ロックが駆け抜けた時代

 

第一章 プロデュースの時代

 

 1950年代、レコード産業は若者文化を乗せて成長しつづけていた。初期のロックンローラー達はビートの効いた荒削りな魅力で若者をしびれさせた。やがて1950年代の末になると、よりポップな音楽が登場する。この時代はまたレコーディングの方法が飛躍的に発展した時代でもあった。音を魅力的に練り上げるプロデュースの手腕がヒットの鍵になっていくのであった。

プロデュースの時代の予感は1950年代初めに生じた。当時無名の二人組ソングライターはアメリカのリズム&ブルース界でスタートをきった。彼等の名前はジェリー・リーバーとマイク・ストーラー。若干19歳のフレッシュな才能は着実にヒットを飛ばし音楽業界の注目を集めた。

彼等は魅力のある歌手を探すためリハーサルを重ね、やがてビッグ・ママ・ソーントンを発掘することになる。彼等は彼女のために「ハウンド・ドッグ」という曲を作り、レコーディングした。1953年、ビッグ・ママ・ソーントンの「ハウンド・ドッグ」はリズム&ブルースのNo.1ヒットに輝いた。その同じ歌を3年後、別の歌手がレコーディングすることになる。まだ無名のエルビス・プレスリーである。「ハウンド・ドッグ」はエルビスの十八番となり、彼の数多いヒット曲の中でも最高のレコード売り上げを達成した。ビッグ・ヒットを飛ばした作曲家コンビをエルビスの周囲は手放すわけがなく、ジェリー・リーバーとマイク・ストーラーはエルビスのお抱え作曲家となった。そして、力をつけた二人は曲を提供するだけでは飽き足らなくなり、自らアーティストの発掘に乗り出すことになる。

マイク・ストーラー、エルビス・プレスリー、ジェリー・リーバー

リーバーとストーラーが最初にプロデュースしたのはコースターズという黒人ボーカルのグループだった。二人がレコード会社と交わした契約は画期的な内容だった。当時、アーティストの曲選びや録音作業は一切レコード会社の言いなりで進められていたが、それに対し彼等は初めてレコード制作を自由に行える権利を手に入れたのであった。二人は曲を書き、録音に最初から最後まで関わり、レコード会社が受け取るのは完成された状態の音であった。リーバーとストーラーのこの試みは音楽業界の新しいトレンドとなっていった。

力強い後押しを得たコースターズはリズム&ブルースの分野で着実にファン層を広げていく。コースターズの魅力はコミカルな明るさであり、彼等の歌には人種差別を笑い飛ばすパワーがあった。1957年頃、彼等はアメリカの白人社会からも注目されるようになり、ついに一枚にシングルがヒット・チャートを駆け上がることになる。このヒット・シングル「サーチン」は力強いビートに乗ったリズム&ブルースであった。黒人と白人の垣根が依然高かった時代に歌は風穴を開けて吹き抜けたのである。

・・・・

 同じ頃、ニューヨークの街角でも黒人の伝統に根差した調べが人々の耳を捕え始めていた。宗教音楽ゴスペルから発展したドゥーワップの歌声である。リーバーとストーラーに見い出されたベン・E ・キングは自作の「ゼア・ゴーズ・マイ・ベイビー」をドリフターズの一員として録音することになった。

ドゥーワップとして作曲されたこの曲をリーバーとストーラーはクラシック音楽の楽器であるティンパニーで始まり、そして流麗なストリングスが曲全体を覆うという前代未聞の画期的なアレンジを施した。リーバーとストーラーはこうして黒人音楽に新境地を切り開いたのである。

その後「ラスト・ダンスは私に」を始めとする、リーバーとストーラーの書いた甘くソフトなソウルはキングの歌声の魅力を余すところなく引き出した。

ベン・E ・キングはドリフターズとして活動した期間は短いものだったが、その時期にグループの代表的な曲が生まれた。1960年、キングはソロに転向し、リーバー達の下でゴスペル風の曲を発表した。この「スパニッシュ・ハーレム」という曲はおよそゴスペルとは縁遠い旋律にキングのゴスペル調の歌唱がマッチして大ヒットすることになる。

こうしてリーバーとストーラーのプロデュースの成功は若い作曲家たちを刺激し、1960年代に入ると新しいスタイルのヒット曲がぞくぞく誕生することになる。

・・・・

 シュレルズは黒人女性グループとして初めてアメリカのヒット・チャートに躍り出た。彼女達にチャンスをもたらしたのは一人の若い女性ソングライターが書いた「ウィル・ユー・ラブ・ミー・トゥモロウ」という曲だった。その曲を書いた女性ソングライターこそ若き日のキャロル・キングである。1961年の「ウィル・ユー・ラブ・ミー・トゥモロウ」以降、シュレルズの名前はヒット・チャートの常連になった。彼女達に続けとこの時期アメリカでは女性グループのデビューが相次ぐことになる。シュレルズは時代の先頭に立ったのであった。

キャロル・キング、ゲリー・ゴフィン

 1963年、若き天才がレコーディングの世界にまったく新しいサウンドをもたらすことになる。彼の名はフィル・スペクター。

彼はかつてジェリー・リーバーやマイク・ストーラーとともに仕事をし、オーケストラの豊かな音量を生かすテクニックを学んでいた。彼はさらに一歩進んでワーグナーのようにダイナミックな音響を目指し、彼の開発したサウンドはのちに「ウォール・オブ・サウンド(音の壁)」と呼ばれることになる。

フィル・スペクター

フィル・スペクター・プロデュースの黒人女性グループ、クリスタルズの「ダ・ドゥ・ロン・ロン」で聴衆を引き付けたのは、詞やメロディー以上に全身を包み込むような厚みのあるサウンドであった。

フル・オーケストラと張り合うほどの音響は実は従来の狭いスタジオで録音されたものであった。彼は狭さを逆に利用し、スタジオの中にギターを5人、ベースを3人、ピアノを3人、ドラムスを2人、ホーンセクションとそこいらじゅうの人間にパーカッションを担当させ、ぎゅうぎゅう詰めの状態で演奏をさせてその反響音を別のマイクで拾って演奏の厚みを増したのであった。それまではピアノ3台で適当に伴奏するような曲も多かったことを考えると、これは革命的な出来事であった。

「ウォール・オブ・サウンド」を武器にフィル・スペクターのプロデュースしたアーティストは次々とヒット・チャートを制覇していくのである。

その中でもロネッツが歌った「ビー・マイ・ベイビー」はスペクターが女性グループによって達成したサウンドの最高傑作であった。

フィル・スペクターをして最高の声と言わしめた女性、それがロネッツのロニー・ボネットである。小悪魔のような官能的な声はそれまでの女性グループにはない魅力を放った。ロニーはのちにフィル・スペクターの妻となった。

ロネッツを手がけた後、フィル・スペクターは新たなチャレンジの対象を探した。そして白羽の矢がたったのはライチャス・ブラザーズであった。ライチャス・ブラザーズは1960年代の初めからアメリカの西海岸を中心に活動をしていたビル・メドレーとボビー・ハットフィールドの男性デュオである。

フィル・スペクターが提供した最初の曲は意外にも二人のあまり歌ったことのないスロータイプのバラードであった。その曲のデモテープはフィルと作曲者がか細い声で歌った、エバリー・ブラザーズが歌うような高い音域の曲だった。だがレコーディング当日、フィルは大胆にキーを下げ、意外な曲に仕上げてレコーディングに臨んだ。当時のレコーディングの常識を全く無視し、バックのビートなしであまりにスローで低い音で始まるその曲は、レコーディングが終了した時にはその場の全員を魅了した。それがライチャス・ブラザーズの代表曲となるバリー・マン作曲の名曲「You've Lost That Lovin' Feelin'(ふられた気持ち)」である。

・・・・

フィル・スペクターがダイナミックなバラードを極めたとすれば、その対局ともいえる繊細さの代表がロイ・オービソンであった。内気さと優しさがミックスされた彼の調べはアメリカはもちろん、ヨーロッパの人々の心をも溶かした。1960年代、彼は「オンリー・ザ・ロンリー」を始めとする20曲以上を全米チャートにランク・インさせ、独自のスタイルと確かな評価をものにした。

・・・・

 一方、カリフォルニアでは局地的嵐のようにエレキギターの激しいサウンドが沸き起こった。それはサーファーたちの中から生まれ、波とともに信仰された。焼けつく砂と波のイメージをエキゾチックなメロディーに乗せたのはサーフ・ギターの王者と呼ばれたディック・デイルであった。ディック・デイルは一部の熱狂的なファンのためのサウンドに徹した。ところが全く違うサーフィン・サウンドが突然大きなウェーブとなって全米を包み込んだのである。

のどかで陽気なメロディー。ビーチボーイズのサーフィン・サウンドはバカンスの海辺を思わせるものであったが、メンバーのほとんどはサーフィンとは無縁だった。彼等はアメリカ中の少年少女に波への憧れをかき立て、「サーフィンUSA」は1963年の発表以来、たちまちトップテン入りをはたす大ヒットとなった。

ビーチボーイズは三人兄弟といとこ、そして高校の友達というアットホームな5人の仲間で構成され、グループの中心はブライアン・ウィルソンであった。彼は作曲、演奏、さらにはプロデュースにも才能を発揮した。ビーチボーイズの魅力の一つはハーモニーの心地よさであり、それはリーダーのブライアンがもっとも重視したポイントであった。1963年の終わりにはブライアン・ウィルソンは演奏もプロデュースもこなす大物アーティストとして認められていたが、当時彼はまだ21歳の若さであった。

ブライアン・ウィルソン

ブライアンは次第に演奏やレコーディングの技術に関心を強めることになる。プロデューサーとしての彼は研究熱心で激しい競争心の持ち主であった。「ビー・マイ・ベイビー」に代表されるフィル・スペクターの「ウォール・オブ・サウンド」はブライアンを触発した。彼は従来のメンバーによる楽器演奏では物足りなくなり、スペクターが起用したのと同じミュージシャンを集めてレコーディングに臨んだ。1964年の「ドント・ウォリー・ベイビー」ではメンバーはボーカルを担当するだけであった。

ビーチボーイズは新たな高みを模索していた。そして彼等にはやり遂げる自信と勇気があった。ところがその時アメリカの音楽シーンをひっくり返すような出来事が海の向こうからやって来たのである。

・・・・

 1964年2月7日、ビートルズは初めてアメリカを訪れた。それは残りの 60年代を覆い尽くすビートルズ時代の始まりであった。彼等は若者の人気をさらったばかりでなく、作曲やレコーディングにそれまでと異なる流行をもたらした。とくにライブのシンンプルさを生かした彼等のレコードはフィル・スペクターのような音作りの権威から出る幕を奪ったのであった。

フィル・スペクターの凄さに舌を巻き、傾倒していたブライアン・ウィルソンも当初ビートルズの人気の理由が理解できなかった。彼はビートルズに対して並々ならぬ対抗意識を燃やし、一人でビートルズに立ち向かっていった。

しかし結果的にビートルズは他の全ての音楽を吹き飛ばした。ビートルズの曲はアメリカのロックンロールの伝統から豊かな恵みを得ていたが、その彼等がアメリカの音楽、とりわけ黒人ミュージシャンを窮地に追いやったのは皮肉な出来事であった。

この後、ビートルズにならうイギリスのバンドが次々にアメリカのヒットチャートに食い込みはじめた。ラジオではイギリスの歌手ばかりをとりあげ、自国の黒人グループのオリジナルよりもイギリスのグループのカバーの方がヒットするという黒人音楽にとっては悪夢のような現実が訪れたのである。豊かな実りが約束されていた黒人音楽は一夜の嵐で吹き飛び、苦い現実だけが残った。彼等のチャンスは消え去り、黒人音楽は再び脇に退けられたのであった。

・・・・

 ビートルズがアメリカを席巻したのと同じ頃、ベッシー・バンクスの「ゴー・ナウ」がラジオから時折ひっそりと流れていた。プロデュースしたのはジェリー・リーバーとマイク・ストーラーだった。この曲で彼等はアメリカのリズム&ブルースの原点に回帰した。しかしそのメロディーは唸りを上げる時代の歓声にかき消され多くの人の耳には届かなかった。

ビートルズの成功は新たな時代の夜明けであった。しかし明けゆく空の反対側に昨日の夢は静かに沈んでいった。

 

第一章 終わり

 

 


 

戻る