ロックが駆け抜けた時代

 

第三章 ソウル・ミュージックの時代

 

 1960年代初期、アメリカでは数多くの黒人グループがスタジオで綿密に作り上げられたサウンドによって高い人気を獲得していた。しかし、1964年になるとビートルズを始めとするイギリスのロック・バンドがヒット・チャートを完全に制覇してしまい、窮地に立たされた黒人ミュージシャン達は聴衆を再び取り戻すため大きな変革を迫られることになった。

彼等はまず自分達のルーツに目を向けた。そして黒人の教会で歌われる宗教音楽、すなわちゴスペルを再発見したのである。

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レイ・チャールズはゴスペルの音楽性をいち早くポップ・ミュージックに取り入れていた。彼が1954年に歌った「アイヴ・ガット・ア・ウーマン」は世俗的な歌詞とゴスペルの躍動感を兼ね備えたヒット曲であった。

レイ・チャールズ     サム・クック

サム・クックは有名なゴスペル・グループ、ソウル・スターラーズのリード・ボーカルだったが、1956年にソロとなりポップ・ミュージックを歌い始めた。

そして「ユー・センド・ミー」はヒット・チャートのNo.1に輝く大ヒットとなり、彼の成功はデトロイトに住む一人の若者の心を大きく動かすことになった。その若者の名はベリー・ゴーディ。モータウン・レコードの創設者である。

ベリー・ゴーディ

ミシガン州、デトロイト。ベリー・ゴーディの音楽業界入りはジャズ専門のレコード店を経営することから始まった。しかし当時人気があったのはマディ・ウォーターズやBBキングなどのブルースのレコード。結局レコード店は廃業に追いやられてしまった。

レコード店の経営に失敗したゴーディは自動車工場で働きながら作曲活動を続けた。ゴーディと友人のビリー・デイビスが書いた「ロンリー・ティアドロップス」、この曲をジャッキー・ウィルソンが歌ってヒットさせたことでようやく幸運の女神が微笑みはじめた。

続けて何曲かのヒットを放ったゴーディは家族からの借金を元手にモータウン・レコードを発足させる。まだ小さなモータウンから生まれた最初のヒット曲、それがスモーキー・ロビンソン&ミラクルズの「ショップ・アラウンド」であった。

モータウンに初のNo.1ヒットをもたらしたのはマーヴェレッツという女性グループが歌った「プリーズ・ミスター・ポストマン」、しかしレコード店では黒人の写真が入ったジャケットを敬遠したため、彼女たちのファースト・アルバムには郵便箱にイラストだけが描かれることになった。

マーヴィン・ゲイは最初はセッション・ドラマーを務めていたが、ベリー・ゴーディの妹と結婚、ソロ・シンガーとしてデビューした。

盲目のスティービー・ワンダーはわずか12歳でリトル・スティービー・ワンダーとしてデビューした。天才少年として売り出されたスティービーだったが、その才能はゴーディの予想を遥かに上回る勢いで成長していった。

マーヴィン・ゲイ    スティービー・ワンダー

モータウン・レコードはまるで自動車工場が自動車を作るような勢いで次々をヒット曲を作り出していった。ゴーディは歌手の選択から版権の管理にいたるまであらゆるところに厳しく目を光らせた。そんな彼のワンマン経営が結果的にはビートルズにも対抗しうる力をモータウンにもたらすことになったのである。

ゴーディは歌手そのものよりも強力な作曲家チームを揃えることが成功の秘訣だと考えていた。「ダンシング・イン・ザ・ストリート」のヒットで知られるマーサ&ザ・ヴァンデラスのマーサ・リーヴスは元はゴーディの秘書であった。マーサ&ザ・ヴァンデラスの初期のヒット曲はエディー・ホランドとブライアン・ホランドの兄弟、それにラモント・ロジャーを加えたチームによって作られていた。彼等がトップ10に送りだしたヒット曲は20曲以上にも及んだ。ホランド-ロジャー-ホランドと呼ばれたこのチームはシンプルな歌詞と明快で親しみやすいリズムを持った曲を次々を作り出していった。

ホランド-ロジャー-ホランド

のちに大ヒットを連発するシュープリームスは最初の3年間をまったくヒットを出せないまま過ごしていた。そんな彼女達を救ったのがホランド-ロジャー-ホランドのチームであった。

ある時、ホランドが新しい曲を持って彼女らのもとにやってきた。ソウルフルな曲を欲していた彼女達の期待に反してその曲は軽快なラブ・ソングであった。

しかし、そんな彼女達の絶望感とは裏腹にその新曲「愛はどこへ行ったの」はNo.1に輝く大ヒットとなった。しかもシュープリームスはこの曲を皮切りに5曲連続No1という空前の快挙を成し遂げたのであった。

シュープリームス

順風満帆に見えたモータウンであったが、その裏では彼等に一つの社会的な壁が立ち塞がっていた。モータウンの黒人ミュージシャン達はすでに押しも押されもしない大スターであった。しかし一度ステージを降りれば、そんな彼等にさえ容赦のない人種差別が待っていたのであった。モータウンの成功は都市部の黒人達に大きな希望を与えた。しかし白人社会は彼等を決して対等の存在と認めた訳では無かった。

折しもキング牧師を中心とした公民権運動がアメリカを揺ゆるがしている時期であった。

また白人の聴衆を意識するあまりモータウンの音楽は過剰なまでに洗練され人工的なものになっていった。それに満足できない人々はより魂のこもった音楽を求めてアメリカ南部に向かうことになる。

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 テネシー州メンフィス。サザン・ソウルを語るのに欠かせないスタックス・レコードの名は創設者ジム・スチュワートとエクセル・アクストンの名にちなんでつけられた。

モータウンが白人的に洗練された音楽を目指したのに対して、スタックスはよりゴスペル音楽に根差したサウンドを追及した。

スタックスにはモータウンのような厳しい管理体制はなく、レコーディングにおいてもミュージシャンの自主性が大きく重んじられていた。

そのスタックス・サウンドを支え続けた最高のリズム・セクション、それがブッカー・T.&MG'Sである。人種差別の激しいメンフィスという街にあって彼等は白人と黒人の混成バンドというスタイルをとっていた。

ブッカー・T.&MG'Sはスタックス・レコードのあらゆるセッションに参加し、サム&デイブ、オーティス・レディング、ウィルソン・ピケットなど大勢のアーティストに力を貸していったのである。

ブッカー・T.&MG'S

ウィルソン・ピケットとスティーブ・クロッパーの共作による「イン・ザ・ミッドナイト・アワー」は大ヒットになり、その特徴のあるリズムとともにスタックスの名を大いに高めた。やがてウィルソン・ピケットに続きサザン・ソウルの素晴しさを世界中に知らしめる人物が登場してくる。

オーティス・レディングである。しかしこの不世出のボーカリストも最初のうちは他のバンドの運転手などをやって食い繋いでいた。オーティスの音楽は決して都会的に洗練されたものではなかったが、その包み込むような暖かさとスケールの大きなボーカルによってソウルという音楽の本質を誰よりも良く体現していたのである。

オーティスの音楽は表面的な流行とは無縁なまま多くの聴衆を虜にしていった。

1967年モンタレー・ポップ・フェスティバルに出演した彼はそこでヒッピー・カルチャーと真正面から向き合うことになる。

聴衆は皆、頭に花をつけたフラワー・チルドレン。ロック・バンドの連中は大出力のアンプを使って聴衆を高揚させていた。やがてブッカー・T.&MG'Sがステージに現われたが、その音は比較にならないくらい小さなものだった。しかし、暴動寸前だった聴衆に対して、オーティスの熱唱はジャンルの壁も人種の壁も飛び越え、あらゆる人々の心をつかんだのであった。

この男ならポップ・ミュージックそのものを大きく変えてしまうに違いない。そんな人々の期待は、しかし残酷な形で裏切られることになる。この6ヵ月後、オーティスは飛行機事故によって26歳の若さでこの世を去った。

オーティス・レディング

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 メンフィスから200kmほど南東に下ったところにマッスルショールズという小さな町がある。この田舎町はソウルの歴史にとって大きな意味を持つ場所である。すべてはカントリーのミュージシャンだったリック・ホールがここに小さなスタジオを作ったことから始まった。

このフェイム・スタジオの名を一挙に高めたのはパーシー・スレッジの「男が女を愛する時」である。やがてウィルソン・ピケットがこのスタジオでレコーディングするためにやってきた。

このフェイム・スタジオは綿花畑の真ん中にあって、その畑では今だに黒人が綿花を手で摘んでいるというほど黒人差別の色濃く残る地域だった。そこで生まれた「ムスタング・サリー」と「ダンス天国」は、驚くべきことにバック・ミュージシャンは全て白人だった。黒人を蔑視する土地柄で、しかも演奏は全員白人ミュージシャン。こんな状況の中でなぜ本物のソウル・ミュージックが生まれたか、当時この曲を聴いた誰しもが信じられない気持ちだった。

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1967年1月、プロデューサーのジェリー・ウェクスラーに連れられてこのスタジオに新たなスーパースターを予感させるアーティストがやってきた。アレサ・フランクリンである。幼い頃から教会で歌い続けてきたアレサ。ウェクスラーは彼女の恐るべき才能を見抜いていた。アレサはここで白人ミュージシャンを従えて「貴方だけを愛して」を録音した。しかしアレサの夫がトラブルを起こしたためレコーディングは中止となり、この曲だけを残してアレサは帰ってしまった。

後日、「貴方だけを愛して」を聴いた業界関係者はこの曲のシングル発売を切望したがB面に入る曲がない。やっとニューヨークでアレサを探し出して「ドゥ・ライト・ウーマン」をレコーディングした。

「貴方だけを愛して」をA面に、「ドゥ・ライト・ウーマン」をB面にしたこのシングルは大きなヒットとなったり、1967年、アレサ・フランクリンはシングル売り上げ部門第1位、アルバム売り上げ部門第1位、R&B売り上げ部門第1位に輝きスーパースターの仲間入りを果たした。

ジェリー・ウェクスラー、アレサ・フランクリン

ソウル・ミュージックとは白人社会の中で黒人が自らの存在を主張するために生まれてきた音楽であった。その根底にあるものはいつか黒人も白人と対等になれるという楽観主義だったといって良いであろう。しかし、そんな夢の崩壊はすぐそこに迫っていた。

1968年4月、キング牧師暗殺。

キング牧師の暗殺は黒人と白人は手を取り合うことはできないという宣言のようなものであった。黒人文化と白人文化の微妙なバランスの上に成り立っていたソウルはこの時一つの死を迎えた。

 

この後、ブラック・ミュージックは黒人としてのアイデンティティーをより強調したものに変化していく。暗殺が報じられた夜、各地で暴動が起こり、追悼のコンサートが開かれた。

「俺は黒人だ」、「黒人であることを誇りに思う」。

先鋭的なリズムに乗ってそう歌うジェームズ・ブラウン。彼の強烈なファンク・ミュージックは黒人音楽の新たな方向を示すものとなった。

ソウルという音楽の歴史的な役割はこうして終わりを告げた。しかしその豊かな音楽性と前向きな理想主義はさまざまに形を変えながら今もポップ・ミュージックの中に生き続けているのである。

 

第三章 終わり

 

 


 

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