日本のポピュラー音楽史
1956〜1959年(昭和31〜34年) ロックン・ロールの誕生
1956年
1956年こそがロックン・ロール誕生の年であった。
黒人のロイド・プライスが「ローディ・ミス・クローディ」を南部でヒットさせていたのは'52年のことであり、ドリフターズが「マニー・マニー」のヒットを出したのは'53年、そしてレイ・チャールズの「アイ・ガット・ア・ウーマン」、チャック・ベリーの「メイベリーン」、リトル・リチャードの「トッティ・フルッティ」がヒットしたのは'55年のことで、その'55年に「ロック・アラウンド・ザ・クロック」は大ヒットを記録していたし、それを演奏していたカントリー・バンドのビル・ヘンリーは、黒人シンガー、ジョー・ターナーの'52年のヒット「シェイク・ラトル・アンド・ロール」をすでにレパートリーとしており、カントリーのマーティ・ロビンスは、黒人シンガー、アーサー・クルダップの「ザッツ・オールライト」を'55年に吹き込んでヒットさせていた。
つまり、すでに'52年から'55年にかけて、黒人のリズム&ブルースは、やがてロックン・ロールと呼ばれるようになった音楽と同じ強烈なビート感を持つようになっていたし、それらが白人のカントリー&ウエスタンと結びついて、”ロカビリー”と呼ばれる音楽を生み出す土台を形作っていた。
この動きは、主にアメリカの南部を舞台として行われていたが、それが世界の市場に登場したのは、'56年に発売されたエルビス・プレスリーの「ハートブレイク・ホテル」であった。
このレコードは'56年1月にアメリカで発売され、日本では6月に発売されて、あっという間に”ロカビリー・ブーム”を巻き起こした。そして同じくプレスリーの「ハウンド・ドッグ」、「アイ・ウォント・ユー、アイ・ニード・ユー、アイ・ラブ・ユー」やカール・パーキンスの「ブルー・スウェード・シューズ」、ジーン・ビンセントの「ビー・バップ・ア・ルーラ」といった曲と共に、十代の若者のための音楽が誕生した事を人々に告げたのだった。
それは、黒人音楽との強烈な同化において、また激しいリズムにおいて、歌詞の卑猥さにおいて、動きの無邪気さにおいて、それまでの大人の為のものとも、若者の為のものともつかなかった歌の世界に、画然とした若者の世界を築き上げ、従来の既成の価値観に揺さぶりをかけ、若者の望む自由と主張があることを、音楽で示したのだった。
そしてそれは”戦後派”を呼ばれた若者たちの、社会への登場のファンファーレであり、文化への参加のマーチであった。時を同じくして起きていたマンボ・ブームと共に、戦争を知らない子供たち、太陽族の無軌道な暴走のBGMを見られもしたが、戦争を軸として成り立っていた正義・価値観の崩壊を意味する重要な出来事でもあった。
ちなみに石原慎太郎氏の「太陽の季節」は、'55年7月に出版されている。
1957年 今になって、この当時のポピュラー・シーンを振り返ると、ロックン・ロールが果たしてきた役割がいかに重要だったかが良く分かるのだが、当時のヒット・チャートを見てみても、ロックン・ロールのオリジネイターとして高い評価を受けているリトル・リチャードやチャック・ベリーの名前はあまり出てこない。
リトル・リチャードは「ロング・トール・サリー」、「レディ・テディ」を'56年に、「女はそれを我慢できない」、「ルシール」、「ジェニ・ジェニ」を'57年にヒットさせているし、チャック・ベリーも「ロール・オーバー・ベート−ベン」を'56年に、「スクール・デイ」、「ロックン・ロール・ミュージック」を'57年に、さらに'58年に入って「スイート・シックスティーン」、「ジョニー・B・グッド」といったナンバーを作り出してヒットさせている。ファッツ・ドミノも'55年の「エイント・イット・ア・シェイム」以後、'56年の「アイム・イン・ラブ・アゲイン」、「マイ・ブルー・ヘブン」、「ブルーベリー・ヒル」、「ブルー・マンデイ」、'57年の「アイム・ウォーキン」、「イッツ・ユー・アイ・ラブ」などなど、ミリオン・セラーを含めた大ヒットを数多く出しているのに、全米ヒット・チャートの1位を記録したものは一つもない。最高位はチャック・ベリーの「スイート・シックスティーン」の第2位で、年間の売上げの上位50曲の中に入っているのは、'57年のファッツ・ドミノのミリオン・セラー「アイム・ウォーキン」が30位という寂しさである。
他にどんな曲がヒットしていたかというと、アメリカでは年間を通しての1位がデビー・レイノルズの「タミー」、2位がパット・ブーンの「砂に書いたラブレター」、3位がジョニー・マティスの「イッツ・ナット・フォー・ミー・トゥ・セイ」、4位がソニー・ジェームスの「ヤング・ラブ」、5位がジョニー・マティスの「チャンセズ・アー」、6位がダイアモンズの「リトル・ダーリン」、7位がエバリー・ブラザーズの「バイ・バイ・ラブ」、8位がエルビス・プレスリーの「恋にしびれて」、9位がジミー・ドーシーの「ソー・レアー」、10位がペリー・コモの「ラウンド・アンド・アラウンド」、11位に再びプレスリーの「監獄ロック」といった具合で、ロックン・ロールが一般のヒットと必ずしも結びついていなかった事が良く分かる結果となっている。
むしろロックン・ロールから派生したロマンティックなロッカ・バラードのほうに人気が集中し、パット・ブーンというスターを生んだ。チャック・ベリーやリトル・リチャードが高く評価されるようになったのは、それから更に7年後の、ビートルズを筆頭とするイギリスのグループが、彼等のヒット曲を盛んに取り上げて唄うようになってからであった。
1958年 '58年の目玉は何といってもポール・アンカの登場である。ロカビリー、ロックン・ロールから派生したロッカ・バラードを生かしての大ヒット「ダイアナ」に始まって、日本でも「君は我が運命」、「クレイジー・ラブ」、「ロマンスの鐘は鳴る」といったヒットを1年間に出し続け、プレスリーの「思い出の指輪」、「冷たい女」、「キング・クレオール」、「ミーン・ウーマン・ブルース」、「ドント」、「アイ・ニード・ユー・ソー」、パット・ブーンの「四月の恋」、「夕陽の彼方に」、「ホワイト・クリスマス」、「星ふる今宵」、「ワンダフル・タイム」と共に、最多のヒット数を誇っている。
しかし、アメリカでは「ダイアナ」のヒットは'50年のことであり、むしろ'58年にプレスリーと共に目立っていたのは、「オール・アイ・ハヴ・トゥ・ドゥ・クス・ドリーム」、「バード・ドッグ」の大ヒットを出したエバリー・ブラザーズと、「プア・リトル・フール」のリッキー・ネルソン、「スプリッシュ・スプラッシュ」のボビー・ダーリン、「スイート・リトル・シックスティーン」のチャック・ベリーといったところである。特筆すべきことは、コニー・フランシスが「フーズ・ソーリー・ナウ」のヒットを出していたことと、キングストン・トリオの「トム・ドウリー」が出たことだろう。
ロカビリーのテイストをもったビル・ヘイリーやプレスリーに続いて、白人マーケットを大きく支配していたのは、エバリー・ブラザーズやリッキー・ネルソンやコニーフランシスの、どちらかといえばカントリーに近い味わいを持った人々であった。ロックン・ロールの誕生からわずか3年で、ロックはロッカ・バラードに移行することによって、その爆発的なエネルギーをますます失い、早くも女性歌手の出現を見るようになっていた。また、のちに到来するフォーク・ブームの先駆けとしてキングストン・トリオが登場していた事に興味を引かれるチャートであった。
1959年 '59年はプレスリー、パット・ブーンに次いで登場したヤング・アイドル達の時代だった。「ビーナス」のフランキー・アバロン、「タイガー」のフェビアン、そしてポール・アンカの「ロンリー・ボーイ」、「貴方の肩に頬うめて」、ニール・セダカの「恋の日記」、「恋の片道切符」、コニー・フランシスの「カラーに口紅」が日米共にヒットし、音楽雑誌のグラビアを盛んに飾っていた。日本ではトニー・ザイラーというオリンピック選手が映画で人気を集めて、「黒い稲妻」、「白銀は招くよ」といった歌をヒットさせていた。また、アイドルと呼ぶにはどうかと思うが、ボビー・ダーリンがその歌の上手さで、「マック・ザ・ナイフ」、「ドリーム・ラバー」をヒットさせていた。
戦後しばらくはアメリカン・ヒット一辺倒だった日本に、日本独自の主体性と多様性が目立ってきたのはこの頃からで、まずヨーロッパの映画音楽のヒット、前年度の「マルセリーノの歌」、「ジェルソミナー」、「禁じられた遊び」、「イルカに乗った少年」、に続いてこの年はカテリーナ・バレンチの「情熱の花」、イリナ・バオンデリーバの「黒い瞳」、トニー・ダララの「コメ・プリマ」、そして「鉄道員」、「わらの男」、「河は呼んでいる」といった曲がヒット・チャートをにぎわしていた。
このように、アメリカ離れがみられたことと、ポール・アンカに続いてニール・セダカという、今でいうシンガー・ソング・ライターが登場したことが、ヤング・アイドルの活躍と共に目立った年であった。