ロックが駆け抜けた時代

 

第六章 ビジュアルの時代

 

 1960年代後半、ロックは一時「愛と平和」のシンボルと化したかに見えた。しかし大国アメリカがベトナムの泥沼にはまり出した頃、楽観主義に陰りが差した。虹色の夢に背を向け不安や激しい感情を全身で表わす若者達。彼等の手で70年代のロックが切り開かれていった。

・・・・

60年代後半のニューヨーク、ベルベット・アンダーグラウンドはアメリカ・モダン・アートの旗手アンディ・ウォーホルの実験バンドとして世に登場した。そのサウンドや音楽性は従来のバンドとはかけ離れていた。

当時、周りの反応は冷淡で否定的だった。暗くて反体制的だと思われたのである。だが、彼等の歌はニューヨークの現在や時代の気配をとらえていた。

アンディ・ウォーホル

1967年のファースト・アルバムの売れ行きは惨憺たるものであった。にもかかわらず彼等は世間にその名を知らしめた。その理由は観客の度肝を抜くライブ・パフォーマンスにあった。目も耳もしびれるほどの刺激が充満し、明滅するストロボが非現実感をかきたてた。

まもなく彼等はウエスト・コースト・サウンドの牙城に遠征を企てた。彼等のパフォーマンスは観客には受けたが、新聞や音楽評論家からは総スカンを食った。都会の邪悪、退行的音楽、精神の病などと、まるでニューヨークから悪い病原菌が来て、美しい西海岸を荒しているかのように言われた。

そしてベルベット・アンダーグラウンドは不評のうちに解散を迎えた。その先進性に人々が気付くのにはもう少し時間を必要とした。

ベルベット・アンダーグラウンド

 

 新しさと危険さを合わせ持つもう一つのバンドがロサンゼルスで始動していた。ジム・モリソンを要するザ・ドアーズである。

「愛と平和」を歌う若者文化の中心に居ながら、モリソンはその背後にある虚ろさを見つめていた。時代を突き破れと叫ぶデビュー・シングル「ブレーク・オン・スルー」は表面上の平和への挑戦状であった。その強烈なメッセージは行き詰まりを感じ始めていたアメリカの若者を直撃した。1967年初めから曲はじわじわとヒットし、7月にはついに全米ヒット・チャートのトップに躍り出た。

ジム・モリソンとレイ・マンザレイクはUCLAで映画を専攻する学生だった。映画制作を通じてドラマの構成を学んだ彼等はこれを音楽に活かすことを考えた。そしてここにドラマ的なロック・ステージが誕生したのである。

ステージのジム・モリソンは革のズボンに身を包み、破天荒なふるまいや怪しげなアクションで聴衆を挑発した。彼は舞台の自分が放つ底知れぬ力に気づいていた。それは人々の感情を操り支配してしまうほどの力であった。彼はその力を使って音楽的な狂乱を追及し、狂乱の度は増し続けた。

ステージの狂乱は1969年のマイアミ公演で頂点に達する。興奮して服を脱ぎ出した彼はマイアミ警察に逮捕され、わいせつ物陳列罪などの罪でフロリダ州裁判所に刑事告訴される。

そしてアンチ・モラルの烙印によってドアーズの成功への道は閉ざされ、裁判や次のアルバム制作に明け暮れたジム・モリソンは事件から2年あまり後、パリのホテルで客死してしまう。

ジム・モリソン、レイ・マンザレイク

 

革のズボン、挑発するアクション。音楽性を異にしながらもジム・モリソンの延長線に立ったのがイギー&ザ・ストゥージズのボーカリスト、イギー・ポップであった。彼は明らかに一部の層を釘付けにする何かを放っていた。しかし商業的な意味で彼はまだ成功に近づけないでいた。

イギー・ポップ

イギーのように一風変わったパフォーマーがもう一人デトロイトから現われた。アリス・クーパーが目指したのはコミック雑誌とホラー映画を混ぜ合わせた世界。化粧をして、いわゆるアメリカ社会中流市民が最も嫌うイメージを狙った。

アリス・クーパー

 

 日常社会を遥かに飛び越え宇宙の彼方までイメージを誘うサウンドが60年代の最後イギリスから現われた。

デビッド・ボウイの出発点はパントマイムとフォークロック調の音楽であった。しかし1969年の「スペース・オディティ」以降、その音楽性は大胆に変化を重ねる。

彼はまた私生活の面でも当時の社会を驚かせた。彼は両性愛者であることを公表した。そしてこのボウイの発言は70年代に進む性の解放運動を力づけることになる。

1971年のアルバム・ジャケットで彼は艶やかな女装姿で登場。しかしレコード会社が世論の反発を恐れたため、まもなく地味なイラストに差し替えられた。

ステージ活動において彼は次第にアンディ・ウォーホル的な世界に傾倒していく。前衛的な試みを極めた結果がジギー・スターダストであった。1972年ボウイはジギーと名乗る異星人に扮し、現実と架空の世界をミックスした演劇的音楽ステージに取り組み始めた。ジギー・スターダストはイギリス全土で爆発的な人気を呼んだ。

ジギー・スターダスト(デビッド・ボウイ)

イギリスで絶大な支持を得たボウイのスタイルはそのグラマラスで怪しい美しさからグラムという名で呼ばれるようになる。しかし勢いに乗ったジギーもアメリカでの人気はさらえなかった。反応したのは一般市民ではなく先鋭的な音楽に敏感な仲間達であった。

ベルベット・アンダーグラウンドを離れた後、ルー・リードはソロとしての方向を模索していた。その彼に手を差し伸べたのが、かつてベルベット・アンダーグラウンドに傾倒していたデビッド・ボウイであった。ボウイがプロデュースに加わったリードのソロ・アルバムはその名も「トランスフォーマー(変身)」と題していた。リードはこのアルバムでニューヨークの陰の日常であるドラッグ、売春、ゲイの世界を歌詞にのせた。

ルー・リード

1972年7月、ジギー登場から1年あまりが経っていた。すべて満員売切れのイギリス・ツアー最終日、ボウイはジギーの役割は終わったと直感し、ものすごい熱狂の中、ジギーは引退を告げた。

ジギー・スターダストが果たした役割、それはイギリスにグラム・ロックというスタイルを定着させたことであった。まばゆい衣装と性別不詳のイメージ。音楽的には様々でありながらグラム・ロックには常識や日常を押し退ける共通した雰囲気があった。

・・・・

カリスマ的絶頂期でのジギーの突然の引退宣言はファン達の心に強烈な悲しみを残した。しかしボウイはすでに一歩先の構想を練っていた。

1974年、アルバム「ダイアモンドの犬」発表と同時に彼はアメリカ・ツアーを開始する。衣装も演奏もそこにはジギーと全く異なるアーティストが立っていた。そのステージは1920年代から30年代頃のジャズの雰囲気とロックを融合した、まるでブロードウェイのミュージカルのようであった。

デビッド・ボウイ

このツアーのためにボウイはブロードウェイの舞台デザイナーを起用した。それはもちろんロック・ミュージシャンとしては初めての試みであった。ブロードウェイ風の舞台は大当りし、どんなに大きな会場を選んでも客席は満員となった。

この大規模なセットを用いたステージ・ロックの手法は他のアーティストに影響を与えた。

大規模化すればするほど、動員すべき観客数は増え、会場が大型スタジアムのサイズに広がった時、従来のような音楽演奏だけでは迫力が客席に届かなくなってしまった。

キッスは歌舞伎のようなメイクアップと、巻き上がる炎、地鳴りのような重低音でその問題をなんなく乗り越えてしまった。それは大型化の論理を突き詰めた究極のステージであった。

キッス

 

スターになることとステージの大型化、それは次第に不可分な結び付きを持ち始め、今に至っていると言える。

一方、「ダイアモンドの犬」で華々しい成功を飾ったはずのデビッド・ボウイはツアーの重圧やマネージャーとのトラブルからコカインに手を出すようになっていた。精神的、肉体的にボウイは崩壊寸前だった。

しかし変身を重ねてきたロック・スター、デビッド・ボウイはやがて基本に立ち戻るという何度目かの変身を遂げる。

彼は心境地を求めて当時最も政治的緊張感にあったベルリンの町へと向かった。東西に引き裂かれた町は世界が決して一つではない証であり、このベルリンという特異な状況の町にひかれたアーティストは彼だけではなかった。

ルー・リードは1973年に「ベルリン」という名のアルバムを発表している。

この町でボウイは自分と似た悪夢を垣間見てきたかつての音楽上の同志イギー・ポップに出会った。彼もまたマネージャーの破産や自らのヘロイン中毒を経たのちベルリンで再起を期していた。

そして、ここで「ヒーローズ」と「ラスト・フォー・ライフ」という二人の復活のアルバムが生まれた。

安直な愛と平和のメッセージを破り捨てた時点から70年代を切り開くロックが様々に生まれ、様々に散っていった。彼等はそれぞれのやり方でただ一日のヒーローになりたかったのである。

そして一瞬の輝きが去った後にはまた新たな模索が始まるのである。

 

第六章 終わり

 

 


 

戻る