日本のポピュラー音楽史

 

1945〜1955年(昭和20〜30年) 進駐軍放送から聞こえたアメリカン・ポップス

 

1945年 

 戦前だって外国のポピュラー音楽が日本でヒットしなかったと言う訳ではないし、タンゴが一世を風靡した時代もあった。

しかし何と言っても外国産の音楽が、言葉の違いもそのままに入り込んで来て、私達の生活の中に根をおろすようになったのは、第二次世界大戦後のことである。外国産の音楽、それもアメリカン・ミュージックを持ち込んで来たのは、戦勝国アメリカの兵隊たち、今となっては死語となってしまった”進駐軍”であった。

1945年、昭和20年8月15日、終戦。それまで敵性音楽として、いっさいの演奏、放送が禁止されていたポピュラー・ミュージックが、堂々と電波にのるようになったのは、その年の9月のこと。まずNHKに東京六重奏団による演奏を聞かせる軽音楽の時間が生まれた。

当時、西洋風の音楽は、アメリカン・ポピュラーも、ジャズもタンゴもシャンソンも、すべてひっくるめて軽音楽と呼ばれていたが、軽音楽と言う言葉の持つ、明るく楽しげな響きを耳にすることさえも、絶えて久しい時代であった。

そしてこの同じ9月に、進駐軍放送、当時のWVTR、現在のFENが、NHKのスタジオを使用して、放送を開始している。時に1945年9月27日の事であった。

そして同年11月、戦後初のポピュラー・レコードが、日本コロンビアから発売された。戦前に吹き込まれたアンドレ・コステラネッツ・オーケストラの「ビギン・ザ・ビギン」と「眼に入った煙(煙が目にしみる)」であった。

また放送が開始されたWVTRからは、一日中、陽気なアメリカン・ミュージックが流され続けていた。それまでの日本のムードの中には、まったく無かった陽性で、豊かで、ロマンティックな音楽であった。

終戦の前年、すでに'44年の秋頃から、アメリカ国内および、外地で転戦していたアメリカのGI達の間で大ヒットしていたドリス・デイの「センチメンタル・ジャーニー」などは、日に何回となく聞こえてきたものだった。

戦後のアメリカン・ミュージックは、このレス・ブラウン楽団のロマンティックな厚いサウンドに乗って唄うドリス・デイの声から始まった、と言っていいだろう。終戦直前、といっても、'44年の暮、12月15日に、イギリスからパリへ向かう軍用機に乗って、そのまま行方不明となったグレン・ミラーの生前のヒット曲「ムーンライト・セレナーデ」、「真珠の首飾り」、「茶色の小瓶」なども、日に何度かWVTRで耳にした曲の一つであった。

もっとも、映画「グレン・ミラー物語」がジェームス・スチュワート、ジェーン・アリスンの主演で作られ、封切られたのは'54年のことであり、グレン・ミラー・サウンドが日本に一大ブームを巻き起こしたのは、その'54年であったから、終戦直後からWVTRの音楽に耳を傾けていた日本人など、戦前からジャズやポピュラーが好きで仕方がなかった、ごくわずかの人々に過ぎず、大半はまだまだ住むことと食べることに追われて、音楽どころではなかったのである。

 

1946〜1950年

 日本の若者達が、アメリカの音楽に少しずつ目を向けるようになっていったのは、終戦の翌年になってからである。

まず戦前から、アメリカの音楽として日本に入り込んでいたのは、ポピュラー・ソング、ヒット・ソングよりも、ダンス音楽としてのジャズであった。戦争中は軍楽隊のメンバーとして、最終的には楽器を銃に持ち替えて戦っていた人々が帰国し、進駐軍のクラブで演奏するバンドに職を得て働き始め、'46年6月には終戦後初の日本のジャズ・バンド、渡辺弘とスター・ダスターズが結成されている。

そしてスター・ダスターズはNHKラジオの番組に出演して人気を集め、やがてスター・ダスト・ショーというレギュラー番組を持つに至っている。

また、アメリカのレコード原盤をそのまま輸入して、日本で発売するという、今と同じシステムが行われるようになったのは「異国の丘」が大ヒットしていた'46年のことであった。その第一号は日本コロンビアから出たフランク・シナトラだったが、輸入第一号と威張るにふさわしく、当時としてはかなり新しい録音で、共に3年前の'45年12月にレコーディングされた「ホワイ・シュドント・アイ?(何故かしら)」と「パラダイス」であった。

この後も'60年代に入るまでは、日本発売が半年、一年と遅れるというのは当たり前で、世界同時発売などという夢のようなことが行われるようになったのは'70年代に入ってからのことであった。

ともかく、戦後最初に起こったブームはジャズであり、当時はジャズもポピュラーも、アメリカ産の音楽は全てひっくるめてジャズと呼ばれていた。まず'49年3月に、戦後初のジャズ・コンサートが行われ、第一部がアメリカン・ヒット・パレード、第二部がデューク・エリントンの未発売レコードの紹介、というレコード・コンサート、第三部がゲイ・セプテットの生演奏だったという。

そしてこの年の8月、戦後の日本人にとって、もっとも印象深かった大ヒット・ナンバー「ボタンとリボン」が日本コロンビアのL盤シリーズとして発売になっている。この年、日本で公開されたボブ・ホープ、ジェーン・ラッセル主演の「腰抜け二丁拳銃」の主題歌で、ダイナ・ショアの歌が大ヒットした。アメリカでは年間を通して10位にランクされ、日本でも戦後初の記録的な洋盤のヒットとなって、L盤、次いで'50年の8月にビクターから出たS盤と共に、ポピュラー音楽市場を支える二大シリーズの足がかりを作ったのであった。

 

1951〜1955年

 「ボタンとリボン」と時を同じくして、WVTRから流れて来た歌で人気があったのは、アメリカでは'49年にヒットした「アゲイン」と、'50年にヒットした「モナ・リザ」であった。「アゲイン」を唄っていたのはドリス・デイ、「モナ・リザ」はナット・キング・コールであった。レコードが発売されるまでの間に耳で覚えた人達が、進駐軍のキャンプ回りのステージで、さかんに唄っていたものだったが、この頃はまだヒット曲の楽譜や歌詞を書いたソング・ブックなども売り出しておらず、レコードが発売されるまでは、もっぱらWVTRの土曜日の夜のヒット・パレードを聞いて覚えるしかなかった。

江利チエミが「テネシー・ワルツ」でデビューしたのは'51年。その年の12月に民放局のラジオ東京(TBS)が開局。ジーン・クルーパー・トリオが'52年4月に来日し、この頃からポピュラー界はにわかに活気づいて、この年開局した文化放送からは「S盤アワー」と言う人気プログラムが誕生した。

そして'53年、雪村いづみが「想い出のワルツ」でデビュー。「テネシー・ワルツ」も「想い出のワルツ」もジャズと呼ばれて、一方ではヒット・パレードに登場し、一方ではジャズ・コンサートで唄われ、といった具合で、この'53年にはデルタ・リズム・ボーイズ、ノーマン・グランツとJATPなどが来日、国際劇場の「最大のジャズ・ショー」は10万人を動員。「テネシー」、「ブルー・シャトー」といったジャズ喫茶が誕生して、ジャズ・ブームが頂点に達した年でもあった。「ジャズ・ソング」、「ヒット・ソング・ブック」といった楽譜と歌詞がついた本が売り出されたのもこの頃で、早くも'46年に創刊されていた「スウィング・ジャーナル」や「ダンスと音楽」といった本と共に、「ミュージック・ライフ」が初めて発行されたのも'51年のことであった。

ヒット・ソングとしては、パティ・ペイジの「テネシー・ワルツ」、ナット・キング・コールの「トゥ・ヤング」、トニー・ベネットの「ビューズ・オブ・ユー」、ペリー・コモの「イフ」、ローズマリー・クルーニーの「カモナ・マイ・ハウス」、レス・ポールとメリー・フォードの「ハウ・ハイ・ザ・ムーン」、トニー・マーティンの「ドミノ」など、以上が'51年のヒット。

'52年に入って、ジョニー・レイの「クライレ」、ユーゴー・ウィンターハルター、ルロイ・アンダースン・オーケストラによる「ブルー・タンゴ」、エディ・フィッシャーの「エニイ・タイム」、ジョージア・ギブスの「キッス・オブ・ファイア」、ジョニ・ジェームスの「ホワイ・ドント・ユー・ビリーブ・ミー」、パティ・ペイジの「アイ・ウェント・トゥ・ユア・ウエディング」、ジョー・スタッフォードの「ユー・ビロング・トゥ・ミー」、映画「真昼の決闘」の主題歌でテックス・リッター、フランキー・レインの「ハイ・ヌーン」、「第三の男」の主題歌でアントン・カラスの同名のナンバーなどがヒット。

'53年はペリー・コモの「星をみつめないで」、テレサ・ブリュワーの「想い出のワルツ」、パティ・ペイジの「ワンワン・ワルツ」、パーシーフェイス・オーケストラの「ムーランルージュの歌」(映画「赤い風車」の主題歌)、レス・ポールとメリー・フォードの「ヴァイア・コン・ディオス」、エイムス・ブラザーズの「ユー・ムー・ユー」、映画「ナイアガラ」の主題歌でマリリン・モンローの唄う「キッス」、ダイナ・ショアの「青いカナリア」、ジェーン・ヴァリの「ストレンジ・センセーション」、アーサー・キットの「セ・シ・ボン」などがヒット。

次いで'54年はエディー・フィッシャーの「オー・マイ・パパ」、ペリー・コモの「パ・パーヤ・ママ」、ジョージア・ギブスの「ウエディング・ベルが盗まれた」、マリリン・モンローの「帰らざる河」の主題歌などがヒットしている。

この'50年から'55年にかけての時代というのは、一方でジーン・クルーパーの「ドラム・ブギ」などがもてはやされると共に、ポピュラー界ではいかにもアメリカといった甘く華やかなムードを持った男性、女性歌手の全盛時代であり、ロマンティックな恋の歌が、その大半を占めていたといっていいだろう。

そして'55年に入って、「エデンの東」の主題歌が爆発的な大ヒットを記録して、ヒット・パレードの1位を1年以上にわたって独占するという快挙を成し遂げ、「デイビー・クロケットの歌」、「ベニスの夏の日」、「慕情」、「はだしのボレロ」、「テキサスの黄色いバラ」などの映画主題歌が続出しているが、この年の特筆すべきヒットは、ビル・ヘイリーと彼のコメッツの「ロック・アラウンド・ザ・クロック」であった。これもグレン・フォード主演の映画「暴力教室」のテーマ曲であり、映画音楽のヒット・パレードの大勢を占めていた年であっただけに、これもその中の1曲をして見過ごされがちだが、この曲こそが次の年に巻き起こったロックン・ロール誕生の発端となった記念すべきレコードだったのである。

  

 


 
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