ロックが駆け抜けた時代

 

第五章 ドラッグ・カルチャーの時代

 

 1960年代半ば、ボブ・ディランなどの洗練されたロックはアメリカ西海岸に飛び火した。そこで旺盛な探究心とLSDという幻覚剤と結び付きサイケデリック・ロックという音楽を生み出す。

その特徴はリズムやメロディーがあいまいでフワフワととらえどころがなく、幻覚体験を再現したようなサウンドであった。

1966年、ザ・バーズは新曲「霧の8マイル」を発表。この曲で斬新なサウンドの先駆けとなった。

ザ・バーズは前の年に二つの曲で全米第一位を達成し勢い付いていた。ところがこの新曲は発表直後、不運に見舞われることとなる。

政府から「ギャビン・レポート」という通達がラジオ局に送られ、「霧の8マイル」はドラッグの歌だとして放送禁止になってしまった。プレスリーが猥褻(わいせつ)、ビートルズが冒涜(ぼうとく)と言われたようにザ・バーズは危険と見なされてしまったのである。

LSDは当時はまだ合法とされていた薬物で、ほんの少し飲んだだけで激しい幻覚を引き起こす。この感覚がサイケデリック、つまり「意識が変革される」という言葉で表わされた。

「霧の8マイル」はサイケデリックな文化が初めて公に姿を現わした例であった。

・・・・

カリフォルニアでは数年前からLSDを広める動きが盛んになっていた。その中心にいたのは新進作家ケン・キージーであった。ケン・キージーは派手な色で塗られたバスでアシッド・テストという実験を繰り返していた。それはLSDの力でどこまで意識を変えられるかを探るというものであった。

ケン・キージー

アシッド・テストには幻覚作用を高めるためにライト・ショーや地元のリズム&ブルース・バンドの演奏などが盛り込まれた。

そうしたバンドの一つ、グレイトフル・デッドのジェリー・ガルシアはサンフランシスコではすでに名を知られていたが、アシッド・テストに参加することで彼の音楽性にドラッグという決定的要素が加わることになる。

ジェリー・ガルシア、フィル・レッシュ

1966年1月、ケン・キージーは3日間のアシッド・テストを開く。開催地には開放的な雰囲気で知られるサンフランシスコが選ばれた。50年代この町の書店とバーには現代詩の詩集とマリファナ、フォークソングとブルースが溢れていた。60年代半ばにはサイケデリック・ロックがそれに取って替わった。

町の一角、ハイト・アシュベリーはまもなくドラッグ・カルチャーの中心地となり、ドラッグに関する様々なものを扱うサイケデリック・ショップ、サイケデリックなアンダーグラウンド新聞、そしてサイケデリック・バンドが一斉に登場した。

地元のブルース・バンド、ビッグ・ブラザー&ホールディング・カンパニーもこの頃には実験的なサウンドに取り組んでいた。1966年、彼等は不世出の天才シンガー、ジャニス・ジョプリンを迎える。

ジャニス・ジョプリン

サンフランシスコには19世紀イギリス風のダンスホールが町のあちこちにあった。やがてこうしたホールでサイケデリック・ロックのコンサートやライト・ショーが催されるようになる。グレイトフル・デッドなど地元のロック・バンドはダンス・ホールを廻ってサウンドに一層磨きをかけた。

一方、イギリスではビートルズがツアーを繰り返すだけの単調な日々から抜け出そうとしていた。

1966年8月、ビートルズはサンフランシスコでのコンサートを最後にツアー活動を停止、同じ頃に発表されたニュー・アルバム「リボルバー」では彼等のまったく新しい方向性が示された。

絶叫をあげるファンからついに解放され、ビートルズはレコーディング技術の可能性をひたすら追及した。彼等もまたLSDによる意識の変革を体験し、精神世界に強い関心を寄せ始めていた。

「トゥモロー・ネヴァー・ノウズ」でジョンはお経を唱えるように歌い、リンゴのドラムは催眠術のように一つのパターンを延々と繰り返した。テープレコーダーで実験を重ねてきたポールはギターやリュート、歌声など雑多な音を持ち込み、その音を一つずつ別々に再生し、ミキサー卓のフェーダーで調整しながら録音をした。スタジオのミキサー卓をシンセサイザーのように操り、フェーダーの操作で好きな音を作っていったのである。

世界中の音楽がサイケデリックの渦に巻き込まれた。インド音楽を取り入れたラーガ・ロックもその一つである。ジョージ・ハリスンにシタールを教えたのはラーガ・ロックの教祖的存在、ラヴィ・シャンカールであった。

ラヴィ・シャンカール

 

 1967年は高揚した気分のうちに幕が開いた。1月14日、ゴールデン・ゲート・パークにはヒッピーの若者2万人が詰めかけ、今までとは違った体験をしていた。「ヒューマン・ビー・イン」というイベントである。

バンドと人々が大勢集まり公園にはマリファナの煙が立ちこめ前も見えないほどであった。そのテーマは「愛と平和」の名の下に多数の若者が集結して米国の社会構成において一大勢力を成すことであった。

ヒューマン・ビー・インをきっかけに、サンフランシスコの音楽には全国的な関心が集まった。サンフランシスコのバンドで最初に全国的な成功を収めたのはジェファーソン・エアプレインであった。

ジェファーソン・エアプレイン

海の向こうロンドンではアンダーグラウンドの舞台でサイケデリックなサウンドが沸き起こっていた。アマチュア時代のピンク・フロイドは古い教会などで演奏活動を行い、その神秘的な演出で一部の熱狂的なファンを獲得した。まもなくあるレコード会社がアンダーグラウンドの新鮮なサウンドに飛びつきピンク・フロイドと契約を結んだ。

ボーカリスト兼ギタリストのシド・バレットは「アーノルド・レーン」というデビュー・シングルにふさわしいポップでサイケデリックな曲を書いた。この曲はそこそこのヒットとなったが、メンバーはその曲をライブで演奏することを拒み聴衆とトラブルになった。

ピンク・フロイド

レコーディングに専念していたビートルズは1967年6月アルバム「サージェント・ペパーズ・ロンリー・ハーツ・クラブ・バンド」を発表。その数週間後にはスタジオから全世界に向け愛と平和の賛歌「愛こそはすべて」を放送した。

町には花やギターを手にした若者たちが溢れ出した。愛と平和の使者となった若者達は各地で集会を開いた。

しかしヒット・チャートがサンフランシスコへのメッセージで賑わうのと裏腹にハイト・アシュベリーはすでに寂れていた。警察が取締を強め、かねてより麻薬の不法所持で目を付けられていたグレイトフル・デッドは逮捕され、ケン・キージーは告訴された。

10月ピンク・フロイドがサンフランシスコに来たとき、ボーカルのシド・バレットはLSDによって精神を蝕まれていた。「パット・ブーン・ショー」でシド・バレットは演奏をすることも歌うこともできず、ただ立ち尽くすだけであった。

シド・バレット脱退後の1968年、皮肉なことにピンク・フロイドは英米ともにアルバムの売り上げ枚数がシングルを上回るという前代未聞の快挙を成し遂げた。

・・・・

カリフォルニア州モンタレーに5万人の観衆が集まった「モンタレー・ポップ・フェスティバル」から2年。1969年8月、「ウッドストック・ミュージック・アンド・アート・フェア」が開催された。

それはニューヨーク市からハドソン河にそって北へ140キロほどいったベセルという町にある農場で15日、16日、17日の3日間にわたって催された歴史的な祭典であった。

ヒッピー・ムーブメントや激化するベトナム戦争と重なって、平和や自由を求める声の高まりから、60年代最後の夏を音楽で飾ろうと32組のミュージシャンと40万人の観衆が参加した。

チケット1人1日7ドル、前売り券5万枚を売り尽くした東海岸では初めてとなるこの巨大なフェスティバルの評判は開催日が近づくにつれて大きくなり、最終的には10万人の人出が噂されるまでになった。

しかし、コンサートが始まった15日の夕方、会場となったマックス・ヤスガーの農場にはすでに20万人の人が溢れ、さらに会場の向かう道には10万人がつながっていた。柵を越えて中へ入る人が増大することで途中からフリー・コンサートとなってしまった。

こうして主催者側のコントロールが失われたにもかかわらず、1日目のリッチー・ヘブンから3日目のジミ・ヘンドリックスまで、途中嵐に見舞われたりもするが、大きなトラブルもなくコンサートは大成功のうちに終了した。

コンサートが終わった18日月曜日の朝11時ごろ、主催者マイケル・ラングを乗せた最後のヘリコプターが開催地を飛び立った。空から開催地を見下ろすと、そこにはゴミやボロを集めて作った巨大なピースマークが出来ていた。

ウッドストックの成功は70年代のスタジアム・コンサートや大規模な野外フェスティバルへの道を開き、それ以降コンサートは巨大化に向かうことになる。

・・・・

ウッドストックの成功に気を良くしたアーティスト達は12月6日、今度はサンフランシスコの公園でコンサートを開くことを計画していた。今度の目玉はローリング・ストーンズを呼ぶことである。彼等の出演は当日まで伏せられ観衆を驚かす予定であったが、ローリング・ストーンズ側には別の思惑があった。コンサートの記録映画を撮影しようとしていたのだ。

ローリング・ストーンズ側のこの記者会見直後、混乱を恐れた公園側から会場提供の断わりの通知が届いた。しかし、すでにプロジェクトは動き出していて中止することはできなかった。

暗雲が垂れ込める中、開演の2日前にようやく新たな会場が見つかった。サンフランシスコ郊外オルタモントのレース・サーキットである。

しかし、これで不吉な予感が払拭されたわけではなかった。

この野外コンサートは「西海岸のウッドストック」と銘打たれていたが、はるばるオルタモントに駆けつけた大観衆が見たものは愛や平和とは掛け離れた光景であった。

そこは会場の警備にあたった暴走族集団ヘルズ・エンジェルズの憂さ晴らしの場と化し、観衆やアーティストを相手に暴力をふるっていた。

ローリング・ストーンズが登場する頃には混乱は最高潮に達し、観衆の一人がついにヘルズ・エンジェルズの犠牲となり死亡してしまう。

このとき愛と平和の時代は終わりを告げた。

・・・・

 70年代の到来とともにサイケデリックの時代は影をひそめ、ハイト・アシュベリーは人通りもまばらになりバンドは拠点を移し始める。そして再び新たなスタイルが芽生えようとしていた。

ビートルズの「アクト・ナチュラリー」にインスパイアされたザ・バーズはかつての前衛的なサウンドから逸早く脱皮してナッシュビルで地元の歌手と一緒カントリー調のアルバム「ロデオの恋人」を録音した。このザ・バーズの新しい試みはカントリー・ロックと呼ばれるようになる。

かつてのドラッグの番人グレイトフル・デッドもオルタモントの悲劇以来バンドの方向性を失っていた。そして60年代の音と決別し、彼等もまたカントリーを指向し始めた。

やがてカントリー・ロックはウエスト・コースト・サウンドへと水が流れるごとく移行していく。

ドラッグが見せた束の間の夢は終わり、ヒューマン・ビー・インも、その後の混乱も、新たな時代のうねりに飲み込まれていった。 

 

第五章 終わり

 

 


 

戻る