に』
そうですねと呟いて斎藤瀬羅は立ちあがり、丁寧に椅子を戻した。声をかけなければ月曜日までずっと座っていたのではないだろうか。下校時刻を過ぎれば警備員が見回りに来るし、土曜日には清掃会社の人が入るが、そう思えた。
『有り難うございます。私は斎藤瀬羅といいます、宜しくお願いします』
言葉は操れても初めて日本を訪れた異国人、そんな感じがした瀬羅が変わったのは二週間前だろうか。ロングの髪を切り口調が変わり、クラスの女子とは未だ打ち解けていないが隆司には積極的に質問するようになった。
「五〇メートルで一〇〇発、テカピンで勝負」
振り向いて見あげる。一五年間生きても背が低いという現実は大きなコンプレックスだった。女子の平均身長を五センチメートル以上下回る背丈というのは、人を好きになる時や実生活に於いて非常に厄介で、電車の棚に荷物を置くのも苦労する。
瀬羅が提示したレートなら、最大限に負けても二食分の食事代に収まる。
そういう経緯で、隆司は渋る弟達の面倒を瀬羅の妹の冬華に頼み(年齢は弟達と同じと聞いたが、冬華と話していると隆司は同級生を相手にしているように感じた)、瀬羅と並んでブースに付いた。去年使えるようになったBERTTA MODEL 109CBに.40S&W弾を送り込む。かつて米国軍の正式採用拳銃だったBERTTA MODEL 92FSの発展形である109CBに対し、瀬羅は同じ.40S&W弾を使うSIG/SAUER MODEL P3291をレンタルした。自衛隊で正式採用されていたP220の発展形であるP229を更に改良した拳銃でP229は同時代の96Dよりは使い易いと感じたが、改良の末性能的に109CBとP3291は互角と見て良くなった。隆司はBERTTAの方がフィーリングが合う。
「力を使うのは反則だよ」
斎藤瀬羅が特異能力者で、風を操る術を持つということは会話をするようになって間もなく知れた。弾丸の軌道を操作されては勝ち目はないので釘を刺しておく。特異能力者としての力量は先日電車内の事件で明らかだった。車両の半分を灰塵に帰すような使い手は他に知らない。
「当然、それを使ったらリハビリにならないからね」
『リハビリ、射撃のだろうか、それとも精神のだろうか』
マガジンセット、ターゲットのセンターを狙う。初弾の軌道が全てを決する。初弾が大きくセンターを外れれば修正するだけでマガジンが空になる。疲労のないうちは十点に集弾させたかった。.40S&Wの衝撃は小さくない。数をこなしてゆけば肉体的にも精神的にも疲労がくる。マン・ターゲットの中心にのみ精神を集中した。
トリガを引く。浅いストロークでハンマーが落ち衝撃が手首から肘、肩に突き抜ける。
『ど真ん中』
グリップもいい。流れに任せ続けて撃つ。十発でマガジンは空になった。横を見る。十発だけ装填していた瀬羅もSIGを撃ち終え隆司の視線に微笑を返した。慌てて目を逸らし隆司はマン・ターゲットを引き寄せるボタンを押しマガジンに弾薬を装填する。弾丸は拳程度の面積に集まっていた。隆司にとってはこれ以上は望めない結果だ、横を見る。
『嘘だろぉ』
瀬羅の標的に穴は一つしか開いていなかった。しかも弾着穴の端が繋がるようなワン・ホールではなく、直径は一五ミリ以下の穴がセンターに開いている。能力を使ったのかとの疑念を打ち消す。力を使えば隆司にだって関知できる。ワン・ホールではなくとも十点に命中させれば構わない。ターゲットを新しいものに変えた、調子自体はいい。
点数上互角で進行したのは前半までだった。それ以降隆司の弾着穴は徐々に左右に振れだし、最終的に十発九点に外し、最後の弾をセンターの穴に通した瀬羅に昼食一食分の負けを被る。ベスト・スコアを叩きだしたのに完敗した隆司は悔しさよりも無力感に打ちのめされ、熱くなった109CBをテーブルに投げだした。瀬羅は十枚のターゲットを重ね繋がった穴を凝視している。美しい横顔には汗一つなく、表情もない。隆司の視線に気づき初めて笑顔を作る。パーフェクトは当然なのだろうかと、隆司は瀬羅の使ったSIGに目を向けた。射撃の腕に関する自信が音を立てて崩壊してゆく。
「その腕で金かけてたら友達なくすよ」
何気なく発した言葉に瀬羅は笑顔を消して手中のSIGのスライドをオープンし、テーブルに置く。「そうだといいな」との呟きの意味はわからず、隆司は109CBを鞄の中にしまった。何か気の利いた言葉でもかけられればいいのだが、口下手な方だし、そうするには理解が足りない。
「何だか、あまり上手くいってないみたいね」
休憩室でとが退屈している。周囲に迷惑をかける年齢でもないが、隆司の目にはがさつで図々しいと映る弟二人が退屈しているという構図は珍しい。
「あの子も人付き合い下手だから、似なくていいのに似るんだよね、変なとこばっかり」
「姉妹だから仕方ないよ。は結局家族そろって背が低いもんなぁ、塩基配列が恨めしいと幾度思ったことか。両親もそのまた両親も背が低いと遺伝子組み換えも期待できないしなぁ、斎藤さんと話すのも結構首が疲れる」
「その斎藤さんっていうのやめませんか? 一条さん」
瀬羅はSIGとゴーグルをトレイに載せ空の弾箱を塵芥箱に捨てる。
「ふむ。じゃなんて呼べばいいかな。斎藤君じゃおかしいし」
隆司は腕組みをし、本気で考え込む。斎藤でいいんじゃないのと瀬羅が言った。
「それは少し乱暴な気がする、何だか無意識で自分の優位性を主張しているようで嫌だ」
「気にするねぇ、さんも君も駄目呼び捨ても駄目なら名前かあだ名しかないと思うけど」
『確かにその通りなのだが、瀬羅と呼び捨てるのは論外だし瀬羅さんというのも。君付けというのはそんな固定観念もなく第一年下にするものだろう、男の場合、しかしあだ名で呼ぶ程親しいのだろうか』
隆司は頭を抱えた。最も相応しい人の呼び方を選択するのは昔から苦手だという奇妙な自覚があった。あだ名で呼び合う相手は一五年の人生の中で牧村俊樹だけだ。尤も昔のあだ名を人前で呼ぶと照れ隠しに殴られるので、最近はあまり呼んでいない。
「さっきから人が悩むの楽しんでない?」
「面白い。でもま、取り敢えずそれは後にして、向こうの緊張をどうにかしよか、呼び方は後でレポートに纏めて提出しなさい、今日の勝ちは付けにしとくから」
瀬羅はトレイを持ちブースを離れ、数歩行って立ちどまり顔を右に向ける。
隆司もそうした。その方向に違和感を覚えた。記憶にある感覚、熱帯夜に冷房を忘れ、背中に寝汗を吸った綿のシャツや夏物の薄手のパジャマが張りついたような皮膚感覚、電車で少女が変態するのを目撃した時のそれ。あの後成咲高校一年C組のだとわかった、人間の異形への変態事件はかつて危険地帯で数件報告されていて、少女の数日の行動に危険地帯への無断進入があり結局誰にも原因がわからないまま解決とされた事件。あの時少女だった者を瀬羅は何の躊躇いもなく抹殺し、表情一つ変えなかったが、隆司は数日気分が優れず、もうあんな場面には遭遇したくないと思っていた。
視線の先に高校生らしい少年がいる。隆司よりずっと背が高く瀬羅より少し低いという中背中肉の、髪は短く肌は日に焼けているので高校の運動部に所属しているのかもしれない、少年はブースにうずくまっていた。
『あの時と同じだ。しかし、どうする』
瀬羅は休憩室へと向かう。隆司は変調を伺わせる少年に近づいた。少年は端の二〇番ブースで射撃していた。隣のブースではスーツ姿の四十男がGLOCK、多分9mm×19を撃っていて、少年の様子は認知していない。最も恐ろしいのは周囲の人間が恐慌を来すことだ。レンジでは十数人が射撃している。無闇に使われたらどんな惨状になるかは想像に難くない。そして少年があれと同じモノになるのなら、拳銃は通用しないのは明らかだ。
『最善は変態する前に殺してしまうこと。しかしそれではただの殺人になる恐れがある。第一、人の形をした者を殺せるのか、僕は』
隣の男が少年に目をやり、声をかけ、反応がないと拳銃をテーブルに置いた。低い唸り声が聞こえる、猶予がない。隆司は走った。
「退いて下さいっ!」
怒鳴った。感覚は強まる一方、迷っている暇はない。しかし遅かった。男の首が転がっていた。変態が早い。大越環の時は髪から徐々に変化した感があったが、少年は立ちあがった時既に変態を終え、纏っていた服は寸断されて足元に落ちていた。
『どうする、僕には一瞬で消し去るような真似はできない』
レンジの客が少年の変態した姿を認め、近くのブースにいた男が早速COLTの銃口を向ける。発射。しかし外れた。異形の姿を成した者はトリガが引かれる寸前身を沈め、.44MAGNUM 弾は壁に埋まる。男に次弾を発射する時間は与えられなかった。長く鋭利な爪のある手が肉と肋を引き裂き心臓を握り潰す。絶叫。異形は死体を投げ捨て、死体は背後の壁に衝突した。
『死者二名、僕の甘さが招いた結果か。だがこれ以上はさせない』
かつてインストラクターに受けた戦闘訓練は護身術の範疇をでるものではなかった。積極的に仕掛ける訓練はしていないし、人間ではない眼前の少年だった異形に通用する技術は知らない。隆司は正面から異形に突進する。野太い唸り声、異形の前蹴り、蹴り脚に正面から拳を叩きつける、同時に練っていた力を開放した。
常人なら行動不能、下手をすれば心停止する力を受けた異形の蹴りはとまらない。腕が弾かれ腋の下に攻撃を受ける。激痛が走り体が浮いた。
『右足と右腕の交換、多少分があるかな、しかしまともに食らったら逝くぞ』
異形の脚は硬化している。隆司の腕も筋が伸び使いものにならなくなったが、バランスが極端に崩れた異形よりは失点が少ない。隆司は着地するなり休まず攻めた。打撃を与える必要はなく触れるのみで攻撃は成立する。冷静に相手の攻撃を見て致命的一撃をしていれば勝てるという自信が生まれた。片足が使えない異形は動きが鈍い。ぎこちない右ロング・フックを踏み込んで避け異形の盛りあがった胸部に掌を押しつけた。力を送り後退して距離を取る。効いたはずだ。異形が片膝を着く。
『もう一撃で勝てるけど』
息があがってきた。無駄に力を消耗できない。次で確実に決めようと力を練る。異形には先手を打つ余力がないようだ。呼吸を整える。気合が乗ったところで息をとめ、駆け寄り、力感の失せた異形の攻撃(左腕を横に振るだけだが、爪に捕らわれれば逆転だろう)を避け、背後に回り背中に力を叩きつけた、異形は力を失い前のめりに倒れる。
息をついた。
『常人なら四、五回は死んでいる、しかし意味がないな、人類を何回消し去れるってのと同じだ、五〇回が三〇回になっても何もかわらない、それに全滅する訳じゃなし』
異形が動いた。左手の指先が僅かに痙攣している。
『息がある。とどめを刺すか、でももう力を練れはしない、それに』
迷いが生じた。今は見境なく人に襲いかかる異形も数分前は隆司と大して歳の変わらない少年だった。好き好んでこんな姿になった訳ではないだろう、何か回復させる手立てがあるかもしれないと、気を抜いた刹那、異形は体を反転させ左腕を大きく振り回す。最後の攻撃だと隆司には判り、同時に異形の腕が伸び爪の軌道上に自分の頭があることを意識する。時々訪れる時間が引き延ばされた感覚だった。特殊な力を有する者の何割かはこの状態を体験する。経験から異形の攻撃を避け得ないとも確信した。
『死ぬのか』
怖くはなかった。実感がわかない。だが異形の爪は確実に迫ってくるし、力を身体能力の向上に利用できない隆司に躱す術はなかった。
『うるちゃんなら簡単に避けるだろうな』
小中と同じ学校に通い、高校も同じになった、力を身体能力の向上にのみ利用できる能力者の友人を思いだす。最近牧村俊樹の姿を目にしていないことが気にかかった。
死をもたらす爪を白いスニーカーが叩き落とす。ブラックのパンツに包まれた長い脚が異形の手首を踏みつけ、隆司は助かったことを実感し胸が苦しくなる。瀬羅は表情のないまま喘ぐ異形の口にCOLT MODEL ANACONDA(セラミックの銃身からシリンダーにかけて今は亡き持ち主の血液が付着している)を突っ込み、トリガを引いた。弾丸は貫通しない、それだけに全ての力が固い殻に包まれた頭の中で爆発することになる。
異形は激しく痙攣し数秒、活動を停止した。
二階にあがったところで遭遇したのはナイト・ストーカーだった。
そう呼ばれる怪物はホームレスの末路であることが多いが、三体のナイト・ストーカーの中の一体はSWAT装備に身を包んだ、元の年齢は二十歳程度であろう人の形をしてい、危険地帯でシューティング・ゲームをしていた者と推測できた。確かに人気のない寂れた感のある町並みはゲームに最適かもしれないが、危険地帯特有の悪気に充てられれば理性を失い彷徨する脱け殻となる。脱け殻とは言え無力ではなかった。理性が消失した為に肉体の本当の全力、良く言われる火事場の馬鹿力的なそれで、同類ではない者に襲いかかる。
残りの二人の服装は薄汚れて統一感がなく厚着、住む場所を追われ仕様がなく危険地帯に流入してきたホームレスの成れの果てと俊樹は推測した。
俊樹にとって敵としての脅威は小さな存在だった。ナイト・ストーカーは9mm程度の銃を多少食らっても動き続けるが、.44 MAGNUM 辺りで撃ち抜けば機能的損傷を受け停止し、力押しが利く。逆に言えば破壊力の小さい武器しか持たない者にとっては脅威だが、俊樹の手足はマグナム弾を遙に凌ぐ威力を持つ凶器となる。正気はあるかと俊樹は訊いた。当然返答などなく、代わりにSWAT装備がM16Aのモデルガンを手に飛び掛かってくる。スピードが違った。ナイト・ストーカーの発揮する能力は人としての限界、対する俊樹の特異な力は人としての限界を越えている。力の膜で覆った右拳はSWAT装備のプロテクターを打ち抜きナイト・ストーカーの心臓を直接粉砕した。休まない、覆い被さるように残りが飛び込んで来ている。両方の拳をそれぞれの心臓目掛けて繰りだす。
それで戦闘は終了した。相手にならない、踏み台としては小さ過ぎると俊樹は呟く。
二階に動く者が他にないことを確認すると俊樹は廃屋を後にし、商店街へ戻る。先程掃除したばかりのグリーン・アカセイアの集団は既に復活し、路地裏にたゆたっていた。それが俊樹に気づく。アカセイアの武器は全身を覆う骨盤の鋭利な突起物であり、体当たりがその攻撃法の全てだった。五体のアカセイアは一斉に俊樹目掛けて突進してきた。被害者を食うでもなくただ殺す、その習性は今の俊樹と同じだった。聖に敗れて以来、俊樹は危険地帯に入り、強敵を求めてひたすら殺戮を繰り返している。強くなりたい、俊樹の願いはそれのみ、屈辱を晴らさなければならない。
アカセイアも力押しが利く。無論防御力はナイト・ストーカーの比ではないし、接近戦は危険が伴うということは先週二〇針縫う傷を腹部に受けて承知している。左右の手の親指に力を集中した。力を練り親指で空気を弾く。それだけで圧縮された空気が音速を越え弾丸となってアカセイアを撃ち抜く。威力は同時に二体のアカセイアを貫通する程だ。左右の指弾で四体の敵が消えた。残り一体、俊樹は敢えて指弾を用いず、接近してきたアカセイアの胴体に正面から拳を打ちつけた。貫通した拳は傷ついていない。
「強くなったことは自分でもわかる、しかし奴にはきっと及ばない」
鎧袖一触に撃退した俊樹は静かに呟く。銃声が聞こえた、人がいる。
銃声のした方に俊樹は歩を進めた。人がいて、何かに襲われているのなら敵がいる。俊樹のように、ただ武器を用いて危険なハンティングをする狂った人間でもいい。踏み台が必要だと俊樹は考えた。強くなる為に必要な試金石と言ってもいい。
今回は後者だった。手に入れた44MAGの威力を試したくて仕方のない大学生、そんなところだろうか。三人組で三人共に髪が長く、場所にそぐわない恰好、ショート・パンツにTシャツという組み合わせにアクセサリーの大同小異が俊樹の気を削ぐ。
三人は俊樹の姿に最初怯んだ様子を見せたが、俊樹が正常な人であるらしいことに安心したのか、あんたの得物は何だい? と仲間と見做して話しかけて来る。俊樹は答えなかった。三人が怯えてTURNING TRICKSTER MODEL.44 MAGNUMの銃口を俊樹に向ける。ここは危険地帯だと三人のうち一人が言った。返答がなければ撃つとの意味だ。
「ナイト・ストーカーに遭わなかったのか。ああなりたくなかったら、さっさと帰った方がいい」
挑発になることはわかっていたが、気を使うのも面倒な連中だと俊樹は思った。戦闘に慣れ過ぎて気が荒んでいる。幸いその挑発に乗る程三人は子供でもなかったのか、暫く俊樹を睨んだ後声を掛け合って歩きだした。俊樹も敢えて正常な人間と闘う意志はなく、闘ったところで試金石にならないことも承知していたが、三人の進行方向に覚えのある気配を察知し足をとめた。
「おい、とまれ」
声を掛けると同時駆けだした。勘違いした三人が各々の銃を俊樹に向け、発砲する。俊樹は舌打ちした。弾道は一発だけが脚をかすめる、動く標的をろくに狙いもしないで撃った割には良い方だが、好んで実戦に飛び込んでいい腕ではない。俊樹は力を体内に循環させ弾道を回避して疾駆する。次弾が発砲される前に懐に飛び込むことは容易だった。三つの銃を奪い取る。
「逃げた方がいい、あそこにいるのはちょっと厄介な奴だ」
囁くように言った時、漸く自分達の進行方向に黒い影を発見した三人は現状を把握したのかしないのか、立ち尽くした。三つ首の犬の形をした黒い影、シャドウ・オブ・ケルベロスと呼ばれる危険地帯でも強力な異形はナイト・ストーカーとは根本的に異なる存在だ。元来がただの人であるナイト・ストーカーに対し、ケルベロスの影は黒球やグリーン・アカセイアと同様に、実体は《向こう側の者》と呼ばれる異形であり、拳銃では歯が立たず当初人間側は逃げるしかなかった相手だった。危険地帯に送り込まれた特殊部隊にも数多くの死をもたらした存在だ。ライフル、手榴弾、対戦車ミサイルでの攻撃は悉く通用せず、危険地帯そのものに触らぬ神に祟りなしという判断を下す要因にもなった異形、俊樹の集めた知識がそう断定を下す。
「返せよ」
TURNING TRICKSTERの持ち主が俊樹から銃を取り返しゆっくりと向かってくるシャドウ・オブ・ケルベロスに今度は正確な狙いを付けて放つ。弾丸は弾かれなかった。貫通することもなく、しかし命中した衝撃もなく異形は澱みなく歩き続ける。影を撃ったかのように手応えのない男は「外れたのか」狼狽する。
「外れちゃいない、あれはそういう相手だ、わかったらさっさと逃げな」
「逃げろったってお前はどうすんだ」
詮ないことを言う男に俊樹は、俺の楽しみを邪魔するなよと釘を刺し銃を返すと対峙する。
間合いを詰めた。懐に飛び込み三つある首の付け根に正拳。すり抜けた、手応えがない。引き抜いた腕には異常なしとわかったが、俊樹は飛び退いて距離を取る。
「一筋縄じゃいかないな、久し振りに燃えてきた」
背筋に冷たいものを感じながら俊樹は呟いていた。敵は初めて俊樹を認識したように歩
をとめるが、次の行動は素早かった。来たと思って身構える俊樹の横をすり抜け逃走に移っていた、だが数メートルしか移動していない三人の男達に襲いかかる。俊樹が振り返った時二人の男は既に消えていて、最後の一人に影が触れると、触れた部分から男の細胞組織が崩壊し、灰と化してゆくのが見え、次の刹那には男の全身は灰塵に帰し吹いた風に舞っていた。
失態だった。敵の攻撃を受けようと待ちの体勢だった為に意外な行動に対する反応が一瞬遅れ、その僅かな遅滞が三人の人間の死に繋がった事実に冷静さを取り戻し正気になった。大地を踏みしめ四肢に力を籠める「次は様子見ではなく本気だ」、そう呟き大地を蹴る。全力の右ミドル・キックが唸りをあげて、空を切った。影はすり抜けただけだ。影の体当たりをガードすると確かに衝撃があったのに、俊樹の攻撃は当たらない。
『影は影、実体ではなし、何処だ、どうすれば捕らえられる』
ケルベロスの影を倒す方法はある。俊樹のような特異能力者で力を外部に放出可能な者の攻撃は通じるし、威力によっては一撃で闇に滅することも可能という報告例がある。俊樹の友人の一条隆司、恋人の岐原綾やその友人の斎藤瀬羅のような特異能力者になら可能ということだが、俊樹のように単純な肉体強化にしか力を用いられない者には不可能ということだ。内に力を循環させているので先刻の男達のように灰にされることはなくとも、攻撃を加えることはできない。実体のある攻撃をボディに受け、遠のきかけた意識を繋ぎとめる。続いた牙は躱した。
『力の外部への放出、できるか? しかしやるしかないな』
今まで成功したことのない方法を俊樹は実現しようとした。攻撃をじっと受ける。理屈ではない、感覚の問題だ。体内に循環している力を放出する、感覚、一度覚えれば簡単なこと、僕にはうるちゃんみたいな力の使い方が難しいと隆司は言った。影の前足の一撃をガードし損ない、体勢を崩しかける。体当たり、尾による攻撃、徐々にガードが間に合わなくなる。右腕に噛みつかれた。
「うおおおおっ!」
かつてない感覚があった。体内に循環していた力が暴走し、出口を捜し求めている。拳を突きだし、そこから力を開放した。俊樹の司る、いや、寧ろ俊樹を司る炎の本流がシャドウ・オブ・ケルベロスを包み込んだ。獰猛な炎が影を焼き尽くすのに数秒と掛からなかった。
その少年が強い力を持っているのは明白だが、具体的に如何なる力をどの程度のレベルで使えるかはわからない。瞬時に生じたのは警戒心と強い興味だった。餌は覚束無い足取りで駐車場を歩いている。少年(同じ高校生だろう)は餌の所有物である普通乗用車の運転手側のドアの横に立ち、餌を見据えていた。敵か味方か、鋭い緊張に首筋の産毛が逆立つ。
餌が少年を認知した。
「君は、欠席していたはずだが、こんなところで何を」
少年は餌が担当している組に属する人間、多分一年A組の生徒か、或いは登校頻度の高い一年の他の組の生徒だと推測できる。辛そうですね、先生(少年は抑揚のない声を発し餌に接近する。本当に調子が悪くてね、今から病院に向かおうと)餌は脂汗を浮かべていた。兆候はある、真紀はを決め込んだ。
「セミ・オートにしてもそんな状態で運転するのはどうかと思いますよ」
随分常識的なことを口にすると思った刹那、少年の腕は餌の左胸を貫いていた。少なからず出血しなければおかしいのに、少年が腕を引き抜いても指先にすら血液は付着していず餌の胸には穴すら開いていない。餌は倒れ少年は何か、蟹のようなもの、甲殻類の形に黒鉄の如く鈍色をした、手足らしきを激しく蠢かしているものを手にしていた。
少年が真っ直ぐ真紀の方を向く。気持ちが怯む。存在を察知されているとは思わなかった。少年が手の中のものを潰す。常人であれば信じ難い握力だった。砲丸を握り潰すようなものだ。
潰されたものは痙攣するように手足をピンと張り、質量を消失し幻さながら消える。同時に倒れていた餌も消え、身に付けていた衣服と腕時計、ホルスターに拳銃、革靴、鞄だけが残る。真紀は幻視を解き姿を露にした。待ちなさい、一瞥して立ち去ろうとする少年にそう呼びかけても立ちどまる素振りはなく、真紀は仕方なしに走り少年の行く手を阻むように回り込む。少年は中肉、やや背が高く、高校一年だとやや高いではないかもしれない。外見は取り立てて変わった所はなく、しかし程無く変態するのは確実とは言え、人間を殺した直後なのに無表情でいる。
『仲間にしては愛想がないな、それに、同じ高校に仲間がいて私が知らないのは奇妙だろう。撒き餌に食いついてきたし、敵か? どうする』
「赤い竜の牙ではないな」という真紀の問い掛けに、意外にもあっさり、ああ、と返事をした。《赤い竜の牙》の存在を知っている調子だった。不審感と警戒心が強まる。
「邪神の種子に寄生された者をデリートした、お前」
誰だと問おうか何だと問おうか迷った真紀を少年は右手を上げて遮り「可愛いな、あんた。もっとらしい口調の方がいい、相手も油断する」少しも実感の伴わない口調で言う。真紀は言葉に詰まり、頭にきた。同時に敵に回すのは危険な存在だと心の何処かで確信する。
「そうね、有り難く御忠告受け賜りますわ」
虫酸が走ると思いながら少年を鋭く睨んだ。
電車の車両内で異形に姿を変えた少女を消滅させ、秋恵の進路相談に行き夜、危険地帯に綾の恋人の牧村俊樹を連れ戻しに向かい偶然聖を見た六月一二日、成咲高校二年A組青木夕香は登校し、授業を終え駅で友人と別れてから消息不明になった。
週が明けた一五日、成咲高校二年B組村山美奈も同様に行方不明になり、一六日は三年F組江藤浩二が野球部の練習中軽い怪我をし、保健室へ向かったが練習に戻らず、帰宅もしなかった。保健医は同校地学室にて、死亡していた三年B組担任の地学教諭井上の件で保健室を空けており、井上を発見し保健医に知らせた三年F組美翔真紀は江藤の姿を見なかったと証言している。同日、成咲高校一年E組の伊藤恵美の父親は帰宅後、娘の姿がなくしかし靴が揃っていることに気づき捜索願いをだしていたが、一九日、自宅から駅三つ先の危険地帯に程近いゲーム・センターのトイレにて伊藤恵美の遺体が発見された。そこには詰め襟を着た、成咲高校二年C組の遺体もあった。当初その服装から佐伯博之は中学生か成咲高校以外の高校生だと推測された。どうして詰め襟を身に着けていたか理由はわからない。二人の死因は衰弱死だった。しかし発見時の遺体の様子から行方不明になってすぐ死亡したと判断された。他に激しく転んだような擦り傷、着衣の乱れ、陰部の裂傷などが見受けられ、伊藤恵美の膣からは佐伯博之の精液が検出され、二人の被害者には肉体関係があったと断定された。また佐伯博之の左の膝から下は失われていたが、治療が施されていた。二十日、成咲高校二年D組の死体が発見されたのは県南の海岸沿いにあるホテルの一室だった。笹木里香は十歳年上の恋人と一緒にバス・ルームで全身に無数の傷を負い、失血死していたが、嵐の後のような様相を呈していた部屋には二人のものではない血痕も発見されている。
二一日、再び異形と遭遇した。シューティング・レンジでのデータから、異形に変態した少年は成咲高校二年C組ということが明らかになった。
行方不明三、死亡二、異形への変態二─。
この十日間にこれだけの成咲高校生徒が生死に係わる何らかの事件に巻き込まれているという事実に、学校側は可能な限り登校を控えるようにと各生徒に通知し、登校する生徒数は全体の二割強になったが、有効な手段とは言い難かった。
今月に入って県内、成咲高校のある区域、自宅のある区域、それに隣接する危険地帯に接した区域、この三区域で行方不明事件が続発している。延べ二五人、そのうち伊藤恵美の場合と同じく死亡が確認されたのが四名、笹木里香の場合のような殺人事件に目立った増加はなく、人の異形への変態も瀬羅が目撃したのを除いて一件報告されていた。行方不明になった人物は一四歳から二十歳、男女比は凡そ一対二と年齢の幅が狭い。この幅から即座に想起されることがある。一四歳から二十歳というのは特異能力者の数が多い年齢だ。二〇二七年以前に生まれた者に特異能力者は極稀(報告数は三)にしか見られない。特異能力者が誘拐される事件は数年前に流行した。能力には個人差が大きく性質も多種あるが、使い方次第では多くの場面で大きな戦力になる。異なる種類の能力を持った人間が揃い統制する頭脳がありその力をテロに利用したら現行の特殊部隊に対応は不可能、その予測があるから海外のテロ・グループにも狙われるし自衛隊の対テロ部隊に一等陸佐の待遇でスカウトもされる、瀬羅も先日の事件でマークされているはずだ。
朝方降っていた雨と学校からの通知により、教室には四人しか生徒がいない。
というバレーボール部の─斎藤さん背高いし運動神経もいいでしょ、バレーボールやってみない? 放課後にそう声をかけてきた娘で、何と断っただろうか、興味ないからと相手にもしなかった記憶が確かなら気を悪くしているのだろう──ホープと、という中間テストで学年二位の成績だった卓球部に在籍する子と、文科系にしろ体育系にしろクラブに属していない隆司と瀬羅とで、ほぼ毎日登校してくる一年F組の生徒は全てだった。教卓に埋め込まれたカメラの前で背の高い痩せた英語教師が教科書を読み「Soil and rock from John E.Young,Mining the Earth,Wordwatch Paoer 109(Washington,D.C.:Wordwatch Institue,July 1992); the annual sediment load of the world's rivers is estimated at 16.5 billion tons,according to J.D.Milliman and R.H.Meade,cited in Brian J.Skinner,"Resources in the 21st Century:Can Supplies Meet Needs?"Episodes,December 1989;Superfund sites from Van Housman,Office of Solid Waste,EPA,Washington,D.C.,private communication,August 26,1994;see also Johnnie N.Moore and Samuel N.Luoma,"LargeScale Environmental Impacts: Mining's Hazardous Waste,"Clementine(mineral Policy Center,Washington,D.C.),Spring 1991.」出席番号二八番の生徒、一番から二〇番が男子生徒なので、、机のケーブルに接続している瀬羅のモバイル・パソコンは画面の右上四分の一、6400×5120ドットの領域に煉瓦色のカーディガンを着た細面に切れ長の一重瞼の目に細い鼻稜、少し大きめの薄い唇の妹尾恭子の顔のリアル・タイム(勿論ほぼ完全なリアル・タイム)画像が表示され、妹尾恭子は指名されることを予想していたのか慌てた様子もなく訳を答え、英語教師(名前は覚えていない)は宜しいとのみ言い次の英文を読みあげ、端末の画面右上四分の一は再び眼前の英語教師の上半身を表示し、カーソルキーで画面を動かし表示される英文を目で追う振りをして、隆司の小さな(身長との比率にしても、男にしては随分狭い)背中を眺め、昨日瀬羅が冬華に声をかけられ動かなければ今日隆司の姿を見ることはなかったという確信を恐れていないことを確かめる。隆司の力が異形のそれと大きな差がなく、自己の力が異形を圧倒していると知っていて助勢しようとしなかったことを後悔していない。以前と同じ感情と思考の停止を受け入れる。
一条と斎藤、職員室から呼出きたぞ、行って来なさい。そう名前も知らない英語教師に言われ隆司と一緒に教室を後にし、A棟にある職員室へ行く為に他のクラスの前を通ると他の組にも四、五人しか生徒の姿はなく、B組で数学の授業(F組は三日前に終了した高次方程式らしい、ルールを覚えルール通りにやっていれば問題なく解けるもの)を受けていた綾と窓越に目が合い、笑みを作った。俊樹は聖に負けた後休み勝ちで今日も登校していず、原因を作った張本人もA組にはいず、A棟とB棟を繋ぐ渡り廊下でギンガム・レッドのシャツを着ている隆司に「昨日の事だよね、やっぱり、二回も遭遇すると面倒になりそうだって思ってたけど。ところでさ、最近俊樹見かけなかった?」と訊かれ、首を振り「牧村君も必死だと思う、完敗だったから」言うと「だろうなぁ、でも信じらんないな、俊樹が子供扱いだなんて」隆司は軽く息を吐いた。
窓の外、緑の芝生にメインのカンパニュラにカスミソウが添えてある花壇やツツジ、何年か前に前衛的という触れ込みで設置されたらしい軟体生物を思わせる形の趣味の悪いベンチの中庭に多分梅雨の中休みの高い日差しが弾けるのに目をやり、赤いTシャツ黒いフレア・パンツの聖がA棟とB棟を繋ぐもう一本の渡り廊下を歩いているような気がして、目を瞬かせると聖は消えたが白昼夢でないことは理解していた。
職員室の前に学年主任の地理の教諭と見るからに切れそうな、一二日に任意の事情聴取を受けた警察署の刑事二人(一人は切れ長の目をした二十代後半の男性で、もう一人はもっと若い女性だった)と紹介され、校長室の隣の客間で質問を受ける羽目になり、─変態前の少年の様子はどうでしたか? 変態の兆候はありましたか? 変態後に意志を感じることはできましたか? その撃退方法について説明して下さい─昨日とほぼ同じ内容の質問に、──注意していた訳ではないので、外面的には監視カメラの映像以上のことはわかりません。兆候、僕が目にした二つの事例については、変態前に低い唸り声、犬の警告のそれをもっと低くした感じのものをあげます。意志があるとすれば不特定多数の殺害だと思います。僕の場合は接触して力を叩きつけました。外皮は銃弾を受け付けませんが、自殺はできるみたいですよ─昨日とほぼ同じ内容の答えを返す隆司に、相槌を打ち、TURNING TRICKSTERの五〇口径、マズル・パワー3316ジュールの徹甲弾も駄目でしたよねと向けられた女性刑事の言葉に首肯して衝撃にも堪えた様子はありませんでした、と答えてみる。
枯れてしまったのはダリアだったのだろう。翌年の初夏に場違いに背の高かった覚えのある様々な形と色のダリアの集団は見られなかったし、代わりにペチュニアかカンナがそこに植えられていたはずで、それからダリアと義父の姿を庭で見ることがなくなったのは高温多湿に弱い植物を育てるのか難しかったのと、義父は出張先の空港で過激的な自然保護団体の爆弾テロに巻き込まれ即死は免れたもののICUでの必死の治療、体の様々な部品の人工物(人工心臓、人工胃腸、人工腎臓、人工肝臓、人工血液、人工血管、人工神経など)へのすげ替え、可能な限りの損傷組織の再生の末、一命を取り留めた後自殺したのだし─果物籠にはバナナとパイナップル、小振りな西瓜にメロン、時期外れ、輸入品か何処かのバイオ施設で作られただろう今時ワックスでテカテカ光る林檎、ざらざらした手触りは嫌いだった梨と奇妙なくらいに形の良い柿という、見舞品には種類も量も多過ぎる果物が溢れていて、それこそ色々な香気の混ざった甘くなだらかな匂いが鼻に付いて、ざらざらした嫌いな、何だか掌に湿疹ができて薄い角質化する寸前の表皮が数匹の青虫に食いつかれた葉のように剥離する子供染みた空想を抑制して、義父の好きな梨を果物ナイフ(勿論何処にでもある、普通の)で剥いて、厚めに剥いた皮は途中で切れず水気をたっぷり含んだ果肉を割って芯を抜き、深さのある薄緑に色の付いた縁が円でなく緩くカーブした曲線で角を落とした五角形の皿に八等分した果肉を全部入れ、一つに小振りのフォークを刺し、病室の小さな白い木枠の付いた窓越しのダスティーミラーとピンクのペチュニアの組み合わせの整形庭園を描いている白い長袖シャツとジーンズの、袖や二の腕の部分、膝頭に緑や赤や白の絵の具を付けた白い野球帽を被っている中学生か高校生か、何方にも見える少年が画用紙の上に描きだすのを眺めていた義父に差しだし、自分が何処にいて何をしたいのかわかっていますか? そう尋ねると義父は珍しく真っ直ぐ瀬羅の目を見て深く頷き、お盆の上に梨の皮と芯と乗っていた果物ナイフを手にすると躊躇いも恐怖もなく首筋を、頸動脈を断ち切り更に残された数少ない自分の物だった首に突き立てた─、ミモザは翌年夏未と秋恵がお揃いのワンピースの柄のことで掴み合いの喧嘩をした時に散々に踏み荒らされるまで庭を彩っていたのだから、義父が不注意で枯らしたのはダリアだと思い、聖が立っていた場所を眺めていると、綾が廊下の端からメロン・パンを投げたので右手で受け取り(受け取った拍子にパンの入っていたビニール袋は破れてしまったのだが幸い中身が飛びたしはしなかった)、何か恨みでもある? と睨む。
洗濯物(ブルー・ジーンズ、Yシャツ、ネイビーのシャツ、ぶち犬の絵柄のTシャツ、同じ柄のブラジャー)の絵が胸のところにプリントされている白いシャツは入学式の前日、誕生日だからという理由で瀬羅がお金をだしたもので、綾は白い紙袋を抱えて上目遣いに媚を売るような笑みを浮かべて、ちょっとした挨拶代わりっていうか、ちょっとした運動っていうか、無駄な運動をしてエントロピーを増大させていることの罪悪感を紛らわす為に繰り返す過ちっていうか、あたしは瀬羅が好きだよって意味の家族的触れ合いにも似た行為の一つというか、まあそういうこと、と要約すれば別に理由はないと言う。窓を開けて低い窓枠に腰掛けてカレー・パンの袋を開ける隣でメロン・パンを齧り、フルーツ牛乳を飲んでいるとさっき綾が立っていた場所に今度は大場冴子が立って、横、いいかなと言い返事も待たず瀬羅の横に座り焼きそばパンのラップを解いて一口頬張り、飲み込んでから、なんかさ、斎藤さんって嫌な奴って思ってたんだけど、なんていうか、ほぼ毎日登校してくるクラスの女子って斎藤さんしかいないから、それでね、と焼きそばパンを頬張るのでメロン・パンを食べるのをやめて混乱していると「人付き合い下手ってんじゃないだろうけど口の利きかた知らない人、名前は?」綾が大場に質問していた。
「名乗る程のもんじゃないけど、大場冴子一五歳、来年のバレーボール部のエース・アタッカー、四年後にはプロになってオリンピックに出場する予定」
「随分大きくでたわね、あたしは岐原綾、瀬羅の親友身長一六五センチ体重四七キロ牡羊座のA型、好みのタイプは斎藤瀬羅、以上」「何それ、あんたらレズ? でもあんた牧村俊樹と付き合ってんでしょ」
「どうして知ってんの? ちょっと勝手に人のアンバタ取らないでよ」
「いいじゃん、あんたら二人でこんなに食ってちゃ、豚になるわよ」
「その分動きゃいいのよ、瀬羅なんてどんなに食べてもでかくなるだけだもの」
二人は瀬羅を置き去りにしたまま当然の如く自己紹介していた。大場は、じゃ、そういうことで、と手を振って教室の方へ歩いて行ってしまい、気安く手を振り返す綾につられ申し訳程度に右手をあげる。軽く肩を叩いて「友達できたんじゃない」笑う綾に微笑み返しシーチキン・サンドを手にすると、綾は血相を変えて「それあたしの」手を伸ばすので、立ちあがり頭上に掲げて「半分」なるべく無邪気そうに笑ってみせた。綾の腕がちらちらする視界に廊下を歩く大場冴子の姿があり、大場の前に聖が現れその右手が黒い大場のニットのタンク・トップの左胸を貫き赤いTシャツと腕と顔に返り血を浴びた。
「どしたの、瀬羅」
動きをとめ、遠くを凝視している瀬羅に綾は怪訝な声をだし、視線を追った。
瀬羅は駆けだす。セイ。そう声をかけようとした時、倒れた大場の躯の横に小柄な少女が現れ聖に何事か言った光景に何故か声はでてこなかった。聖が空気に溶け入るように姿を消すのをじっと見ていたのに、廊下には大場の遺体も血痕も残っていない。
邪心の種子に寄生された者、即ち変態し不特定多数の人間を殺害せんとする者をデリートする者は真紀の敵である可能性が高い。被寄生者が一年A組担任の高花のみでないことを真紀は気づいていなかったのに、気づいていた少年は高花豊の時と同様の手段で、遙に手際よく犠牲者をデリートした。その場面を斎藤瀬羅に見られたことは真紀にとっては思わしくなかった。六月一二日、及び二一日の邪神の種子の犠牲者暴走に際し一年F組斎藤瀬羅と同じくF組の一条隆司とが、力を使ったことは警察の情報をハッキングする必要もなく噂として耳に入ったし、遠目に見るだけでも特異能力者の感触は得ていた。情報から推測する斎藤瀬羅の力は弱く見積もってルアと同格であり、自分の力の種類が相手に知られていずに、かつ不意を打てるにしても青木夕香や江藤浩二のように容易に無力化できる存在ではない。可能ならばこちら側の陣営に迎えたい力だ。他メンバーの力を持つ者の誘拐に際し光の種族の妨害を受け、メンバーが殺される場合も増えているし、勢力の拡大は重要事項な為に斎藤瀬羅への心象は大切にしたかった。その眼前でクラスメイトをデリートした現場にいたとなれば、変態前だっただけに心象は悪くなる。その視線を感じ慌てて大場冴子の衣服を回収し幻視の能力を使い姿を消したものの、誤魔化せはしなかったろう。
『過ぎたことを悔やんでいるばかりでは埒が明かないな、やる事は沢山ある』
昼休み後の五限と六限の授業を終えてC棟の演劇部の部室に行く。
成咲高校の敷地は元々広くない。ただ地下二階までの増築やC棟の設置により教室は余るような状態で、正式に認められている部には部室が用意され、認知されていない集団も無断で空き部屋を使用していることもある。演劇部は正式の部なので、部室は一階の日の光が入る部屋だった。部室には過去の演目に使用した小道具や衣装(定番とも言えるシェークスピアの四大悲劇やロミオとジュリエットに色々使い回した中世ヨーロッパの衣装を参考に裁縫した物(らしく見えればいい)や、吸血植物の衣装、吸血鬼の黒ずくめの礼服とマントに犠牲者となる乙女が身に着けるグランソワレだの、あまりに良く出来たので廃棄処分が惜しくなったの木)が整頓されているとは言え置かれていて、広いとは感じられないが一般教室と同じ面積があり、真紀より先に部室に来て台詞の独唱をしていた部員が稽古を中断して挨拶してきた。三年B組と三年A組、次の演目の主役二人には可能な限り直接に台詞合わせするよう指示してある。目的は神崎百合だった、青木夕香の時と同様目撃者のいない状況で、渇きを癒す機会を伺っていた。
「高橋休みだから今日はあたしが相手」
高橋聡の欠席は確認している。真紀にとって絶好の機会を逃す手はなかった。プリント・アウトした台本を開き神崎百合と向き合って立つ。
「最初から、百合がA、私はそれ以外の役を受け持つから」
青木夕香は台本に固有名詞を用いていない。名前を決めるのが苦手な方で、最後に決めるタイプだったから、手をかけた時は登場順にアルファベットを割り振っている状態で、部員達の意見は、なるべく名前を勝手に決めはしないで一致した。
Aは以前に苛めにあった経験があり、滅多に登校しない。NETWORK上で受講できるから進級はする。友人ともNETWORKを通じて話はできるし、休日にはその友人であるBと外出もする。そういった平和な時間が中学三年の夏休みの終わりに途切れる。理由は、一人きりの親友Bの些細な裏切り行為、Aの好きなCとBが交際していたということを知り、Aは一方的に悲嘆しBの言い分も聞かず絶交の言葉を叩きつける。Aはその後精神的な孤立状態に陥る。肉体的な孤立には慣れていても本当の孤立を知らなかったAはその欠落を埋めるべく心の触れ合いを求め、NETの上を彷徨うが、心を閉ざしたままのAの枯渇は深まるばかりであり、EというAを気に掛け接触してきたクラスメイトの少年も拒絶したが、高校進学という転機を間近に控えた年末、DというNET上の存在に強く惹かれる。DはNET上でただ話をする、いや、物語るのみの存在だった。毎晩午前零時から四時間、旧時代のCUI環境のチャンネルに現れ、物語り、時間になるとチャンネル上から姿を消すDとの接触に生きる縁を見つけたAは、ある日Dの、僕はNET上にしか存在しないという告白を聞く。当初は冗談として聞き流していたAも、Dの奇妙な魅力に引き込まれていくうちに、その言葉を信じ、自分もNET上のみの存在になりたいと願うようになり、ついにその願い通りNET上にのみ存在する者となる。他の多くの行方不明事件と同列に扱われ、Aの存在が現実上で希薄になってゆくが、EだけはAの失踪に不審を抱き、Aの足跡を辿り、最終的にNET上のAから「ワタシハココニイル」というメッセージを受ける。そこで幕─最後の部分は真紀が手を加えた。
「この脚本気に入ったな。本当に、青木さんどうしちゃったんだろ」
ワタシハココニイル、そう最後の台詞を言い終えた神崎百合は大きく息を付いて真紀を見る。今度の演目の成功は偏に神崎百合の芝居に掛かっていると断言できる程、神崎百合の出番と台詞が多い。他の全ての登場人物を受け持った真紀よりも重労働だった。
「事件に巻き込まれてなければいいんだけど、家出は考えいし、最近物騒だから心配だね」
私も嘘が巧くなった、と思いながら真紀は部室のドアを開ける。
「休憩、飲み物買ってくるけど、何がいい?」
神崎百合は青木夕香と同じように人指し指を口許に当てた。
「甘いものは駄目、でしょ、麦茶がいいなぁ、もち冷たいやつ」
「うんうん、主演女優としての自己管理は万全を期してね、偉い偉い」
部室をでて廊下を歩き、自動販売機の設置してあるホールで二五〇ミリリットルの缶の麦茶を一つ、真紀はコーヒーを買う。すぐに教室に戻った。「Thanks」神崎百合は綺麗な発音で言い、麦茶の缶を受け取る。あれ、コーヒーなんて珍しい、普段はお茶なのに、人が砂糖控えてるからってわざわざそんなの飲むの? という神崎百合の言葉に笑いながら、そういうこと、と蓋を開ける。意地悪だな、本当、そう呟いて神崎百合は缶に口を付けた。真紀は窓の外に目を向ける。チームの柱を欠いた野球部の何処か気の抜けた練習、外野のノックでライトが簡単な飛球を取り損ない、後ろに逸らしたボールをノロノロと追っているのに、ノックをする主将の檄も小さい、を眺めてから、神崎百合の方を見る。まだ中身の入った缶が床に落ち転がる音を聞いた。
「真紀?」
怯えている。
『私の正体を悟ったか? 勘の良い娘が多いのかな、演劇部には』
近づく。もう二歩、というところで、首筋の産毛が逆立つ感覚があった。咄嗟に身を屈した頭の上を鈍色の光が通過する。真紀は神崎百合を後回しにし蹴りを放った。ヒット、壁際に後退する。眼前にいたのは白と黒、灰色の都市迷彩の戦闘服に身を包みサバイバル・ナイフをフェンシング・スタイルで構えた男だった。真紀は男の目を見て、笑う。
「訊くまでもないことだが、敵だな」
男は無言で間合いを詰めてくる。
『救おうというのか、この娘には特別な力はないというのに。ならば死ね』
真紀は力を練る。真紀の特殊能力に直接攻撃の能力はない。
『だが、な』
攻撃を回避し、懐に飛び込む。男の目を直視した。敵対するものを破滅に追いやる力の発動。男は頭を抱え、声にならない絶叫をあげると静かに床に崩れ落ちた。完全に沈黙したのを確認して窓の外に視線を投げかけ耳を澄ませる。目撃者はいない。神崎百合は尻餅をつき、失禁していた。
『主役の代役、誰に勤まるかしらね』
女の子ばかり四人もいるのにちょっと情けない気もするけれど、誠意はともかくとして味に関してはこっちの方が、自分達で作ったという達成感の欠落を差し引いたとしてもずっと美味しいに決まっているし、第一初めての材料で初めてのケーキを作る為に悪戦苦闘して台所を汚しきっと失敗するに決まってるケーキを食べた後、チョコレートだのバターだの飴だので汚れた台所を掃除するのはいかにも気が重いだろうということで、冬華のバースデー・ケーキは二つ先の駅を降り商店街を抜け広いお寺の広い墓地を横目に坂道を登った先にあるケーキ屋へと瀬羅が買いにいったのだが、こぢんまりとした店内でリクエスト及びその他のケーキを物色していると、原稿用紙五枚分のレポートの結論に結局斎藤さんが妥当だと思うと書いて送ってきた隆司が店内に入ってきて、隆司の自宅からは結構来るのが面倒な店のシフォン・ケーキは最高だという意見に従ったのは、他に何を買っても構わなかったからで、チョコレート・ケーキやチーズ・ケーキやモンブラン、ナポレオン、苺のショート・ケーキ、メロンのショート・ケーキ、マロンのショート・ケーキ、色々なタルト、シュークリーム、マロン・グラッセ、そういった物の中でどれが特別に好きで、どれが特別に嫌いという感覚も、どのケーキを食べたいという気分もなかったからで、買い物を済ませ、明日が弟達の誕生日でケーキより寿司がいいという主張を曲げてわざわざケーキを買いにきたとの隆司に、ひょっとしてケーキ好きなの? と訊かずもがなのことを訊き、─黒いニットのタンクトップから良く鍛えられたしなやかな、あまり日焼けしていない白い腕は伸びていて、白いジーンズに包まれた下半身にも無駄な肉はなく、大言壮語をそうでなくすだけの可能性を秘めていた大場が、月曜日の昼休みの次の授業から出席しなくなったのは、聖が素手でその左の乳房の裏側にある収縮を繰り返す筋肉の塊を貫き、鮮やかな赤い色をした血液が背中から抜けた右腕と表情のない顔と赤いTシャツを赤く染めあげたり、黒に近い赤黒い色になったニットと鮮やかな赤をそのまま写した白いジーンズを見たのも幻ではなかったことの証なのに、最後の目撃者になった瀬羅は何も見ていないと証言し、月曜日は他に三年の女子生徒一人と聖の担任教師が行方不明になった日でもあって、何らかの共通項を探すことの無為を警察が痛感させられた日であったかもしれない─、そう考えながら、今更照れて鼻の頭をかきながら、そういうこと、と答えた隆司を笑ってみせ、じゃ冬華と一日違いか、今日冬華の誕生日でね、ケーキ買いにきたんだけど、ちょっとした偶然だね、と坂道を歩きながら喋り、適当に相槌を打っている隆司の肩を叩いて緊張してない? と尋ねてみる。
傘をさす二人は同級生には見えないだろう。遅れ勝ちになる隆司は中学生に見えるし(まあ、この年齢の一年というのは個人差が大きいから)、中学生の時から制服を着ていても瀬羅は実年齢からニ歳より上にしか見られたことがない。坂の下から高校生だろうか、大学生だろうか、化粧っ気のない女性が二人、ライト・ベージュのパンツを穿き英文のプリントTシャツの上からセーラー・カラーのシャツを羽織っているショート・カットの方が本当にそんなに美味しいの? と訊き、赤白チェックのジャンパー・スカートに長袖シャツの長い髪を編んでいる方が、信用しなよ、絶対美味しいからさと請け負って、瀬羅と隆司が手にするケーキ屋の箱を見たのがわかり、擦れ違う為に瀬羅が前、隆司が後ろで一列になって、ジャンパー・スカートの女性が躓いてよろめいたのを肩を抱くように支えた鼻先にスプレーを突きつけられ、噴射された気体はアーモンド臭、或いは桃の香りがして、咄嗟に傘を放し鼻と口を塞いで走るが、セーラー・カラーに回り込まれていた。青酸ガスを吸入した体の動きが鈍い。小さなリボルバーの銃口が二つ向けられる。風を練り暴風の刃を作り動作なしで銃へ投げつけた。ハンマーが落ちていた。パウダーが爆発し秒速数百メートルの弾丸が銃身から放たれ、弾道に瀬羅の右腕と左腕が乗っている。風のが銃を寸断しセーラー・カラーの右手を深く切り裂く。力が体内に循環するのが遅く回避を諦め、瞬時に風の障壁を二つ作り弾道に配置する。弾丸は強烈な空気抵抗に遭い歩道に落ちた。
「動くなっ!」
ジャンパー・スカートの後頭部にBERTTAの銃口を押しつける顔色が悪いのは青酸ガスを吸入した為だ。警告する隆司の指はトリガにかかっている。109CBの遊びが少ないことを知ってか両手を挙げたが、即座に予備動作でしかなかったと知れた。挙げた両腕が次の瞬間には銃身を掴み、発射された弾丸が頭上を霞めるのも構わずに隆司の手首を拘束し、腕を返し肩で肘を極め投げる。自ら跳び骨折を免れるも背中から歩道に叩きつけられた無防備な少年の手から銃を奪い、銃口を向けたのは右の膝だった。撃ち抜かれれば部品を交換しなければ元に戻らない傷になる─お姉ちゃん、と異形の爪が隆司を切り裂こうとする時冬華が小さく鋭く叫んだ、あの時は動く契機が必要だった、今は─風を練り刃と化して飛ばす。風を察知したジャンパー・スカートの襲撃者は即座に手を引き、風は人指し指と銃身を切り落としたのに出血はなく義手の精密部品が破損箇所から見て取れ、跳ね起きた隆司が力の乗った前蹴りを腹部に入れてもよろめきもせず上段蹴りを返すとジャンパー・スカートの横のボタンが外れ白い脚が付け根近くまで露になり、見惚れた訳ではあるまいが蹴りを躱せずブロックした隆司は吹き飛ばされ、その先にセーラー・カラーが待ち受けていた。力を練る早さが遅く援護の風を送れない。力を体術の向上に使えず受ける間もない隆司の腹にライト・ベージュの膝が食い込み、隆司が落ちるのが見て取れ舌打ちをする。セーラー・カラーの、倒れた隆司の喉仏の目立たない喉に、横の部分が大きくカットされたセパレート・シューズの低いヒールを乗せての挑発的な視線を受けて、両手を挙げた。人指し指を失った襲撃者は慎重に近づき噴霧器を向ける。
「吸うのよ、どうせ死にはしないわ」
女が言い、信用しなよと付け加え噴射した青酸ガスを吸う。意識が遠のいてゆき視界が揺らぎ始めた時、何かが噴霧器を叩き落として─そいつが死んでも俺は構わない、第一殺害は自分達の首を締めるようなものだろう─誰かの声がして、誰かに肩を抱かれた感触は覚えがあって、一瞬ろうと動いた気持ちを否定し柔らかい素材と肌に引っ掛かる素材が半々の、Tシャツか何かに爪を立てようとしたことを覚えていた。
意識を取り戻して上体を起こすと少年に肩を抱かれ気を失っている瀬羅の姿に最初に目がいった。少年はシティー・ブルーの迷彩パターンのTシャツとパンツ、コンバット・ブーツを履いて雨に打たれていた。背丈は瀬羅より僅かに高いくらい、中肉だが張りついたTシャツの線には鋭さと逞しさがある。武器は持っていなかったが、足元には二人の女性、突然の襲撃者が倒れていた。そして隆司の気が戻ったことに気づいて「その顔だと瀬羅のことが好きか? なら強くなるんだな、守れるとはいかなくても足手まといにはなるな」辛辣な言葉を叩きつけて瀬羅を背に負うと迷わず瀬羅の傘を拾って駅の方へ歩いていった。
翌日、明日から期末テストが始まる日瀬羅は欠席し、痛烈な言葉を浴びせてきた少年を校庭で見かけ、察知されないように尾行して一年A組の生徒だとわかった。少年の言葉が頭から離れず、少年と瀬羅の関係が気になって家族の食事は滞った。朝も誕生日の用意は、潰れたケーキを駅の塵芥箱に捨ててしまった(瀬羅のケーキの箱は見つからなかった、少年が処分したのかもしれない)為に、寿司の出前を頼んだだけで家をでて、授業内容も全く頭に入らず現国の授業で教師の冗談みたいな質問、一行程度の文の主語と述語を示せ、に反射的にわかりませんと答え授業中立たされ、選択科目の家庭科で縫ったシャツは片方が長袖で片方が袖無しになって、昼休みにB組に行くと俊樹の姿はなかったが、岐原綾はサラダ・パン(コッペ・パンに縦に切れ込みがあり半分ポテト・サラダ、半分キャベツと胡瓜のフレンチ・ドレッシングのサラダが挟んである)を食べている最中だった。
「今日も俊樹は休みなの?」
岐原綾は遠目には小柄に見える。いや、瀬羅の隣にいることが多いのと、少しエラの張った感じのある小さな、角度とか明るさによっては少年にも見える顔(髪が短ければ美少年に間違われるかもしれない)と、細身なのに(胸は結構ある)TURNING TRICKSTERを撃って壊れない躰というイメージから、小柄に感じるものの、隆司よりは拳一つ分程背が高い。綾はポテト・サラダの部分を口に入れたまま二回頷いた。隆司は空いているらしい綾の前の席に座って、綾の机に並ぶ菓子パンの数々に目をやり、即座にカロリーと不足する栄養素を想起して、何故綾が体形を維持できるのか疑問に思う。
「今週は半分くらいしか授業に出席してないよ、テストとレポートでそこそこ点取ってれば進級できるだろうけど、よっぽど悔しかったんだよね、聖に負けたの。で、何か用? 瀬羅が休んだ理由なら知らないけど、追い詰められた顔してるね、あんたも」
『どんな顔なんだろう』
隆司は自分がそんな判りやすい表情をしていたのかと情けない気分になったが、意を決して昨日のを話してしまう。フルーツ牛乳で菓子パンを食べながら聞いていた綾は隆司が話し終えると短く「聖ね、それ」と言い、紙袋に塵を纏めて立ちあがり、教室の後ろにあるダスト・シュートに塵を捨てると戻ってきた。
「そうじゃないかとは思ってたけど、好きなんだ、瀬羅のこと。意外な気もするけど不思議じゃないかな」
隆司は顔が火照っているのを感じたし、周囲の視線が気にならないこともなかったが頷いて「その聖って人のこと教えて欲しいんだ」小さな声で告げる。綾が人指し指を立てて前後に動かし、場所を変えようということだと察し(身長差が明確になるので嫌だとか言っている場合ではなかった)腰をあげて、先に歩く綾の後を大股になってついてゆく。昼休み、自習室は三年で埋まっているし、図書室も閲覧目的ではない生徒が多い。綾は地下におり階段下の使用されない空間に人がいないのを確認すると足をとめ、壁に背を凭せ掛けて隆司を見た。
「あたしは瀬羅とは小学校から同じだけど、聖はね、中学の頭に引っ越してきたの。まあ中学に入れば知らない顔の方か多かったから、転校生って感じはしなかったけどね。変だったでしょ、瀬羅。あの状態は極端だったけど、聖に逢う前はずっとああいう感じだったの。勿論あたしの他にも友達ってのはいたけど、何をするにしても詰まらなそうでさ。今もそう、気づいてる? 他人の視線を感じて初めて表情を見せる、感情が表情を作るんじゃなくてね、状況から表情を選択してる」
「それは僕も気づいてた。先週の日曜日地下街のシューティング・レンジで逢ったんだ。ワンホール・ショットをやっても無表情で、僕の視線に気づいて初めて笑った」
「そう、昔からそうだった。あたしが初めて逢ったのは絵画の教室、六歳だったかな。上手なんだけどね、写真みたいな絵を描いてた」
「フォト・リアリズム? リチャード・エステスみたいな?」
「う〜ん、単純に写真みたいな精緻な絵っていうんじゃなくて、写真みたいってのも本当は違うんだけど、感情のない絵をね。そういう瀬羅に感情を与えたのが聖だった。どうやったのか、あたしには魔法みたいに思えたわ。二人は一年二年と同じ組だったけど、一年の二学期くらいから付き合ってた。聖はどっか人を寄せつけないようなとこもあったけど、優しかったよ。そして瀬羅の力を目覚めさせて銃の撃ち方を教えたのも聖だった。瀬羅の腕知ってるのよね? そう、あれで始めて二年も経ってないんだ。少なくともただの恋人同士じゃなかったし、あたしは羨望を抱いた。入学式の日よ、あたしと瀬羅が歩いてると突然現れて、一方的に別離の言葉を叩きつけたのはね。それからの瀬羅は知ってるでしょ。あたしはずっとあのまま、帰ってこないかと思ったわ。今でも、死ぬ気でやらないとどうにもならない相手よ」
始業五分前のチャイムが鳴る。隆司は言葉を失ったまま、綾が教室に戻り授業開始のチャイムが聞こえても立ち尽くしていた。
カピバラはどぶ鼠を追いかけ、カピバラに追いかけられている愛らしいとは言いかねるどぶ鼠は真白い毛に赤い目とピンクの肌の二十日鼠を追いかけて、カピバラに追われているどぶ鼠に追いかけられる二十日鼠は逃げ惑う。そんな光景を白い不規則に見える僅かな凹凸のある天井に想起したこともあるし、何年か前の自分と綾が笑いながら銃口を向ける光景を見たこともある。そう思って覚醒した場所は一七畳のフローリング、南にベランダにでる大きな窓があり、新しいストライプのレースのカーテンと深い青色の遮光カーテンが掛けられ、東に先月までは百合の鉢植えがあった出窓があり、こちらは遮光カーテンは端に寄せられ纏められて整ったを作っている。部屋の北側の壁は西側の端にドアがあり、他はクロゼットになっていて、西側の壁と南側の壁の角には節に小さい白木を使ったキャビネットがあり、東側の出窓に沿うようにパイプ・ベッドと机が置かれていて、ベッドに横付けにした台の上には、巨大で古典的なデザイン─銀のずんぐりしたボディと巨大な振動する鈴に、厳格なギリシャ文字の文字盤がミスマッチではあるが─の、目覚まし時計が置かれている自室で、普段と異なるのは枕元に夏未の姿があるだけで、赤い目をした夏未が何か、お姉ちゃん大丈夫? と口を動かしているので取り敢えず頷き、身を起こすと、目覚まし時計は午後二時を示し、夏未に今日の日付はと尋ね、二八日との返答に、記憶の最後から二四時間ばかりしか経過していないことに僅かな疑念を抱いた。お姉ちゃん大丈夫? 平気? 立てる? 疑問形を連ねる夏未の頬に触れて大丈夫だから、と念を押すように言いベッドからおりた。パジャマを着せられていて、体調は少し気分が悪いくらい、足元もしっかりしているので、夏未、授業は? と訊き、決まりが悪そうに俯いた妹の頭に軽く手を乗せて「いいの、有り難う」お礼を言い、秋恵と冬華にも言ってあげて、今授業受けてるけど、交代で看病、見てただけだけど、したから、でも良かった、ずぶ濡れで意識がい状態で帰ってきた時なんか泣きそうになっちゃって、秋恵と一緒にただおろおろするだけで、冬華と高原さんがいなかったら今頃病院だよ、と早口で告げる夏未に深く頷いてみせ、聖、何か言ってた? と訊き、パジャマを脱いで、─体を吹いて温かくして眠らせておけば明日の昼頃目が覚めるだろうって、それだけ、大丈夫だよって言ってくれたけど、すぐ帰っちゃった、お姉ちゃん、どっか出掛けるの?─下着を身に着けていないと漸く気づいた。夏未が後ろを向いて東側の窓のカーテンを閉め、瀬羅はサックスのショーツとブラジャーを着けて白い靴下を履き、ブラックのパンツと薄手のシルクのセーターを身に着け、肩からつりさげるS&Wの入ったホルスターを装着し、上にブラックのダブルのジャケットを着て鍔と縁の部分がネイビーで他が白の帽子を被り、「確かめたいことがあるの、心配しないで、夕暮れには戻るから秋恵と冬華には御免って言っといて」財布を持ち時計をして、黒いヒールの無いローファーを履いて駅に向かった。
薬局の前で9mmか.40S&Wか何かの銃声を聞いて、やはり全ての活字が二進法に還元されてしまった為に商売変えをしなければならなかったというのが口癖の、老夫婦の営む角の大正堂古書店を曲がると、ゴムと皮革の臭気の混ざった靴屋の店頭に並ぶ、叩き売りされているスニーカーの山に、向かいの(クロワッサンが絶品の)ベーカリーのエプロンをした髪の短い若い女性が突っ込んだところで、─そいつが死んでも俺は構わない、第一殺害は自分達の首を締めるようなものだろう、その声も抱かれた肩の感触も爪を立てようとして指先が辿った鎖骨から胸の辺りの形も確かに、聖のもので「吸うのよ、どうせ死にはしないわ」女達に拉致される理由もあの場所に聖がいて助けてくれた理由もわからない─ベーカリーのウインドー硝子は割れ道路の中央に珍しいグリーン・アカセイアが浮遊していて、竜の落し子に蜻の羽を付けたような体長二メートル程の緑色の生物には.357 MAGNUM以上の貫通力を示す弾薬でなければ通用しないと言われているのに、女性は口径.357SIGのP339を用い反撃を受けたらしく腕に深手を負っていた。他の通行人も滅多に出現しないグリーン・アカセイア(グリーン・ドラゴンという俗称がある)の対策はしていないらしく、瀬羅は仕方なし.45ACPのS&Wを抜き初弾を装填し、構えると誰かが無駄だと的確な忠告をしてくれるのを無視し、伏せなさい、と鋭く言い連射すると三発目までが腹に見える外皮に弾かれ跳弾となり、四発目で初めて貫通し後一発を打ち込むとグリーン・アカセイアは浮遊能力を失い道路に落ち、瞬時に緑の液体となって拡がり蒸散するように消えひしゃげた弾丸が二発残った。マガジンを抜き携帯していた予備弾薬を詰めて、駅に続く歩道橋を渡る。誰かがピン・ヘッドかと呟いたのが聞こえた。─ピン・ヘッドができないと帰さないよ、マン・ターゲットの十点内に確実に集弾させて得意気な視線を送った瀬羅に返ってきた言葉に、当時はそんなレベルに達する必要性と可能性の何方も皆無と思えたのに、訓練(飽くまで旅行と言い張ったが)期間中に可能になったし─五分電車を待つ間に商店街での一幕を目撃していた人の視線を感じ、平日の時刻表と時計を交互に見あげていたのだが、各駅停車の電車に乗り空いている椅子に座らず釣り革も掴まずに立っている自分に気がつき─実際にその技術が必要になる場面にも確かに遭遇したし─、一方的な別離を突きつけられたにしても影響は強く残っているという現実を認識していると意識して、急行の通過待ちに停止した駅から見える町並み、デパートメントが林立する駅前を抜けると広い寺院があり、駅と同じ名前を冠する大学と短大と女子の中等部と高等部がそれを囲むようにあり、寺院と教会の横を通る坂道を登った所にシフォン・ケーキの美味しい店のある、を眺めていた。接続する電車に一〇分弱待つ必要があったので、乗り換えをせずに歩いて学校へいくと間もなく六限が終わる時間になっていた。真っ直ぐ一年A組の教室の前に歩き丁度授業が終わり珍しく出席していた聖を呼びとめ「訊きたいことが沢山あるの」冷たい色の動じない瞳を見つめても、改めて話すことはないと通り抜けようとする肩に手をかけて「逃がさないし逃げない」そう言ってみる。
「何を訊きたい?」意を決した瀬羅の気勢を受け流すような抑揚の無い声と感情を映さない目で対する聖には覚えがなく「場所を変えましょう」明日から期末テストがある為により少なくなった登校する生徒の数人が、下校しようとしていた矢先の(多分愁嘆場と思っているのだろう)事件の見物を決め込んだ風に遠巻きにしていると気づいての提案に聖が鋭い視線を三人の女子生徒に投げつけただけで、慌てて教室から逃げるみたいに走ってゆくのはもっと奇異に映った。
「私が聖に捨てられた理由と、聖が大場さんを殺した理由を教えて」捨てられるという言葉も酷く場違いな気がして、釈然としないが、他の言い様がわからなかった。
「飽きたでは理由にならないか」
「馬鹿にしないで。二年以上も付き合ってた人のそんな嘘くらいあたしにもわかる、本当のことを聞かなければ何処にもいけないし、何処にいるのかもわからないの、今の聖は昔のあたしみたいだ、そうなってる理由を教えてよ」
それは強がりであると自覚していた。
「話すことはない」背を向けた肩に手を伸ばしても今度は掴むことはできず、小さくなってゆく背中を追いかけようとした肩を叩かれて振り向くと「逃げられちゃったね」聖が大場の胸を貫いた時にいた小柄な、隆司くらいの背だから、さして小柄ともいえないのだろうが瀬羅にとっては充分小柄な娘がいて、可愛らしい笑みを浮かべる「三年F組美翔真紀、二番目の疑問になら答えられるけど、知りたい?」その態度は人懐っこいものだったが、『この人、特異能力者』体調も万全ではなく冷静でもなくても、背後を取られたこともあわせて警戒心を抱かせるに足る雰囲気を娘は持っていて、軽く半歩後ろへさがって警戒心を露にする。瀬羅の態度に美翔真紀は笑みを消し「誤魔化しは利かないみたいね」声は冷たくなっていた。
「私は闇の種族。そして彼もあなたも、多分私達と敵対する光の種族ね。私達の目的を知れば二番目の質問の答えにはなる、聞きたい? 斎藤瀬羅さん」
名前を知られていることには驚かず、首を振る、左右に。
「結構です。自分で聞きだしますから」
『強くなりたい』、家の前で待ち受けていた隆司にそう打ち明けられた時は少なからず驚いたし、戸惑いもしたのは、それが幾度も俊樹が口にした言葉だったのと、そんな俊樹を理解し難いという目で見ていたのが隆司だった為であり、理由を訊かなかったのは隆司が本気だったからで、しかし何処までできるかという疑念が残ったのは、隆司の力は外部放出のみ、少し前の俊樹とは逆のタイプの特異能力者ではあったものの、その力は元々俊樹より弱かったからだ。その疑念は数日のうちに脅威へと変わった。期末テストを受け、学校帰りに危険地帯へ侵入してはそこに徘徊する異形を撃破する。三日で隆司は力を身体能力の向上に用いられるようになり総合的な戦闘能力は俊樹と遜色ない段階に達した。
昔から隆司にはそんな一面、普段からは想像も付かない頑固さ、こうと決めたらでも動かない集中力を発揮することがある。それで結構学校の成績もコンスタントに良く、自分の領域というものを厳然と確保している感じがした。
『借りは返さなければならないが、思わぬ所に新たな好敵手出現だな』
「うるちゃん、うるちゃんって、おーい」うるちゃんと言うのは俊樹のあだ名で、昔幼い頃特撮の古典のウルトラマンに夢中になった時期(大きくなったらウルトラマンになる等の発言をした)があったからで、古い付き合いの隆司だけが知っているものだ。
「そう呼ぶなって言ってあるだろ、どうかしたのか」
「反応ないからさ、何ぼーっとしてんの、あそこに変なのいるよ」
指し示した雑居ビルの二階の、看板からは元はピアノ教室と判る場所にいたのは道化師だった。ドーランを塗った顔に赤の顔料で目の回りを星型に塗り青の縁取りをし、手首と足首、腰の部分が引き絞られた緑のだぶだぶの、金糸銀糸で太陽と三日月、流れ星の刺繍がしてある服にはフードが付いていて、三角帽子のようなフードの先端には赤く丸い飾りがしてある。目を凝らせば顔に化粧してあるのではなく、化粧してある顔の仮面を被っているのがわかり、指と指の間で赤、青、黄、緑、紫、白、黒、そんな色のゴルフボール大の球体が現れては消え、一つが二つに、二つが三つに、三つが四つになりしている芸の手腕は並外れたものだった。全身に悪寒が走る。『やばい相手だ。かつてない絶対的なものを感じる、わからないのか、ピー・メイ』
俊樹は隣の隆司の様子を伺い、それが平素とさして変わらぬと知る。逃げるぞと囁いた時、道化師は俊樹の眼前にいた。速い、俊樹と隆司の何方も反応できなかった。指の間で踊っていた球が眼前に飛んでくる。額に衝突して弾けた刹那、強い眩暈を覚えた。道化師の白い革の手袋に包まれたしなやかな指が喉に食い込んでいる。窒息以前に喉仏を握り潰された時点で死は確実なものとなる。道化師の指に更なる力が入れられ……。突然の解放、道化師の姿も力も忽然と消えむせ返る俊樹は同じように喉に手をやっている隆司と顔を見合わせ、隆司の首にはっきりと指の痕が残っているのを確認した。
「今の何だったんだろう」
と落ち着いた隆司が素朴な疑問を口にする。
「さあな、俺達を殺そうとしたのだけは確かだろ。危ないところだったぜ、今奴が目の前にいないことに感謝しよう」
そう俊樹は安堵の息を付いた。
二章
朝食を半分以上残すと三人の妹は心配そうな視線を注いできた。
「お姉ちゃん、この頃ずっと食欲ないみたいだけど、何かあったの? その、ちょっと前の時でももっと食べてたよ」
夏未は少し言いづらそうだった。瀬羅が精神に変調をきたしていたのは明白だったし、その理由を告げてはいないものの、それとなく察しているのだろう。
「大丈夫、ちょっと食欲ないだけだから。それに普段は人一倍食べてるし」
「食べてるって言ってもお姉ちゃんあんまり脂肪ついてないじゃん、女の平均下回ってるでしょ」
自分だって痩せの秋恵(母親に似たか、姉妹揃って痩せなのだが)、そして冬華も納得してはいなかった。子供染みた理屈で目線をえられてしまうような妹達ではないことは頼もしいと同時に厄介でもある。詰まらない誤魔化しは通用しない。
「何があったか知らないけれど、この前の影響もあるかもしれないし、お医者様にいった方がいいと思う」
冬華の控え目の忠告に「そうね。次の休みにいってくるわ。このところ心配かけっぱなしね、感謝してる」と頭をさげると、夏未が「怒るよ。姉や妹を気にかけるのなんて当たり前じゃない。お姉ちゃんはあたし達がちょっと面倒かけたら謝罪や感謝を求める?」と言ったので「感謝の気持ちは欠かせないし、そういうものは時々は言葉にしないとならないものよ。家族でもどんなに血の繋がりが濃くても人の心は目では視えないものだから」言う。
「そんな一般論じゃなくて」
「わかってるわ。でもこれだけは言わせて、ありがとう、みんな」
茶碗にラップをし冷蔵庫に入れ、おかずは三人で食べてちょうだい、ごちそうさまと言い残しダイニング・キッチンを後にして洗面所にいき、歯を磨く。鏡に映る自分の顔を観察した。顔色は、悪くない。目が充血していたり周りが黒ずんでいたり、頬がこけていたりもしない。体重も落ちてはいなかったし、体脂肪率にも変動はなかった。やっぱり精神的なものかしら、体重も筋肉も落ちてはいないみたいだけれど、それ以外に影響がでるかもしれない、簡易ドッグにいくべきかな、そう考えていると突然吐き気がやってきた。口の中に溜まった唾と歯磨き粉を吐きだす。吐き気は軽く朝食を戻しはしなかった。すぐに収まる。口を濯いだ。洗浄液でうがいをする。階段を駆けあがる音が聞こえた。夏未が鏡に映る。
「お姉ちゃん、あれない?」
「あれ?」
「急に始まっちゃってさ。切らしてるの忘れてた。あたし不規則なんだよね、軽いんだけど」
ああ、平気よ、まだそんなに心配しなくても、あたしの使っていいから、そう答え、気がついた。
『二ヵ月記憶がはっきりしないけど、最後にきたのっていつだった?』
頭頂にくる。そう感じる前に躰は反応していた。利き足(つまりは右足)を引き半身になってやり過ごす。風圧で汗に濡れた前髪が揺れた。竹刀なら首を傾けるのみで首筋を打たせても構わない。木刀でも堪える自信はある。最小限度の動きで耐える、そうすることで相手に一撃を加えることができる。今は、躱さなければならない。得物は竹刀でも木刀でも、模擬刀ですらなかった。びきの真剣を使っている。それも刀身七尺四寸、柄を含めると八尺九寸の、競技用竹刀より長いものだった。重量はかなりのもの、それが風圧を生む速度で打ち込まれてくる。何処に当たっても、力を用い防御力をあげていてさえ、骨は砕けるだろうし、箇所に因っては─。くのと刀を左手一本で振りかぶるのは同時に行っていた。手首へ打ちおろす。変形の抜き小手を狙った。目標が消える。右手が柄を放していた。
『教えてないぞ、んなの』
たった今振りおろされたばかりの左手が斜めに持ちあがるのが見えた。左足が前にでてくる。右のこめかみが引きった。食らえば頭蓋が割れる。獲物を引き寄せ受けることはできず、今は左足を踏み込み利き足はついてきていないから、素早い動作、特に左右の動きは困難─回避不能。
「ちぇすとお!」
左手を引いたのは次の攻撃への予備動作、右手をあげたのは防御。右腕を犠牲にして突きを放つ、そう覚悟した。意識を左手のみに集め、喉を突く。最初耳にした時はこんな嫌なのなんて他にないと感じ、しかし今はれてしまった音がした。そして左の手応えはかなものでしかない。
『後退しなければ』
ならないと判断しても、捨て身の突きを繰りだした直後なのだから体重は前にかかっている。踏み込まれた。刀ではない、そうわかっても対処できない。次の一手は直線的な前蹴りだった。間合いと体勢を保持していれば難無くけられるそれを腹に食らう。飛ばされ、姿勢制御ができなくなり、脳天に襲いくる攻撃に如何なる対処もできず、目を瞑った。
「そこまで!」
決着を告げる声が聞こえ、足が床についた。膝をつき、綾は目を開く。瀬羅の模擬刀は空中でとまっていた。声が一瞬でも遅れていれば命はなかったか、良くて後天性障害者になっていただろう。
「見事だ、斎藤君。習い始めて半年とはとても思えない。本当に入門する気はないのかい」
審判を務めていた兄が瀬羅に声をかけている。心配をしてくれるなどとはから思っていなかったから、傷つきはしない。右腕が痛み始めた。耐性ができていても、のとは異なる汗が滲みでてくる。
「あたしの勝ちね、綾」
「うん。でも、次は負けない」
瀬羅が差しだした手に捕まり、立った。
「三歳から木刀を握っていてそれか。やはりお前には才能がないようだな」
蹴られた拍子に放してしまい、床に転がっていた刀を拾いながら兄が言い、冷たい視線を向けてきた。いらえを返さず目を背けると、瀬羅が手にしていた刀を兄に渡しつつ「綾を治療します」、と言うのが聞こえた。
「お願いするよ」
兄が優しい声をだしていた。瀬羅が駆け寄り「歩ける?」と尋ねてきたたので、頷いた。道場を後にし、渡り廊下を歩いて家に入って、階段を登り自室に到着した。
「ごめんね、綾。真剣になってしまって」
「寸止めなんてやったら怒るよ。瀬羅のそういう容赦のないところ好きだから。手加減なしだからいいのよ」
綾の部屋は女の子のそれらしくない。壁にはポスターが張ってあるが、それは昨年度500CCクラスで優勝したYAMAHAの47モデルのもので、無地のオフ・ホワイトの壁には、白地にピンクのラインの入ったレーシング・スーツがかけられ、机は瀬羅と同じ無骨なスチール・デスクだったし、本棚に並べられているものといえば、時代小説(剣豪ものが多い)とハード・ボイルド風味のレーシング小説(主にバイクの)、武道書、そして漫画(貴重なところでは六三四の剣、ふたり鷹、バリバリ伝説の、紙の本がある。少女漫画は、電子本すら一冊もなかった)であり、パソコンも機能一点張りの(機能美はある)ものだった。
「相変わらずね、綾の部屋」
「瀬羅の部屋だって似たようなもんじゃない」
「それは、ね。手、みせて」
ベッドに腰掛けた綾は肘から先を動かさないようにして屈んだ瀬羅の方へ腕を差しだした。「ちょっと我慢して」瀬羅は言い、そっと変色しだした患部に触れた。刹那痛みが増す。綾は悲鳴をあげていた。数秒で激痛は引く。歯を噛みしめ、力の入っていた顎を緩め息を吐いた。
「これがあるからあんな勝負もできるんだけど、麻酔もかけちゃ駄目ってのがね」
瀬羅の特殊能力には治癒がある。現代医学に可能な、失われた非再生組織の部分的な再生くらいしかできないが、治療時間は永くて一分と極めて短い。問題は麻酔をかけていると効果が発揮されないことと、もたらされる猛烈な痛みだった。これを体験したら、普通次からは時間がかかっても全うな医療機関にいく方を選ぶだろうな、と綾は思う。
「おなか」呟くように言った瀬羅に、綾は顔に疑問符を浮かべた。
「きついの入ったでしょ。内蔵破裂してるかもしれない。そうでなくても暫く残るよ、痣が。泳ぐ時目立つし、牧村君に恨まれちゃう」
「そうか」立ちあがり、白の袴と羽織を脱いで下着姿になる。ブラジャーはしていない。代わりに厚手の特殊なウェアを身に着けている。綾はそれを捲った。
「でかい足」
はっきり足の形の痣ができていた。普通よ、と瀬羅は唇を尖らせ、ガタイにしてはね、と綾は条件をつけた。瀬羅が手を翳す。今度の痛みは微かなものだった。大きな損傷はなかったのだろう。
「首、切れてるよ」
「あ、ほんとだ。避けきれなかったか」
瀬羅は傷を押さえる。すぐに放した。
治療が済むと二人は風呂に向かった。
廊下で兄、康光と擦れ違い様綾は睨みつけ
「下劣な行為はするなよ」
冗談とは聞こえない調子で言った。
「前から訊きたかったんだけど、なんで聖のこと好きになったの、我ながら野暮な質問だけど」汗を流し、着替えをし、部屋に戻ってから綾は尋ねた。
「良くわからない、何でだろうね」当たり前の答えを返し、「綾こそ牧村君の何処が好きになったの、知り合ってからあっという間でしょ」と綾に水を向けてきた友人に初めて逢ったのは期末試験の前に隆司に教えた通り、何の気紛れか親が通わせていた駅前の雑居ビルの三階にあった絵画教室で、雑居ビルはまだ新しく一階の玄関ホールのエレベーター乗り場近くの側壁にはウミユリの化石があり、雑居ビルの一階に入った全国展開のバイク屋で偶然一緒になった聖の、ウミユリってのは名前からは植物を連想させるけど、ウニとかヒトデとかと同じ仲間なんだ、今でも数種類生き残ってる生きた化石だな、その話題にはあまり興味がなかったけれど、熱心に耳を傾けた綾はさりげなく相槌を打っただけだったが、初めて瀬羅を見たのはそのウミユリの化石の前で、当時から背が高く一つか二つ年上かと思った、ありふれた言い方ではお人形みたい、それもフランス人形とか勿論日本人形などではなく、繊細華麗な硝子細工のマネキンを思わせる少女が同級生だと、美大を卒業して間もない女の、油絵をく時にはいつも同じTシャツにネイビーのジャンパー・スカートを着ていた先生に知らされた時は驚いたのだが、初めまして斎藤です、昔からそんな話し方をした瀬羅は「俊樹って結構イイ男でしょ」エレベーターを待ちながらウミユリを見るとはなしに見ていたのと同じ視線で綾を見て「確かに、それはその通りね」言うと、MAR48Sのディスプレイに目を落としキーボードを叩いた。綾は覗き込む。「健康診断受けてきたの?」「ええ。少し体調が悪かったから。でも異常なし」「良かったね。瀬羅の場合聖を好きになった理由よりも聖を好きなことの方が大切だものね、今でも好きなんでしょ」という言葉にキーボードを叩く手をとめ、綾の家にはペーパー・ドリップの道具しか揃っていないけれど、ドリップ方式のバリエーションは豊富で、オーソドックスなカフェ・オレとか面倒なカプチーノやロワイヤルも可能なのだが、あまり手間が掛からないブレンドとなると限られてきて、ブラックかカフェ・オレ、カフェ・リキュールくらいしか普段は飲まないし、綾と瀬羅は隆司みたいに家事全般が得意な訳ではなく、瀬羅の方は一通りはできるにしても洗い物が増えるのは嫌なのと、綾は食べれば食べた分だけ太る体質で余分なカロリーはりたくない為に落ち着いたブラック・コーヒーの注がれた、青い剣と玉葱のマークの古伊万里の影響を受けたらしいブランドの、手書きだろう赤い薔薇の絵のレギュラー・カップに唇を付けて、静かに一口飲み、短くわからないと答え、空になったウェッジウッドのジャスパーを指で叩き澄んだ音を聞き、テストの結果どうだったと尋ねると、そこそこかな、八割くらいはできたし、少なくとも平均点以下は取ってないと思うけどと気のない返事をする。
そういえばもうすぐ七夕なんじゃない?
言われてみれば、その通りね。
七夕って何の日だっけ? 確か五節句の一つよね。
人日、上巳、端午、七夕、重陽のうちの七夕よ、笹に歌詠んで短冊飾って短歌と習字が上達しますようにってお願いするもの。
そうだっけ? あ、カップ寄越して、片づけてきちゃうからさ。
手伝うよという言葉を柔らかく拒絶し、部屋をでて階段を降りたところに買い物から戻ってきた母がいた。「お帰りなさい」声をかけると「あら、いたの」冷蔵庫に木綿豆腐を入れながらそう言葉を発した。顔を向けようともしない。『気配消してたわけじゃないのに、少しは……』口にしても仕様がないことは知っているし、日常に感情を昂らせてもいられない。流しの生暖かい水でレギュラー・カップ、受け皿、スプーン、ポットを濯いでしまうと、砂糖や他の副材料も使っていなかったので水を切って食器乾燥機に突っ込みスイッチを入れて、瀬羅来てるから、少しは母親らしく振る舞ってよ、と冷蔵庫に鶏卵を入れている母に前半部分だけ言い、二階に戻ると瀬羅はMAR48Sを鞄に入れ、ジャケットを羽織っていて、もうお暇するわ、今日食事の当番だから、と帽子を手に取り、スポーツ・バッグを手にしていた。送ってくとレーシング・スーツを手にとると「わざわざ着替えるの?」瀬羅が呆れた声をだし「気に入ってんの、これ」子供ねえという視線を送ってきたので、照れ笑いを浮かべる。ZASTAVAの入ったホルスターを腰に巻くと、そういうのって普通男がするもんでしょ、第一まだ暗くないし、普通の変質者とか犯罪者よりあたしって強いし、帰りは綾が一人になっちゃうじゃないと笑いながら言う瀬羅に、いうこと聞かないとぶつよと大きく踏み込んだストレートを放って、スウェーした瀬羅の、それってぶつじゃなくて殴るでしょという言葉に小さく舌をだす。
愛車『』を車庫からだしてヘルメットを手渡すと瀬羅は渋面を作り、安全運転してよねと釘を刺して帽子をリュックに入れ、後部座席に坐って腰に手を回す。スロットルを開けてクラッチを繋いでスムーズに発進する。─バス通りにでて六〇〇メートルの距離を二分かけて進み、左折してすぐが瀬羅の家、わざわざ二輪をだす距離ではないけれど、免許の取り立てってのはまったく。そう自己批判している間に到着していた。
じゃあね、ばいばい。
広い玄関で手を振る瀬羅に手を振り返しスロットルを開け、クラッチを繋ぎ、バス通りにでる信号のところで、前を走っていたバンが青なのに停車した。
咄嗟にZASTAVAを抜いていた。後部ドアが開き二人の男が飛びだしてくる。Cz MODEL166の二つの銃口が暗い素顔を覗かせている。右の男に照準を合わせた距離は車間距離の一〇メートル弱、互いに外さない距離、二連射、相手もほぼ同時に撃っている。
『全て致命傷になる弾道、この二人生半可じゃない、避けた、特異能力者か』
特異能力者と判明した以上銃は動きを封じなければ意味がない。銃をホルスターに戻すと相手もそうしていた。二対一の戦闘に有利を確信した男達が無造作に間合いを詰めてくる。綾は歯噛みしてバイクから飛び降りた。男の蹴りが首筋を狙って伸びてくるのをバック・ステップで回避し、その脚を取って投げを打つ。極めることはできず気の抜けた投げは男を地面に叩きつけられはしない。もう一人のタックルを膝で迎撃し、ガードさせて間合いを取る為に後退する、愛車が倒れた。
『傷がさ、でもそんなこと言ってる場合じゃない。瀬羅と隆司が襲撃された時は女だったって言ってたけど、こいつらもその仲間か、強いな』
胸の前で掌を合わせ、右手を筒を掴むような形にして親指と人指し指でできる面を掌に付けて想起する言葉は水神の剣、左手を対照の形にし引き抜く。体内循環と外部放出両方の力の使い方が可能な綾の好む闘いは接近戦だった。水神の剣は鋼を紙のように切り裂く鋭利さを誇る。
『実戦で使うのは初めてだけど、いけるかな』
男達は武器に怯んだ様子はなく体勢を整えると別々に挾撃を掛けるように飛び込んできた。あまりに無防備な攻撃に対する迎撃の二者択一に綾に迷いと戸惑いが生じた。黒球やグリーン・アカセイア等の異形や犯罪者を撃退することには慣れていても、殺人の経験はなく、殺人をせずとも身を守れるよう銃の腕を磨いてきたし、去年目覚めた能力によって余裕も生まれた。しかし水神の剣は手加減が利かない。殺してしまうのではという危惧が綾の動きに遅滞を生む。男達はその遅滞を見逃さなかった。水神の刃を男の腕が弾く。特異能力者故の防御、そして綾の腹部に打撃を入れる。もう一人に羽交い締めにされ、首筋に鋭い痛みを受けて数秒、意識の薄れゆく中で綾は瀬羅の声を聞いた。
意識はすぐに戻ったと思う。気がついた時はまだ走行中のバンの中だった。座席にらされていた。意識は戻ったが、体は動いてはくれない。バンの後部は大きく収納スペースになっており、車体の左右に長椅子のような座席が配置されていた。前の席で男、三十半ばのきっちりしたスーツに身を包んだ男が運転していて、襲撃した二人の二十歳かそこらの若い男は向かい合うようにして綾を監視している。
「目が覚めたようだな」と一人の男、若干背が高く、運転している男のようにスーツを着ているが、何処か若々しい為に軽いような感じを受ける、方が綾のことを言う。
「早いな、平均時間の半分以下だ」
そう受けたのはショート・パンツに白いTシャツの方、こちらは普段着なのか、違和感なく良く似合っている。
「どうする積もり」と声をだすことは可能だった。男達は顔を見合わせる。
「驚いた、既に声帯の機能が復活している。通常半日はかかるところだ」
武器は取りあげられていた。ショート・パンツがZASTAVAを空撃ちしている。車内から見える外は日が落ちていて、廃れた町並みに街灯は点灯せず危険地帯であることが知れ、バンはゆっくり走行しているとわかった。
「話していいのかい」とショート・パンツが運転する男に声をかけ、ああと短い返事があり、ショート・パンツの男は綾を真正面から見つめた。バンが減速し、滑らかに右折する。体は動かないが、支える必要もないくらいにゆるやかな動きだ。
「我々に協力してもらいたい」
とショート・パンツの男が言う。
「協力とか言う割にはやることが手荒に過ぎないかしら」
「それについては謝ろう、我々には猶予がないのだ」
「それって問答無用ってこと? そういうのって協力ではなく強制と言うと思うんだけど間違いかしら?」話しているうちに徐々に体が自由になるのが実感できていた。
「頭が良い人間を相手にするのは楽でいいな、不本意ではあるがそういうことだ」スーツの男はあっさりと認めた。どう受け取ってもらっても構わないとの意志が読み取れる。
「あたしに選択の余地は残されていないってことね、何をさせる積もりなの」
体に自由が戻った、悟られないように気を使い尋ねる。
「我々は《赤い竜の牙》という部隊の者だ。君は今の世界をどう思う?」
「どうって、生まれた時から大して変わっちゃいないわ。正しくは記憶にあるものと今私が認識している生活は、僅かな進歩、或いは退化、そして憎むべき停滞、尊重すべき不変が混在するだけで、変革はない。これからどう変わっていこうとも、どんなに変わらなくとも、たった一つ信じることができるものがあれば、世界がどうあろうと生きてゆく」
「何とも思っていない、と理解していいのかね?」
「ええ」
「良かろう。それも一つの考えかただ。我々はだね、現在の世界を肯定していない。死と暴力が日常に浸入し、異形の者どもが侵食を続ける今を。それを排除し、より良い世界を構築するのが、月並みな要約だがね、我々の目的だ」
「誰にとってより良い世界なのかしら?」
「万人にとって」
「そんな世界ないわ。理想世界、桃源郷、まほろば、約束の地、何処にもない、色々な呼び方があるけど、ね。トマス・モアも、私達も、どれだけ永く生きても過渡期は終わらないし、全てを受け入れることはできない。思想とあらゆる感覚、形、声、能力、その他の膨大な差異を統一したって、誰にとってもより良い世界なんてないわよ」
「ありふれた意見だな。その是非と善悪、正しいか正しくないかは、今は問題にすまい。しかし君の言ったことが正しくても、より多くの人にとって良い世界を目指すことに意義を見いださないのかね」
「興味ないわ。自分にとって良い日常を作ろうとはしているし。それにね、秘密結社って信用していないの、薔薇十字団の昔から、フリーメーソン、黄金の夜明け団、浅学だからこのくらいしか知らないけど、どれも嫌いなの。あなたたちにどんな後楯があるとしても、その目的が絶対的に正しいのだとしても、陰でこそこそと、しかもこんな時代に。第一、か弱い女子高生をあんな非道い方法で連れ去るような組織なんて」
「特異能力者の協力が必要なんだよ」
「残念ね」
「ならば君の運命は一つだ」
運転していた男が横から口を挟む。年齢で言えば目上になるが、恐らく特異能力者ではあるまい男の地位がどんなものか、綾は想像し得なかった。ショート・パンツの男が綾に話してもいいかと伺いを立てた以上眼前の二人よりは地位が上になるのだろう。勿論『赤い竜の牙』内での地位だが。名前を知られているのは、瀬羅の話や関連事件(推定)から不思議ではないと承知している、寧ろ知らない方が奇異に映っただろう。
「君にはになってもらう」
「そういうこと。協力してくれなんて騙して、本心はそれ。断っておくわ。このまま大人しくやられるなんて」
バンが急停車した。前の座席に衝突しそうになるのを手を突っ張って防ぎ、「もう動けるのか」体の自由が戻っているのを悟られてしまったが、何かの契機を示すように運転していた男が「道化だ!」短く叫び、男達の表情が険しくなったのを綾は視認する。鈍い音が天井でして、何かが降ってきたのだと知れると同時、天井が割れ、車内に降り立ったのは道化師だった。ドーランを塗った顔に赤の顔料で目の回りを星型に塗り青の縁取りをし、手首と足首、腰の部分が引き絞られた緑のだぶだぶの、金糸銀糸で太陽と三日月、流れ星の刺繍がしてある服にはフードが付いていて、三角帽子のようなフードの先端には赤く丸い飾りがしてある。目を凝らせば顔に化粧してあるのではなく、化粧してある顔の仮面を被っているのがわかり、指と指の間で赤、青、黄、緑、紫、白、黒、そんな色のゴルフボール大の球体が現れては消え、一つが二つに、二つが三つに、三つが四つになりしている芸の手腕は並外れたもので、綾は全身に悪寒が走るのを感じた。強いという無意識の確信が体を麻痺させる程に道化師の発する鬼気は尋常ではなく、男達も動けないでいる。『これが真の異形』綾は息を飲み、道化師を見上げた。
きひゃえいっ! 道化師の奇声。道化師は手の中の球を床、天井、壁、所構わず弾ませる。眼前に飛んできた赤い球を避け、綾はバンから飛びだした。バンはグリーン・アカセイアの大群に囲まれていた。ざっと六〇体もいるだろうか、危険地帯とはいえ、異常な数のグリーン・アカセイアに綾は舌打ちする。一ダース程度ならともかく、五倍の五ダースともなると、グリーン・アカセイアとは言え厄介では言葉が足りない。綾は手を打ち合わせ、水神の剣を両手に現出させた。
せぇぇぇい! 気合一閃、綾は眼前のアカセイアを一刀のもとに切り捨てる。考えるより先に動く、綾の習性のなせる技と言えば大袈裟だろうが、たじろがず手当たり次第に周りのアカイセアを切り、突き、打ちのめす。暴風の如くアカセイアの群れを薙ぎ倒し始めた綾の背後でも、闘いは出現していた。即ち道化師と『赤い竜の牙』メンバーとの闘いは、しかし壮絶なものにはならず、周囲のアカセイアを一掃した綾が振り返ると道化師は三つの首を片手に掲げ、仮面に返り血の化粧を施した道化師は奇声をあげる。
綾は戦慄した。《赤い竜の牙》の男達、運転していた男のそれは疑問だが、残りの二人は相当の戦闘力を有したはずであるのに、それが大した時間もたずに死に至らしめられた。道化師の力推して知るべしねと綾は呟く。絶望的な気分でバンの穴の開いた屋根に立ち、眼下を睥睨する道化師を見あげた。道化師が動く。バンから飛び降り綾とアカイセアの間に立ちはだかる。綾は自ら動いた。待っていても死あるのみと直観し、道化師と逆方向に走る。アカセイアを両手の剣で切り裂き、包囲網に穴を開けようとする。あまりにも多過ぎるアカセイアと思えたが、綾の水神の剣は切れ味衰えず、綾自身の動きも素早く反撃を許さず、衰えを見せない。殆ど走る速度を減退させずに包囲網を突破したかに思えた綾の前に、しかし道化師は回り込んでいた。
『逃がす積もりはないってことか』
綾は両手を合わせ、二刀を一刀にする。刃渡り四尺程の巨大な剣が綾の手の中で踊り、残っていたアカセイアを両断した。
「逃がしてくれてもいいんだけど、というか、できれば逃がして欲しいんだけどね」
綾の言葉に道化師は奇声で答える。綾は水神の剣を青眼に構えた。刹那、道化師が間合いを詰めていた。反応できぬまま、綾の水神の剣の間合いを外れ、懐に飛び込まれている。後方に跳躍するのが精一杯の綾の額に道化師は人指し指を押し当てて、奇声を発し、それ以上綾に追随はしない。
『何をしたっての』
不審に眉根を寄せた途端、全身の力が萎える。水神の剣を現出させることが不可能となり無手となって膝を付いた綾の前で、道化師は満足気な笑みを仮面で作り、更に首に伸びてきた細く長い腕は綾の体をすり抜けて、道化師は空気に溶け入るように消えた。光を操っての幻覚ではなく、質量の喪失だと力を失った綾は思い、気力を振り絞って立ちあがる。沢山の気配が接近してきていた。戦闘を感じ異形が集まってきている。
『体力を奪われた。これじゃ』
切り抜ける自信がない。普通の調子なら倒せなくとも脱出できる。黒球とグリーン・アカセイアは相手ではないし、ナイト・ストーカーも手ごわい地獄の番犬の影も、逃げに徹していればダメージを受けることはない。
『包囲される前に』
足が動かなかった。消えようとする意識をとうと手の甲を傷つける。大量の、一グロスはいようか、グリーン・アカセイアに囲まれていた。すぐには攻撃してこない。知能などないに等しいのに、どうしてだろうと綾は疑問に思った。その疑問はすぐに氷解した。綾の周りにダーク・グレーのコンバット・スーツに身を包んだ人間が一五人現れていた。肩に赤い牙らしきもののシンボルが施されている。《赤い竜の牙》か、と悟った次の瞬間、七五口径高速徹甲弾がグリーン・アカセイアを薙ぎ払った。
五名が綾の方を向いた。残りは警戒体勢を崩していない。防弾メット(最低、暗視装置、自動ロック・オン・システム、防毒機能、リアル・タイム戦闘支援装置は含まれている)を被っているから顔は見えないが、体形から全員男性だと推察した。男達のうち二人が視線を交わし、何度か首を振ったり頷いたりした。声は洩れてこない。隠密行動に必要な機能を備えている。
左右から腕を抱えられた。引きずられる。警戒体勢を保持したまま、移動した。バンが目に入った。さっきのと同じ車種、同じナンバーのそれが三台あった。
「レディー、だぞ。もう少し、丁重に扱え」
綾の声を無視し、手荒く搭乗させようとした男達に「ちょっと待てよ」と誰かが声をかけた。男達に緊張がり、声がした地点に巨大な銃口を向ける。すぐに銃はおろされた。
「俺が連れていく。お前らは先に戻れ」
青いブレザーを着た青年がいた。朝比奈学園の制服だった。身長は一八〇センチ以上あり、頑強そうな肉體を有していた。切れ長の目をしており、顔の造作は整っているが、邪悪な気を発散している。
「これが破壊されたバンについていた。どれでもいい、つけていけ」
摘んでいた直径一センチメートル弱のボタン状の物を青年は特殊装備の一人に手渡した。発信機だろう。『瀬羅だ』希望がまだ失われていないことを確かめ、綾は意識を失った。
岐原綾、二〇三二年四月七日生まれ、一六歳、女、身長一六五センチメートル、体重四七キログラム、家族構成、両親は健在、二十歳の兄が一人、古流剣術の宗家に生まれる。両親との仲はあまりよくないらしい。甘い物が好きだが太り易い体質なので量は食べられない。中学生の頃から無免許でバイクに乗っていたが、一六になってすぐに免許を取得した。明朗で運動神経が良く世話好きの、あたしの数少ない友達─手を振るといつものように軽く手を振り返してスロットルを開ける。足をとめて振り仰いだ空は高く、ぽつりぽつりと千切れ雲が緩やかに流れ、夏の名残の微かな蝉の声が耳に届き、高い空に吸い込まれるような感覚に深く息を吸い込み、首筋を伝う汗に当たる風の音と蝉の声をかき消し、水道いこうよという、瀬羅よりも二〇秒早くゴールした、疲れた様子のない綾の声が聞こえ、大きく息を吐いて、視線を地平の高さに戻し頷き、やっぱり適わないな、呟きが耳に入ったのか、短距離じゃ瀬羅の方が速いけど長距離なら負けないよ、大した差じゃないけどねと言い、水をだし、流れる水を両の掌に溜めて顔にかける。水の大半は手と手の間から零れてしまい、いつになっても綾は顔を洗うのが下手だと思って眺めていると、何してるの? と首にかけていたスポーツ・タオルで顔を拭きながら綾は訊き、タオル忘れたと答えた瀬羅に差しだして、良かったら使ってよ、もとい、今更気にすることなんてないだろうから使え、とか何とか言われた記憶があるけれど、あの後結局どうしただろう。
「ただいま」玄関で靴を脱ごうとした時、綾のZASTAVAの銃声を聞いて、慌てて脱ぎかけていたスニーカーを履き、バス通りの方へ向かうと、力を失った綾が見知らぬ男に抱えられ、バンの後部ドアから運び込まれようとしていた。「何をしている!」当然無視する男達の車に向け発砲した。タイヤを狙った。パンクさせてしまえばいいと思って放った弾は命中したが、バンは乱れない。眉根を寄せた瀬羅の視線の先でバンの中の男が笑う。男はジャック・ナイフの刃先を綾の左胸に当てていた。ジャケットのポケットから取りだし、スナップ・スローで発信機を投じた。バンパーに付着する。歯噛みする瀬羅の前でバンは信号の先に消えた。倒れていた『天麻迦古弓』(勿論商品名ではない)を起こしたものの、運転はできない。
何者が綾を連れ去ったのかは判じられない。しかし確信があった。最近の誘拐事件と殺人事件を行ったのも、自分を拉致しようとしたのも、今綾を連れ去ったのも同じ組織だ。
即座に綾を殺すということはあり得そうにない。殺すのなら先程やれば良かったし、自分が襲撃を受けた時も、襲撃する側に殺人の、少なくともその場でという意志は感じられなかった。可能なことは二つある。一つはじっと待つこと。警察に通報し事情聴取を受け、再び日常を織りなす生活を開始する。二つ目は自分の力で綾を救出すること。綾の居場所を探して助ける。綾の居場所は、発信機が見つからない間は突きとめられる。問題は救出する段階だ。自分だけでは力不足だった。協力してくれる人、して欲しい人は─エンジンを停止して歩道にあげた『天麻迦古弓』を押しながらそう思考する。綾のバイクを暫く走っていない乗用車のある自宅のガレージに入れた。
「何故ここに来た」玄関での聖の言葉に瀬羅は「綾が誘拐されたわ」言う。
奥の部屋で大きな音で悲愴が流れている。
「それで?」聖は低い声で言った。
「それでって、どうしてそんなこと訊くの」
聖は簡単に背を向けた。改めて信じ難いものを見た気がした。
「聖は変わったのね、どうしてそう平気でいられるの、まるで見ず知らずの人のように綾のことを言う。何があったのよ、今の聖はまるで」
「昔のあたしみたい、か? 自分のことも自分で決められない、ただ型通りのことを型通りにやる、自分が何処にいるのかわからない。でも俺は違う、ちゃんと自分が何処にいて何処へいこうとしているのかわかっている。他人の心配をするより自分の心配をしたらどうだ、今のお前は傍目にも酷く危うい」聖の言葉に息を飲み、小さな声で、それでも一語一語はっきりと「それは聖の所為よ」と言った。
「それは聖の所為、聖が勝手に人の前から消えたからでしょう」
「俺との接触に自分を見つけたという訳か」
「そうよ、聖がいたからあたしは、自分というものを意識して、自分がいることを確信できた。聖がそうさせたのよ、それまでの生ける屍だったあたしに本当に生きるということを実感させてくれた。あたしにとって聖は生きる縁だったのに、なのに聖はあたしの前からいなくなった、いなくなったのに、綾のことを他人みたいに言うのに、どうしてあたしを助けたの? おかしいわよ」
肩に手をかけ、「あたしの顔を見て」動かない聖を力任せに振り向かせた。
「居場所はわかるのか」
「聖」
「綾の居場所はわかるのかと訊いている」
「わかるわ。発信機を、誘拐犯のバンに取りつけたから」
「急ぐぞ。車を変えられたら手がなくなる。受信機はその中か」
「ええ」春に発売されたばかりの瀬羅愛用のコンピューターはリュックに入れてあった。聖は三和土のスニーカーを履くと手を引いて瀬羅をあげ、ロックする。
「ちょっと」
「エレベーターを使うより飛びおりた方が早い」
廊下を走りLDKに入る。前とあまり変わっていないことに安心した。窓の防犯装置を解除して聖は窓を開けた。
『懐かしい、この冷たさ』
手を引かれたまま、ベランダから身を踊らせ落下している途中にすらそう思っていた。
「減速」声に現実に戻り上昇気流を発生させる。羽を持つ者のように着地すると、聖は手を放した。カード・キーを使い集合住宅の地下駐車場に入る。一一五二馬力最高速度四八三キロメートルという、一般道ではどう考えても過分な出力を誇る、税金が馬鹿高い白の自動車に向け「我はまつろわぬ神神の末裔に仇なす者、高原聖」と告げた。声紋とキー・ワードのダブル・チェックを通す。起動しロックを解除した車に乗り込み、パソコンを取りだしてすぐに立ちあげた。指紋を照合しパス・ワードを入力、自分で組んだプログラムを走らせ周波数を合わせた時には、聖は車を発進させ駐車場をでている。
「どっちだ」
「旧東部環状線を東に向かってる。このままだと、第一級危険地帯に入るわ。距離三五二八、移動速度時速五五キロ」
ディスプレイには鳥瞰図の道路地図が表示され、その上を二つの▲マークが動いていた。赤が目標車、緑が自車だった。聖が自動運転と安全装置を解除し、アクセルを踏み込む。滑らかな加速と走行音の低さはスピード感を狂わせ、瞬く間に時速一〇〇キロメートルを越えたのに体感速度は半分くらいだった。
「電話するから」断ってから男物の銀の腕時計に向け「牧村俊樹」と声を発した。
「斎藤です。綾を拉致した連中は旧東部環状線を東に向かい時速五五キロで走行中。何処にいるの?」
「東部環状線第五七交差点に約一.五キロ」
声は少しくぐもり、焦燥を帯びていた。俊樹も自動二輪の免許を取得している。それも綾と同様、超難関のいきなり限定解除という無茶な試験に通った強者であり、1500CC(電動二輪だが、凡そのパフォーマンスを示すのに用いられている)クラスの怪物マシンをるというスピード狂でもあった。
「気持ちはるけど、クラッシュしないでね。進路に変更があったら教えるから」
時速三〇〇キロメートルを越えた。四車線道路の最も右側の車線を主に走る。かつての混雑の解消に拡張されたままになっていることが幸いだった。
「オービスには映るわね。無免許運転のスピード・オーバーが発覚したら、免許の取得はできなくなる」
「捨てて盗難届けをだせば済むことだ」
「でも名義は誰になってるの。聖の母さんは」
目顔で制され、口を閉じた。電話を切っていない。針は三七五を越えた。
「後だ。距離は?」
「二三〇七」
信号を無視した。フロント・ディスプレイには周りの車両の位置が表示されている。範囲を五〇〇メートルに指定していた。それは現在の速度だと凡そ五秒で到達する距離であり、如何にブレーキ性能が良いとはいえ高い精度の予測ができなければ大事故は避けられない。安全装置を解除(改造したのだろう、並大抵の方法では不可能になっている)しているから、コンピューターのサポートも受けられないことを考慮すれば、無謀極まりない行為だった。時速四八一キロメートル。
「目標第六九交差点で左折。危険地帯に二〇〇。速度アップ。相対速度減」
聖が舌打ちする。その一四秒後聖はブレーキを踏んだ。幾ら高性能車でもこのスピード、交差点をドリフトで抜けることはできない。時速二二一キロメートルで左折した。
「目標危険地帯を走行中。減速、停車。距離一二七四。牧村君、何処?」
「君達に三八〇遅れているだけだ」
「センサーは私達を補足しているの」
急制動。慣性でフロント・ディスプレイに突っ込みそうになるのを脚を踏ん張って耐えた。
「なに」
「虚無のが現れた。迂回ルートは?」
虚無の顎。それは突如あらゆる平面に出現する異形の一種と考えられている。それは小雨の後の水溜まりくらいから、記録の中の最大のものは直径一〇〇メートル、形状はほぼ真円という。フロント・ディスプレイに目をやると、まだ充分明るい荒れたアスファルトの道を立体感のない黒い円が分断していた。それは真の底無し沼であり、一度捕らわれたら脱出は不可能といわれている。
「さっき過ぎた交差点を右折。二〇〇先のT字路を左折。七二〇直進。T字路を左折。牧村君、こういう状況よ。そっちが先行することになるわ」
「了解」
聖はスピン・ターンさせ、アクセルを踏み込む。すぐに交差点がきた。左折。T字路を左折したところで、前方六〇〇メートルに俊樹の単車を捕捉した。二輪とは思えない高速で左折した直後「くそったれ!」俊樹の声が時計から聞こえた。
「どうしたの?」
「道が、行きどまりだ」
「そんなはずは」
聖がブレーキを踏む。俊樹の車両表示が左折してすぐの所で静止していた。すぐに更なる迂回ルートを検索する。
「どういう構造よ。後戻りして、七キロ以上ある。それも一車線道路、旧住宅街を抜けるしかない。一二分はかかるわ」
道を曲がると行きどまりの意味がわかった。侵食の激しい建物、十階建以上のビルが倒壊し道路を封鎖していた。
「牧村君、茫然としている場合じゃない。時間はかかるけどこれじゃ戻るしか」
「待て」
聖がドアを開け、瀬羅を遮った。
「さがれ、牧村。お前は車の中にいろ」
俊樹がバイクに跨がったまま、聖の方へ首を巡らせた。どんなをしているのか、想像はつく。「牧村君、聖の言う通りにして。今は綾を助けることが最優先よ、わかって」俊樹はUターンする。倒壊したビルへと歩みを進める聖の横を無言で通過した。互いに目を合わさない。
「何をする気なんだ」
ドアを隔て八〇センチメートルのところでバイクをとめた俊樹が尋ねてくる。
「吹き飛ばす、つもりなんだと思う」
「あれを」
「できる、かもしれない、聖なら」
「信じられない」
俊樹が呟いた心情はわかる。聖の能力に、念動力がある。その力を使うところを瀬羅は見た。しかしその時動かしたのは、土砂の山だった。重量は五〇トン以上あったろうが、今目の前に横たわる物の重量はその比ではない。聖が歩みをとめた。足を肩幅に開き、全身から力を抜いたのがわかる。
一五秒が経った。
「何をしている」俊樹が苛立つ。
「集中。大きな力を使うのね、聖」
携帯可能電脳が警告音を発した。目をディスプレイに落とす。停車していたバンが再び走行を開始していた。『急いで、聖』心の中で懇願した八秒後、聖の声が聞こえた。
「は塵へ、灰は灰へ、魂は魂へ、無は無へと帰せ!」
発声の直後にその力は発動した。
閃光。強烈だった。視力を奪われる。直視していたのではない。目にしていたのはカメラが捉えた映像だ。通常ならそんな光度に至るようには作られていない。というより現在の技術ではそれをディスプレイ上で実現するのは不可能だ。
『強化ボディを透過する可視光線? そんなものが』
目を閉じ、掌で覆う。発光は四秒弱続いた。回復を待ち、目を開ける。七秒強という時間が必要だった。景色が変わっている。ビルは跡形もなく、周囲の建物、道路も僅かに形をじていた。ドアが開く音に、聖が車に乗ったことを知る。少し呼気が乱れていた。
「ぼやっとするな。綾は何処だ」
アクセルを踏む。
「はい。一八〇先の交差点を右折。道なりに六七三のところを目標は時速二三五キロで走行中」
「ついてこい牧村」
二分でバンに追いついた。俊樹もついてきている。「とめろ」聖は瀬羅に言った。「銃が利かないのよ。それに無茶をしたら綾が」「運転代われ」「やったことない」「綾を助けるんだろう」「でも」「瀬羅」聖は強い声で名を呼んだ。「わかったわ」聖がハンドルを放す。狭い車内の中、二人は位置を入れ替えた。
「横につけろ」聖は窓を開ける。
反対車線にでて、瀬羅はアクセルを踏む。
「俺が飛び移ったら離脱しろ。防弾処理はしてあるが、相手の武器によっては役に立たない。踏み込め」
指示に従い、限界まで踏んだ。堪らない加速感があり、瞬く間にバンを追い越していた。『聖は』横に目をやると聖の姿はない。フロント・ディスプレイの中央上部、昔の車のバック・ミラーがあった場所にバンの車体に取りついた聖が映っていた。減速する。離脱する意思などなかった。
聖はすぐにバンの屋根に穴を穿ち、侵入に成功した。銃声が五回、バンから弾丸が飛びでてくる。一五秒で停止した。クラッチを踏むことすらせずに停車し、瀬羅はバンへと駆けた。バンのところへ着いたのは俊樹と一緒だった。後部ドアが開く。頬に数滴の鮮血を浴びた聖が首を左右に振った。バンの内部には首と胴体が別れを告げた六つの死体があるだけだった。
「車を変えたの? さっき」
「くそう!」俊樹がバンを蹴った。バンは五メートル以上吹き飛び、二回半転がる。
「あや……」うなだれた瀬羅に「探すぞ」聖は静かに伝えた。「でも、車種も色もわからないのよ、どうやって」
「綾は何で髪を洗った」
「石鹸シャンプー。メーカーはファーゼル」
「綾は車に乗ってはいない」聖は断言した。どういうこと? と瀬羅は視線で問うた。
「匂いがする。近くにいるはずだ」
「聖の嗅覚の凄いのは知ってるけど、移す時匂いが洩れたってことも」
「俺の鼻でもそれを感知するのは無理だ。それに」言いかけて口を噤んだ聖はヘルメットを脱いだ俊樹に視線を注いだ。
「なんだよ」
「誓え。何があっても綾を好きなままでいろ。綾に裏切られても、だ。それが誓えないなら、お前は連れていかない」
俊樹は目を細める。険しかった表情に明確な怒りが宿った。聖に歩み寄り、眉間に皺を寄せ見おろす。それを真っ向から、静かに見返す聖に相変わらず表情はない。
「てめえ、綾の何なんだよ! 何様のつもりだ。全てを理解してるみたいなこと言うてめえは」
激昂した俊樹の首を聖が右手で掴んだ。
「全てを理解してはいない。だが少なくともお前よりは良く知っている。誓え、牧村俊樹。お前は強くならなければならない。弱さに負けてはならない。綾を護らなければならない。それができないというのなら」
瀬羅の心に生じたのは『聖は、綾のことを……だから、あたしを?』という想いだった。
「ふざけるなと、言った!」
俊樹は聖の腕を取り、外した。そのままアーム・ロックをしかける。流麗な動きだった。昨日今日覚えた技術ではない。聖は右腕を無視し、左の拳を俊樹の顔面に打ち込む。アーム・ロックは外れなかった。
「やめなさい! そんなことしてる場合じゃないでしょう!」
「口を挟むな」
聖が力で押し戻す。もう少しで外れる、そう瀬羅が思った時、俊樹は引いた。逆十字。
『凄い、牧村君』瀬羅は感嘆する。
『聖を、凌駕してる?』
驚異的な成長を俊樹が遂げたのは確かだった。大人と子供以上にあった差がなくなるどころか、逆転しているかもしれない。
びち びち びち
みち みち みち
靱帯が伸びる音。
次に異様な音、嫌な音がした。まともな神経の持ち主が聞けば。
聖の右腕が異常な角度に折れ曲がっていた。
『躊躇いなく折る。そのくらいは、あたしにだってできる。綾にしたように。凄いのは、あの聖の腕を極めたことだ』
右腕を折られても表情をださず、聖は一瞬の隙を逃さなかった。安心したか俊樹が力を緩めたのと同時に腕を引き抜き、馬乗りになる。腰を両方の股で挟む体勢。二〇世紀の後半に日本に広く知れ渡り、暫くは無敵を誇っていた格闘技、ブラジリアン柔術でいうマウント・ポジションだった。
『さでは聖が上だった。この体勢になったら、レベルが二ランク違わないと逆転はない。他の誰かだったらともかく、聖の勝ち、片腕を折られていても』
勿論、特異能力者同士の闘いでは、ただ馬乗りになっただけでは動きをコントロールしきることなど不可能、体重に比し力が遥かに強いからなのだが、特異能力者の大半はある程度体重を増加の方向に制御できる。
聖が拳を打ちおろす。顔面へ降ってくる打撃を俊樹は両腕を交差させてガードした。リーチからして、下からでも俊樹の拳は聖に達く。だが力は乗らない。片腕に対するのだから手数では勝ろうが、威力では劣る。その差は決定的なものだ。ガードの隙間から聖は俊樹の側頭部を撲り続けた。ダメージは蓄積され、何れ動けなくなる。かといって身を返せば、確かに顔面への拳を防げるものの、首に腕を巻きつけられ落ちるのみ。
「牧村君、タップしなさい。勝負はついたわ」
瀬羅の声を聞き、俊樹は笑った。
「燃えろおっ」
俊樹は叫び、左腕と交差させていた右腕を伸ばして聖の顔面へと突きだした。拳ではなく掌を向ける。その掌から炎が吹きだした。炎は放射状に拡がり、聖の全身を包む。
『熱は伝わってこない。けど、幻影の類じゃない。自分と周りに害が及ばないように制御している。この前まで外へ放出できなかった者が、もうこんな高度なを』
「一万ケルビンといったところか。本気で殺そうとしたのは立派だが、実際に人をあやめた経験がないと、どうしても冷静ではなくなる。惜しかったな、力を放出するのを悟られなければ、俺に勝てたかもしれなかったのに」
炎の塊の中から聞こえた聖の声は瀬羅を安堵させるものではなかった。このくらいでは殺られない、そう確信していた。だから逆に助けを求めてくれれば、少しは安心できたかもしれない。
『でも、助けを求めるようだったら、こんなにも好きにはならなかった』
炎が消えた。
「牧村。お前はもっと強くならなければならない。心、技、体、あるゆる面に於いて。その決意があるなら、ついてこい」
聖は立ちあがり、瀬羅を呼んで右腕を左の人指し指で示した。頷いて瀬羅は治療を施す。聖は眉一つ動かさず「ダメージは相当あるはずだ。回復してやれ」当然の如く言ってきたが、瀬羅は反発することなく倒れたままの俊樹の額に手を翳し「少し苦しいと思うけど、我慢してちょうだい」、力を発動させた。俊樹は呻いただけで、回復にかかった時間は九秒だった。
「急ぐ」
疾駆する。聖はあるかないかの残り香を辿り、二度立ちどまっただけで綾の居場所を突きとめた。そこは博物館だった場所だった。西洋風の、シンメトリィをなしているファサードを持った、石造りに似せたコンクリート製の、腐敗雨により屋根は完全に溶け、壁も当初の半ば以上失くなっている建物の、生命の樹がレリーフされた壁の下、何らかの作品が展示されていたであろう台の上に綾はいた。
「あ……や」
瀬羅はそう言葉を発したまま口を閉じるのを忘れた。「綾!」俊樹の憤怒を含んだ悲痛な叫びが鼓膜を震わせたのも認識しなかった。
綾は全裸だった。活動的で運動好きだが、日焼けには気を使っているし露出度の高い服装も嫌いで、今の時代屋外で水着になることなどないから、紫外線に犯されていない肌が目に飛び込んできた。それは見慣れたものだ。今日だって一緒にシャワーを浴びた。上気した頬も、桜色と色の斑に染まった腕もおなかも脚も、知っている。でも綾は、今まで瀬羅に聞かせたことのない声をだしていた。見せたことのない動きをしていた。
「あ、はっ、んっ、ん……あ……あ、あ」
喘いでいた。瀬羅がこんな風に喘いだのは、聖に抱かれた時、聖を抱いた時、聖と互いに貪りあった時、聖を想って自分で慰めた時だけだった。
「あや」
綾の右手の指は下腹部をまさぐっていた。左手は右の、瀬羅より幾分(身長比では随分)豊かな胸の最も敏感な部分を扱いていた。閉じた脚から瀬羅よりも少し濃い恥毛が僅かにはみだしていた。まだ躊躇が伺える。指の動きは緩やかだったし(それが綾の一番感じるやり方なのかもしれないが)、声を押し殺そうとしていた。それでも濡れている。
「あや」
綾の隣に俊樹より背が低く、聖より背が高い青年と、瀬羅より長身の少女には見えない少女がいた。青いブレザー、成咲高校と並ぶ名門校、朝比奈学園の制服を着ていた。青年の方は黒髪黒目の、彫りの浅い顔、少女の方は金髪碧眼、彫りの深い顔、二人の容貌は正反対の傾向を有していて、ともに整っていた。
「やはりだな」
青年が欲情した声で言った。
「あんた、そんなガキがいいの? あたいのほおがいいおんなだと、あたいはおもうぜ。けどトクイノウリョクシャもあんたのチカラにかかっちゃチョロイもんだな。そろそろ」
そう呼ぶにはあまりに成熟した肉體を持つ少女は、靄がかかったような綾の瞳を覗き込んで言い「ん、なんかいるぜ」とやっと三人へ顔を向けた。
「あ、このみのおとこがふたつもいる〜。たべちゃお〜」
「待て。特異能力者だ。それも我々に仇なす。そこの三人、《失われし白き羽根》の者か?」
青年が発した固有名詞らしきものに反応しなかったのは聖だけだった。瀬羅と俊樹は僅かに眉根を寄せた。
「ほう。お前だけは知っているらしいな。ならば説得を試みる必要はない。捕らえて『魂食い』に捧げるのみ。ルア、好きにしろ。ただし殺すな」
「やっぱナッティー。ハナシがわかるぜ」
ルアは三人の方へ歩きながらブレザーのボタンを外し、脱いだ。ホワイト・シャツに山吹色のリボン・タイを緩める。薄手のシャツの下には何も身に着けていないことが見て取れた。
「あや!」俊樹が叫んだ。
「あんた、しってんの?」
「ただの知り合いという様子じゃない。非常に親しい間柄と見做してよかろう」
「ああ、そっか。あんたあれが好きなのか。どうやらとどかなかったみたいだぜ、あんたの声」
ルアはシャツのボタンを上から外した。脱がなかった。豊満な乳房を半分だけ露出させ、淫靡な笑みを浮かべる。
「あ、う、う」
呻くような声に瀬羅は横の俊樹に目をやる。俊樹は口を軽く開き、ルアを凝視している。怪訝に思い、様子を観察すること数秒、ジーンズ越しに俊樹の股間が膨らんでいることがわかった。勃起している。
「おいで。あたいにキスしな」
夢遊病者の足取りで足を踏みだした俊樹を聖が左手で制し「そういう力か。ならばそれなりの方法で応じよう」そう告げる。
「あたいの力がキかない? ナチ」
青年、ナチに助けを求めた直後、ルアは絶叫した。膝から崩れ落ち、床を転げ回りながら頭を掻きむしる。意味をなさない声を発する口から涎を垂らし、目からは涙を流していた。俊樹の表情が元に戻る。
「その力、美翔のそれに近いな」
「綾」
聖が小さく名を呼んでいた。それに─俊樹の叫びには何の反応も示さなかったのに─綾は顔を聖の方に向けた。
「聖」
愛しそうな響きだった。綾の脚が開いてゆく。しとどに濡れた秘所を聖に曝し、指で押し開いた。
「聖。欲しいの、あなたのが……お願い、れてぇ」
『綾が聖を好きだった いいえ、今でも好きなの?』
「ああ、聖。ずっと好きだった。あなたの、硬くて太いのを……ちょうだい。なんでもするから、早く突っ込んで」
瀬羅が口にしたことのない卑猥な言葉を、欲情しきった声で発し、綾は聖を求めていた。
「お前、この女の同族。いや、違うか」
聖の声は冷たかった。動揺していない。
「惜しいが、この状況。ここは」
ナチが大きく息を吸い込んだ。
「風だ」
聖の一言で瀬羅はナチの攻撃を悟る。瞬時に体内のエネルギーを変換し、風を発生させた。攻撃を目的とした疾風ではなく、ただの強風でしかない。常人なら即座に飛ばされて何かに激突し命を断たれるかもしれない風速でも、特殊な能力を有する者で並以上の身体能力を持っていれば身動きが可能。それでも相手の攻撃を防げるという瀬羅の予測はあっさり覆された。ナチは構わず吸い込んだ息を吐く。陳腐なイメージ、炎、冷気、黒い霧のようなものではなかった。無色透明、無味無臭の毒が風に流されることなく三人を包む。青酸ガスなどよりも余程強力な毒だった。五三年前の三月二〇日に一躍有名になったものよりも、強い。全身から力が抜けるのを瀬羅は感じ、目を閉じて鼻と口を塞いだ。意味のない風の生成をやめ、身体の浄化に力を回す。
『また』
今度は意識の溶明はないかもしれない、そう想っていた。
目を瞑り呼吸をとめて毒の領域を脱し、瞼をあげると既にナチとルアの姿はなく、潤んだ眸で見つめてくる綾の姿だけがあった。綾は数秒、蕩けたような表情をしていたが、ナチの力が解け正気を取り戻し、背を向けた。
「まともになったな。早く服を着ろ。瀬羅は助かるだろうが、牧村は三割だ。恋人なら病院に連れていってやれ」
「わかった」
かすれた声で綾は言い、台の周りに脱ぎ捨ててあった服、スポーツ・ブラとショーツ、レーシング・スーツを身に着け始めた。
拡散しない毒の中に倒れている瀬羅と俊樹を両脇に抱え「ついてこい」と言って走り、過剰なスペックの自分の車に戻る。
「牧村の単車だ」瀬羅を後部の狭いスペースに押し込み、俊樹を助手席に乗せる。俊樹の呼吸は弱まっていた。
綾は地面に落ちていたぶかぶかのヘルメットを被り、シートに跨がった。爪先立ちがやっとだが、大丈夫と判断し、ギアをローに入れ発進した。全速の八割で走る。四輪と二輪の差は大きい。
『普通の病院では駄目だ。強力な霊媒治療かABC兵器を研究している機関でなければならない。となると、あそこか』
未だに元手が取れず、有料のままの高速に乗った。進行方向、赤く染まりだした西の空が足の速い低く暗い雲に遮られる。腐敗雨注意報をスピーカーが伝えた。第三世代ポリマー・コーティングをしていない金属やコンクリート等を、PH3.6の酸性雨の十倍以上の速度で融解する。その性質は酸とは似て非なるもので、対象によって侵食作用が変化した。雨粒を一滴でも浴びれば常人の皮膚は溶ける。濡れるというレベルになれば皮下組織も焼かれ、治療には再生処置と皮膚移植が必要になった。だが人間を除く動物や植物にはほぼ無害という、信じ難い特性をも示す。光度センサーからの信号に従いライトが点灯した。カメラは無論暗視するが、主に歩行者に存在を知らせる為のもので、高速では無意味に近い。リア・カメラの映像が表示されている場所に目をやる。綾はついてきていた。時速三八〇キロメートルで六分弱走り、高速をおりる。郊外の道をスピードを落とさずに進んだ。五分で人家がなくなり、更に三分で目的地に到着する。
『工業化学第二研究所』
公立小学校の体育館くらいの建物を囲む高いコンクリートの塀に、そう刻まれた金属のプレートがはめられていた。コンクリートの塀に設けられた出入口、赤茶色のペンキで塗装された鉄の扉の横の壁に、金属製の蓋があり、その表面に三つの鍵穴があった。車の収納BOXを、五桁の、アルファベットと数字の混合したパス・ワードを入力し開け、三つの鍵を手にした。車からおり鍵を差し込む。鍵穴は正三角形に配置されていた。一辺が地面と水平の、最も想起し易いそれの、左の点に差し込んだ鍵を時計回りに一八〇度、真ん中の点に差し込んだ鍵を反時計回りに一三五度、右の点に差し込んだ鍵を時計回りに四五度、回す。小さな金属音がして把手が飛びだした。引く。蓋が右から左に開いた。その中には二つのセンサーと小さなタッチ・パネルがあり、虹彩と指紋の照合を受けてからアルファベット、数字、平仮名、片仮名、の混じった二三桁のパス・ワードを入力する。針の先程の穴から声が洩れてきた。
「(誰?)
「Sei Takahara」
「入りなさい」
鉄の扉が開いた。車に戻り敷地内に入る。研究所の外観は無機質を極めている。コンクリートの直方体が置かれている、という様子で窓は一つもなく、入口には厚いシャッターがおりていた。シャッターがあがる。入る。綾はついてきている。シャッターがおりてゆき、光が遮断された。明かりが灯く。動力を切り車からおりて、助手席の俊樹を引っ張りだし抱えた。
乗用車五台分のスペースの駐車場には扉が二つある。東側の壁に並んでいるそのスチール・ドアの左のものが開いた。白衣を着た背の低い女性、が現れ「!」(ハイ!)と言う。「毒ガスにやられた者を連れてきた。治療してくれ」前置きなしに頼むと「見返りは?」UVカットの色の濃いサングラスを押しあげた。
「可能な限りで、望むものを」
「!(よっしゃ!)ついてきなさい」
大股で歩く美喜子を追う。過剰と思える光量にあふれた通路は途中で二股に分岐していた。直進と左折、美喜子は左折する。こちらへくるのは二度目だった。分厚く密閉度の高いドアが並んでおり、五番目のドアのセンサーに左手の親指を押し当て開け中に入った。続く。三二畳、天井の高さ五メートルばかりの室内の中央には、五台の端末を接続されたシリンダーを縦に切ったような三メートル×一.五メートルの装置が三つ並んでいた。
「俺はやることがある。雨宮女史、この男を助けてやってくれ。彼女の検査もお願いする」
「聖ちゃんの頼みだからね、まあやってみるさ。興味あるけど、詮索はしないよん」三四にはとても見えない童顔の素顔を持つ所長は、素顔にそぐわない婀娜っぽい声で、声に相応しからぬ言葉遣いで言い、ウインクする。
「ついていてやれ」
「うん」綾は目をあわさず頷いた。
鉄筋コンクリート二〇階建てのアパートメント・ハウスの一五階、我が家であるアパートに戻った。瀬羅を連れてきている。瀬羅の意識は戻っていない。青酸ガスからの回復に二四時間が必要だったことから、放っておいては一週間は目覚めないと推測する。主の帰宅を察知し蛍光灯が点灯した。靴を履いたままあがった。もう足跡はついている。拭き取る手間は大して変わらない。一間廊下を進むと突き当たりにはトイレがあり、左に一畳のスペースがある。その空間にあるのは洗面台と脱衣所のドアだった。脱衣所に入る。洗濯機を設置してある脱衣所には当然バス・ルームのドアがあった。スイッチを操作し、脱衣所とバス・ルームの北側の壁にある小さな鉄格子つきの窓のシャッターをおろし、摂氏三八度の湯を汲み始めた。
瀬羅を床におろし、背中を壁に凭せかける。ジーンズのポケットから財布を抜き、洗濯機の蓋の上に置いた。黒無地の半袖Tシャツ、白にブルーのラインが二本、斜めに入ったスニーカー、黒の靴下、ブルー・ジーンズ、黒無地のトランクスを脱ぎ、籐の脱衣籠に入れる。瀬羅の顔を数秒見つめた。釣棚を開けた。洗剤、予備の石鹸と石鹸シャンプー、リンス、ボディ・ソープ、バス・タオル、タオルなどが収納されている。六枚のタオルの間に隠しておいたバタフライ・ナイフを手にした。幾度となく繰り返した動作でをだす。片膝をつき、瀬羅の身体の向きを変え、その首筋に刃を当てる。
ブラックのジャケットを切り裂く、背中側を縦に。その下の空色の長袖シャツも同様に裂いた。刃を収め、バタフライ・ナイフを床の隅に滑らせる。ジャケットを脱がせ、シャツのボタンを後ろから外し、脱がせる。腕時計を外した。再び背中を壁に凭せかけ、黒のスニーカー、ソックスを足から抜き取り、オフ・ホワイトのベルトを緩め、ブラックのストレッチ・パンツを脱がせた。
唾を呑み込んだという自覚があった。三秒だけ目を閉じていた。背中に手を廻してホックを外してブラジャーを、腰に手を廻し浮かせてショーツを。
瀬羅から剥ぎ取ったものの全てを、籠に押し込み、それを手にして脱衣所をで、LDKに入り三つあるダスト・シュートのうちの一つに籠毎放り込んだ。脱衣所に戻り、瀬羅を抱えてバス・ルームに入る。湯は指定通りの水位、浴槽の七分、で汲まれていた。瀬羅の背を壁に預け、座らせる。噴水口を排水口に向けシャワーをだした。冷たすぎず、熱すぎないことを確認し、吸い込ませないように注意して瀬羅にかける。体位を変えて全身を濡らせてから、自分も浴びた。そしてスポンジにボディ・ソープを染み込ませ、瀬羅の右の肩から、二の腕、腕、手指、左の肩から同じ順に、次に背中、右の腿、膝、ひかがみ、脛、ふくらはぎ、くるぶし、甲、踵、土踏まず、指先、左の腿から同じ順に、次に首、胸、腹、尻、最後に下腹部を軽く擦り、シャワーで洗い流した。
自分の身体を洗う。
瀬羅を抱え湯に浸かった。背後から腰に手を廻し、目を閉じる。頭の中で数を数える。三〇〇であがった。瀬羅を拭いてから自分を拭いた。洗浄と換気を指示し、寝室に運んだ。ベッドに横たえる。張りついた前髪を退かし額に左手を置く。精神の座を熟睡中に近い状態にしてから、浅い眠りのそれに移行させる。力を送った。
時間感覚を失っていた。手を離し時計を見ると一六分くらいそうしていたことがわかった。瀬羅はまだ目を覚ましていなかった。
彼は唇を彼女のそれに近づけていった。
触れ合う寸前、七ミリメートルで動きをとめ、呼吸をもとめる。そのまま、息がたなくなるまでじっとしていた。脱衣所の棚からバス・ローブと財布を取ってきて瀬羅にバス・ローブを着せ、服を着た。居間にゆき、メイン・コントール・パネルから再度全ての窓をロックし、シャッターをおろすように命令を下す。下駄箱から別のスニーカーをだして、三和土に置いた。
『ここは……?』頭はぼうっとしていたけれど、記憶ははっきりしている。毒を浴びて意識を失って、再浮上したということは自分が死ななかったということなのだと思った。
『聖の部屋だ』
物音が聞こえ、跳ね起きた。部屋を飛びだすと聖がスニーカーを履いていた。
「聖」背中に声をかけた。
「目とを洗浄しておけ」
「あのね、あたし」
聖はでていってしまった。溜め息をついて、言われた通りにしようと洗面台の前に立ち、鏡に映った自分がバス・ローブ姿であることを知った。
『ああ、そうか。洗い落としたんだ、毒』
髪はまだ乾いていない。洗面台の棚から目の洗浄液と口腔洗浄液を取って三度洗った。瀬羅の歯ブラシも櫛もヘア・ブラシも、ある。
聖の寝室に戻り、壁掛け時計を見る。
〈Sun,5 Jul 2048 8:12:26 p.m.〉
『聖、力を使ってくれた』
聖にも回復の能力がある。でもそれは自分よりも弱く、精神的にも肉体的にも大きな疲労を伴うものと知っていた。部屋を見回す。十畳の、フローリングに天然木を加工した木目のある板張りの壁と天井の、聖が一番使うことの多い部屋。東の壁の、北の壁との接点に片開きの扉がある。北面はクロゼットと、収納スペースがあり、西面は全面壁で小さな机に携行可能電脳が置いてあって、南面には嵌め殺しの一辺一メートルの正方形の窓(今はブラインドがおりている)、壁に接するようにシングルのパイプ・ベッドが置かれていた。配置が最後に訪れた─卒業式を終え綾と聖と三人で、嬉しくも悲しくもなかったけれど、記念に騒ごうと集まり一八畳のLDKでたった三人の立食パーティーをし、聖が作ったフライド・ポテト、フライド・チキン、ナゲット、クリーム・コロッケ、ハンバーガー、ホット・ドッグ、海藻サラダ、といったものを摘み(と言うには少し量が多かったけれど)、ジュースを飲みしながら妙にハイ・テンションにどうしようもない冗談を連発していた綾が、ジュースと間違えて聖のソルティ・ドッグを(味なんて殆どただのグレープフルーツ・ジュースだし)一気飲みして、聖に絡んだり突然あたしの胸で哭きじゃくったり、かと思うと大声で笑いだし、お説教を始め、虚空に向かって昔語りをするという状態に陥ったので、聖とこっそりLDKを抜けだし、この部屋でキスをして「コーラ味か」「」、その後穏やかなセックスをした─時と同じことに切なくなり、ベッドに横になってそっと秘所に指を挿れ『何にもしてくれなかったんだ』、こんな時に不謹慎だと思いつつ、聖を想って記憶のある中では六七日振りのマスターベーションをした。
検査を終え、染みのついているショーツをまた穿くことは躊躇われた。だが処分するにしても自分の手で、自分の目で確認しておかなければならなかった。不快感を追いやって、身に着ける。
俊樹は半分にされた巨大なシリンダーみたいな装置に入っている。こういう形の医療機器が出回るようになったのは一三年前と聞いている。当初はICUにしかなかった高度総合医療装置(人体をスキャンし、病変部を特定し、可能な内最も適当と判断される治療を施す、別名医者要らず)は、今では大半の診療所にも導入されている。無論最新のものは一部の機関にしかない。目の前にあるのはそれを応用した、汎用性を捨て一部機能を強化した、ものなのだろう。シリンダーの内部に液体が注入された時、俊樹の全身は浅黒く変色していた。雨宮女史が端末を操作して装置を本格的に作動させてから別の部屋で簡単な検査を受け、汚染なしの結果がでても安堵などできなかった。二七分後装置のある部屋へ戻った時、小柄な女史は装置の前でモニターを見つめながらコントロール・パネルを叩いていた。
「どうなんですか」
「貴重なデータが取れそうみゃん。新毒だよん。こんなものを入手できた上、聖ちゃんに貸しが作れるなんて、もう最高だよおっ」
雨宮女史は他人を慮ることを知らないのか、それとも何らかの狙いがあるのか、極めて学者馬鹿的な科白を口にした。
「そうですか」
俊樹はどんどん濃い色に染まっていった。分析が終わった一時間四一分後には完全な焼死体と見分けがつかなかった。『牧村は三割だ』聖の言葉を噛みしめる。プロ野球なら一流打者だ。三割もあると考えるか三割しかないと考えるか、或いは感じるかが何に左右されるのかがわからなかった。
「結果を教えて下さい。平易な表現で」
「かなり複雑な構造をしてるねー。毒性もかつてない強烈なものでー、ま、推定値はVXの六桁上ってところー、これはまあ、ダイオキシンよりもっと強い、自然に存在した毒の中で最も強い毒素、赤痢菌よりも強いんだけど」
「赤痢菌の半数致死量は体重一キログラムに二ナノグラムだと記憶していますが」
「ふぅん、最近の高校生は変なこと知ってるね。ま、こりゃまだ息してるのが奇跡の一二乗ってかんじー」
「助かる確率は?」
「さあね〜、ま、勘だと三割弱ってとこ。特異能力者だからねん、そうそう、君、名前は?」
「岐原綾です」
「ふ〜ん、綾ちゃんか。ラブリーじゃん。で、綾ちゃん、検査の見返り要求するよん、拒否したら今すぐこの装置停止しちゃうからねん」
「随分と強欲なんですね」
「あら、そんなことないわん。そりゃ聖からそれ相応のものは、いただくけど、それはお金じゃないからねん。この機械一時間動かすのにどんくらいの使途不明金を誤魔化さにゃならんか、わかるかしらん?」
「少なくとも高校生にどうこうできる金額ではないと考えます」
雨宮女史は振り返り、唇の左端を吊りあげた。純粋な罪のない狂気を感じる。
「血液を一〇CCと、皮膚を一センチメートル四方、それでいいわん」
「遺伝子でも調べるおつもりですか? 特異能力者のゲノムがそうでない人間のそれに比べ何の特殊因子を持たないということは、とうの昔にはっきりしたと記憶しています」
「まあね。でもそれってどう考えてもおかしいってこと。遺伝子以外にも何かあるかもしんないし〜」
「なら、血液と皮膚だけでは不充分ではないのですか?」
「贅沢いやあ生体をバラしたいけどさあ、んなことしてたら命が幾つあっても足らんし」
「わかりました」
「契約成立ぅ」
雨宮女史はモニターに視線を戻した。
「ところでさぁ、綾ちゃんこーこーせいだろぉ、そろそろお家に帰った方がいいんでない。どうせできることなんてないんだしさ」
「いいんです。どうせ心配なんてしてませんから」
「ふ〜ん」
雨宮女史は歌を歌いだした。知らない言語の陽気な旋律の歌だった。視界を手で遮り床に腰をおろす。雨宮女史の色っぽい声に何故か苛立った。しかし耳は塞がない。感覚的には二〇分から二五分、歌は続いた。旋律にも歌詞にも繰り返しはなく、雰囲気はころころと変化した。恋歌、悲歌、哀歌、牧歌、神歌、聖歌、舞歌、讃歌、そんな風に。
「今の、なんていう歌ですか?」
「さあね〜。どの時代のどの国のどんな人のどんな種類のどんな意味の歌か、ぜ〜んぜんわからないわ〜。ただね〜、(ママ)にね、良く聴かされたみたいでさ、こんなの子守歌にされちゃ、性格も歪むってもんよ。どうでもいいけどさん」
「子守歌なんて良く覚えてますね。そんな幼い頃の記憶」
「良くいうじゃん。腹んなかいる時から音は聞こえてるって、無意識の記憶を呼び覚ますってのはね、基本的にゃ誰にもできんのら」
掘り起こせば自分にもそんなものがあるのかと想った。父も母も自分に笑顔を向けてくれたことなどない、記憶の中では。断片的なものが残っているのは三、四歳の頃から、小学生になるとかなり明確に、量も多くなる。人間の引き延ばされた平均寿命、限界寿命からすればそんなに生きてきたとは言えない。それでも再現しきれない量のそれに、家族の愛情を受けたというレコードはなかった。前は彼だけは愛してくれていると思っていた。真実愛してくれていたのかもしれない。その愛情もあのおぞましい記憶の後、憎悪になった。彼のようになればと考えて、彼を思慕して、剣術も始めたのに、結局裏切られた。
「聖の車ん中にさぁ、も一人いただろ。こいつは確信なんだけどね、あの娘もこの子、君の彼氏? と同じ毒にやられてたじゃん。ひょっとしてあの娘が聖の彼女?」
「別れました。聖と瀬羅は」
「ふ〜ん。でもまあ、まだ好きだね、聖は。きっと嫌なのさ、同性であろうと自分以外の人間にあの娘の裸を見せたり、身を委ねたりするのはねん。あいつ、聖はさあ、一見大人っちゅうか、確かに男にしては大人なんだけどよぉ、超独占欲強いのよん。良くいるタイプなんだよねえ」
「性質を細分化すればどれも平凡になります」
「そりゃ、その通りだわさ」
「聖とはどういう関係ですか?」
雨宮女史は肩をすぼめ、振り返るとサングラスを外した。実年齢が幾つか知らないが、きっと童顔なのだろう。同い年くらいに見える、目が大きくチャーミングな容貌は成形したものではないとわかる。骨格を削ろうが補おうが、手術根が皆無だろうが、自分の眼はそれを仮面と看破してしまう。この力が生を受けた時から備わっていれば、そして内面をも見抜くものだったら、あんないもしなかったろうに。
「ふる〜いふる〜い知り合い。一方的にって条件をつければ、聖がこの世に発生した時からのね。これ以上はおせーてあげない。そんなことしたら殺されかねないもん」
女史は目を細めた。探られているのかからかわれているのか嘲弄されているのか、他の何かか、それらの幾つかか或いは全てか、ただの癖なのか、判断できない。視線を落としたり顔を背けたりするのは、気持ちを見透かされそうで怖かった、自分でも把握していないそれを。
「俊樹を助けて下さい」
「手は尽くす。契約したからね。さて、いよいよだ」
端末を女史が操作するとシリンダーの中に微かな色を持った液体が注入された。
「あの、今のは」
「薬品さね。普通の人間が取り込んだら死ぬ類のねん。承知しといて欲しいのは、これが人体実験ってこと。あたいは医者じゃないし、これは治療じゃない」
「わかっています」
雨が強くなってきた。
インターフォンのスイッチを押す。一七秒が経って『何方様でしょうか』と原始的な合成音の、機械的な声が尋ねてきた。家人がでることはそれだけで情報を与えることになり、現在の合成音声を用いることは、それが女性型のものの場合無知な犯罪者に勘違いをさせることになる。少しの知能と知識を持つ犯罪者ならば家族構成の下調べ程度は行う。
「高原です」
聖は柔らかな親しみを含んだ声で告げた。カメラが自分の姿を瀬羅の妹の誰かに送り、プログラムが声紋をチェックしている筈だ。
「高原さん、お姉ちゃん知りませんか 綾さんの家から帰ってこないんです。いえ、一度帰ってきたみたいなんですけど、すぐにでていってしまって、綾さんも戻ってないって、電話も通じないし」
「落ち着いて、夏未ちゃん。お姉さんなら家にいるから。岐原さんは牧村君と一緒だよ」
「あ、そうですか、良かったあ。秋恵、冬華、お姉ちゃん高原さんの家だって、あ、失礼しました。今開けますね」
家庭用では最も強度のある門の潜り戸が開いた。庭に入る。ポリマー・コートの施してある赤煉瓦の上を歩き玄関に向かった。夏未が玄関ドアを開けた。
「駄目だよ、もう一度確認する前に開けちゃ」
「あ、つい。でも高原さんなら。あの、中に」
傘を傘立てに置き、入った。
「どうぞおあがり下さい」
「いや、ここでいいよ。早くお姉さんに帰ってきて欲しいだろ」
「そんな野暮言いませんよ。無事がわかればいいんです。お茶、召しあがっていきませんか? お話はそれからで如何でしょう」
聖は数秒思考する振りをした。
「火急じゃないけれど急いでるから」
秋恵と冬華が姿を見せ「今晩は」と頭をさげたので、「今晩は」軽く頭をさげ返す。
「そうですか。それではお引きとめする訳にもいきませんね。ご用件を仰って下さい」
「着替えを取ってくるように言われたんだよ」
「姉の、ですよね。何かあったのですか?」
「雨に濡れちゃってね」
「あ、そういうことですか。秋恵、お姉ちゃんの服取ってきて。冬華は高原さんにお飲み物を。高原さん、電話してよろしいでしょうか」
夏未は妹二人に指示をだしてから聖に尋ねた。勿論と答えると夏未は居間への扉に姿を消し、冬華がお盆にピエールカルダンのグラスを乗せてやってきた。アイス・コーヒーで満たされたグラスは少し輝き過ぎていた。
「どうぞ」感情の含まれていない、限りない深みを持つ冷たさを有した声で冬華が差しだしてきたグラスを受け取り、「有り難う」と聖は礼を言った。
「お口に合えばいいのですが」
二口飲み「ウォーター・ドリップか。手間をかけてるね、とても美味しいよ」素直な感想を述べる。「お姉ちゃん、夏未だよ。今高原さんがお見えになったの。どうして連絡してくれなかったの? 電話でもメールでもいいのに──あ、そうだったんだ。─うん。うん。─いいよ、ゆっくりしてきなよ。あたし達も子供じゃないんだからさ。─わかってるよ」洩れてくる声を聞きながら冬華と、「本当に雨に濡れたのですか? 急な降り方ではなかったですし、岐原さんのお宅から高原さんのお宅まで歩いて五分もかからないかと」「三人で食事していたんだ。大丈夫だと思って店でたら丁度降られてね」「この頃姉がおかしかったの、御存知でしたよね。どうして一度も」「僕にも何が何だかさっぱりだったんだ」「姉を不幸にしないで下さい、あなたが」していた会話は、秋恵がスポーツ・バッグを手にエレベーターからおりてきたのを契機に断絶した。
「ご歓迎しますから、またいらっしゃって下さい」
三人に頷いてみせ、聖は斎藤家を後にした。もう三年もすれば瀬羅そっくりに成長するだろう末娘の、深く冷たいが強く印象に残った。
明かりは消してあり、バス・ローブは床に落ちていた。瀬羅はベッドに横たわり、目を閉じていた。ブランケットが膝上から胸元を覆っている。呼吸と心臓の音から眠っているのだと聖は判断する。
小さな作動音をたてて空調が働いていた。温度は二七℃、湿度は四五%に設定してある。外と比べて温度はさして変わらないが、湿度の差は大きい。聖はジージャンを脱ぎ、ハンガーにかけた。クロゼットには収めない。僅かに濡れていた。
聖は枕元に膝をつき、瀬羅の寝顔を見つめた。顔を近づけてゆく。触れ合う前に動きをとめた聖が離れてゆこうとした時、しなやかな腕がその頭を抱いた。
「聖、あのね」
目は閉じたままだった。浅い息を微かに感じる。聖の平均よりずっと低い体温が伝わってくる気がした。
「聞いて欲しいことがあるの。聞きたくないというのなら言わないから、答えて。聞いてくれる?」
嫌だと返ってきたらどうしよう、そう思う。
「ああ」
安堵を隠し、目を開く。聖の眸が自分を映しているのがわかった。静かに深呼吸する。
「あたし、とっても大切なものもらったの。嬉しかった。誰にもらったか、わかる? 想像して口にしてみて」
「一条からか」
隆司のことを知っているのには驚かない。
「ううん。他には?」
「知らない」
「神様からよ」
聖の顔に感情は表れない。言葉遊びを続けようかと数瞬迷った。
「あたし、赤ちゃんできたの。四ヵ月だって」
「誰の子だ」
声を荒げてみようかとも考えた。婉曲な表現をしようと決める。
「あたし、一人じゃ子供つくれないし、顔も知らない人の子供なんて欲しくない」
「誰の子だ」
「あたしと、聖の子よ」
「それで?」
「それでって……産むわよ、あたしの子だもの。まさか堕ろせって言うの? 初めての子なんだよ、あたしにとっても、聖にとっても」
「自分の子供に一番目も二番目も関係あるのか」
「それは……」
言い淀む。何秒かが過ぎた。
「それに初めてじゃない」
その意味が浸透してくるのにどのくらい時間が経ったかわからなかった。
「どういうこと?」
「俺にはもう子供かいる」
「そんなの聞いてない」
「初めてではないと言ったはずだ」
「それは、あたしが聖の最初のではないって、それは確かに聞いたけど。誰の子なの」
「今はもういない女だ」
追及しても無駄だと悟る。整理などできなかったが、決意は変わらなかった。
「そう。それでも、いい」
「産めるか」
「産める」
「産めるか?」
頷く。
「産めるのか」
どうしてこんなに何度も確かめるのか疑問に思いながら「産めるわ」と先刻より強く言った。
「産めるのか? 叔父であり、兄である男の子を」
「……え」
「もう帰れ。三人の妹が待っている」
腕の中からすり抜け、そう言い残して聖は部屋からでていったのだと想う。
「兄貴よお、早く飯作れよ、腹減ったって言っただろうが、五分前に」
「そうだぜ、どんだけ待たせりゃ気が済むんだ、てめえ何様だとおもってんだ、ええ」
「父さんも空腹だあ。まだかあ」
テーブルに座って好き勝手にわめく双子に向かい「五月蠅い、黙れ、この穀潰しどもがあっ! 俺がいなきゃ男やもめに蛆がわき、こんな家一週間でドリーム・アイランドになってお隣さんからの苦情で今時珍しいこの社宅を追いだされ、路頭に迷って半年以内にお陀仏のくせに、いっちょまえに文句たれるんじゃねえ、この糞餓鬼い!」怒鳴り、「ああ、ぃ、隆司が壊れたよぉ、やっぱり母親ってものは必要なのかなあ、許してくれるよなあ、栞ぃ、もう三年経ったんだ、勿論お前のことは一生忘れはしないさあ、だから」仏壇に向かって語りかける父親に「相手もいねえ癖にらしいことほざくな、この甲斐性なし! 誰の所為で俺がこんな苦労してると思ってんだ、三流会社の万年平があっ!」吐き捨ててクウの火をとめた隆司は、ツイン飛び蹴り攻撃を繰りだしてきた双子に「ユニゾンしてんじゃねえっ!」ラリアットを食らわした。
「暴れんな、埃が立つだろうが。もうできたんだからさっさと椅子に座れ」
仰向けに倒れ、喉を押さえる二人の弟を抱えて椅子に座らせた。皿に盛ると驚異的な回復力を誇る愚弟が「酢豚あっ! 酢豚あっ!」と声を揃えたことに、『無邪気な奴ら』という感想を抱く。
「ううっ、御免よお。父さんの稼ぎが悪いばっかりにこんな不憫な思いをさせて」
「泣くな親父。より貧しい家庭なんて幾らでもあるんだ。家庭なんてもんがあるだけましなんだよ」
「隆司い、父さんは、父さんは」
「ひっつくな、鬱陶しい。んなだから再婚相手も見つからないんだ。こら、まだだ由輝、待ってろ」
隆司は小皿にクウ咾肉を盛り、小さな御飯茶碗に玄米をよそって仏前に置いた。手を合わせることはしない。
「兄貴、もういいだろう。腹減って腹減って身体が裏返しになって五臓六腑をぶちまけちまいそうだよお、そしたら掃除に手間かかるぜ」
宏輝が五臓六腑などという四字熟語を知っていることに多少驚きつつ「それは助かる。一人分の食費、光熱費、学費、その他諸々が必要なくなるなんて、火勢が多少は衰えるぞ。宏輝、遠慮はいらん、景気良くぶちまけろ、掃除なんていくらでもしてやる。そうしたらお掃除ロボットイズミちゃんの修理代も、三ヵ月で溜まるだろうし、一ヵ月くらいは多少しんみりするだろうが、二ヵ月もすれば人間大抵の状況には順応する、さあ」言うと、「この愚兄、最近ちょっくらいい気になってねえか、少しいい学校いくようになったからって、人の本質なんて変わりゃしねえんだよ、てめえは俺様の下僕だろうが。歯向かったその時はてめえのけつの穴に空き缶突っ込んでやるぜ」テーブルの上に立って視下したので「お前、何処でそういうの覚えてきた。罰として三日間食事抜きな。それ以上反抗したら教えてやってもいいんだぞ、斎藤冬華さんに」、最近握った弱みをちらつかせ黙らせた。
「その辺にしとけ。会社に遅れちまう。いただきます」
父の挨拶に続いて「いただきます」、箸を取った。
「どうして父さんは毎日通勤するのさ? 家にだって一応仕事に使えるだけの電脳はあるだろ、必要ないのに会社にいっても交通費が無駄になるだけ。いや、家からでる分危険は増大する、物盗り、通り魔、交通事故、無差別テロ。あんな社宅にだって結界は張ってある、一般道よりは異形の脅威も少ないのに」
隆司は相手と状況により口調を極端に変化させる。二人の弟に対する時は、今は意識的に乱暴に、友人に対する時は無意識に丁寧に、父親に対する時は昔から適度な親密さを狙い。
『一番力が抜けてるのは、うるちゃんとか』
自分より更に背の低い、今時どぶ鼠色のスーツを好む、隣を歩く父親に、常日頃から抱いていた、どういうか中々口にできなかった疑問を、隆司はぶつけた。
「父さん古い人間だからなあ。どうもNETを介しての作業というのは苦手なんだ」
「古いっていっても、父さんが小学校に入学した時にはもう一人一台の時代だったし、就職する頃には在宅勤務なんて常識になっていただろう。電脳やNETにアレルギー反応示す世代じゃないはず」
「だから古い人間なんだよ。古き佳き時代に憧れる性分というかな」
「それでよく母さんと結婚できたね」
「障害がある方が愛は燃えるものさ」
「はいはい。その辺の話は耳たこだよ。蜜月を何年続けたんだか。本来一ヵ月しかないところを」
「一ヵ月なんて誰が決めたんだ?」
「そんなの知らないけれど、ヨーロッパにそういう習慣があったのさ。結婚して一ヵ月は蜂蜜の酒を飲むという」
「両親の仲がいいのは良いことだろう」
「程度問題。いい歳こいて子供の前でいちゃいちゃいちゃいちゃ、見てる方が恥ずかしくなったよ」
「そうだったのか」
駅に着いた。改札を抜ける。鞄の中の定期は終業式の日まで有効であるから、通学の際に期限を意識することは殆どない。父の会社とは方向が別であり、ほぼ同時に到着した、一分停車する下り電車に乗って七メートルと離れていない上り電車に乗った父の姿を追うと、父は隆司の知らない、二〇以上下に見える、自分とほぼ同年齢の少女と会話していた。少女が身に着けているのは青いブレザーだった。私立朝比奈学園の制服ということを知っていた。背丈は自分と同じくらいで、色白の美少女だった。
『まさか今時援コー? 父さんにそんなことが、いや、ああいうタイプは裏で何を考えているか』
アウトロー区域にいけば、中学生の一ヵ月の小遣い程度の金額で春をぐ少女は少なからずいるし、身を売る少年もいる。名門校とはいえ、女子高生に幻想を抱く大人が未だにいるのか、いやいるんだろうなと考え、父さんはそうではないと断じた。
ショルダー・バッグから出力専用端末、換言すれば予め記録しておいた文章や画像、音楽、音声のデータを、一〇センチメートル四方の画面に表示したり小さいながらも疑似立体音響機能を持つスピーカーから流したりする機械、を取りだし、今月の食費の残りと、朝食を作る前に調べ、記録しておいた安売りスーパーの商品値段対比表を画面に呼びだす。『夕飯どうしようかな。動物性タンパクをもう少し、ビタミン全般を充分に、カルシウムは牛乳で、海藻類もちょっとは摂取しないと』
というようなことを考え、帰りに立ち寄るスーパーと購入する品物を決定すると、いつの間にか乗り換え、学校へ五〇メートルの歩道を歩いていた。校門の、学校名が刻まれたプレートの前に瀬羅の姿を見つける。心拍数と血圧が上昇するのがわかり、特異能力者の内でも感覚が鋭敏であろう瀬羅に悟られても理由を説明できるようにと、時計を五分遅らせて走った。瀬羅の前を通りすぎ、敷地内に半歩入って急停止、体の向きはそのままで後退し「斎藤さん、何してるの? 急がないと遅刻」校庭の隅の方に設置されている時計に目をやり「あれ、まだ五分ある。電池切れかな、その、恥ずかしいけど交換が必要なんだよね、父さんが独身の頃買ったものでさ」普段よりかなりお喋りになっている自分には気づかず瀬羅の目が自分を見ていないことに気がついた。
「斎藤さん?」
あまり接近すると首が疲れるので二メートルばかりの距離を取り瀬羅の顔を見る。瀬羅は右、登校する生徒の大半がやってくる方向に視線を注いでいた。
「斎藤さん、誰か待ってるの?」
高原聖を待っている、或いは探しているのだと確信する。そして瀬羅の状態が知り合った時のそれに近いのだと悟る。一人で教室に向かうことも声をかけることもできなかった。間抜け面で見あげているのも目立つだろうと、門柱の裏に回り寄り掛かって玄関に吸い込まれてゆく生徒、湿り気を帯びている野球のグラウンド、サッカー場とテニス・コートの芝生、秒を刻む針、を眺めながら瀬羅の微かな息づかいに耳を傾けていると、間もなくチャイムが鳴った。
「チャイム鳴ったよ」
瀬羅はまだ動いていない。チャコール・グレーのパンツとそれに少し白を混ぜた色のノー・スリーブのニットそれと組のカーディガン、ダーク・ブラウンのオックスフォード・シューズ。そして小さな赤いルビーの、金のイヤリング。その恰好からして銃はリュックの中か携帯していないか。瀬羅の力量からして特に銃を必要とする状況はそうはないし、普段持っているのも6.35mm、普通の人間相手でも威力不足を感じる口径だが、なお即座に撃てないというのは不用心に思えた。
「HR始まるよ、教室にいかないと」
聞こえた様子がなく、隆司は意を決して瀬羅の左手首を掴み引っ張った。
「隆司君?」
やっと自分の存在を意識に捉えてくれた瀬羅を引きずりながら「もうチャイムなったよ。岐原さんはどうしたの?」尋ねる。
「綾は今日休みなの。牧村君が怪我して、付き添っているそうよ。牧村君の家に連絡入れてみれば? そうすれば家の人が教えてくれるんじゃない」
「俊樹独り暮らしなんだよ」
「そうなの? 家族は?」
「父親は俊樹が一歳の時に亡くなったそうだよ。母親は今アメリカで働いてる。兄弟はいないからさ」
瀬羅が逢った時のような話し方でないことに安心した。
「それじゃ色々大変ね。ロボットがあっても雑用の全てを任せるわけにはいかないし」
「俊樹の家ないよ、ロボット」
「全部一人でやってるの?」
「違う違う」
「通いのお手伝いさんがいるとか?」
隆司はにっと笑い首を左右に振った。
「さて、何でしょう」
「う〜ん。降参」
「式神がやるんだ。戸の開け閉めや掃除、洗濯、料理は自分で作るんだけどね」
「牧村君陰陽師なの?」
「俊樹には陰陽師としての力はないそうだよ。母親の家系を遡ると隠れ陰陽師がいるんだって。隠れだったから廃仏毀釈の影響は少なかったんだろうけど、近代は異形の存在感薄くなっていたから後継者がいなくて、俊樹の母さんも占い専門みたいになってたって話。そこに二十数年前の、異形、霊的存在の出現、或いは復活、もしくは跳粱跋扈。急に忙しくなったんだって。この国は同業者が増えて競争が熾烈になったから、五年前に渡米したんだよ」
「そうなんだ」
ドアを開け、一三人の生徒が席につき担任のが出欠をとっているところの教室に入った。
「Are you fleas?」
栗本の言葉の意味がわからず、クラスメイトの一人(確かとかいう隆司の次に背が低い男子)の、「一条、お前奥手の振りしてやがったな。どうしてお前みたいなチビが」という言葉と、女子数名の「そんな〜、あたしタカクン狙ってたのに〜」「斎藤さんじゃ勝ち目ないー」「不釣り合いだけどお似合いかも〜」という言葉に、漸く自分が瀬羅の手首を握っていることを思いだした。
「いえ、これは、その、違います! そういうんじゃ」弁明しようとすると瀬羅に「言わせておけばいいの。面白がってるだけなんだから、言い訳すると余計面白がられちゃうよ。反応しなければすぐに飽きるわ」耳打ちされ、吐息に顔が赤くなるのがわかった。
「内緒話してる。妖しい、妖しい」
「一条、後で屋上な」
「俺も混ぜろや。くそう、俺の純粋な想いは何処へいってしまうのか」
「いやまて、一条だぞ、チャンスはまだまだ幾らでも」
「あんたなんかより一条君の方が断然イケてるわよ。鏡見れば一目瞭然でしょ。ぶ男」
「お前だって相当ユニークな顔してるぜ」
「なんですって!」
「あんたらやめときな。ブチハイエナも食わねえって。それより斎藤さん、飽きてきたらおすそわけしてね〜」
「ちょっと皆、静かにしなさいよ。HR始まらないじゃない」
「黙ってろ眼鏡猿。お前みたいなブ……わ〜泣くな〜」
「ねえねえ、一体教室で何起こってんの? 誰か教えてよ、全然話が見えないよー」
「ええっ! 一条クンと斎藤さんがデキテターっ! あたい斎藤さんってそういう人じゃないって思ってたー。ねえねえ、どっちが告白したの? いつからつきあってるの? 後で教えてね」
目の前とケーブルの先の幾つものコンピューターの前で発せられた無責任な戯れ言に、隆司は苦々しさと優越感を覚えていた。
「おらおらそこまでや。誰からやったかな、そうそう、から。あー、遅刻してきた二人、犯罪にならなきゃ何やってもいいが、コンドームでもピルでも何でもいいから使っとけ。まだ母体に匹敵する機械は作られていないからな」
「先生!」
隆司は顔を真っ赤にして怒鳴っていた。
揶揄の意味を持つ笑い声。
「大丈夫です、先生。あたしもう妊娠してますから」
笑い声がぴたりとやんだ。
「へー、斎藤さんでも冗談言うんだ」
「っていうか、あたし達に対して自分から発言したのって初めてじゃない?」
「本当だったりして」
「影で何やってんだか」
そんな悪意を含んだ文字だけのやりとりが交わされているんだろうと、隆司は推測した。
俊樹は一命を取り留めた。特異能力者ならではの生命力で回復し、月曜の午後二時半にはシリンダーからだされた。その一時間後に聖の車(昨日のものではない普通のセダン)で自宅に運んだ。尋ねたら最速の市販車は捨てたと聖は答えた。
俊樹の家の場所は知っていたものの、敷地内に入ったことはなかった。純和風の、白塗りの壁と門は現在では不用心だと思っていたのたが、聖の「視えも聞こえもしないが、何かが守っているな。無理に入るのは少し骨だ」という言葉に漠然と納得した。聖は門を一瞥し、「やはり近代的セキュリティーではない」呟いて六秒強思考した。
「牧村をここに連れてこい」
言われ、綾は後部座席に横たわらせておいた俊樹を抱いて門に近寄った。ひとりでに開く。
「牧村を連れていれば味方と見做すのか、他の判断基準を持っているのかはわからないが、綾を受け入れたのは確かだ。俺は入れないだろうし、その気もない」
それだけ言って背を向けた聖に声をかけようとした。
「せ……たかは」
「聖でいい。何だ」
「……迷惑、かけちゃったね。今は無理だけど後で返すからさ、お金。安心してよ、高額所得者になる予定だから、予定は決定、未定にあらず」
「必要ない。だ」
聖は振り向きもせずにここ数年で最も販売台数の多い白のセダンに乗った。聖がかなりの金額を自由にできることは知っていた。それでもここまでとは考えていなかった。多分昨日の車と同様、俊樹の愛車も同じ方法か、念を入れたのなら別の方法で処分したに違いない。四輪についてはあまり知識はないものの、昨日聖が乗っていたそれが並の、例えばさっきのセダンの十倍前後の価格というのは知っている。それをあっさり捨てるというのは、自分のように単車に名前をつけるような偏執がなくとも、余程でなければできない。手元に戻ってくるように処置しておくにしても、無傷でというのはあまりに不自然だ。素人に近い自動車泥棒でも位置信号くらいは送れないようにする。セキュリティー関係の電子機器は壊され、付属品はまず残らない。それを偽装すれば、損害はかなりの額になる。
もっと厄介なのは個人情報のだろう。四輪の免許取得が許されるのはまだ満一八歳から、聖は一人暮らしだし、血縁者は一人もいない。母親が本当は死んだということを本人の口から、瀬羅と一緒に聴いたのは、中二の冬のことだった。そうなると車両の合法的な所有は不可能になる。それを調査されるとなると、幾ら聖でも独力で誤魔化せはしない。
そして雨宮女史への報酬。金銭ではなくとも、同等かそれ以上のものを要求されると考えるのが自然だった。
白のセダンが視界から消え、綾はそんな思惟を追いやって門を潜った。門扉の閉まる音を背後に聞き、庭園とはいかぬまでも、広い和風の庭の先にある建物を見た。純和風の平屋だった。木造瓦葺き、外界と遮断されていない廊下に鍵のない障子。飛石を伝う。分岐点があった。玄関へ向かうか、離れらしき建物に向かうか、踏み分け石の上で暫し迷う。玄関へゆく。やはり手をかける前に開いた。三和土で靴を脱ぎ、あがる。綾は着替えている。聖が下着と服、靴を持ってきた。勿論新品で、コーラル・オレンジのカシミアらしいプルオーバー、チェリー・レッドのシルクのスカート、ピンクのパンプスのサイズも下着のサイズもぴったりだった。
「こんなの似合わないよ」
「そうでもない」
「そうかな。でも、どうして服はおろか、カップのサイズまで知ってるの?」
「見ればわかる」
俊樹の部屋が何処かわからなかったので、廊下に面した部屋を順番に見て回った。殆どの部屋は空っぽで、すぐにそれらしい部屋が見つかった。八畳の二続きの部屋の襖を取り払い、一六畳のそれにしてある。追いやられているように隅にあるラックと電脳機器を除けば、二一世紀の技術の所産は何もなかった。というより、他には桐の箪笥と壁にかかっている空手の道衣があるだけだった。
室内に入り、蒲団が見当たらないので干してあるのか、それともこの部屋では寝ないのか判じ兼ねていると障子が勝手に、一杯に開き敷布団が入ってきた。近寄ってきたので反射的に隅に移動する。蒲団は電脳と箪笥、道衣のない、つまり空いている方の部屋の中央に着地した。続いて枕がやってきて、蒲団の上に鎮座した。仏教では北枕は不吉とされ、風水ではそうではない。要は気にする必要はないと思っている綾は、東枕になっているそれに躊躇いなく俊樹を寝かせた。この季節なら掛け布団は必要ないか、極薄いものでいい。登場しないのは普段使っていないのだと決めた。障子が閉まる。
今の俊樹はトレーニング・ウェアを着せられている。これも聖が持ってきた。少し暑いだろうから着替えさせることにする。幾分迷ってから箪笥を開けた。夏物のパジャマを探す。一番下が下着、二番目にあった寝衣がパジャマではなく白の浴衣だっのは少し意外だった。屋敷の構造は古風だが、普段の俊樹の服装は洋服だし、話題にもそういう匂いは全くなかった。自分が殆ど俊樹のことを知らないと気づき、綾は下唇を噛む。
トレーニング・ウェアから浴衣に着替えさせる時、上半身の造形に暫し見惚れた。確かに細いのだが、無駄な肉がなく良く鍛えられた、実戦的な筋肉がバランス良く配置されている。肉体フェチではないという自覚と確信が揺らぐくらい、色香を感じた。少し広い額に汗が浮いている。
『どうしようかな。そうだ、試しに』
「軽く水に濡らしたタオルが欲しいんだけど」
声にする。駄目かな、と思った時障子が開いた。廊下に水の張られた洗面器と手拭いがある。有り難う。綾はそう廊下に向かって言い、洗面器と手拭いを取ってきた。枕元に正座する。幼い頃から剣術をやっているから馴れていた。手拭いを水に浸し、充分に絞ってから四つ折にして俊樹の額を拭いた。
一時間ばかりそうしていると電脳のスピーカーからコール音がした。古めかしい電話の、電子音ではなかったそれをデジタル録音したものを登録してある。テレビ電話機能だけを立ちあげるボタンを押した。二秒で画面に隆司の肩から上が映った。
「あ、岐原さん。俊樹でられるかな?」
「今はちょっとでられないな。眠ってるから」
「そうなの。これから見舞いにいこうと思うんだけど、いいかな」
「なに気を使ってるの。勝手がわからなくてちょい困ってたとこなの」
「そう。じゃあ五分くらいでいくから」
画像の解像度と音質から携帯からではないと知れた。俊樹と隆司の家が自分と瀬羅の家とほぼ同じ距離にあると聞いたことを思いだす。隆司が電話を切ったのを確かめてから電源を落とした。振り返ると俊樹が薄目を開けている。
「気がついた? の鳥、に交わるって言うとオーバーだけど、ちょっと心配しちゃった。気分どう?」
俊樹は数度目を瞬かせ、色のない眸を向けてきた。俊樹の気持ちをしようとしても、麻痺してしまっていた。
「喉が乾いている。水が飲みたい。台所は廊下を西に進んで突き当たりを右にいけばあるから、持ってきてくれないか」
俊樹の声は小さく嗄れていて、今の綾はそれから何も読み取れなかった。
「うん。わかった」
廊下を歩く。右に曲がり、少しいくと引き戸があり、入るとシステム・キッチンだった。冷蔵庫の中は五分の一程度しか埋まっていない。ミネラル・ウォーターがあったので食器洗い機からコップを取りだし、注いだ。それを持って戻る。
「はい」
俊樹は身体を起こしていた。幽かに微笑み「有り難う」、コップを受け取る。
俊樹は受け取ったコップを綾の頭の上で傾ける。零れた水は綾の長い髪を僅かに濡らし、表面を滑って大部分はプルオーバーに染み込み、残りがスカートと畳に吸収された。
「涼しくなっただろ」
平板に言うと、綾は目を細めて笑った。
「うん。でもちょっと冷たいかな。撥水加工してないみたいだね」
「でていけ」
自分でも初めて聞く低い声だった。
「あっ、うん。わかった。また」
綾は柔らかな笑みを浮かべたまま、頷いてでていった。足音が聞こえなくなる。だるかった。体重を支えているのも難儀なので起こしたばかりの上半身を倒し、目を閉じると綾の狂態、媚態、が浮かんだ。性欲の発露、それはいい。自分もあの女の、得体の知れない力によって醜態を曝した。その弱さは許せる罪だ、自分は性欲をそれほどは憎悪していないのだから。
『綾が求めていたのは、俺ではなかった。高原聖、綾の親友、斎藤瀬羅の元恋人、俺より強い男だった』
裏切りだ。
足音が近づいてきて、部屋の前でとまった。
「でていけと言った!」
怒鳴っていた。昔、十歳くらいまではそんな、余裕のない声で言葉を叩きつけるという行為を頻繁に行っていた。母に対して。修行を課せられたのは苦痛ではなかった。物心つく前からやっていたこと、脳幹が司るような活動に喜怒哀楽を覚えはしない。少なくとも自分はそうだった。やり切れなかったのは、どんなに真剣に修行しても、力に目覚めなかったことだった。母は能力の種類は少ない方だったが呪力は強かった。九字を切りもせず強力な異形を消滅させる光景は焼きついている。占いも必ず当たった。本当のことを依頼者に告げないこともままあったから、世間には良く当たる占い師と認識されていたが、母が視たビジョンは必ず現実になった。視えないことも殆どなかった。なのに自分には才能がない。俊樹は才能を持っているわ、わたくしよりずっと強い才能をね、だから信じて頑張りなさい─信じられなかった。それでも手は抜かなかったのに、ついに十歳の時見切りをつけられた。それ以来、陰陽術の修行はしていない。別の力を求めた。だから空手、柔術、日本拳法を学んだ。格闘技の才能はあったのだろう。努力もした。怒鳴る必要はなくなった。覆されたのは、高原聖にだ。
「うるちゃん、僕だよ」
隆司の声だった。目を向ける。障子の影は少年のそれ、自分よりも三三センチメートル背の低い隆司のものだった。
「ピー・メイか。入れよ」
入ってきた。目がめていた。
「何したんだよ、泣いてたよ、岐原さん。笑いながらね。これは想像だけど、気づいてなかった、自分が涙を流していることに。何があったの?」
「有無を言わせず押し倒して、その後はお約束だ」
「うるちゃん、僕はうるちゃんのこと、良く知ってるつもりだよ」
「……」
「僕にも話せないことなの? そりゃ僕の力なんて微々たるものさ。でも皆無じゃない」
「確かに、ピー・メイを信じられなくなったら世界の終わりだよ。わかった、話す。
昨日の午後六時半頃、斎藤さんから電話があった。綾がわれたと知らせてくれた。彼女は誘拐犯の車両に発信機を取りつけたそうだ。俺は彼女の指示に従って追った。彼女も追跡していた、高原聖と一緒に」
高原聖の名前に隆司の口許が引き締まる。
「中学からの友達だそうだからね」
「俺達はどうにか綾を見つけた。そこには朝比奈学園の制服を着た男と女がいた。特異能力者だった。これまでに報告されていない力を持っていた。催淫能力とでもいう、力だった。綾はそれに抵抗できなかったようだ。やってた、手淫」
「それで? 大抵の人には性欲あるだろ。そんな」
「俺だってそんなことでは怒らない。だが、その時綾が求めたのは俺じゃなく、奴だった」
「奴?」
「高原だ」
隆司の顔が強張った。俊樹は察する。
「惚れたんだな、斎藤さんに。話せないとは言わせないぞ」
隆司は頬を緩め小さく肩をすぼめた。
「どうやらそうらしい。我ながら身の程知らずという気がするんだけどさ、笑わないでよ。初めて目にした時から意識してた、というか気になった。そうだと自覚したのは三週間くらい前だった。先先週の日曜日に僕と斎藤さんが射撃場で異形と遭遇して、撃退したことは知ってるよね。あの時僕は斎藤さんに助けられた。そして先週の日曜日、斎藤さんが誘拐されそうになったんだ。助けるどころか足手纏いになった。斎藤さんを助けた少年がいた。彼は一目で僕が斎藤さんを好きだって見抜いたよ。そして言ったんだ、強くなるんだって」
「それが高原聖だった」
隆司が頷く。
「僕は初めて思った。己の無力を容認するのは罪だって。力にも色々あるけど、今必要なのは武力だ」
「そういうことか。ピー・メイがあんなことを言うからには何か大きな理由があるとは思っていた。いい加減な気持ちじゃないのは確かだと、俺が保証する」
隆司は所謂苛められっ子だった。今でも小柄で線が細く、繊細な顔だちをしているが、小学二年生くらいまではそれこそ女の子そのものだった隆司は、良く苛められた。決して抵抗せず、かといって泣きもしなかったことが苛めをエスカレートさせていった。無個性でありきたりな、それだけに残酷な言葉の暴力に、手足の暴力が加わったのを見かねて助けたのは、幼稚園に入園して二ヵ月ほど経った時だった。そうして友達になった。苛めは続いた。隆司が一人でいると撲ったり蹴ったり石を投げたりする連中は大勢いた。怪我をしたこともある。我慢ならず報復しようとした俊樹をとめたのは他ならぬ隆司だった。それが保身の目的からでた言葉でなかったのは、隆司が特異な力に目覚めて明らかになった。仕返しなど、一秒たりとて考えなかったのだろう。痛みと悲しみを知り、優しさと強さを持っている、そういう奴だと、俊樹は思っている。
「有り難う。ところでさ、念を押しておくけど、人前で呼ばないでよ、ピー・メイって」
「気には留めておくさ」
「呼んだら教えるからね、うるちゃんが僕に送ったプロポーズの言葉」
「忘れろよ、いい加減」
「記憶喪失になってもあのフレーズをきっかけに治るかもしれないね。もう二度とないって、確信があるよ」
「ピー・メイ結構人気あるんだぞ。告白されたことくらいあるだろ」
「何回かずつね、男にも女にも。でもうるちゃんのみたいな強烈なのはないよ。僕が女だったら、間違いなくOKしたんだけどな」
「言うな、それ以上。誓うよ、絶対呼ばない。だから俺のことも呼ぶなよ、うるちゃんって」
「うん。でも不思議だね、僕とうるちゃんが好きになった別の女の子が、同じ人を好きだなんて。でもうるちゃんの方が望みあるよ。片恋なんだから」
「斎藤さんだって今はそうじゃないか」
「違うよ。斎藤さんはまだ彼のことを忘れられない、忘れようともしていない、多分彼もそうだと思う。特別ではなくなった人を、あんなタイミングで助けられる人なんていないよ」
「そうか」
「うるちゃん、岐原さんを好きだよね」
「わからない。どうでも良くなっていたり、嫌いになっていたりしたらあんなことはしなかっただろう。だが、俺は本当に綾を好きなのか、わからない。時々綾を傷つけたくなった。寝ても覚めても綾の顔が浮かんできて、声が聞こえて、匂いを感じる、そして俺は綾を傷つける。今も、綾がこの部屋からでていってから、ピー・メイがこの部屋に入ってくるまでに最低でも七回は綾を殺す想像をした」
「だからそれはうるちゃんが岐原さんを好きだからだよ。でも、その間ってせいぜい二、三分だと思うけど、岐原さんを殺す場面を最低七回も想像したの?」
「いや、一回で最低でも七回は綾を殺す想像をしたということだ」
「……許してやりなよ。気持ちが強ければ、偽りでないなら、許せると思う。うるちゃんならできるさ」
「俺はそんなに大きい男か?」
「うん。僕はそう思ってる」
隆司は大きく首肯して、持っていた防水性のショルダー・バッグをおろし、座った。バッグを開ける。
「材料買ってきたんだ。食事作ってくからさ、体と相談して食べてよ。それからこれ。レア・アイテム復刻版ウルトラマンレオ三二分の一ガレージ・キット。今日発売日って言ってただろ、買ってきたんだ。お勝手使わせてもらうよ」
差しだされた箱を受け取った俊樹は、『お前が女だったらな』と本当に残念でならなかった。
瀬羅は1506と掘られたドアに背を預けていた。ネットで購入したばかりの時計に目をやる。間もなく日付が変わる。
昨日告げられたことは、まだ把握できていない。夢や幻ではなかったが、事実と認めるにはあまりにも情報が足らない。それに聖の言葉「叔父であり、兄である男」が良く理解できない。兄妹であるというのも、普通あり得ない。聖の誕生日は四月三日、瀬羅は九月二九日。人の受精から分娩までの期間は通常凡そ二六六日。妊娠期間は四〇週。あるとするなら聖が、または二人ともが人工子宮の中で外界で生きる準備期間を過ごしたというケースと、聖が生年月日を偽っているというケース、異母兄妹というケースくらいだ。
その三つとも否定し切れない現実は、ちょっとだけショックだった。
叔父という可能性は、兄妹のそれよりは高い。顔も見たことのない祖母は、データ上瀬羅が生まれた時三二歳になる二時間前だった。健康体なら当然子供を作れ、再婚も難しくない年齢と言える。
しかし、叔父であり、兄であるというのは想像できなかった。
また腕時計を見る。日付は変わった。妹に連絡はしておいた。外泊の回数も両手の指で示せるのを幾つか越えていたし、旅行という名目の訓練も、短いので一週間、長いので夏休み一杯、計四回行った。だから電話にでた秋恵は理由も訊かなかった。三人ともしっかりしている。夏未は小学校卒業から中学校入学の間にサバイバル・スクールの短期集中講座に参加した。成績はトップだった。秋恵は習い事として、ピアノの他に合気道をもう五年以上続けている。ピアノの方は上の中といったところだが、合気道の方は上の上、それも始めて三ヵ月で小学生の間では無敵になり、一年で道場に通う高校生の全員に一対一で勝利し、三年で師範代を手玉に取り、四年で上級者七人を同時に相手にして、誰一人にも怪我を負わせず七人を行動不能にした。瀬羅でも、合気道のスキルは及ばない。冬華にはまだ武器を持たせていないし、護身術の基本─危険に遭遇しない為の心得─しか教えていないが、外出は必ず姉の誰かと一緒にと言い聞かせてあり、夏未と秋恵に任せておけば大丈夫だった。だからそんなには心配していない。
『でも、長女で規範であるべきあたしがこれじゃ、教育に悪いわね』
少し眠い。昨日は眠れなかった。昨日の授業内容も頭に入っていない。昼食は摂ったけど、食堂で定食か何かを食べたのか、ベーカリーでいつものようにパンを買ったのか定かではなかった。記憶が明瞭に残っていることもある。隆司に手を引かれて教室に入り、同じクラスの人間に(隆司が)からかわれ、担任の冗談めかした忠告のつもりの、未だにこんな感覚の人間がいるのかという性的いやがらせに対し、自分が並べた言葉も覚えていた。
瞼が重い。抗しきれなくなった。意識が半覚醒状態になる。異変があれば即座に反応する自信はあったのに、足音が近づいてきても身体は動かなかった。警戒心が働かなかった理由は、声をかけられてわかった。
「こんなところで眠るな」
目を開く。ミッソーニの派手なスーツを着、今の瀬羅のと良く似たオックスフォード・シューズを履き、整髪料で髪をセットして、アン・バレンタインの、グレーの達眼鏡をした聖が通路に立っていた。
「なに、その恰好」
聖は服の好みの幅が広いという認識はあったものの、スーツ(それもミッソーニなんて!)とヘア・ムース、眼鏡という姿を見たのは初めてだった。腕時計も、機能重視のものではなくロレックスの伝統工芸品的なもので、香水まで使っている。
「似合わないか」
「妙に様になってるけど」
「どうして中で待っていない。鍵を処分したのか? データは消去していないが」
「そうなの。てっきり」
「何の用だ」
「本当だという確信がないと決められないでしょう。考えてみたけど何も材料がないから」
聖は眼鏡を外し、胸ポケットに入れた。鍵を取りだしてスリットに挿れ、虹彩照合装置に顔を近づける。ロックが外れる作動音の後、ドアを開け、三和土で靴を脱いであがり、廊下を歩いて普段使わない部屋のドアの前で「何をしている。入れ」、と言った。
瀬羅は頷き、「お邪魔します」あがった。聖の靴を下駄箱に収め、自分の靴を揃えてから、ドアが開いたままの部屋に入る。そこも変わっていなかった。一二のスピーカーのオーディオ・システム、3Dテレビと録画再生装置、五年前の型の古いパソコンに、普段は隣の部屋にあるノート・パソコン。
「座れよ」
床に腰をおろし、リュックを置いた。
「何か聴くか?」
聖は背広を脱ぎ青いネクタイを解いて、無造作に床に投げ、これから紅茶でも飲まないかという調子で言った。「カルミナ・ブラーナを」聖はリモコンを操作する。音は絞ってあった。ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団が演奏したものだとわかったが、はわからない。聖から聞いたことは忘れてしまった。指揮は小澤征爾で、これが一番いいと言ったら難聴か? いや、違うな、人が演奏したものよりもコンピューターが演奏したものの方がいいと感じるのか? と言われたものだった。
O Forutuna,
Velut luna
Statu variabilis,
「色々なケースを考えてみたの。聖とあたしが兄妹って場合と、あたしと聖が姪叔父って場合は、考えられた。でもその両方を満たすのって」
semper crescis
aut decrescis;
vita detestabilis
nunc obdurat
「このパソコンは五年前の誕生日に母に買ってもらったものだ。母には色々な物をもらった。誕生日、クリスマス、正月。母には配偶者はいなかった。学歴もそんなに高くない。地方大学の工学部卒業、修士号も持っていなかった。成績はトップ・クラスだったが、経済的に修士課程には進めなかった。大学にも働きながら、自分で稼いだ金で通った。理由は知らない。それから一流半の電算機メーカーに就職、五年務め、辞職し、従業員三名のソフトウェア会社を作った。二〇年前だ。三人、その内一人は事務、自分は社長兼プログラマ、もう一人がプログラマ。二人で作れるプログラムなんて、高が知れてる。機能は限られるし単価は安い。そんな零細に融資してくれる銀行なんてないから、開発費なんてろくにかけられない。人件費を除けば、それこそソフトウェア業界黎明期と大差なかっただろう。それでも母の会社は二年で従業員八九名、経常利益二七八五万円という規模に成長した。才能と運に恵まれていたのだろう、その分野の。その一年二ヵ月後に俺は試験管の中で発生し、更に十ヵ月後に産まれた」
et tunc curat
ludo mentis aciem,
egestatem,
potestatem
dissolvit ut glaciem.
Sors immanis
et inanis,
rota tu volubilis,
status malus,
vana salus
semper dissolubilis,
obumbratam
et velatam
mihi quoque niteris,
nunc per ludum
dorsum nudum
fero tui sceleris.
Sors salutis
et virtutis
mihi nunc contraria,
est affectus
et defectus
semper in angaria;
hac in hora
sine mora
cordis pulsum tangite,
quod per sortem
「俺の記憶の中で、俺は大抵の部分で平均以上の能力を持っていた。俺は母が好きだった。母がそう望んでいたから、勉強もしたし生き延びる為の技術も学んだ。母は多くの物を俺に与えた。本、ナイフ、様々なソフト、銃、最新の電子機器、ある種の強い愛情。父など要らなかった。友達も要らなかった。人が生きていくのに、嘘は無限に必要で、真実はたった一つでいい、そして俺にはその真実がある、そう思っていた。無数の、意識的な、或いは無意識の、悪意、憎悪、嫉妬、暴力、そんなものに傷つくようなヤワな心ももしていなかった。母にもらって一番嬉しかったのがこれだった。初めて望んだ物だ。確かに当時、第四世代の市販品としては最高のスペックを誇っていたが、それが理由だとは今でも思えない。無性に欲しかった。三年後最新のソフトが動かなく、使用に耐えない速度でしか動かなくなっても、一週間に一度は触っていた。だから今年の春休み、お前と逢えない状況でも、俺が外界にでた日にはこれの前にいた。立ちあげた。散々初期化、カスタマイズ、改良を繰り返したディスクの中に、俺の知らない記録があった。それは短い音声データと、文章データ、静止画データだった。俺はそれによって初めて、俺に姉がいることを知った。姉の誕生日と母の誕生日は同じだった。母は生後間もない姉を施設に預けた。自分で育てることなど不可能だったからか、あまり愛情を抱いていなかったか……両方だったろう。それでも自分と娘の誕生日には、娘が一四になるまで逢っていた。静止画データはその最後に撮った写真だった。姉は小さな、血の色をしたルビーが、控えめに存在を主張している金のイヤリングをしていた。二人の誕生日は九月二九日だった」
sternit fortem
mecum omnes plangite.
Fortune plango vulnera
stillantibus ocellis,
quod sua mihi munera
subtrahit rebellis;
verum est quod legitur,
fronte capillata,
sed plerumque sequitur
Occasio calvata.
verum est quod legitur,
fronte capillata,
sed plerumque sequitur
Occasio calvata.
In Fortune solio
sederam elatus,
prosperitatis vario
flore coronatus,
quicquid tamen florui
felix et beatus,
nunc a summo corrui
瀬羅は自分のパーソナル・データの一部を暗唱した。二〇三二年九月二九日生まれ。
gloria privatus.
「そのデータ、見せて」
quicquid tamen florui
felix et beatus,
nunc a summo corrui
gloria privatus.
Fortune rota volvitur,
「記録は全て強制デリートされた。だが画面を写したものならある」
descendo minoratus,
聖が携行可能電脳の電源を入れ、静止画像を表示する。初めて見る、今の母にとても良く似た、でも少し若い、女性と、現在の自分と驚くくらいそっくりの、けれどちょっと幼い、少女が、白いベンチに並んで座り、お揃いの白いサマー・ドレスを着て、瀬羅を見つめていた。少女は小さなイヤリングをしている。小さな紅玉のはめ込まれた金のイヤリングだった。
「これ、母さんとあたし、じゃないよね。お祖母ちゃんと、お母さん、なの」
alter in altum tollitur
nimis exaltatus;
rex sedet in vertice,
「俺の姉の名前は春子、二〇一六年九月二九日生まれ、母の名前は桜、二〇〇一年九月二九日生まれだ」
caveat ruinam,
nam sub axe legimus
Hecubam reginam.
想定していたものの一つを受け入れるのに随分時間が必要だった。
「そうなのね。聖と母さんの母親が、同じ女性だった。でもそれだと、聖はあたしの叔父、なのかしら?」
rex sedet in vertice,
caveat ruinam,
nam sub axe legimus
Hecubam reginam.
Veris leta facies
「母が俺の父親に最後に逢ったのは、二〇一六年二月一四日。その逢瀬の時、自分の体内に残された精子を母は保存しておいた。一四歳の少女がそうするのは、難しかったろうな」
「あたしは、聖の姪」
mundo propinatur,
「そして妹でもある」
hiemalis acies
「どうして?」
「俺の父親とお前の父親は同じ男だ」
victa iam fugatur,
「じゃあ、父さんは、自分の娘と」
in vestitu vario
「多分知らなかった。初めて見た少女を自分の娘とわかる人間なんて、そうはいない。俺がお前を妹だとわからなかったように」
Phebus principatur,
「どうしてわかったの?」
nemorum dulcisono
「最初はわからなかった。ただの偶然だと考えていた。母のメッセージを知った時に確かだったのは、俺の姉とお前の母の名前と生年月日が同じということだけだった。だから俺とお前の設計図を比べてみた」
qui cantu celebratur.
「あたしの細胞を? 血液型判定のサンプルでも入手したの? 髪の毛とかなら判定ミスの可能性が」
Flore fusus gremio
「お前捨てただろ。男はトイレの汚物入れを使わない」
Phebus novo more
顔を真っ赤にして瀬羅は俯いた。
「五回分析した。小数点以下一六桁まで九が連なるパーセンテージを、できすぎた偶然と片づけられるほど俺はおめでたくない。尋ねてみろ、お前の父親の名前がだったら、一〇〇パーセント、俺はお前の叔父であり、兄だ」
risum dat,hoc vario
iam stipatur flore
Zephyrus nectarego
spirans in odore;
certatim pro bravio
curramus in amore.
瀬羅の顔から血の気が引く。聖は電脳を持って部屋をでていった。
…………瀬羅は音量をあげた。
Amor volat undique,
captus est libidine.
luvenes,iuvencule
coniunguntur merito.
瀬羅は立ちあがり、部屋をでた。聖の寝室に入る。明かりは灯いていない。ほぼ完全な闇だから、特異能力者の目にも物の形は判別できない。熱は伝わってくる。匂いもわかる。平均よりずっと低い体温と、整髪料と香水の香に混じる体臭を感じた。聖は寝台に横になっている。歌が聞こえる。
Tempus est iocundum
o virgines,
modo congaudete
vos iuvenes.
O.o.totus floreo,
iam amore virginali
totus ardeo,
novus novus Amor
est,quo pereo.
瀬羅は寝台の横に歩き、膝をついた。手を伸ばす。聖は水色のYシャツを脱いでいなかった。一番上のボタンも外していない。瀬羅はそのボタンを外していった。
Dulcissime,totam tibi subdo me.
左の胸に左の耳を押し当てた。心がそーっとなる。躰が少し暖かくなり、小さな痛みを感じる。髪を指でかれた。目を閉じる。
「治せるか?」
那智は好色な視線を真紀に向けた。
「わたしはサイコ・アナリストではないし、サイコ・ダイバーでもない。わたしの能力では精神を破壊することは可能だが、癒すことは不可能だ」
「肉体の損傷の方がずっと処置が楽ですね。私達は脳に欠損を生じると力を失ってしまいますが、他は置き換えが利きますから」
建は精神分析装置のコントロール・パネルの前に座っている。成咲高校のコンピューターをハッキングした時と同様目を閉じていた。
「こいつはああいう力を持っているくせに精神の耐久度が低いからな。ついでにおつむは輪をかけて弱い」
那智は馬鹿にした目でルアを見おろした。ルアは全裸であり、身体の各所にセンサーを取りつけられていた。殊に頭部には五〇近いセンサーが張りついている。
「冷やかだな。色事師は廃業するのか?」
「圏外だよ、こんな女。俺が興味あるのは処女だけだ」
那智は初期の携帯電話の用語から派生したと思われる死語を使った。真紀は凡そ五〇年前のことを思いだし、確か女性(と呼ぶのは相応しくない気がしたものの)が男性を評する時に使っていたと記憶しているが、どうでもいいことだな、と目をルアに向ける。
「誘拐に成功した贄を玩具にしようとして、駆けつけた仲間にやられてこの態か。穂積、責任をどうとるつもりだ?」
全身に感じる視線がおぞましかった。それを表にださないようにする。
「なあに、今頃その仲間の一人は死んでるさ。それでちゃらだ」
「三人いたとはいえ、お前がいたのだからそれなりの力を持っていたのだと判断する。どんな相手だった?」
ルアがやられたのは五日の夕方と真紀は聞いていた。今は七日の早朝、午前六時一三分で、それから三六時間が経過しようとしている。この件の情報がきたのが三時間前だったことが腹立たしかった。
「男が二人、まあハンサムだな。女が一人、こっちはとびきりの美形だ。俺のタイプじゃないが」
「それではルアと同じレベルだ」
「一番強い奴からだ。性別は男、身長は一七八センチメートル前後、体重は六五プラスマイナス五キログラムといったところだな。髪は短い。日本人。無表情。次に強いのは多分美形だった。身長一七七センチメートル前後、体重は五三プラスマイナス五キログラム。髪はショート。日本人。最後は男。身長は一八八センチメートル前後、体重は七四プラスマイナス五キログラム。髪は一番目の男よりは長い。こいつはルアの淫夢にかかった」
観察眼はともかく表現は中学生レベルだ、真紀はそう心の中で莫迦にしながら、それらのデータに当てはまる人物が記憶の中にいないか検索する。最初の二人はすぐに引っ掛かった。
「高原聖と斎藤瀬羅、初めの二人は多分彼らだ。こちら側に引き込めないか接触したことがある。誰を誘拐した?」
「岐原綾とかいっていたな。綺麗な黒髪の、あんたに負けない美少女だ」
『美少女だと、皮肉のつもりか』
「完全に敵に廻したな。ルアの魅了が通用しないとなると、わたしの精神破壊も無効化されるか、効いてもそれだけでは倒せまい。厄介な」
「真紀が言うところの聖という奴はどうやら《失われし白き羽根》のメンバーだったぞ。元々引き込めなどできなかったろうよ」
真紀は眉をめた。
「早めに叩いた方がいいかもしれませんね。美翔先輩と神楽さんと穂積さん、それにさんとで同時にかかれば、倒せるでしょう」
「を起こすだと。何を言っているのかわかっているのか、デブ」
那智は建を睨んだ。顔を向け、目を開いて建は肩をすぼめる。
「わかっていますよ。高原という人だけならその必要はないでしょう。穂積さんと神楽さんだけで勝てると推測します。ですが《失われし白き羽根》の一員となると、場合によっては他のメンバーも相手にしなければなりません。今のところ推定能力値八〇を越える者とは遭遇していないとはいえ、当然ながらそれは一人もいないということにはなりません。そしてその高原という人は間違いなく九〇以上でしょう」
「俺は一〇六だ」
那智は建の胸ぐらを掴み、造作もなく持ちあげた。二人の身長はほぼ同じ、体重は建の方が六〇キログラムは上だ。
「やめろ、穂積」
真紀の言葉に那智は従わなかった。床に叩きつける。抗菌タイルが割れ、その下のコンクリートが陥没した。建は顔をめたが、すぐに立ちあがった。
「九〇というのは最低の推測値です。もしかしたら一一〇を越えているかもしれません」
「黙れ! 俺があんな奴に負けるものか!」
右足をあげ、建の顔面に叩きつけようとした那智の頬を真紀が撲った。
「真紀! お前でも」
那智の怒号が途切れた。真紀の瞳の色が金色に變じていた。そして額に文様、いや、紋章が浮かびあがる。青い月の紋章だった。
「この力はもう二〇〇年以上使っていない。出力を加減できるか、少し自信がないが」
「悪かった。こんなの俺らにとっちゃじゃれあいだよ」
那智は建から離れ、愛想笑いを浮かべた。真紀は軽く睨んでから、建に目を向ける。
「メディカル・チームに診てもらえ。それからルアの治療を頼む。こんな女でも戦力には変わりない」
「わかりました」
真紀はドアに向かった。その後を那智が追う。部屋をでて暖色の明かりが照らす通路を二〇メートル歩いたところで、「どうしてついてくる?」と背後の那智に顔を向けた。
「お詫びがしたいんだよ」
「必要ない」
「そんなこと言わずに聞くだけ聞けよ」
真紀は軽く息を吐いた。
「言ってみろ」
「俺とデートしないか。少しは高校生らしいこともした方がいいと思うぜ」
「処女にしか興味がないのではなかったか?」
「真紀は別さ。それに、あんたからはの匂いがする」
歯と歯が当たる小さな音がした。
「わたしが生きてきた年月の永さを知っているはずだな。それに、そんなことが詫びになるか。わたしはお前が嫌いだ」
前を向き、歩を進める。
「何処へいくんだ?」
「緋華里をさせるのだ。あそこ以外に何処がある」
那智の顔が青ざめた。
「おい、本気か。あいつの眠りを妨げたら、下手をすれば」
喉が鳴る。
「これは冷静に状況を判断しての言葉だ。仮に伊集院の言う通り、高原とかいう奴が俺より強いとしよう。だが、俺と神楽と、そしてお前が組むんだぞ。誰が勝てる? 俺達が本気になれば《失われし白き羽根》など」
口調が平坦だったのは最初の一文だけで、後になるほど力が入っていた。真紀は歩みをとめずに、「本心か。状況判断が甘い。とりたいのだがな、わたしとて緋華里を眠りから醒ます必要があるのか、正直ないと思う。思いたい、のかもしれないが」呟くように言った。
「ならどうして」
「伊集院の状況分析能力はわたしより上だ。無論お前よりも。加えて膨大なデータ・バンクと直結している」
「随分とあのデブを買ってるんだな。だが戦闘力は俺の方がずっ上だぜ」
「どうかな。銃の腕は─正確さ、速射能力、標的認識速度、照準速度─どれを取っても《赤い竜の牙》で伊集院に優る者はいない。状況によっては」
「銃が何の役にたつ。俺達の動態視力、反射速度、身体能力の前に銃など無力だ。あんな物を食らう惚けが特異能力者にいるか? ワイアット・アープが何万人束になってかかってこようが、問題になりはしない」
真紀は数秒沈黙した。
「そういうことにしておこう」
通路は分岐していた。真紀が右折したのに対し、那智は直進した。
「何処へゆく」
「俺はパスだ」
「詫びがしたいと言ったな。一緒にこい。それを詫びとしてやる」
五歩進み、那智は足をとめた。七秒後に投げやりに「わかったよ」、承知し引き返す。間もなく防護壁に突き当たった。
『絶望への第一歩』
頑丈そうな金属製の壁にはそう刻まれていた。真紀が壁の赤いボタンを押すと重い作動音を立てながら持ちあがる。真紀と那智は歩を進めた。背後で隔壁が閉まった音が聞こえた時、次の壁の前にたどり着いた。
『引き返すのなら今のうち』
先程と同じ手順で通過する。
『悔やむことが可能な者は幸せである』
通過。今度は中々次の壁に到着しない。温度が上昇していた。摂氏一〇〇度を越える。真紀と那智の額に汗が滲み、鼻稜や頬、首筋を伝う。進行に従いあがり続ける。二分の後には摂氏二七五度をオーバーした。真紀と那智のブレザーの青が紺になり、二人は上着を脱いだ。白いシャツは雨に濡れたようになっていた。
そしてついに到着した。最後の隔壁にではなく、自然にできた洞窟の如きものの入口に。幅三メートル、高さ二メートルばかりの闇の顎にはが張ってあり、その注連縄にはの他に一片の和紙が結ばれていた。達筆で記されている。
『この先に進む者、あらゆる希望を捨てよ』
真紀が注連縄に手を伸ばす。触れた。何かが焼ける音と、煙。真紀が握った部分で注連縄は炭化し、分断された。
「おい」
「流石だ。数日消えないな」
掌を眺めた。縄の跡が黒く残っている。皮膚ばかりでなく、肉まで焼けていた。すぐに興味を失ったという態で、闇に踏み入る。更に上昇した温度は摂氏五〇〇度を上回った。通常ならば体内にも火傷を負う温度の中を歩くのは、二人にも楽ではなかった。明らかに足取りが重くなっていた。呼吸が荒くなる。
「ついたぞ」
真紀の声に那智は足をとめた。光は入ってこないので、それは真紀にしか視えていなかった。
開けた空間に巨木が立っていた。といっても見える部分だけでは切り株と区別がつかない。空間の高さは一五メートル以上あるというのにそれだった。がある。その中に、木に半ば埋もれた少女がいた。首から上と、両腕の肘から先、腿から脛が表にでている。肌は桜色だった。髪が白い。その理由として、大きな精神的衝撃を受けたという可能性は、次の瞬間に否定された。見開かれた少女の目の、両の瞳は緋、血の色だった。メラニン色素が欠如している。
少女が咆哮した。
炎が向かってくる。真紀は横に跳んだ。急激な光度の増大に一時的に視力を奪われた那智は、鋭敏な感覚を頼りに上方に跳躍する。
「フレ・シク・トゥス・クル!」
真紀が呼びかける。聞こえていない。
緋華里が再び吼えた。巨木が燃えあがり、自由を得た緋加里は真紀に近寄る。、そう称すべき炎に真紀が包まれた。唇の端がつりあがる。その背後に着地した那智は腋の下から腕を入れ、肘を曲げ、肘窩で圧迫し緋華里の動きを封じた。
「真紀!」
炎の塊の中から真紀が飛びだしてくる。ブレザーは焼け焦げていたが身体に大きな損傷はなかった。
「ッ」
那智の全身がに包まれる。
「ぬううううううっ」
全身を焼かれつつも那智は拘束を緩めない。これは好機だとわかっていた。この苦痛に負け脱力したら、より強い辛苦を味わうことになる。
「早くっ」
真紀は疾駆した。緋華里の瞳を一〇センチメートルの距離で見つめる。顔を背けようとした緋華里の頭を両手で押さえた。
緋い目に宿っていた狂気の色が薄れてゆく。那智を覆っていた焔が消えた。呻きが萎み、途絶えた。
「美翔さん」
先刻の獰猛な唸り声が嘘のような可愛らしい声で、緋華里は言った。
「随分酷い恰好をなさっていますね。どうかなさいましたか?」
「ちょっとね。いつまでそうやっている」
「全身に火傷を負ったんだ。このくらいの役得は」
真紀は那智を睨んだ。渋々と那智は緋華里をおろし、無遠慮に二人の少女の全身を視線でる。
「もう役目は終わった。お前は先に戻れ」
「あの、穂積さん。この姿を見られるのもそちらの姿を見るのも恥ずかしいのですが」
いつの間にか真紀の後ろに隠れ、目を閉じている緋華里の言葉は逆効果でしかなかったが、那智は洞窟からでていった。
「あの、ここが何処か御存知ですか?」
巨木に群がる炎が洞窟内を照らしている。
真紀は緋華里の顔を見つめた。仏蘭西人の血が四分の一混じっているアルビノの少女は俯き、「あまりおみつめにならないで下さい」と消え入りそうな声で言い、「どうして?」真紀が問うと、「わたくしがあがり性なの、御存知ですよね。ましてこんな」胸を隠している手の位置を変えた。
「気にしないで、女同士なのだから。それとその敬語はやめてちょうだい。わたしは一応リーダーという立場にいるだけ。同い年ではなくても同級生、三年前から知っている相手にそんな言葉遣いでは、返って気分を害するわ。TPOを意識しない勘違いも甚だしい馬鹿ではない、わたしは緋華里をそう見ている」
「そう仰いますが、美翔さんはわたくしなどよりずっと」
「真紀よ。あの穂積が呼び捨てにしているのに、緋華里が美翔さんではね。緋華里とより穂積との方が親しい間柄なんて思われるのは心外だわ」
「わかりました。では、その……真紀……ここは何処ですか?」
一々敬語を変換しているらしい緋華里があんな力を持っているのも、人格が不安定なのも─先程のように、時に人としての意識を失いもする─、信じたくないという気持ちが働く。
「かつて御神木があった洞窟」
「洞窟に御神木、ですか?」
「細かいことは気にしないで。わたし達の役目は覚えてる?」
緋華里は頷いた。気弱そうな顔に強固な意志が宿る。
「消しておいた方がいい相手が現れた。それにあれがあるかもしれない場所に、間もなくゆく。置いてゆかれるのはたまったものではない、違うか?」
緋華里は笑みを浮かべた。嬉しさを精一杯に表したその笑まひに真紀も微笑する。体形のした二人の(少なくとも外見は)少女がそうしていると、姉妹に見えた。
どのくらい眠っていたのか。照明、薄いカーテン越しの星明かりくらいの弱いそれが輪郭を浮かびあがらせていた。シングル・ベッドの上だった。薄目を開けている聖の瞳には確かに自分が映っていた。背中を撫でる手の動きに、また眠りに落ちた。
昨日帰宅した時も、今朝学校を休むと言った時も、母親は理由を問わなかった。「あらそう」そう声を発しただけで、顔を向けようともせず出来合いの朝食セット、タイプA─9の鶏肉ハンバーグを口に運び、嚥下してから兄に、「そろそろ学期末試験でしたね。さんは勿論この家を継いで下さると存じますから、あまり煩く申しあげるのは憚られるのですけれど、勉学にも御精をだして下さいね」と気取った言葉遣いをし、綾の朝食の用意もしようとしない。
朝食を摂らず自室に戻った。ツナギがかけられていた場所に今あるのは、コーラル・オレンジのカシミアのプルオーバー、チェリー・レッドのシルクのスカートで、ピンクのパンプスは机の下に置いてある。製品番号から検索すると、プルオーバーが三千九〇〇円、スカートが七千九〇〇円、パンプスが四千二〇〇円円、合計一万六千円いうことがわかり、こういうブルジョワ趣味の物を聖が用意したのは意外だった。安物を身に着けているのを見たことはないのだが、機能と値段が釣り合わないのは、生死をわけるような物(一度だけ目にした防弾ブルゾンはアーマー・ピアシング弾をも防ぐ二万近くする最高級品だった)を除いて着なかった。
『単車無事かな。そうだ、ツナギ。聖の車のトランクに』
ショーツは早く処分してしまいたい。あれが他人のもとにあると考えるだけで、忌まわしい思い、羞恥と罪悪感と快感の残滓が浮上してくる。追い払う為に頭を潰してしまおうかという考えを実行しなくてすんだのは、階段を踏む音が聞こえたからだった。一定の緩やかなリズムの、軽いそれが誰のものかは微睡んでいてもわかる。息苦しく、躰が強張った。ベッドの枕元に置いてあったリモコンを手に取り、鍵をかけた。ノブを見つめる。
足音がドアの向こう側でやんだ。呼吸音が聞こえない。息ができなかった。
『一、二、三、四、五、六、七、は』
小さな音をたててノブが廻る。ドアは開かない。開かない筈だ。どうか開かないで。
二度試すことなく、足音は去った。完全に聞こえなくなると横隔膜の機能が復活し、綾は荒い息をつく。より忌まわしい記憶に衝動を掻き立てられ、首に躊躇い傷をつくった最後の時をした。完全に消えた場所に手をやる。痛みはなかったのに、どうしてあの時力が抜けてしまったのか、今は悟っていた。死が怖かった。まだ生きていこうという道を選んだ。仮令一生苛まされても、もしかしたら乗り越えられるかもしれない、そんな風に思えはしなかったけれど、死ぬよりはましだと。
『忘れたいけど、忘れてはいけない』
忘却、抑圧、解離は心を護る手段にはなるかもしれない、その状態で心が守護されたと認識すれば。
でも身を護る手段にはならない。
「私は強い。わたしは強い。わたしはつよい。あたしはつよい」
綾は呟いていることに気づかなかった。
無意識に床に四つん這いになる。腕立て伏せをした。休まず三〇〇回。次に拳立てを三〇〇回。指立てを三〇〇回。親指だけで三〇〇。人指し指で三〇〇。中指で三〇〇。左腕で三〇〇。左の親指で三〇〇。左の人指し指で三〇〇。左の中指で三〇〇。右腕で三〇〇。右の親指で三〇〇。右の人指し指で三〇〇。右の中指で三〇〇。計五二〇〇回を終えたところで冷静になった。これ以上はオーバー・ワークになる。筋肉は痛めつけることで太くなる。切れると、再生する際に強化されるのだが、負荷をかけすぎると再生が間に合わなくなり、結果として落ちる。そう太くならずにポテンシャルが上昇する体質なのは、感謝しているものの、正直腕周りがもう三センチメートルでいいから細くなって欲しい。しかしビルダーのような見せる筋肉ならともかく、通常筋力が落ちれば、の重さも速さも減退する。適度に筋肉を落とせば持久力は増し、経験から自分は遅筋線維が多くを占めるのだが、戦闘でより重要なのは持久力ではなく瞬発力なのだと、綾は歯噛した。速筋線維、中間筋線維、遅筋線維の割合はどんなトレーニングでも変わらない。
午前九時を回っていた。汗でパジャマが濡れている。今は火照っているから不快ではなかった。不快になる前に着替えようとクロゼットを開け、男物の黒い長袖シャツと同じく黒のキュロットスカートを、収納ケースからインナーとスポーツ・タオルを引っ張りだした。遮光カーテンを閉める。部屋が暗くなりかつ人がいるのを感知し、点灯した照明を消した。汗を吸ったパジャマと下着を脱ぎ、身体をタオルで拭いてから新しい衣服を身に着けた。急速に熱が去ってゆく。
強制的に記憶を反芻させられるのも夢を視るのも嫌だったので、早く効くが永くは続かない睡眠薬を五錠服用して、綾はベッドに横になり目を瞑った。
次に目覚めた時は一人だった。時計を見る。
〈Tue,7 Jul 2048 2:12:35 p.m.〉
今更学校にいく気にはならないのは勿論、五限目の授業に途中から参加するのも面倒だった。当然NETへの接続端子はあるし、自分のモバイル・パソコンも隣の部屋にあるけれど、服が昨日のままなのは少しまずい。
普段のジャケットだったら皺になっていた。服も脱がないで、性交もしないでただ聖と寝たのはいつ以来だろう、身を起こさず首を回して時計を眺めながらそうい、それが初めてこの部屋で夜を明かした時、三年前の明日だったことに少し自分が嫌になった。すぐには帰宅せずに、正午まで仲の良い幼い兄妹のように、抱きあったままでいて、それからやっと、シャワーを浴びた後で、最初の聖との体液の交換をしたのだし、初めて二人だけで街を歩いたのはその六八日後で、その間に合わせて一九回のセックスをしたのだが、避妊したことは一度もなかった。聖がそう要求したわけではないし、瀬羅がでないと嫌だとか言ったりしたのでは、当然ないのだし、本来子孫をつくる行為に快楽だけを希求するのを、精液を無駄にすることを、聖がエホバに罪悪だと断じられたのでもなく、どうして避妊をしなかったのかはわからない。
それとも聖は子供が欲しかったのだろうか。もう子供がいるというのは、事実に違いなかった。それをいつしたのか、瀬羅と交際していながら他の女性に孕ませたのか、それ以前なのかは、後者と思いたいけれど、自分の存在の小さな証拠を残そうと焦っていたのだとしたら─そんなものは、あらゆる記録を含めて残したくないというタイプだと、思っていたのだが─誰でも良かったということなのかもしれない。それ以前に女と男は構造的に違って、男には日夜生産され溜め込まれているものを、放出したいという肉体的な欲求があるそうだし、聖が、男なんて所詮種馬だよ、何もしなければクサクサして鬱積して、放出してしまえば自分が信じられないような気分で綺麗さっぱり、何処にも悩む要素なんてないんだからな、随分自虐的な言葉を口にしたのも覚えていて、多くの男の子にはやれれば誰でもいいという時機があるのだと、聞かされたこともあった、綾に。
綾─。
あれからどうしたのか。聖の様子から─今の(も?)聖は殆ど感情を見せないけど─無事とわかるものの、心配だった。綾に連絡を取って逢い、話がしたい。ベッドからおりた。隣室、オーディオ・セットのある部屋にゆくと微かな音楽が流れていた。初めて聴くその曲には詩がついていて、カルミナ・ブラーナの詩の一部を抜きだして構成されているようだったが、一つ未知の単語があり、カルミナ・ブラーナにも登場する、ギリシャ神話の曙の女神の子にそれに近い名前の神がいて、ボッティチェルリのヴィーナスの誕生の解説か何かに、それに近い表記があったと記憶を掘り起こして、それはゼフィロスだったと思いだした、でもZeの濁点を取るのは不自然よねと思ったところで曲が変わった。ヨハン・セバスティアン・バッハのフーガ・ト短調BWV578? を編曲したものに詩が乗ってる、これもカルミナ・ブラーナね、そうわかって、その二曲を三度繰り返して聴いてからリュックを手にした。玄関で靴を履き、アパートからでる。警備員に合鍵を提示し、集合住宅を後にした。
手ぶらも何なので少し遠回りし、菓子屋に寄って苺のタルトを購入した。偶然隆司と一緒になった店の方が味は上だけれど、今あそこまでゆくだけの気力はない。そういえば冬華の誕生日パーティー、まだやってなかった、と思い至り、プレゼントは奮発しないと、と頭の端にメモした。
綾の家に到着する。
道場を除き、造りは新しい。木造なのは建物の通気性を重視しているからだろう。少し防御力が弱まるのは、家人の戦闘力で補う方針だと綾が言っていた。綾の両親と兄は達人であり、それは剣術だけではなく格闘術にも言える。教えているのは実戦剣術と競技剣道だけであるも、その本流は剣のみの道ではなく武の道だった。一つの徳性が二つの徳性にるのは、極めて限定された場での話だということは、瀬羅も知っていた。
インターフォンを押す。
「何方様かしら」
綾の母親がでた。
「斎藤です。綾さんいらっしゃいますか」
瀬羅はカメラに向かった。
「多分いると思うわ。少々お待ち戴けますか。只今参ります」
少しして門のロックが解除された。潜り戸を綾の母親が開く。
「いらっしゃい。どうぞお入り下さい」
綾の母は品の良い笑顔で迎え、瀬羅を請じ入れた。
「お邪魔します」
「あの人なら自分の部屋にいると思うわ」
「はい」
瀬羅は感情を殴殺した笑みを浮かべ、廊下を進んで階段をあがる。綾の部屋の扉の前で深く息を吸い、吐き、ノックして浅く息を吸い、「瀬羅だよ。お見舞いにきてあげたから、意識があるなら返事して」声をだした。
「何か持ってきた?」
すぐにそう耳に届く。
「の苺タルト」
「なら入室を許可する」
僅かな逡巡の後にドアを押し開いた。
綾はスチール・デスクの前で、立ったままコンピューター・ゲームをしていた。ゲーム専用機(かなり以前から、そう呼ぶのは無理がある数の機能が付加されているが)のソフトをエミュレーションしている。ヴァーチャル・リアリティ機器を用いない、形式は何世代も前のゲームは、あまりに難易度が高く批評家にボロクソに批判された、シューティングにしては操作が複雑で、シミュレーターにしては設定が現実的ではないものだった。宇宙戦闘がモチーフで、一対一、一対複数(最大一二八機)、複数対一、複数対複数(これは一人で行うことも可能だし、通信網を介して最大九六人の参加も可能だ)、そして用意されたシナリオに沿って話を進めていくという構成をしている。通信戦闘シミュレーション・ゲームというこの形態が登場したのはもう五〇年以上前で、当時のマウスを操縦悍、他の操作をキーボード(アナログ・ジョイスティックにも対応はしていた)で、という、味方機との交信が文字情報だった、悲哀を通り越して空想の郷愁を感じさせるレベルに比べれば、遙かにリアルであるものの、そのリアルの追及が度を越している。【ヴァーチャル機器─全方位スクリーンとヘッド・アップ・ディスプレイ─を用いればそうでもないのだろうが、今更ロック・オンを手動で行えと要求されても、耐え得るコンシューマーがどれだけいるか、果たして電脳化をしていない人間にクリアできる者がいるのか、甚だ疑問である】そんなレビューを読んだ覚えがある。
「物好きね。確かにそれは難しいけど、あたし達にとってはコマ送りなのに」
「ちゃんと動態視力落としてるって。一秒二四〇コマじゃあね。力に目覚めたての時は調整できなくて、テレビが気味悪かったよね。五感の鋭さが急に何十倍にもなっちゃって、一月で難聴になるんじゃないかって心配したり、鼻なんていっそなくなればいいのに、栄養は全部錠剤で、誰も触れるな、そんな風に希求したもの」
「綾のコンピューター・ゲームの嗜好はユニークよ。ベスト9サッカーとか、枡目が全部で一〇億ある四次元(空間+時間)将棋とか、現役プロ・サッカー選手と同姓同名の一般人の剣道指南とか、プロ同人アニメーター育成シミュレーションとか、最短クリア時間が二〇〇〇時間でバッド・エンディングしかないサウンド・ノベルとか、RPGツクールをつくろうの会をつくろうとか、健全な性教育の為─なにそれ?─のゲームとか称する、一億の精子の動きだけを見てどれが結ばれるか当てるだけの、しかもこのソフトは無精子症です、是非もう一度料金を払ってダウン・ロードし直して下さいなんてのが九割以上の確率で起きる(そんなに無精子症の男がいたら人類滅ぶでしょ)、ソフトなんて、趣味や酔狂でプレイしてるとは思えないわ」
「趣味や酔狂でプレイしてるとしか、でしょ」
「趣味や酔狂にそんなに時間を割く?」
「青春ってのは時間を無駄にする為にあるの」
「無駄にしていい時間が青春、或いは人生、じゃないの?」
「難しいところね。何方にしてもあたしの正当性は確立された。個性は、多くは擬似的なものだけど、いつの時代にも疎まれるものだし、それを貫くのにはかなりの力が必要なのだから、恥じることはない。他人に多大な迷惑をかけない限り罰せられないし、あたしは大切な人を傷つけない限りは自分を譴めもしない」
綾はゲームをやめ、ベッドに腰をおろした。
綾は男物の黒い長袖シャツの裾を収めていなかったので、LLサイズのだぶだぶのシャツの裾は綾の膝をもう少しで隠しそうになっていて、下半身を覆っているのが何なのか、ショート・パンツか、ミニ・スカート(持っていないはずだけど)か、ショーツだけなのか、それともなしなのか、少しドキドキしていたのだが、外では穿かない黒のキュロットスカートだった。
「突っ立ってないでさ、ほら。タルト食べよう」
黒のシーツがかけられたベッドの、自分が座った隣をぽんぽんと綾は叩いた。
「そうね。そろそろおやつだし」
綾の隣に腰をおろし、瀬羅は手に持っていた松林堂の紙袋(リュックには入らなかった)から苺のタルトが入った箱を、三つ取りだし
「どのくらい食べる?」尋ねた。
「あたしが二つ、瀬羅が一つ」
「ちょっと、幾らなんでも食べ過ぎ」
綾のおなかが盛大に鳴った。
「へへっ、実はもう四九時間以上何も食べてなくって」
綾は左の頬を掻いた。
理由を問わずに微苦笑を浮かべた瀬羅は、
「ま、一食くらいなら栄養の偏り、というか数種の必要要素以外の欠如も気にしなくていいでしょ」二つ差しだす。
「ちょい待って」
綾はデスクの抽斗から十徳ナイフを取りだしてきた。鋭利なステンレスのブレードを引きだし、箱を開いてトレーに乗っている直径二〇センチメートルの苺のタルトを一六等分に切る。ブレードをしまい、フォークをだして突き刺し「はい」と瀬羅の口許にタルトを差しだした。
「いただきます」
瀬羅はそれを七口で、良く味わって食べた。量は食べるが早食いではない。綾の手からナイフを受け取り、今度は瀬羅が綾に食べさせる。同じく七口で食べ終えた綾に瀬羅がもう一つ、次にまた綾が瀬羅に一つ。その繰り返しで、三つの苺のタルトは四五分後に二人の胃袋に収まった。
「う〜ん、久し振りに至福の時間を味わったなあ、カロリー・オフとかノン・カロリーとかだとこうはいかないのよね。今度はプリン食べたいな、ね、あたしあと何日か学校休むからさ、ね」
綾は頬を瀬羅の肩に押し当てる。
「その食欲の、サボタージュする偽りの病人に?」
「そんなこと言わないでさあ。ね、ね」
「はいはい、わかりました」
「それでこそ、我が親友! 美人で性格良くて頭良くて運動神経良い斎藤瀬羅様よね。愛してるよ〜?」
苦笑しながら、肩に頬を擦り寄せる綾の頭を瀬羅は軽く撫でた。
「で、何処の何プリンを御所望なのかな、綾姫様は」
「そうじゃなくて、瀬羅の手作りがいい」
「手作り? あたしが料理、控えめな表現であまり得意じゃないの重々承知でしょ」
「あたしとどっこいどっこいって」
「いいの? インスタントしか作れないよ」
「それそれ、それが食べたいの」
そっか、愛情って他の何よりも優れた調味料って言うものね、瀬羅はベッドの隅にプリント・アウトされた京都の観光案内地図を見つけ、手に取り、これどうしたの? と訊き、綾とお喋りを始める。調べたんだ、京都の観光業者にアクセスして、でね、今度京都いこうよ、どうして? 二条駅の近くに美味しい甘味処ができたんだって、昔ながらのあんみつとか抹茶パフェとか、まったりとした甘さの和菓子とか、まろやかな甘さってカロリー高いんだよ、ショ糖の割合が増えるほど甘味は柔らかくなっ、知ってるよ、だから普段は我慢して合成甘味料使ってるの食べたりしてるんだしさ、でも京都いった時くらい、京都いった時くらい羽目を外してもじゃなくて、羽目を外したい時くらい京都いってもでしょ、どっちだっていいじゃない、成長するに従って味蕾は減るし、大抵の刺激って慣れがくるけど、甘いもの食べると幸せになれるんだから、小さなものでも幸福を手に入れられるのなら、少しのお金と時間をかけるのは厭わないわ、そりゃリニアに乗れば三〇分くらいで京都駅にはつくよ、けれど交通料金片道二千円以上は高校生にとって少ない金額じゃないじゃない、あんみつだのパプェだの食べるだけで、取り寄せた方がずっと経済て、京都にいけば色々見られるでしょ、お寺とか神社とか京都御所とか桂離宮とかとかと、ね、……、二条駅に近いものね、壬生、ちぇすとおっ、なんて言うのにどうして天然理心流好きなのよ? お見通しか、一緒に歩こうよ、だんだら模様の羽織に真剣差して、嫌、コスプレして街歩くにしても、せいぜい特殊部隊くらいにしてよね、ナースとかフライト・アテンダントとかメイドとかシスターとかバニー・ガールとか猫耳娘とか巫女さんとかは? 方向性が違うでしょ、それは、瀬羅の、六年生の時モデルやってやったじゃん、で、恥ずかしかったんだから、恥ずかしいって、ただのポートレート、ヌードになれなんて微塵も要求しなかったのに? あんな服着せてさ、あんな? 黒のタンク・ドレスが? 確かにちょっと背伸びしてるって感じだったけど、そんなに恥ずかしがらなくても、似合わないって自覚してる服着るのは凄い勇気が要るって、瀬羅にはわからないだろうけど、あっ、貧乳だから胸を強調するようなのは駄目か、その貧乳ってのは取り敢えずおいといて、綾似合うよ、白も黒も、肌白いし綺麗な黒髪してるしさ、瀬羅に言われると、自信を持っていいのか厭味な奴と思っていいのか良くわからんわ、そうかな、確かに顔の造作はあたしの方が整ってい、仰る通りです、事実です、瀬羅は昔から羞花閉月、窈窕淑女、朱唇皓歯、皓歯蛾眉、人面桃花、カ陵頻伽、天香国色、沈魚落鴈、仙姿玉質、天衣無縫、眉目秀麗、傾城傾国、才色兼備です! ……るけど、綾の方がグラマーだと思うよ、それって太ってるって言いたいの? 綾それ人前で言ったら反感買うよ、多分、それにピエール=オギュスト・ルノワールの裸婦とか、ウィリアム・ブケローとかチャールズ・シャノンとかアレクサンドル・カバネルのヴィーナスの誕生のヴィーナスとか、フレデリック・レイトン卿の漁師とセイレーンのセイレーンとか、ポール・ドラローシュの若き殉教者のとか、皆とても魅力的だし、人の価値観ってそれなりにバリエーションあるでしょ、何も、だからさ、個性を保持するにしても、その個性が己が望まないものだったら辛いだけじゃん、かといって整形しようとは思わないけれど、生命を神秘と考えてるの? 少しはね、でも理由はそれじゃなくて、あたしが手に入れたいものは整形では手に入らないものだから、第一あたしの何処をナオスってのよ、そう、それはともかくとして、絶対嫌だからね、コスプレするんならあれの中だけにしなよ、あれ? ああ、仮想戦闘訓練マシン? の一つにあったでしょう、武道シミュレーション、ん〜、確かに塚原卜伝高幹や山本勘助晴幸や柳生十兵衛三厳や宮本武蔵玄信や千葉周作成政や土方歳三や沖田総司や植芝盛平や前田光世とやれるっていうのは、面白いだろうけど、所詮は仮想でしかないわ、それをする為に高い料金払うのはね、そうそう、ルノワールが良く描いた裸婦が肉感的なのはわかるけど、それ以外のってそうでもないんじゃないの? それからセイレーンっていえばジョン・ウィリアム・ウォーターハウスとエドワード・バーン=ジョウンズもいているし、ジョン・ウィリアム・ウォーターハウスの作品にはユリシーズとセイレーンもあって、同じ題名の作品にはハーバード・ジェームズ・ドレイパーとかのものもあるけど、どうしてジョン・ウィリアム・ウォーターハウスのユリシーズとセイレーンのセイレーンだけは空を飛んでいるのかな? 鷲みたいなのに首から上だけ美女でさ? オデュッセイアではセイレーンは、これはキルケの科白だったと記憶してるんだけどね、センレーン達は草原に坐り、透き通った声で歌い、人の心を魅惑する、としか記されていないんだけど、大英博物館が所蔵している壺には水鳥に女性の頭のセイレーンがかれていて、アテナ国立美術館が所蔵している彫像は太股から下が鳥、上半身が人間で楽器を抱えているの、基本的には鳥だったのよ、古代ギリシャではね、それが時が流れるに従ってセイレーンが海の魔物と考えられるようになって、様々な形態が生まれたというわけ、ジョン・メリッシュ・ストラドウィックのキルケとスキュラのスキュラなんてすっかり人間になってるでしょ、じゃあほんとは気味悪いものだったんだ、あれには魅惑されたくないな、人として、フレデリック・レイトン卿のセイレーンになら誘惑されてもいいって思ったのにな、確かにあのブロンドはうらやましいって気もするし、あの横、やや後ろからの姿から、きっと美女に違いないと信じられるけど、どうして女がセイレーンに魅了されなきゃならないの? 真に美しいものはその性別は勿論性質や種族や時間や空間や次元を超越して美しいのよ、そんな美って存在するかな? あればいいなって思ってるだけ、最近絵やってる? やってない、最後にいた絵が完成したのが受験の前日だったから、油彩? それとも水彩? CG? 2DのCG、二十日くらいかけたんだけど、失敗だった、だから見せてくれないのか、瀬羅は途中で見られるの気にしないから、今度のは相当力入れてたの? まあね、気負いすぎたとでもしておこうかな、分不相応のものを求めると大抵駄目になるみたい、そろそろ才能に見切りをつけた方がいいと思う? 何言ってんの、一五歳で自分の何がわかるってのよ、本当に好きなら誰一人評価してくれる人がいなくったって、死ぬまで続けるのが道でしょう、不幸な人生ね、あたしそんな道を選んでまでやるほど好きじゃないよ、ならそんなこと言わないの、見切りをつけられる以前の悲哀も知らないくせに、京都いったら何処観光して回ろうか、昔はあったんだってね、修学旅行っていうの、それで京都は最も選択されることの多い場所だったらしいけど、どれだけの中学生や高校生が過去の遺物に興味あるって考えたのかしら、ちょい待ち……、─【修学旅行】児童生徒の心身の発達、学校生活の充実をはかる目的で、教師の引率のもとに、学年または級単位で行われていた旅行。【修学旅行】児童・生徒が文化・産業などの重要地を実地に見聞して知識や情報を深めるため、教師が引率して行われていた旅行。【修学旅行】児童・生徒らに日常経験しない土地の自然・文化等を見聞学習させるために教職員が引率して行われていた旅行。─だって、興味あればいいけどさ、なかったら苦痛だよね、大体あたしらの年齢は、基本的な生きる為の知識や技術を習得すべき時期なのに、どうして過去の文化だの産業だのを見聞学習しなければならないんだろ、それだったら仮令一週間でもサバイバル・スクールで訓練受けさせればいいのに、平和な時代だったのよ、無差別テロなんて滅多になかったし、銃の脅威も皆無に等しかったし、異形も出現していなかったしね、それに大体は、友達と送る少しばかり普段と違った日常を楽しんでいたそうだから、身にならなくても苦痛ではなかったんじゃないかな、理解し難いな、他人と旅にいくなんて苦痛よね、その年頃の少年少女ってのはさ、普通はそうじゃないと思うわ、それにあたし達だってその年頃の少女なんだよ、だってあたしと瀬羅はもう他人じゃないもの、……いいけど、そういうのの前では言わないでよ、秋恵なんかそれ聞いたら満面の笑みを浮かべて祝福の言葉を並べ立てるに決まってるんだから、秋恵ちゃんそういう風に見てるの、あたし達を? 本気で思ってはいないけど、姉妹に可及的速やかに報告するだろうし、冬華あたりは本気にしかねないの、冬華は繊細だから軽々しく冗談も言えないんだよね、そうだな、髪短くなったし、身長も釣り合ってるし、カッコいいんだけど、ちょっと細すぎかな、もう五キロ体重が増えれば考えるんだけど、何真剣に吟味してんのよ、あたしだって自分が男だったら考えたけどね、その感覚って性同一性障害の人のものに近いんじゃないの? スカート穿かないし、服装倒錯、あれ、今日はイヤリングしてるんだ、珍し、性同一性障害よりは性別同一性障害の方が相応しい、という話はどうでもよくて、あのねえ、服装倒錯だけでそうだなんて決められる? あたしは自分の躰を憎悪していないし、随分前から性別の境界線って相当曖昧になってきてるし、それなら性嗜好異常の服装倒錯的フェティシズムか、あのねえ、自分のこと棚にあげないでよ、外ではスカート穿かないしそのシャツだって男物でしょう、それにあたしが身に着けてるパンツやジャケットは大体女物です、ブラだってつけてるしトランクスやブリーフを穿いてるわけでもありません、むきになんないでよ、何の話してたんだっけ、そうそう旅行の話、何処廻るか決めよう、滞在期間も決めてないのにそんなの決められないでしょ、まあ二条いくんだったら二条城と壬生寺、八木邸は当然なんでしょう? もち、平安神宮と京都国立近代美術館もね、あそこ改築終わったの? 九年にホワイト・キューブのサスティナブル建築にしたのに、腐敗雨対策だけすればいいものを、何を考えたんだか一八年にポストモダンにして、去年シェル形式のシュタイナー建築と新古典主義のハイブリットっていう、訳わかんないコンセプトの建築家を採用した、京都国立近代美術館よね、嫌いなの? そうでもないけど、ならいいでしょ、八月の二日に新装開館すんの、ミュシャ財団がミュシャ没後一五〇年にまたリ・クリエーションしたでしょ、限定一〇〇っての、それを沢山購入したんだって、ふーん、綾アルフォンス・マリア・ミュシャ好きだものね、黄昏とブルネットとブロンドと、それから何が特に好みだったんだっけ? 1900四季の春、あの一番美人って評判のね、あの淡い色調がいいのよ、印刷しか見たことないから、今度のリトグラフを逃す手はないわ、綾って面食いだったのね、そんなの瀬羅を好きって時点で決まってるじゃない、……ジャポネズリーも昇華したものだったし、あたしも嫌いじゃないけど、今の印刷技術からすればそんなに違わないでしょ、その微妙な違いを大切にしてこそ審美眼が養われるってもんじゃないの、それはその通りね、それから鞍馬、牛若丸も好きだものねえ、の後も本当に全部廻ったら一月はかかる数の名所をあげ、何処にそんなお金があるのかという、捻出する気になれば捻出できる、経済的に恵まれた環境に二人はいるのだが、根本的な問題に衝突し、たまには空想に浸るのも必要よね、という綾の言葉に瀬羅は曖昧に頷いて、もう帰るわ、と壁にかけてあるコーラル・オレンジのカシミアのプルオーバー、チェリー・レッドのシルクのスカート、机の下のピンクのパンプスに目を向けないようにドアに歩き、明日は、と心に誓って、ノブを回し、引いて、左足を部屋の外に踏みだした時に聞こえた綾の、プリン、お願いね、という少し不安そうな声に、振り向いて微笑し、頷いた。
俊樹は一二時間以上九字を切り続けていた。
朝の五時に起き、家屋の裏の池でした。重くなったのから式服に着替え、離れに六年振りに入った。三二畳ばかりの広さの板敷の床はあちこちに穴が開いていた。上から鉄球が落下したような、下から何かが突き破ったような、穴だった。戸を閉めると、ほぼ完全な闇が訪れる。俊樹が歩き、部屋の中央に正座し、目を閉じて、始めたのが午前六時だった。
「臨・兵・闘・者・皆・陣・烈・在・前」
陰陽師にならなければならない。
高原聖に勝利する為に。
俺はまだまだ強くなるだろう。格闘術に於いても、また力を外部に放出する技術に於いても。だが─。
それだけでは、奴には勝てない。これは確信だ。
格闘なら、何れ高原聖を上回ることができる。この前とて、気を緩めなければ勝って、いや、あれは不意打ちをしたから捕らえられたが、次はそうはいくまい、それでも、やがては越えられる。
力を放出する術は、総合戦闘力は、今のままでは、いつになっても、達かない、絶対に。奴の能力、詳しくはわからないが、あれほどの大量の物質を消滅させられるというのは、恐らくその気になれば、膨大なエネルギーを生める。
奴は俺を殺せた。
殺す必要がなかったから、敵ではなかったから、そうしなかっただけだ。
陰陽師としての力を得れば、勝てると考えているのではない。ただ、そうしなければ、決して倒せない。そう信じざるを得ないから、見切りをつけた、見切りをつけられた力に、を見出そうとしている。占いなどできなくてもいい、病など治せなくてもいい、他の様々な、災厄を回避する能力もいらない、式神であいつに勝てさえすれば。
集中できない。
九字を切っていても、余計な思考ばかりしていた。こんなことでは、幾千年経とうとも力を得られはしない。
俊樹は精神を高揚させていき、一心不乱に九字を切った。如何ばかりのが過ぎたであろうか、俊樹は何者かの気配を感じ、目を開いた。
なにか、いる。
確かに大きく邪悪な気が俊樹を取り巻いていた。数が特定できない。一つであるとも感じるし、百以上もあるとも感じる。立ちあがった時、目に見える異変があった。床板が捲りあがり、天井が砕け、落ちてきた。逃げ場はない。力を体内に巡らせてから放出─。
できない
力(陰陽師のそれではない)は體を駆け巡っている。失われてはいない。
まぐれではなかった、完全に習得した。
衝撃を受けつつも、腕で頭部を庇っていた。
砕けた板くらいに皮膚を傷つけられることはないが、梁などの直撃を受けて意識を保っていられる耐久力を、素の特異能力者は有していない。力を持たざる者に比べれば遙かに高い耐久度を誇るも、力を用い防御力を上昇させていない箇所に鋭利な刃物の一撃や弾丸を受ければ、死にもする。ただ血液の八〇パーセントを失っても一命を取り留めたり、持たざる者の致死量、その数億倍の毒物にも耐えられるという、特性があるだけだ。
視えないということは、敵がまだ本腰ではないということだ。これだけの力を持つ魑魅なら、実体を持っている。早く姿を現せ。
力を放出できなくなったことの動揺は既に去っていた。陰陽師の力に見切りをつけ、肉体の強化に走った時点ではこの力にも目覚めていなかった。純粋に、ただの人としての力だけで異形を倒そうと、格闘技を学んだのだから。
闇から白い獣が現れた。猿の頭、狸の胴体、虎の手足、尾は蛇の、体高二メートル五〇センチ、体長三メートル五〇センチばかりの獣だった。それがという妖魔の形態ということは、俊樹も知っていた。
間合いを詰める。正面からいくと見せ、振りおろされた虎の右手をスピードをあげることで回避し、身を沈めて胴体の下にもぐり込み左足の膝関節を正面から蹴った瞬間、膝に激痛が走った。鵺の足は全く動いていない。
通用しない。地獄の番犬の影と同じ性質を持っているのではない、単純に俺の攻撃力を鵺の防御力が上回っているだけだ。この状況で俺に勝ち目はない? ならば。
俊樹は痛めた右足を庇って走った。蛇の牙を回避し、戸を引く。開かなかった。ほぼ完全な闇の中で、鵺の姿しか見えていなかったとはいえ、常人を遙かに越える感覚を有する特異能力者が、見当違いをしたとは考え難い。俊樹もそう思ったが、すぐに改め戸を破壊することを選択した。右の掌を叩きつける。拳よりは力が分散するからだった。弾かれないのなら、同じパウダーの量でも弾頭の面積が広い弾丸の方が殺傷力が高いから、生身の人間相手で近距離なら.22REMINGTONより11.43mm×23を選択する。それと同じ理屈だったが、貫通しない。それどころか全く変形しなかった。
どういうことだ 俺の力がさがっているのか、俺以外のモノの耐久力があがっているのか、その両方か。
背後からの攻撃に身体が無意識に動いていた。右への跳躍、受け身を取り回転して立ちあがる。妖魔がい。俊樹が体勢を立て直すより早く、鉤爪を打ち込んできた。少し精彩を欠いた動きで、左の頬の肉を刮がれる。
打撃が通用しなくても。
たった今やり過ごした鵺の右手に俊樹は取りついた。太さが四、五〇センチメートルある手を足で挟み、背筋の力で関節を逆に曲げる。いや、曲げられなかった。硬度九の物質なら倍の太さでもへし折れるのに、鵺の手は軋みもしない。猿の牙は普通の人間が想像しているより鋭い。その鋭く太い牙が脛に食い込む痛みを覚え、力を抜き俊樹は床に落ちた。粘っていたら右足を三分の一失っていたところを凌いだのだが、もう右足は使いものにならない。追撃がくることを予測し、背中から落ちると即座に後ろ回りして、足が着く前に両腕で跳んだ。左脚だけで着地し、壁に寄り掛かる。
鵺はすぐには襲ってこなかった。る確実な勝利を本能が告げ、猫が鼠をいたぶる心理になったのか、俊樹の間近に迫り腕を振るうのだが、致命傷は与えてこない。先ず俊樹は右腕の付け根に打ち込まれた。次の胴体への横殴りの一撃は跳躍して躱す。それが単なる誘導で、跳ぶのではなく身を沈めるべきだったのだとすぐに悟った。鵺の尾の先端にある蛇の頭に左足を食いつかれた。床に叩きつけられる。動けなくなったのは衝撃によるダメージの為ではなく、注入された麻痺毒の為だった。感覚はある。暗闇が見えているし、自分の脆弱な息づかいが聞こえているし、鵺の吐く息の臭いも嗅げているし、腹の底からこみあげてきた分泌液の酸っぱさも、床と接する皮膚が伝えてくる異常な冷たさも、感じられた。
終わるのか。
こんなところで俺は終わりか?
奴にやられっぱなしで、好きな女を振り向かせることもできずに。
鵺程度に。
終わるのか。
鵺が式服に爪をかけ、引き裂いた。
喰えないものをわざわざ取り除くようなモノなのか、鵺風情が。
爪を太股に僅かに突き刺し、鵺は器用に縦に引いた。皮だけ切り、ぐ。
終わりではない。
鵺は腹に食いついた。
内臓からか、野性動物と同じだ。
終わりたくない。
確かに負けた。勝負にもならなかった。
だが、心は負けていない。絶望していない。
負けたくない。
意識が遠くなってゆく。痛みは感じなかった。ただ確実に力が失われてゆくのがわかる。目が霞んだ。鵺が自分の臓物を咀嚼し、あふれる血液を舌で舐める音が小さくなっていく。
なにを……してきた? 今まで、俺は。
一六年と一ヵ月強。
手に入れたと思ったもの─ピー・メイという友人、綾という恋人、強い力。
手に入れたもの─唯一人の親友。
手に入れたいもの─強い力、綾を愛しているという確信、愛し続けられる心。
失ったもの─母親の愛情、自信、他の色々などうでもいいもの。
失っていないもの─母親への愛情、プライド、感情、希望。
取り戻したいもの─自信、母親の愛情。
一人でも親友と思える存在を見つけられたのなら、そう悪い人生とは言えない。
しかし、俺はまだ手に入れたいものがある。
こんなところでは死ねない。死が怖い。
心臓の鼓動が弱まっていった。冷えていく。熱があるうちは闘える。失ってしまえばもう終わりだ。だから熱のあるうちに。
生きる。
無意識に髪の毛を抜き、鵺へと放った。髪はゆるゆると、しかし確かに白い猿の頭部に向かい接触した。途端、頭が爆発するのが見えその後暫く暗闇を見つめていたつもりだったが、目を開いているのか閉じているのか、起きているのか眠っているのかわからなくなり、〈俊樹、良くやりましたね。わたくしは信じていました。いつの日かあなたが、この場へとやってきて、わたくしの試練に打ち勝つということを。わたくしはほっとしています。あなたが母親であるわたくしより先に死を迎えなかったことを。あなたが乗り越えた試練はを試すものではありませんでした。試したのはだったのです。あなたは恐怖に負けなかった。絶望しなかった。最後まで生きようとした。わたくしは嬉しいです。あなたを置いて遠く異国の地にきて、手紙一本送らないどころか、連絡一つしなかったことを許して下さい。そしてありがとう〉という絶対に聞こえた母の声に心の中で、
失ったと思っていたもの─母親の愛情。
と付け足したのが、夢でのことか現でのことかもわからなかった。
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