ロックが駆け抜けた時代

 

第二章 ディランとビートルズの時代

 

 1960年代初頭、ニューヨークで歌われていたフォークソングはいたって生真面目なもので、ショー・ビジネスの喧騒からは遠く離れたところにあった。しかしこのようなストイックな雰囲気はミネソタからやって来た一人の若者によって大きく様変りすることになる。1961年1月、若きボブ・ディランがニューヨークへとやって来た。そして数週間のうちに幾つかのコーヒー・ショップにレギュラー出演するようになった。

フォーク・ソングの父とも言われるウディ・ガスリー、そんなガスリーのあらゆる要素をディランは自分のものにしようと努めた。しかしディランの粗野な風貌や強いなまりや洗練されない歌い方は、中流階級の出身でミネソタ大学に籍を置いていたという経歴を覆い隠すために多分に演出されたものであった。

かつてはロックンロールの熱烈なファンであったロバート・ジンママン。ボブ・ディランと名乗るようになった彼は最初、ウディ・ガスリーのものまねのようであったが、人々は彼を受け入れた。彼も次第に独自のスタイルを見つけ、フォーク・シンガーとしての自画像を意識的に作り上げていったのであった。

若干20歳でリリースしたデビュー・アルバムはあまり売れなかったが、オリジナル曲が大半を占めるセカンド・アルバムによって彼は一層の注目を集めることになった。

やがて敏腕マネージャーとして知られるアルバート・グロスマンがディランの後ろに付くことになった。グロスマンはピーター、ポール&マリーを世に送り出した立役者でもあった。

すでに数多くのヒットを出していたピーター、ポール&マリー。ディランの曲「風に吹かれて」を彼等が歌ったことで、作者のディランにも一躍スポットライトがあたることになった。

その理想主義的な歌詞によって「風に吹かれて」は公民権運動のシンボル・ソングとなり、ディランの評価はこの歌の成功によって揺るぎないものとなった。彼の歌声はアメリカの良心の声となり、その一挙一動が人々の注目を集めるようになった。しかしそのイメージは彼にとってしだいに重荷となっていった。

良心的プロテスト・ソングに限界を感じ始めたボブ・ディラン。彼の新たなインスピレーションとなったのは、イギリスからやってきた新しい音楽であった。

アルバート・グロスマン、ボブ・ディラン

 1962年、初めてのレコーディングを行ったビートルズはその人気を地元リバプールからイギリス全土へ広めようとしていた。まだ経験の浅い4人を助け、彼等のレコード作りに大きな貢献を果たしたのはプロデューサーのジョージ・マーティンであった。

彼等は良い曲を作ろうという思いで一杯であった。ジョージ・マーティンの助けを借りて、その努力に才能が呼応するかのように一曲ごとに目覚しい進歩があった。

さまざまな要素を取り込んで忘れられない曲が次々生み出されていったのである。

1963年秋にはビートルズの人気は祖国イギリスで国民的なものとなり、単なるポップ・グループ以上の存在になっていた。

彼等は、なぜアメリカ人までが自分たちの音楽を好むのかずっと理解できずにいた。1964年の初渡米の際、空港に押しかけた三千人の大群衆も他の人物が目当てだと思ったくらいであった。アメリカのマスコミは厳しい目で彼等を待ち受けていた。だが、彼等の会見は終始笑いの連続で、彼等はいじわるなマスコミまでも魅了してしまった。

ビートルズはイギリスと同様アメリカ全土をたちまちのうちに席巻。何百万枚ものレコードが飛ぶように売れていった。イギリスのバンドがあれほどの人気をアメリカで獲得したのは前代未聞のことであった。

ザ・ビートルズ

 ビートルズの成功に続けとキンクス、デイブ・クラーク・ファイブ、マンフレッド・マン、ジェリー・マースデンなど、イギリスの他のバンドも次々とアメリカに進出していった。

デイブ・クラーク・ファイブ    マンフレッド・マン

アメリカで次々とヒットを放つイギリスのロック・バンド。若者たちはロックに熱を上げ、弾き語りのフォークは時代遅れと見なされがちになった。しかしこの頃、フォークとロックは静かに手を結ぼうとしていたのであった。

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 1964年春、ロジャー・マッギンはロサンゼルスでジーン・クラーク、デビッド・クロスビーとともにフォーク・バンドを結成した。やがて彼等はフォークとロックのサウンドを融合した新しいスタイルを作り出すようになる。

この年全米公開された「A Hard Day's Night(ビートルズがやって来る、ヤア、ヤア、ヤア)」を観たロジャー・マッギンはジョージ・ハリスンの使用していた奇妙な12弦ギターに魅了され、それまで所有していたギター・コレクションを全部処分してこの 12弦ギターを手に入れた。ビートルズにショックを受けた彼等はバンド名をザ・バーズと改め、ベースとドラムスを加えたロック・バンドの編成になった。

ザ・バーズ

 この頃、ビートルズの4人とディランが初めて顔を合わせた。彼等はお互いに影響しあい、ビートルズは歌詞を、ディランはサウンドを変えた。

「路上」などの作品で知られる小説家ジャック・ケルアック。ボブ・ディランの書くユニークな詩は彼の文学から大きな影響を受けていた。ケルアックからディランへと偉大な才能が次の世代へと継承された。だがディランは単に伝統を継承しただけではなく独創性を加えたのであった。

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 ザ・バーズの最初のヒット曲「ミスター・タンブリン・マン」は、ベーシックなリズム・パターンはビーチ・ボーイズの「ドント・ウォリー・ベイビー」、ギターのアレンジはビートルズを参考にしたものであった。ボブ・ディランが書き、ザ・バーズが歌ったこの曲は1964年の春に大ヒット。ここにフォーク・ロックという新たなジャンルが産声をあげたのであった。

ザ・バーズはその後も順調にヒットを飛ばし続けた。次第にロック色を強めていくザ・バーズ。それにつれてフォークらしい素朴さや生真面目さは徐々に希薄なものになっていった。

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 一方、ボブ・ディランは1965年5月にイギリス公演を行った。ロック的なサウンドを使って物議をかもしたアルバム「ブリンギング・イット・オール・バック・ホーム」をリリースした直後のことであった。

反体制フォーク・シンガー、ボブ・ディランというイメージはすでに拭難いものとなっていた。しかし新たな道を模索する彼にとって、その評価は進歩を妨げるものでしかなかった。自分が目指すものとファンが求めるものとのギャップに苦しむディラン。彼はエレキ・ギターを持ち、ロック・バンドを引き連れてニューポート・フォーク・フェスティバルに出演するという賭けに出たが、裏切り者という激しいヤジが飛び交い、わずか数曲でステージを降りることになった。

一方、ザ・バーズ「オール・アイ・リアリー・ウォント」、マンフレッド・マン「女の如く」など、ディランの曲をもっとポップに演奏したバンドは彼以上のヒットを次々と出していた。

バリー・マクガイア「明日なき世界」など、ディランの書いた曲以外にも彼から強い影響を受けたフォーク・ロックがヒット・チャートの上位を荒しまわっていた。ディラン本人が先駆者として苦闘と続ける中、彼の蒔いた種は確実に実を結んでいった。

やがて、ニューヨークからサイモン&ガーファンクルというフォーク・ロックの大スターが登場することになる。

サイモン&ガーファンクル

 ファンの冷たい反応もディランを止めることはできなかった。彼は再びロック・バンドを従えて新たなツアーに出かけた。この時彼がバックに採用したのはまったく無名のバンド、ザ・ホークス、のちのザ・バンドであった。やがて彼等はアメリカン・ロックを代表するほどの存在に成長していくのである。

ザ・ホークスはロカビリー歌手ロニー・ホーキンスのバックを務めるために作られたバンドであった。ディランの下に集まった彼等はバンド名をザ・バンドと改め、ディランとともに新しい音楽を追及し始めた。ディランの鋭利な歌とザ・バンドのブルージーでたくましい演奏。彼等の生み出す音楽はロックの新たな地平を切り開くものであったが、観客には相変わらず理解されなかった。多くの観客が求めていたものは新しいディランではなく、いつもどおりのディランだった。

一方、ロック・スターとしての地位を確立したザ・バーズやビートルズもこの時一つの曲がり角を迎えていた。ザ・バーズはメンバー・チェンジを繰り返し、それに応じて音楽そのものも大きく変貌していくことになる。

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 1965年10月、バッキンガム宮殿でビートルズはMBE勲章を授与された。もはや国家的英雄となった彼等であったが、あまりにも巨大になりすぎたビートルズにメンバー自身が戸惑いを覚え始めていた。

ビートルズはライブ活動よりもスタジオでのレコーディングに専念することで、さらに実験的で洗練された名曲を生み出そうとしていた。

1966年に発表されたアルバム「リボルバー」に収録された「エリナー・リグビー」は弦楽器の導入で普通のバンドとは違うユニークですばらしい仕上がりになった。弦楽器の導入は前々作「ヘルプ」に収録の「イエスタデイ」ですでに試みられていたが、この「エリナー・リグビー」にはさらに多くの要素があった。古典的な音楽と詩の要素、それにロックの要素。高い知性と普遍的叙情性を兼ね備えた作品であり、これは文化の大いなる進歩であった。

しかし「エリナー・リグビー」がライブで演奏されることはなかった。なぜなら、彼等の創り出す音楽はもはやステージでは再現不可能なものになっていたからである。そして1966年の夏を最後に彼等はライブ活動を停止したのであった。この頃から、さまざまな中傷が彼等を襲い、ビートルズ・ナンバーを甘口に歌うミュージシャンがステージに溢れるようになった。

評論家たちは「デビュー当時のビートルズは革新的だったが、今となっては単なる時代遅れの存在だ。」などと酷評し、マスコミはメンバー間の不仲説、バンド解散説などを興味本位に騒ぎたてた。

しかし1967年、彼等は「サージェント・ペパーズ・ロンリー・ハーツ・クラブ・バンド」というロックの歴史に燦然と輝くアルバムを発表したことで評論家やマスコミの発言のでたらめさを証明してみせたのである。

 

 ボブ・ディランとビートルズ、この二大アーティストはお互いに強い影響を与え合いながら、ロックという音楽を新しい次元へと高めていったのであった。

 

第二章 終わり

 

 


 

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