![]() 結成は1968年初頭のロンドン、リッチー・ブラックモア(G)、ジョン・ロード(K)、イアン・ペイス(D)の3人にロッド・エヴァンス(Vo)、ニック・シンパー(B)を加えて第1期ディープ・パープルがスタートした。当時彼らの追求するサウンドはハード・ロックと言うよりも.ジョン・ロードのクラシカルでジャージーなオルガンを中心としたアート・ロックで、発表したアルバム『ハッシュ(Shades Of Deep Purple)』、『詩人タリエシンの世界 (The Book of Taliesyn)』、『ディープ・パープルIII (Deep Purple)』の3枚にはそのカラーが色濃く出されている。「ハッシュ」、「ケンタッキー・ウーマン」がシングル・ヒットを記録したものの、あまり大きな成功とは言えなかった。この後ロッド、ニックの脱退により第1期はピリオドを打つ。 ・・・・ 1969年夏、イアン・ギラン(Vo)、ロジャー・グローヴァー(B)の加入によって、第2期はスタートした。彼らの初仕事は名門ロンドンのロイヤル・フィルハーモニック・オーケストラとの共演で、この模様は後にアルバム『ロイヤル・フィルハーモニック(Royal Philharmonic Orchestra)』として発売された。このオーケストラとの共演でスタートした第2期は、次にハード・ロック史上の名作と言われる『イン・ロック(Deep Purple In Rock)』を生むわけだが、それ以前のサウンド・スタイルからは誰も予見できなかったほどの大幅なサウンド・チェンジを励行している。そして、ここにロック史に残る最高峰のハード・ロック・バンド、ディープ・パープルが誕生したわけである。 この後、続々とリリースされる彼らのアルバムは、ハード・ロックの力強さとクラシックのエレガントさの融合を押し進め、イギリスだけでなく、アメリカ、日本などにも数多くのファンを生む原動力となった。『ファイアーボール(Fireball)』、『マシン・ヘッド(MachineHead)』には,数々の名演や名曲が収録されており、未だそのすべてが若い世代に語り継がれている名盤である。 中でも彼らが1972年8月に初来日を果たした時の公演の模様がつぶさに収録された2枚組のライブ・アルバム『ライブ・イン・ジャパン(Live In Japan)』は彼らの人気を確立し、多くの音楽ファンから高い評価を受けた。当初このアルバムは日本だけのリリースだったが後に『Made In Japan』として全世界で発売されている。 彼らは『紫の肖像 (Who Do WeThink We Are)』を1973年にリリースしたことをきっかけに、より一層の大きな飛躍を遂げることになる。アメリカ、イギリスに於けるツアーはもちろん大成功で、1973年に行なった日本公演もすべての会場がソールド・アウトという異常なまでの人気を見せつけた。それは6月25日の武道館公演で、彼らがアンコールに応えないことから勃発したオーディエンスの暴動事件からも、その異常な興奮と熱気に満ち溢れた彼らの人気を窺い知ることができる。 興奮のルツボと化した日本公演終了後に彼らに大きな転機が訪れることになる。イアン・ギランとロジャー・グローヴァーの脱退である。 彼らは急遽、新メンバーのオーディションを行なった。 ベーシストはすぐに以前から目をつけていたイギリスの中堅ハード・ロック・バンド、トラピーズに在籍していたグレン・ヒューズに決定した。 しかしイアン・ギランの穴を埋めるボーカリストの選考は難航した。オーディションを繰り返し、一時はフリーのメンバーでイギリス屈指のボーカリスト、ポール・ロジャースまで候補に上がったほどであった。 ボーカリストが決まらず、グレン・ヒューズのボーカルでスタートさせようと考えていた矢先、オーディションに訪れたまったく無名の新人デヴィッド・カヴァーデイルがメンバーのめがねに適いレッド・ツェッペリンと双璧をなすカリスマ・バンド、ディープ・パープルのリード・ボーカルの座を射止めたのである。 そして1973年夏、デヴィッドとグレンが加入したディープ・パープルは「第3期」としてスタートを切った。 ・・・・ アルバム『紫の炎(Burn)』は、正に第3期の船出にふさわしい作品だった。デヴィッドとグレンの参加によって第2期とは異なる、リズム&ブルースっぽいカラーが導入されたものの、全世界のパープル・ファンは新生ディープ・パープルを暖かく迎え入れた。その結果、アルバム発売直後に行なわれた6週間のアメリカ・ツアー、ヨーロッパ・ツアーも大成功に終わった。中でも,1974年4月、アメリカのカリフォルニア州で行なわれたカリフォルニア・ジャムでは、ブラック・サバス、EL&P、ピンク・フロイドらの強豪を押え、10万人のファンの前でトリを務めて見せた。 1974年秋、通算11枚日の作品『嵐の使者(Stormbringer)』をリリースし、ハード・ロック・バンドとしてより一層高い評価を得た彼らだが、その評価とは裏腹にバンド内では音楽性の方向をめぐって対立が起こっていた。バンドのサウンド・リーダー的存在であるリッチーが徐々にR&B、ソウルっぽく傾きつつあるサウンド・スタイルに不満を持っていたのである。 彼はサウンドの方向性についてメンバーと話し合う機会を持たず、アメリカのハード・ロック・バンド、エルフとソロ・アルバムのレコーディングに入ったのである。1975年6月リッチーは正式にディープ・パープルを脱退。この時、残ったメンバーの間ではパープル解散か続行かが話し合われたが、結局イアンとジョンはバンド続行を決めた。 バンドの看板だったリッチーを失ったメンバー達は、1975年6月にアメリカのカリフォルニアでギタリストのオーディションを行なった。その結果、ジェフ・ベックや元ハンプル・パイのデイヴ・クレム・クレムソンなど大物も候補に昇っていたが、どれも実現しなかった。そこに突然現われたのが,当時24歳の若手ギタリストのトミー・ボーリンだった。彼はジョン・マフラクリン率いるマハビシュヌ・オーケストラの元ドラマー、ビリー・コブハムのソロ・アルバム『スペクトル (Spectrum)』に参加したことをキッカケに急浮上したギタリストで、他にゼファー、ジェイムズ・ギャングといったプロのバンド経験を持っていた。 ・・・・ 2代目ギタリストとしてトミーを迎え入れた第4期ディープ・パープルは、1975年8月ミュンヘンに渡り、通算12枚日のアルバム『カム・テイスト・ザ・バンド (Come Taste The Band)』のレコーディングを開始した。 リッチーの幻影を追うファンも少なくなかったが、トミーを加入させた新生ディープ・パープルは以前にも増してブラック・ミュージック色が濃くなり、そのハードでファンキーなサウンドは王者ディープ・パープルの名に恥じないものであった。 1975年11月8日のハワイのホノルルを皮切りに行なわれた東南アジアを中心にサーキットするワールド・ツアーも大成功で、特にインドネシアのジャカルタでは2日間で10万人を集めるという異常な盛り上がりを見せた。そして同年12月には3度目の来日公演を行なった。この時のステージはトミーの手の故障により満足のいくものではなかったが、リッチーと決別した新生ディープ・パープルの誕生を印象づける公演であった。 この後ディープ・パープルは3週間のオフを取り1976年1月14日から全米31都市をまわるという大掛かりなツアーをスタート。だが、この頃から少しずつバンド内に亀裂が生じ始め、後に大きな事件に発展することになる。 アメリカン・ツアーは無事に乗り切ったものの、その後に行なわれたイギリス・ツアー、ヨーロッパ・ツアーではマスコミの酷評を受け、ヨロヨロの状態で切り抜けている。1976年4月3月パリ公演を終えた彼らはこれ以後ステージに立つことは2度となかった。 この解散劇は、トミー・ボーリンによって引き起こされた。パリ公演終了後、トミーはアメリカに戻りソロ活動に入る。さらにデヴィッド・カヴァーデイルがまるで後を追うかのようにバンドを去った。 そしてグレン・ヒューズもバンドを離脱、バンドはついにジョンとイアンの2人だけになってしまった。そして1976年7月24日、「ディープ・パープル解散」は彼らのマネージメントから正式に発表された。ここに8年5ヶ月にわたるディープ・パープルの歴史に遂にピリオドが打たれたのであった。 ・・・・ この後はメンバーそれぞれが独自の活動をし、1984年12月、第2期黄金期のメンバーが再集結して『パーフェクト・ストレンジャーズ(Perfect Strangers)』をリリース、ディープ・パープルとしての活動を再開するが70年代のような求心力はもはやなかった。 しかし彼らの作り上げたサウンドはその後のロック・ミュージックに多大な影響を与え、今でも多くのファンを有する偉大なバンドである。 トミー・ボーリンはディープ・パープル脱退後、2枚目のソロ・アルバム『富墓林(Private Eyes)』をリリース。ソロ活動も軌道に乗り始めていた1976年12月4日マイアミのモーテルで死亡している。死因は薬物中毒。享年25歳だった。 |
ディスコグラフィー
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Shades Of Deep Purple (1968) A)
1.アンド・ジ・アドレス 2.ハッシュ 3.ワン・モア・レイニー・デイ 4.プレリュード:ハッピネス〜アイム・ソー・グラッド 記念すべきデビュー・アルバム。リッチーのプレイは精彩に欠くが、ジョン・ロードのオルガン・プレイは堪能できる。後の知的でエレガントなディープ・パープル・サウンドの片鱗は窺えるが、まだまだ夜明け前というところか。 |
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The Book Of Taliesyn (1968) A)
1.リッスン 2.ハード・ロード 3.ケンタッキー・ウーマン 4.エクスポジション〜恋を抱きしめよう 第1期はとにかくジョン・ロードのオルガン・プレイ。「聖なる歌」などクラシカルな曲が収録され、ブリティッシュ色が濃くなった。 |
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Deep Purple (1969) A)
1.影を追って 2.ブラインド 3.ラレーニャ 4.フォールト・ライン〜画家 デビュー・アルバムでのアメリカ市場を意識した明るいサウンドから徐々に屈折してきて、このアルバムでは完全にブリティッシュ・ロック・サウンド、まさに「深紫色」のサウンドを聴くことができる。「ラレーニャ」のオルガン・ソロは秀逸。 |
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Concert For Group And Orchestra (1970) A) 1.第一楽章 a.モデラート b.アレグロ
c.ヴィヴァーチェ 2.第二楽章 a.パート1 アンダンテ ロンドン・ロイヤル・フィルハーモニック・オーケストラと共演したライヴ・アルバム。ジョン・ロードの趣味にメンバーが付き合わされたという印象。パープルはこんなこともしました、という記録アルバムである。しかし、オーケストラ曲を自ら作曲して実際に共演してしまうハード・ロック・バンドがいたなんて、今では考えられないほどロックが輝いていた証だ。 |
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Deep Purple In Rock (1970) A)
1.スピード・キング 2.ブラッドサッカー 3.チャイルド・イン・タイム パープル伝説はここから始まった。単にハードなだけではなく、知性と気品まで兼ね備えたパープル・サウンドの誕生である。「スピード・キング」、「チャイルド・イン・タイム」収録。 |
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Fireball (1971) A)
1.ファイアボール 2.ノー・ノー・ノー 3.ストレンジ・ウーマン 4.誰かの娘 名盤である前作と次作の間に挟まれてやや見劣りするが、決して悪い出来ではない。イアン・ギランの熱唱が光る。「ファイアボール」、「ストレンジ・ウーマン」収録。 |
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Machine Head (1972) A)
1.ハイウェイ・スター 2.メイビー・アイム・ア・レオ 3.ピクチャー・オブ・ホーム 4.ネヴァー・ビフォア ロックを語る上で避けて通れない名盤。こんな名盤がホテルの廊下で録音されたとは!! 「ハイウェイ・スター」、「スモーク・オン・ザ・ウォーター」収録。 |
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Deep Purple Live In Japan (1972) Disc1 Disc2 全盛期のライブ・パフォーマンスが堪能できる伝説のライヴ盤。初回プレス盤にはステージの模様を収めたネガ・フィルムがおまけに付いてきた。 |
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Who Do We Think We Are (1973) A)
1.ウーマン・フロム・トーキョー 2.マリー・ロング 3.スーパー・トゥルーパー 4.スムース・ダンサー リッチーのプレイを期待するとやや物足さが残るが、イアン・ギランのボーカル・アルバムとして聴くと楽しめる。「ウーマン・フロム・トーキョー」収録。ト・キ・オという発音はこの曲が元祖。 |
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Burn (1974) A) 1.紫の炎
2.テイク・ユア・ライフ 3.レイ・ダウン・ステイ・ダウン 4.セイル・アウェイ 第3期第1弾。イアン・ギランが抜けてしまっては、という懸念を見事に跳ね返した名盤。サウンドにリズム&ブルースっぽいテイストが加わった。 |
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Stormbringer (1974) A)
1.嵐の使者 2.愛は何よりも強く 3.聖人 4.ホールド・オン 二人のボーカリストの魅力を引き出したアルバム。ボーカルを聴くのであれば、前作よりもこちらの方がお勧め。 |
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Come Taste The Band (1975) A)
1.カミング・ホーム 2.レイディ・ラック 3.ゲッティン・タイター 4.ディーラー 5.アイ・ニード・ラヴ リッチー・ブラックモアに代わってトミー・ボーリンが加入。当時の評価は低かったが、ファンクを取り入れた新しいサウンドは王者パープルの果敢な挑戦としてもっと評価されるべきである。 |
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24 Carat Purple (1975) A)
1.ウーマン・フロム・トーキョー 2.ファイアボール 3.ストレンジ・ウーマン(ライヴ) 4.ネヴァー・ビフォア 5.ブラック・ナイト(ライヴ) 第2期のベスト盤。当時は『ライヴ・イン・ジャパン』未収録の日本公演での「ブラック・ナイト」が目玉だった。 |
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Deep Purple Made In Europe (1976) A) 1.紫の炎 2.ミストゥリーテッド 3.嵐の女 第3期のライヴ・アルバム。解散後にリリースされたこともあり、あまり評判にはならなかったが、『ライヴ・イン・ジャパン』と比べても遜色のない出来である。シングル・アルバムなのがちょっと物足りない。 |