ロックが駆け抜けた時代

 

第四章 ギタリストの時代

 

 19世紀末、アメリカ南部で生まれた音楽、ブルース。労働に明け暮れていた黒人が日々の心情を歌ったものであった。奴隷船で異国へ連れて来られた彼等の嘆きや悲しみがミシシッピー周辺から沸き起こり歌になった。

1950年代になるとブルースはアメリカ北部シカゴで流行ることになる。大量の移住者を抱えるこの町でブルースは労働者の共感を呼んだ。しかしアメリカの音楽業界は黒人のための黒人音楽には無関心であった。ところが1960年代初め、意外な支持層が現われた。それはチェスなど小さな会社の出したブルースのレコードが海を越え渡ったイギリスからであった。

黒人達の独立への夢と空しい抵抗、こうしたブルースの持つ憂いがイギリスの若者達を刺激した。とくに閑静で保守的なロンドン郊外では熱狂的な支持を獲得する。荒削りでいて哀愁を帯びたエレクトリック・ギターの響きは目新らしいものに敏感な学生達を魅了した。

その後シカゴ・ブルースのレコードはイギリス全土に出回るようになった。マディ・ウォーターズやハウリン・ウルフを世に出したチェス・レコードのタイトルはイギリスではパイ・レーベルを通じて販売された。ハウリン・ウルフの曲はヒット・チャートに躍り出てパイはイギリスで最先端のレコード会社になった。この時チェスの音はついにイギリスでメジャーな人気を獲得したのである。

ロンドンのミュージシャン達はリズム&ブルースを演奏する拠点作りに意欲を燃やすことになる。その先頭に立ったのはベテランのジャズ・ギタリスト、アレクシス・コーナーであった。コーナーが演奏したかったのはエレクトリック・ギターだったが、当時のジャズ・クラブはアコースティックでの演奏しか認めていなかった。そこでコーナーは1962年、自分でクラブを開くことにした。そこには妙な連中が集まるようになり、コーナーが開いたこのクラブから後にイギリスを代表するミュージシャン達が巣立っていくことになる。

イギリス全土に吹き荒れるビートルズ旋風を尻目にリズム&ブルースに取りつかれた者達はさらに重く黒い音楽に浸ろうとした。アート・スクールの学生だったキース・リチャードは駅でかつての同級生ミック・ジャガーに出くわす。ミックはブルースのレコードを束にして抱えていた。二人はコーナーのクラブに通い始め、そこで意気投合したブライアン・ジョーンズとバンドを結成する。それがローリング・ストーンズである。

ローリング・ストーンズ

彼等はクロウダディ・クラブというクラブを中心に活動をした。最初は数人だった観客もやがて会場を埋め尽くすようになっていた。クロウダディ・クラブで評判をとったストーンズにまもなく強力なパートナーが現われた。彼等のマネージャーとなったアンドリュー・ルーグ・オールダムである。彼はビートルズに対抗するためにストーンズのアマチュア的なイメージを拭去ろうと、まずメンバーの服装を統一した。着のみ着のままにしていた彼等をテレビ向きに当時流行の細みのスーツを着せた。しかしお仕着せを嫌った彼等は少しずつ着崩し、独特の不良っぽい雰囲気を作り出していった。

ストーンズは1963年後半には全英ヒット・チャート入りを果たし、クロウダディ・クラブでのライブ活動から卒業した。オーナーのゴメルスキーは彼等に替わるバンドを探す必要に迫られた。彼はストーンズの二番煎じではなく、今度は彼等がやらなかった即興演奏で勝負できる楽器そのものが得意なバンドを探した。

ゴメルスキーが見い出したのはヤードバーズというバンドであった。

ギタリストのエリック・クラプトンは当時まだ18歳。しかしブルースに対する彼なりの哲学をすでに築きあげていた。ヤードバーズの人気はギタリストの力量に支えられていた。持病のぜん息のため吸入器が手放せなかったというボーカリストのキース・レルフは自然と影の薄い存在となった。ヤードバーズは1965年にレコード・デビューを果たし、クラプトンの脱退後も次々にスーパー・ギタリストを世に送出すことになる。

ヤードバーズ

イングランド北部出身のアニマルズはデビュー・シングルで早くも全英チャートの上位という快挙を成し遂げた。ところがこのポップなサウンドは彼等自身にとってははなはだ不本意なものであった。

彼等は第2弾シングルでバンド本来のブルース色を全面に押し出した。この曲「朝日のあたる家」はアメリカ人に遥かなブルースの記憶を蘇らせることになる。1964年「朝日のあたる家」は全米ヒット・チャート1位に輝き、アニマルズはアメリカでツアーを行うことになった。

熱狂的なファンがマンハッタンのホテルに押しかける中、彼等はアメリカで本物の黒人ブルースを聴くために場末のクラブに足を運んだ。

アニマルズ

一方、ファースト・アルバムの大ヒットで波に乗ったローリング・ストーンズはより洗練されらサウンドを求めてシカゴのチェス・スタジオを訪れた。彼等が憧れ続けたシカゴ・ブルースの殿堂である。

その頃ヤードバーズでは3枚目のシングル「フォー・ユア・ラブ」がポップス的だと、エリック・クラプトンと他のメンバーが対立していた。クラプトンはまもなくジョン・メイオールのバンド、ブルース・ブレイカーズに迎えられ、ブルースだけを追及する場を与えられクラプトンはギタリストとして大きく成長することになる。しかしヤードバーズにはギタリストの穴があいたままであった。

彼等のマネージャーとなったゴメルスキーはやがてロンドンのクラブで新たなギターヒーローを見い出す。ジェフ・ベックである。

ジェフ・ベックの加入によってヤードバーズの人気はイギリス国内はもちろん、アメリカでも急上昇した。ベックの天才的なひらめきからファズ・トーンやフィードバックという斬新な奏法が次々に生み出された。

キース・レルフ、ジェフ・ベック

イギリスでリズム&ブルースの人気が定着すると、ミュージシャン達はハウリング・ウルフやジョン・リー・フッカーなど彼等にとって永遠のアイドル達をステージへ招き始めた。本場のブルースを聴いて若者達は今まではカバー・バージョン、つまり本物をコピーした演奏で踊らされていたことに気付くことになる。

ストーンズのマネージャー兼プロデューサーのオールダムはミックとキースにオリジナル曲を書くことをいち早く勧めた。二人の作品「ザ・ラスト・タイム」の大ヒットはストーンズに大きな自信を与えた。しかし創立者の一人、ブライアン・ジョーンズはメンバーがブルースから離れていくことを危惧した。

1965年にリリースされた「サティスファクション」はストーンズにとって初の全米No1ヒットとなった。ここからミックとキースはヒット街道を突き進むことになる。一方、役割を失ったブライアンはやがて1969年に脱退、その直後に死亡、帰らぬ人となった。

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ヤードバーズは1966年、今度はベーシストを探していた。当時、売れっ子スタジオ・ミュージシャンであったジミー・ペイジが新しいベーシストとして招かれ、すぐにギターにコンバートされた。ヤードバーズはジェフ・ベックとジミー・ペイジという二人の優れたギタリストを有する無敵のギターバンドとなったのである。

やがて、超人気バンドになったヤードバーズの過密スケジュールに嫌気がさしてジェフ・ベックは脱退してしまう。しかし、ジェフ・ベックが抜けてもジミー・ペイジを中心にヤードバーズは続いた。こうしてジミー・ペイジは大音量にして繊細なリズム&ブルースの表現に没頭していくことになる。

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同じ頃クラプトンはシカゴ・ブルースの領域に飽き足らずブルース・ブレイカーズを去った。そしてセッション仲間のジンジャー・ベイカー、ジャック・ブルースとともに新たなバンドを結成する。スーパー・グループ、クリームの誕生である。

エリック・クラプトン

クリームはブルースの名曲を強烈なロックのサウンドに蘇らせた。「クロスロード」もその一つで、1930年代のブルースマン、ロバート・ジョンソンの作品である。ジョンソンはその恐るべき音楽的才能と引き替えにクロスロードで悪魔に魂を売ったと語られるほどの天才プレーヤーであった。

不幸な生い立ち、妻子の死、そして自らも毒殺されるという壮絶な生涯を送ったロバート・ジョンソン。困難で自己破滅的な彼の人生から生まれた神話は60年代のギター・ヒーロー達を強く惹き付けた。

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アニマルズの崩壊は1966年に訪れた。リーダーのアラン・プライスとボーカリストのエリック・バードンとの作曲コンビも解消された。チャス・チャンドラーはマネージメントの道を選び、新たな才能の発掘に乗り出した。

チャンドラーはアニマルズの最後のツアーで1966年7月アメリカを訪れた。何気なく入ったグリニッジ・ビレッジのクラブで彼は当時無名のジミ・ヘンドリックスのパフォーマンスと遭遇することになる。チャンドラーはすぐにヘンドリックスをイギリスに誘い、ヘンドリックスもベックやクラプトンに会えるならと快諾した。

ジミ・ヘンドリックスは駆け出しの頃、リトル・リチャードやアイズリー・ブラザーズのバック・バンドでキャリアを積んだ。ロンドンのミュージシャン達からみれば正に血統書付きのブルース・ギタリストであった。

イギリスに渡ったヘンドリックスはドラムスのミッチ・ミッチェル、ベースのノエル・レディングとともにジミ・ヘンドリックス・エクスペリエンスを結成し活動を開始する。

ヘンドリックスは驚異的な早さで新曲を発表し続け、1967年には全英チャート10位以内に4曲も送り込んだ。その年の6月、エクスペリエンスはアメリカに進出しモンタレー・ポップ・フェスティバルで大観衆を釘付けにしたのであった。

ステージでギターに火をつけて燃やしたり、床やアンプにギターを打ち付けて破壊したりするヘンドリックスの常軌を逸した行動をメディアはこぞって非難した。白人の観客を掴むための過剰なパフォーマンスと受け取られたのである。しかし、それは彼が従来の黒人ミュージシャンの殻を打ち破った証であった。

ジミ・ヘンドリックス

ヤードバーズは1968年、ボーカリストとドラマーの脱退によって決定的な危機を迎えた。ジミー・ペイジは新メンバーを加えて新たなスタートを切るため、バンド名をレッド・ツェッペリンと改めた。新しいメンバー、ロバート・プラントの絞り出すようなボーカルはペイジの重厚なギターと完璧な調和をみせた。ツェッペリンはあっという間にアメリカでの人気を獲得し、セカンド・アルバムでその地位を不動のものとした。一曲目の「胸いっぱいの愛を」は彼等にとって最大のヒット・ナンバーになった。

彼等のサウンドはヘヴィ・メタルという名で形容されたが、もとはジミ・ヘンドリックスの演奏に対してニューヨーク・タイムズが記事の中で「空から重金属が落下するような音」という意味でこう表現したのが起源とされている。

ロバート・プラント、ジミー・ペイジ

ヘンドリックスは「ヴードゥー・チャイル」でアフリカから伝わった呪術的な世界を描いている。それはブルースの隠れた基盤になっているものであったが、歌詞は彼に破滅が近づいていることを予感させている。

「この世でもう会えないなら来世で会おう、遅れるなよ」と彼は歌った。

ワイルドなギター・ヒーローを演じることに疲れ果て、ヘンドリックスは1970年の秋、27歳で世を去った。彼はその時、ブルース神話への旅の終点にたどり着いたのである。

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ジミ・ヘンドリックスの死によってブルースをもとに築かれたギタリストの時代は幕を閉じたかのように見えた。しかし、レッド・ツェッペリンの成功はヘヴィ・メタル・サウンドを定着させ、数々の追随者を生んでいったのである。

ツェッペリンの代表的なナンバー「天国への階段」にはもはやあからさまなブルースの影響は感じられない。しかし、曲の入り組んだ構成の核を成すのはやはりブルースである。ペイジが繰り返し爪弾く短いフレーズはあるギタリストのフレーズを参考にしていた。

1920年代に活躍したブルースマン、トミー・ジョンソンである。

1928年、彼は背中のギターを黒猫の骨で弾いて見せた。彼もまた十字路(クロスロード)で悪魔に魂を売り渡した男だ。そしてブルースが始まった。トミー・ジョンソンの演奏は幸い録音されて残り、ハウリン・ウルフやロバート・ジョンソンに受け継がれた。

根っこをたどれば皆同じところに行き着く。

 

第四章 終わり

 

 


 

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