日本のポピュラー音楽史

 

1964〜1966年(昭和39〜41年) ミート・ザ・ビートルズ

  

1964年

 いよいよビートルズの登場である。プレスリーが「ハートブレイク・ホテル」を出してから8年目、すでにイギリスおよびヨーロッパで話題を呼んでいたビートルズのレコード「抱きしめたい」がアメリカで発売されたのは1964年1月のことであった。

発売と同時にヒット・チャートの3位に初登場した「抱きしめたい」は翌週早くも1位を記録し、そのまま1位に7週間も居座った。そして、4月4日のチャートでは、1位が発売と同時に170万枚売れたという「キャント・バイ・ミー・ラブ」、2位が「ツイスト・アンド・シャウト」、3位が「シー・ラブズ・ユー」、4位が「抱きしめたい」、5位が「プリーズ・ミスター・ポストマン」という、1位から5位までをビートルズが独占する前代未聞の現象が起こった。

誕生時の爆発的なエネルギーを失っていたロックン・ロールを再び甦らせ、白人の手に渡っていたロックン・ロールの根源が黒人のものであった事を思い出させてくれたのもまた、ビートルズであった。彼等の口からチャック・ベリー、リトル・リチャードなどの名が語られ、彼等に続いて出てきたローリング・ストーンズ、アニマルズといったグループの口からジョン・リー・フッカー、アルバート・キングといったブルース・メンの名前が語られて、ロックン・ロールの表面だけを見てきたリスナーの興味がアメリカの黒人ミュージック達に向けられるようになっていった。

この'64年は、フォーク、ビートルズ、やがてやってくるエレキ・ミュージック、ロックン・ロールの生き残り組、ビートルズに次いで登場したイギリス勢が混然一体となっていた年であった。

日本の年間第1位は、007シリーズの映画が爆発的なヒットをしていて、その主題歌でマット・モンローが唄う「ロシアより愛をこめて」、2位がキングストン・トリオの「花はどこへいった」、3位がガス・バッカスの「恋はスバヤク」、4位がアストロノウツの「太陽の彼方」、5位がビレッジ・ストンパーズの「ワシントン広場の夜は更けて」、6位がビートルズの「抱きしめたい」、7位がプレスリーの「ラスベガス万才」、8位がビートルズとトニー・シェリダンの「マイ・ボニー」、9位がサウンド・トラックで「ブーベの恋人」であった。

ビートルズだけを見てみると、「プリーズ・プリーズ・ミー」、「恋する二人」、「ヤア、ヤア、ヤア」、「プリーズ・ミスター・ポストマン」、「シー・ラブズ・ユー」、「ツイスト・アンド・シャウト」、「いい娘じゃないか」、「ラブ・ミー・ドゥ」、「シーズ・ア・ウーマン」、「キャント・バイ・ミー・ラブ」といった驚くべき数の曲がこの年のヒット・チャートに登場している。

 
1965年

 全世界を一大旋風に巻き込んだビートルズだったが、日本のマーケットはなぜかベンチャーズにひっかき回された年であった。

銀座の楽器店でエレキ・ギターが一日16本も売れたという記録破りのエレキ・ブームで、神様扱いされたのがベンチャーズであった。本家のアメリカでは'60年の「急がば回れ」以降、セールス面では、LPはまだしも、シングルではそれほどでもなかったが、日本のチャートでは、年間を通してベスト10曲中3曲を占めるという活躍ぶりであった。

1位が007の「ゴールドフィンガー」、2位がベンチャーズの「十番街の殺人」、3位もベンチャーズの「キャラバン」、4位がクロード・チアリの「夜霧のしのび逢い」、5位がシルビィ・バルタンの「アイドルを探せ」、6位がまたまたベンチャーズの「ダイアモンド・ヘッド」、7位がプレスリーの「スイムでいこう」、8位がビートルズの「ヘルプ」といった具合であった。

一方、アメリカではシュープリームスが大変な人気で、こちらも記録を作り、前年度の8月に「愛はどこへ行ったの」が全米第1位を記録して以後、「ベイビー・ラブ」、「カム・シー・アバウト・オブ・ラブ」、「バック・イン・マイ・アームス・アゲイン」、「アイ・ヒア・ア・シンフォニー」と、立て続けに6曲が全米No.1となって、この年の年間チャートでも「バック・イン・マイ・アームス・アゲイン」が1位を記録している。次いでサム・ザ・シャムザ・ファラオスの「ウーリー・プーリー」が2位、3位がボビー・ビントンの「ミスター・ロンリー」、5位にローリング・ストーンズの「サティスファクション」、8位にシュープリームスの「カム・シー・アバウト・ミー」、11位にビートルズの「ヘルプ」が入っている。

また、ビートルズ・フォロアーとして、イギリスから次々に名乗りをあげたグループとしては、ローリング・ストーンズを筆頭に、「ミセス・ブラウンのお嬢さん」、「ハートがドキドキ」のハーマンズ・ハーミッツ、「朝日のあたる家」、「悲しき願い」のアニマルズ、「恋の特効薬」、「バンブル・ビー」のサーチャーズ、「シーズ・ナット・ゼア」のゾンビーズなどが日米共にヒットを出していて、マージー・ビート、ロンドン・ポップスなどといって話題を集めていた。

また、ザ・バーズの「ミスター・タンブリンマン」が出て、フォーク・ロックが登場し、ボブ・ディランがエレキ・ギターを持ってニューポートのフォーク・フェスティバルに出演したが、”フォークを汚すもの”として投石を受けるという事件が起きた。

 
1966年

 ベトナムの情勢が日増しに緊迫の度を増している中、バリー・サドラー軍曹の「戦場のグリーン・ベレー」が大ヒット、アメリカの年間チャートの1位を記録した。

'64年、'65年とアメリカの市場を荒らしまわったイギリス勢に対して、ママス・アンド・パパスの「夢のカリフォルニア」、サイモンとガーファンクルの「サウンド・オブ・サイレンス」が、そしてビートルズの人気にはモンキーズが対抗した。この年、ザ・バーズは「ターン・ターン・ターン」を、ラヴィン・スプーンフルは「デイ・ドリーム」をヒットさせ、後のウエスト・コースト・サウンドにつながっていく音を聞かせていた。

また、ビートルズは室内管弦楽団を使って「イエスタデイ」、「ミッシェル」などを発表すると共に、インドの楽器シタールを使って、一歩先んじた哲学的な姿勢を見せ始めていた。

前年エリザベス女王からMBE五等勲章を授けられたビートルズは、この年、1966年6月29日午前3時44分、ついに来日して日本のファンの前にその勇姿を現し、至上最高のマス・ヒステリアを巻き起こしながら、7月3日午前10時43分に旅立っていった。

 

 


 
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