日本のポピュラー音楽史

 

1960〜1963年(昭和35〜38年) ビートルズ登場前夜

 

1960年

 アメリカにおける1960年の大ヒットは、トップがパーシー・フェイス・オーケストラの映画「避暑地の出来事」のテーマ「夏の日の恋」、ついで2位がプレスリーの「イッツ・ナウ・オア・ネバー」、3位がドリフターズの「ラストダンスは私に」、4位がチャビー・チェッカーの「ツイスト」、5位がブライアン・ハイランドの「ビキニ・スタイルのお嬢さん」、6位がブレンダ・リーの「アイム・ソーリー」、7位が再びプレスリーの「本命はお前だ」、8位がジム・リーブスの「ヒール・ハヴ・トゥ・ゴー」、9位がエバリー・ブラザーズの「キャシース・クラウン」、10位がジョニー・プレストンの「急がば回れ」が入っている。

一方、日本はこの年も独自のヒット曲が目立っていて、1位がサウンド・トラック(といっても日本のスタジオ・オーケストラの録音)で「太陽がいっぱい」、2位が映画「刑事」の主題歌でアリダ・ケミリの「死ぬほど愛して」、3位がニール・セダカの「恋の片道切符」、4位がTV主題歌でフランキー・レインの「ローハイド」、5位がブラザーズ・フォアの「グリーン・フィールズ」、6位がケーシー・リンデンの「悲しき16才」、7位がパーシー・フェイス・オーケストラの「夏の日の恋」、8位が映画「渚にて」の主題歌、9位も映画からベルト・ケンプフエルト・オーケストラの「星空のブルース」、10位がポール・アンカの「マイ・ホーム・タウン」、11位にミーナの「月影のナポリ」があり、次いでトリオ・ロス・パンチョスの「ある恋の物語」が入っている。

この中で特筆すべきことは、ベンチャーズやジョニーとハリケーンズのようなエレキ・ギター、あるいは楽器中心のヒット曲が登場してきたことと、ブラザーズ・フォアが大きなヒットを出していたことで、この後の一大ベンチャーズ・ブームとフォーク・ソング・ブームの兆しが見えはじめていることである。

また、TV主題歌の「ローハイド」がヒットしているが、民放テレビの放送開始から7年目、カラー受像機が売り出された年で、各局ともこの年の10月からカラー放送を開始している。TVがお茶の間にかなり普及してきたことが、この「ローハイド」のヒットで知ることができる。ちなみに「ローハイド」はモノクロ映像であった。

 
1961年

 「ララミー牧場」の人気者ロバート・フラーが来日した年で、話題の中心はもっぱらTVという年であった。アメリカでの年間1位はフェランテとタイシャーのピアノ・デュオで「栄光への脱出」、これが日本ではパット・ブーンの歌で8位にランクされ、アメリカでの2位はローレンス・ウエルクの「カルカッタ」、日本ではビリー・ボーン・オーケストラの「峠の幌馬車」、以下アメリカの年間ヒット順位は、3位がシレルズの「ウイル・ユー・ラブ・ミー・トゥモロウ」、4位がボビー・ルイスの「トッシン・アンド・ターニン」、5位がベルト・ケンプフェルトの「星空のブルース」(日本では前年度にヒット)、6位がプレスリーの「今夜は一人かい?」、7位がリッキー・ネルソンの「トラベリン・マン」、8位がハイウエイメンの「漕げよマイケル」、9位がデル・シャノンの「悲しき街角」、10位がフロイド・クレーマーの「ラスト・デイト」であった。

そして日本のほうは3位が出所不明のウーゴ・ブランコ・オーケストラの「コーヒー・ルンバ」、4位がジョニー・ディアフィールドの「悲しき少年兵」、5位がブラザーズ・フォアの「遥かなるアラモ」、6位がアメリカでは9位のデル・シャノン、7位がニール・セダカの「カレンダー・ガール」、8位がパット・ブーンで、9位がアンリ・ド・パリ楽団の「黒い傷あとのブルース」、10位がプレスリーの「GIブルース」となっている。

この頃の日本は「悲しき・・・」というタイトルの花盛りで、前年度の「悲しき16才」あたりから、ジョニー・プレストンの「悲しきインディアン」、「悲しき少年兵」、「悲しき街角」、この年に大ヒットしたヘレン・シャピロの「悲しき片想い」、スティーブ・ローレンスの「悲しき足音」と、ヒット・パレードは悲しきだらけで、そのまま翌'62年のニール・セダカで「悲しきクラウン」、「悲しき慕情」、パット・ブーンで「悲しき女学生」、'63年に入ってカスケーズの「悲しき雨音」、プレスリーの「悲しき悪魔」、再びパット・ブーンの「悲しきカンガルー」、スーザン・シンガーで「悲しきハート」、といった具合に、うんざりするほど続いていく。

 
1962年

 この年に起きたのがツイスト・ブームで、アメリカよりも半年遅れで日本にも上陸。2月に来日したインク・スポットという三人組の黒人グループが初めツイストのデモンストレーションを披露した。

一方、ブラザーズ・フォアも大変な人気で、4月には来日して熱っぽい歓迎を受けており、この頃雑誌に取り上げられたのは、このツイストとフォーク・ソングだった。しかし、日本では実際のレコードの売れ行きにはあまりつながらず、リバイバル上映された「禁じられた遊び」の主題歌がまたまた大ヒット、夏から冬にかれてヒット・パレードの第1位を独占していた。

次いで強かったのが「ウエスト・サイド物語」の挿入歌「トゥナイト」とプレスリーの映画「ブルー・ハワイ」、そして前年度から持ち越しのヘレン・シャピロの「悲しき片想い」、日本では克美しげるが唄っていたジョーン・レイトンの「霧の中のジョニー」、コニー・フランシスの「可愛いいベイビー」、それに日本のスタジオ・ミュージシャンによるレコーディングで、コレット・テンピアという、いかにもありそうな名前をつけたオーケストラによる「太陽がいっぱい」の主題歌、といったあたりであった。

アメリカでは'60年に一度ヒットしたチャッピー・チェッカーの「ツイスト」が再び第1位、2位がアッカー・ビルクの「白い渚のブルース」、3位に日本でまるで駄目だったジョーイ・ディースとスターライダーズの「ペパーミント・ツイスト」、4位にツイストのあのステップとして登場したディーディー・シャープの「マッシュド・ポテト・ダイム」といったところがランクされている。

なお、この年にアメリカではボブ・ディランが「風に吹かれて」を出して、折からの緊張の度を増しつつあったカンボジア・ベトナムへのアメリカの介入に抵抗の姿勢を示し、アメリカ国内で起こっていた人種差別反対の動きや公民権運動と結びついたものとして、フォークの中のプロテクト・ソングと呼ばれる歌が注目を集め始めた。

また、マリリン・モンローがこの世を去ったのも、この年、1962年8月5日のことであった。日本のテレビ契約台数はこの年、1千万台を突破したのであった。

 
1963年

 この年の特徴を挙げるならば、ツイストのブームが去りかけて、マッシュ・ポテト、ポニー・タイム、とステップが微妙に変化し、チャビー・チェッカーの「リンボ・ロック」がアメリカで第1位を記録したこと。トルネイドスの「テルスター」、シャンテイズの「パイプ・ライン」といったテケテケテケのエレキ・ブームに結びつくヒットがアメリカで出ていたこと。スティービー・ワンダーがリトル・スティービー・ワンダーをいう名前で「フィンガーティップス」のヒットを出していたこと。ビーチ・ボーイズの「サーフィンUSA」、「サーファー・ガール」、ジャン&ディーンの「サーフ・シティ」といったサーフィンものがヒットして、後のウエスト・コースト・サウンドを作る土台の一つになっていたこと。また、ビーチ・ボーイズと同じく、アメリカン・コーラスの歴史を形作るグループの一つ、フォー・シーズンズが、前年に「シェリー」を、そしてこの年に「恋のハリキリ・ボーイ」、「恋はヤセがまん」をいったヒットを出していたこと。さらに、名プロデューサー、フィル・スペクターの名を一躍高めたロネッツの「ビー・マイ・ベイビー」がヒットしていたことだろう。

つまり、翌年になってどっとイギリス勢が押しかけてくる前のこの1年は、アメリカの音楽を形作る上で歴史的に貴重な足跡を残した年だった。

日本でもこの年に入って「シェリー」が大ヒット、年間の5位にランクされ、「テルスター」も10位に入っている。第1位にはポールとポーラの「ヘイ・ポーラ」が圧倒的な強さを見せてランクされていた。

坂本九が「上を向いて歩こう」(スキヤキ)で、初の全米ナンバー・ワン
を獲得したのもこの年のことであった。

 

 


 
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